20話 舞踏会で騒ぎを起こしたイザベル皇女は夏の宮殿に閉じ込められていますが・・・
まるで獣が鳴いているような声を
栄えある帝国の皇女が出しているなんて
誰も思わないはずでした。
乳母は、新しいハンカチで
滅茶苦茶な皇女の顔を
拭いてやりました。
しばらく静かになったと思ったら
また始まってしまいました。
失意に陥っている皇女を慰めるために
夏の宮殿を訪れたいとこの一人が、
首都で開かれた
将校たちのポロの試合について
言及したのが災いの元でした。
一歩遅れてミスに気づき
話題を変えましたが、すでに
取り返しがつきませんでした。
やっと泣き止んだイザベルは、
たった一度でいいので、
手紙を送れるようにして欲しい。
それくらいなら、
目をつぶってくれないかと、
とんでもない要求をして、
乳母を苦しめ始めました。
乳母は、
皇后の警告をもう忘れたのか。
そんなことをしたら、
この年寄りは、もう皇女のそばに
いられなくなると言いました。
しかし、
腫れぼったい目で、
窓の向こうの海を眺めていたイザベルは
どうして、みんな、
こんなに残酷になれるのか。
自分はまだ
バスティアンの答えを聞いていないと
言うと、
再び悲しい涙を流しました。
ここは監獄同然でした。
宮殿の塀の外には一歩も出られず、
電話や手紙も、徹底的に
検閲を受けました。
舞踏会で起こったことに
大きな衝撃を受けた両親は、
これ以上、いかなる寛容も
与えないつもりのようでした。
乳母はイザベルに、
クラウヴィッツ大尉の答えが何なのか
もう知っているではないかと
言いました。
しかし、イザベルは首を横に振り、
バスティアンの目つきが
確かに震えていたのを
自分は知っていると大声で叫びました。
時間が経てば経つほど、
あの日の記憶は
むしろ鮮明になりました。
今やイザベルは、
バスティアンの目つきと体温、
指先に伝わった微細な震え一つまで
まるで今のことのように
生き生きと思い出すことができました。
二人だけの会話が必要。
監視の目がなく、
本当の気持ちを打ち明けられる時間。
そのような機会さえ得られれば、
全てが変わるだろうと
イザベルは確信しました。
これ以上、
体を支えられなくなったイザベルは、
ベッドの上に倒れ込んで
すすり泣き始めました。
そうしているうちに
ノックの音が聞こえ、
見慣れたメイドが、
薬瓶の乗った小さな銀の盆を持って
入って来ました。
いつものように、イザベルは
抵抗することなく
睡眠薬を飲み込みました。
このような苦痛に苦しむよりは、
薬の力で
眠った方が良いと思いました。
少なくとも夢の中では、自由に
恋することができるからでした。
薄れて行く意識の中で、イザベルは
本来、自分のものであったはずの、
あの日の祝福と栄光を描きました。
ポロの試合を控えたバスティアンが
勝利のお守りを要求すると、
イザベルは喜んで
自分のリボンを解いて渡す。
勝利で応えたバスティアンは、
熱い歓声の中で
そのリボンにキスをする。
ついに叶った愛を公表する
美しい誓いでした。
空を切る刃の音が練兵場の静けさに
溶け込みました。
並んでいる生徒たちを観察した
バスティアンは、
指揮刀を鞘に入れることで、
制式訓練を終えました。
生徒隊長の力強い号令と敬礼の声が
その後に続きました。
海軍の栄誉を高めて、
生徒たちの士気を高揚させるという
自分に与えられた使命に
ふさわしい姿を披露した後、
バスティアンは壇上から降りました。
士官候補生たちは、
依然として不動の姿勢で
彼の退場を見守っていました。
練兵場を出ると、ルーカスは、
祭りが終わるまで
この仕事をしなければならないと思うと
涙が溢れて来ると、
不平を言い始めました。
毎年10月中旬になると、
ベルク最大の軍港がある
南部都市ロザネでは、
海軍の日を記念する祭りが
開かれました。
今年はトロサ海戦の勝利を記念する
海上観閲式が加わり、
規模がさらに大きくなりました。
一年間、
その日の準備して来たと言っても
過言ではありませんでしたが、
任官前の士官候補生たちも
例外ではなく、彼らを完璧な姿で
祭りの開会式に立たせるのが
バスティアンとルーカスに任された
任務でした。
ルーカスは、
その場に誰もいないことを確認すると
脱いだ手袋で扇ぎ始めました。
制式訓練がある毎週水曜日になると、
海軍省の派遣教官たちも
完璧な式典用の制服を
着なければなりませんでしたが、
そのような身なりで
午後の日差しの下に立っているのは
あまり愉快なことでは
ありませんでした、
髪の毛一本も、
乱れてはいけないという点で
なおさらでした。
バスティアンは、
壇上に立った時と変わらない姿のまま
本部に戻りました。
ルーカスの愚痴は、
海軍省のロビーに入ってから、
やっと終わりました。
上層部に行って
訓練状況の報告を終えたバスティアンは
直ちに業務に復帰しました。
いくつかの急ぎの書類を片付けて
提出した後、
単独面談することになっている
犬猿の仲で有名な両軍は、
些細なことでも、
激しい神経戦を繰り広げていましたが、
将軍たちの副官もその一人でした。
デメル提督が、主に水曜日に
陸軍との約束を取るのは、
よく着飾った海軍省の将校を誇示できる
絶好の機会だからでした。
満足のいく交渉を終えて
戻って来たデメル提督は、
バスティアンを労い、
もう帰ってもいいと、
普段より寛大な態度を見せました。
しかし、
最も重要な彼の要請事項である、
再び戦線に出ることは、
もう少し時間をかけて
考えてみることにしようと、
今回も拒否の意思が示されました。
デメル提督は、
バスティアンに、まだ傷の後遺症が
残っているのではないか。
何より、ここで
引き受けてもらわなければならない
役割が、まだ、たくさん残っている。
今回の海軍祭りの主人公は、
誰が何と言おうと、
トロサ海戦の英雄
クラウビッツ大尉だろうから。
ああ、その時は
クラウヴィツ少佐になっているだろうと
言うと、満面の笑みを浮かべた顔で
バスティアンを眺めました。
少なくとも、
今回の観閲式が終わるまでは、
海軍省のトロフィーの役割を
果たさなければならないようでした。
デメル提督は、
戦功を立てることだけが全てではない。
その代価をありがたく受け入れ、
他の模範になるような姿を見せるのも
名誉ある軍人の姿勢だということを
忘れないようにしろと命令しました。
予想できなかったわけではないので、
バスティアンは、淡々と結果を受け入れ
心に留めておくと返事をしました。
退こうとするバスティアンを
呼び止めたデメル提督は、
微かに微笑みながら、
オデット嬢によろしくと伝えるのを
お願いしてもいいかと尋ねました。
バスティアンは、
「はい、そうします」と
喜んで上官の意思を尊重しました。
命じられたのだから、
従えばいいことでした。
どうせ近いうちに、一度は
彼女に会わなければならない
時期でもありました。
その後、提督の執務室から退いた
バスティアンは、
本部ビルの裏側にある体育館に
向かいました。
まず着替えて海軍省の周りを
一周走った後、戻って来て
筋力トレーニングに取り掛かりました。
バーベルを下ろして
シャワー室に向かう頃には、
いつの間にか、
西の空が赤く染まっていました。
再び端正な将校の姿を整えた
バスティアンは、
自ら車を運転して海軍省を離れました。
デパートと高級商店街が密集している
都心を通っていた時、
ふと、オデットの名前を
再び思い出しました。
皇帝がとてもケチであることが
突然、滑稽になりました。
娘を守るための手段として
利用するつもりなら、
少なくとも立派な体裁を
整えてやらなければならない。
もちろん、
毎回それらしい包装をしてくるけれど
人のものを借りて着飾った女性を
引き受けるのは、
あまり愉快ではありませんでした。
少なくとも、
「乞食姫」というレッテルを
剥せるくらいの身なりを整えてやるのも
悪くないという気がする頃に、
車がフレベ大通りを離れました。
タウンハウスに近づくと、
ある中年の男が、邸宅の出入り口の前で
使用人たちと揉めていました。
バスティアンが乗った車を発見した彼は
興奮して、
自分を止めようとしている侍従の手を
振り払いました。
運転席の方に近づいてきた男が
「クラウヴィッツ大尉、
元気だったかい?」と
ニヤニヤしながら挨拶をしました。
バスティアンが
何の反応も示さなかったので、
彼は急いで帽子を脱いで
顔を出しました。
まさか、自分を覚えていないなどと
言い逃れはしないだろうと、
意気揚々と大声を出す男は、
あの夜の、あのギャンブラー、
オデットの父親でした。
ディセン公爵は、あえて、自分を
こんな風に冷遇するのかと、
怒りの叫び声を上げました。
バスティアンは何の返事もすることなく
庭の端のパーゴラに向かいました。
祖父が世を去った後は
一度も使われていない
野外用の応接家具は
ひどく古くなっていましたが、
これくらいなら、
今日の招かれざる客を迎えるには
十分でした。
上の空で、
ディセン公爵に座るよう勧めた
バスティアンは、
まずティーテーブルの前に座りました。
脱いだ将校帽を下ろす間に、
もじもじしていたディセン公爵が
パーゴラの下に入りました。
悔しさを感じながらも、
素直に向かいの席に座ると、
ディセン公爵は、
まさか君のような者が、
帝国の英雄と呼ばれているとは
夢にも思わなかったと言いました。
すでに跪いているような格好をしても
虚勢を張る理不尽な努力に、
バスティアンは少し笑いました。
彼は、お互いに相手を、きちんと
見分けられなかったという点では
公平な初対面だったと返事をすると
色あせた柳の椅子に深くもたれかかり
口角を上げました。
その社交的な微笑が、無情な目つきを
さらに際立たせました。
あの女と関わることになった時、
バスティアンは、
すでにこのような日が来ることを
予想していたので、
それほど驚いていませんでした。
それでも、
オデットを利用することにしたのは、
これら全てを考慮しても、
損害よりはるかに大きな利益を
得ることができるという確信が
あったからでした。
その考えは、
ディセン公爵を目の前にしても
変わりませんでした。
焦った目つきで
周囲を見回していたディセン公爵は、
どういうことか全部わかっているから
自分を騙そうと
思わない方がいいだろうと
脅し文句を口にしました。
賭博と酒に溺れて生きる者たち特有の
濁った顔色をしていましたが、
着ているものは、かなり立派で、
娘のみすぼらしい身なりとは
対照的でした。
バスティアンは、
説明する必要がなくて幸いだと言って
嬉しそうに笑うと、
ディセン公爵の顔が赤くなりました。
全く感情を隠せないので、
賭博場で勝てないのも当然だと
バスティアンは思いました。
ゆっくり足を組んで座り
タバコを1本取り出した
バスティアンはディセン公爵に
率直に話すよう促しました。
ディセン公爵は、
次に何を言うか激しく悩みながら
周囲をチラッと見ました。
その間にライターを点ける音がし、
ゆっくりと立ち上ったタバコの煙は、
風に乗って、庭の向こうへ
散らばって行きました。
いかにも下品な無礼でした。
ディセン公爵は、固く握った手を
テーブルの下に隠しながら、
自分はお前のような奴に、
自分の娘をやる気がないと
大声で叫びました。
まずは、
強硬な反対の意思を明らかにした後
徐々に交渉を進めるつもりでした。
ディセン公爵は、
いくら世の中が変わったとしても、
古物ばかり拾っていた金貸しの血筋が
皇女の娘を欲しがるなんてありえないと
叫ぶと、
テーブルを激しく叩きつけることで
適切な怒りを露わにしました。
しかし、バスティアンは、
彼が期待するような反応を見せず、
じっとディセン公爵を眺めている途中で
タバコの灰を払い落としたのが
全てでした。
そのため、
クソ野郎だと、
ぼそっと口ずさむように吐いた悪口は、
さらに非現実的に感じられました。
まさか、そんなことを
自分に向かって言うなんてと、
当惑したディセン公爵が
現実を否定している間に
バスティアンは腰を伸ばして
座りました。
呆れて睨みつける
ディセン公爵に向き合っても
バスティアンは、
穏やかな笑みを浮かべていました。
マンガでは、イザベル皇女が
メイドの恰好をして、
バスティアンを訪ねるシーンしか
描かれていませんでしたが、
夏の宮殿でも、
バスティアンを想うあまり、
皆に迷惑をかけていたのですね。
獣が鳴くような泣き声って、
国のためとはいえ、こんな皇女を
嫁にもらわなければならない
王子が気の毒です。
娘には、みすぼらしい恰好をさせて
自分は、きちんと身なりを
整えているなんて、
ディセン公爵は最低の父親です。