100話 学校の休みが終わりました。
再び会った子供たちは
ぐんと成長していました。
その分、問題も大きくなり、
レイラは慌ただしい一日を
過ごさなければなりませんでした。
窓の外を見ながら考え込んでいた
レイラは、
石板を持ち上げながら、
問題が解けたと叫ぶ子供の声に
我に返りました。
レイラは、
休みの間に、算数の実力が
すごく伸びたと褒めると、
少年は頬を赤らめて、
にやりと笑いました。
子供が解いた算数の問題を採点すると
モニカが泣き出しました。
後ろの席に座った男子児童が、
髪の毛を引っ張って
いじめたようでした。
モニカを宥めて、
意地悪ないたずらをした子供を叱り
再び授業を続けている間に
長い一日が終わりました。
子供たちを見送ったレイラは、
騒ぎが収まった教室に
戻って来ました。
机の前に座って、
見上げた窓の外の木の枝には
薄緑色の新芽が出ていました。
まもなく一瞬にして
全世界が春色に染まるだろう。
その前に、全てのことを
終わらせなければならないと
レイラは決意を固めると、
カバンをまとめました。
あの悪魔のような奴と恋人だなんて
鳥肌が立ってぞっとしましたが、
嘘が甘いほど、
あの男の傷も深くなると思えば
何でも耐えられそうでした。
幸い、あの男が騙されてくれた日は、
あまりにも嬉しくて
眠れませんでした。
あの男がレイラに与えた
初めての幸せでした。
教室を出る前に、レイラは髪を解いて
薄化粧をしました。
たくさん練習したのに、
まだ思ったほど上手くいかなくて、
少し雑でした。
むしろ化粧を落とした方が
良いような気もしましたが、
いつの間にか、約束の時間が
迫っていました。
酷い男のために装う。
まるで本当に金で買われた女にでも
なったような悲惨な気持ちは、
胸の奥に秘めておくことにしました。
だから今は笑ってと、
レイラは自分を宥めながら
唇の端を引き上げました。
自分の微笑みが猛毒になるように、
できる限りきれいな微笑を浮かべろと
マティアスに言われたからでした。
マティアスは、
村の学校に入る道の端に
車を止めました。
久しぶりにハンドルを握りましたが、
それほど、
ぎこちなくはありませんでした。
もちろん、随行員と運転手は、
この世の滅亡を目撃したかのような
表情をしていましたが・・・
時間を確認したマティアスは
学校が見える窓の外を見ました。
ちょうど、その道の端から
金髪をなびかせながら、
レイラが、せっせと歩いて来ました。
マティアスは、のんびりと
その姿を見守りました。
軽く飛び立つ鳥のように
静かで慌ただしく動く女。
初めて見た子供の頃から
今まで、ずっとそうでした。
彼が待っているとは
思いもよらなかったのか、
レイラは車のすぐ前まで来ても
そのペースを緩めませんでした。
マティアスは、窓ガラスを叩くことで
短気な鳥を呼び止めました。
レイラはビクッとして
立ち止まりました。
すぐに、しかめっ面の上に
当惑の色が広がり始めました。
にっこり笑ったマティアスは
運転席のドアを開けて
車から降りました。
反射的に一歩退いたレイラは
首を傾げ、彼をじっと見つめながら
どうして公爵がここにいるのか。
約束の場所はここではないのにと
言いました。
マティアスは、
なぜだと思うかと尋ねました。
レイラは目を細めて車内を覗き込み
誰もいないことを確認した後、
まさか公爵が、直接ここまで
自分を迎えに来てくれたのかと
尋ねました。
彼女の表情は、
直接、自分が車を運転するという
マティアスの話を聞いた瞬間、
運転手が見せた表情と
大きく変わりませんでした。
マティアスは、
ボンネットの前を回って
助手席のドアを開けました。
カバンの持ち手を両手で握りしめ、
硬直して立っていたレイラは、
もじもじしながら、
ぎこちなく近づきました。
近くで見たレイラの顔は
いつもと少し違っていました。
マティアスは笑いの籠った声で
化粧したのかと尋ねました。
大したことではない質問にも
レイラは悪いことをしてばれた
子供のように驚いて
慌てふためきました。
レイラは、変かと尋ねました。
マティアスは、少しと答えました。
真剣に聞いて来る表情が可愛くて、
マティアスは意地悪になりました。
どうすればいいのか分からず、
唇を噛み締めているレイラの頬が
徐々に熱くなり始めました。
マティアスは、
カバンをかき回して
ハンカチを取り出したレイラの手首を
優しく握って、
落とすことはないと言いました。
変だと言ったのにと、
レイラは抗議しました
マティアスは
「うん」と返事をしました。
レイラは、
それなら落とすと言いました。
しかしマティアスは、
「きれい」だと言いました。
レイラは眉を顰めながら、
変なのに、どうしてきれいなのかと
尋ねました。
しかし、公爵は依然として
平然とした顔をしていました。
悩んだレイラは、まず車に乗ることで
この気まずい状況を回避しました。
余計なことをして
計画をしくじってしまったのか。
レイラは不安になり、
手鏡で顔を見ている間に
公爵が車に乗りました。
決然とした表情をしていた
レイラは、いきなり、
はっきり言ってもらえないかと
要求しました。
マティアスは、
話せば自分の言うとおりにするかと
尋ねました。
レイラは「はい」と答えました。
するとマティアスは、
自分が楽しいのが嫌いなはずの
あなたが
どうしてなのかと尋ねました。
レイラは、
公爵のためではないと答えました。
マティアスが
「それでは?」と聞き返すと、
レイラは鋭い公爵の視線に
不安を感じたので、
自分のためだ。
きれいに見えれば、
良くしてくれるかもしれないからと
素早く答えました。
レイラは、話せば話すほど、
泥沼にはまるような気がしましたが、
後へは引かないことにしました。
幸い公爵は、特に疑うこともなく
車を出発させました。
レイラが安堵した瞬間
何を、どうやって、
良くしてくれることを望むのか
言ってみてと、
胸がドキッとするような言葉が
聞こえて来ました。
レイラは当惑しながら、
それは・・・自分が
きれいだという意味なのかと
聞き返しました。
何の返事もすることなく、
片方の口の端だけを上げて笑う
マティアスが、
さらにレイラを当惑させました。
これは、あまりにも
簡単過ぎるのではないか。
公爵に、何か企みが
あるかもしれないという考えが
ふと浮かびました。
すでに全てを見抜いているかも。
もしそうでなければ・・・と
考えましたが、
レイラは不安に震えるより
むしろ図々しくなることにし、
自分に優しくしたくなるくらい
本当にきれいなのかと尋ねました。
車は、今や
市街地に続く道に入りました。
マティアスは、
自分をじっと見つめているレイラを
ちらっと見ました。
壊したいほど、それでも欲しいほど
狂ってもいいほど、
この女がきれいでした。
マティアスは、それが
あまり客観的な事実ではないことを
知っていました。
レイラは確かに美しいけれど
彼女程度の美人を見つけるのは
不可能ではないことを
よく知っていました。
ただ、その理性的な判断は、
この狂ったように熱烈な感情の前では
無意味でした。
レイラのように歩き、
レイラのように笑い、
レイラのように彼を見つめる女は、
このぞっとするほど美しい
レイラだけでした。
飲み込んででも
完全な自分のものにしたいと
たまに思うほどでした。
それなのに、
たかが良くして欲しいだけなんて
その可愛くて憎らしい質問に
マティアスは失笑しました。
頭からつま先まで完璧に装った
社交界の淑女たちを見ても
何の感興もなかった彼が、
この女性の生半可な装いの前では
青二才の少年に成り下がるのを
免れられませんでした
自分のことを考えながら服を選び、
髪を梳かし、
手探りで化粧をしていた
レイラのことを考えると、
自然に熱が上がりました。
そう考えると、この女の願いは
すでに
叶ったのかもしれませんでした。
すぐにあの服を破ったり、
髪を乱したり、
丹念に塗ったあの口紅を
食べてしまわなかっただけでも、
すでに限界以上の好意を
与えているからでした。
何も話してくれないなら、
そうだと信じさせてもらうと言うと
レイラは、一歩遅れて
気まずくなったかのように
頬を赤く染めて視線を避けました。
しかし、しばらくしてレイラは
再び横目で彼をチラッと
見始めました。
マティアスはため息をつくように
「なぜ?」と尋ねました。
ハンドルを握った手に
自然に力が入りました。
レイラは、
公爵が運転できるということに
驚いていると答えました。
マティアスが、
それに驚く理由を尋ねると、
レイラは、
鐘を鳴らすこと以外にも、
何かできることを知らなかったと
辛辣な言葉を投げかける瞬間も、
大きな瞳は明るく輝きました。
一見、臆病で
おとなしく見えるけれど、
実は唐突極まりないレイラが、
マティアスを笑わせました。
笑っている間、マティアスは、
この女のこういう面が
かなり好きだということに
改めて気づきました。
ややもすると、
事がうまくいかないのではないかと
心配になったレイラは、
でも、二人きりで良かったと
適当なお世辞を付け加え、
幻滅するのを抑えながら
練習した通りに、
最も憎んでいる男のための
最もきれいな笑顔を
そっと見せました。
馬車と自動車が入り混じった
市内の大通りは
混雑していました。
マティアスは、
渋滞している道路の端から、
にっこりと笑うレイラに
視線を移しました。
目が合っても、レイラは
表情を変えませんでした。
はにかむように
そっと視線を避けましたが、
すぐに再び目を上げて
彼を見ました。
マティアスの喉元が
ゆっくりと蠢きました。
真夏の炎天下に立っているように
喉が渇きました。
マティアスは、
熱で乾いた唇を開き、
どう可愛がって欲しいのか
考えて見たかと尋ねました。
笑みの消えたマティアスの目が
ゆっくりとレイラをかすめました。
服を剥がされたような気がして、
レイラは、慌てて頭を下げました。
あの男を
誘惑しなければならないという
一念で飛びかかったけれど、
恋人の真似をするために
何をどうすればいいのか
全く思い浮かびませんでした。
本当の恋人たちは
一体何をしているのだろうか?
むしろ公爵が
何か要求してくれれば良いけれど
彼は少しもその気がなさそうに
見えました。
再び動き出した街の風景を
見つめながら、
レイラは必死に悩みました。
情けないと思いながらも、
今日はまず、
美味しい夕飯を奢って欲しいと
思いつくままに呟きました。
それからレイラは、
春になると、
アルビスの東端にある野原に
きれいな花がたくさん咲くのを
知っているかと尋ねました。
マティアスが「いや」と答えると
公爵の領地なのに知らなかったのか。
本当にきれいなのにと言うと
残念そうに
マティアスを見つめたので
彼は笑いました。
レイラは、
あなたが踏みにじった
私の大切な人カイルと一緒に
行ったと考えながら、
その野原に花が咲くと、
いつもそこに遊びに行った。
木陰に横になって本を読んで、
お菓子も食べて、昼寝もしたと
話しました。
心の中に隠したトゲの深さほど
レイラは
明るい笑みを浮かべました。
レイラは、
今度の春に花が咲いたら
一緒に遊びに行こう。
公爵の領地がどれほどきれいか
見せてあげると言うと、
アイスクリーム好きかと、
今度はもう少し平然と
聞くことができました。
マティアスは眉を顰め、
変なことを言うように
「アイスクリーム?」と
聞き返しました。
レイラは、
自分はバニラ味が好きだと
答えました。
校門の前で待っていたカイルと
家に帰る道、
二人で一緒に買って食べた
冷たくて甘いアイスクリームの味が
舌先に浮かんで来るようでした。
もう二度と来ない、
壊れた思い出の味でした。
レイラは、
来月給料をもらったら買ってあげる。
一緒に食べに行こうと言いました。
嘘を言う才能が、
これほどあったなんて。
苦々しく感嘆している間に、
マティアスの口元に、
歪んだ笑みが浮かびました。
マティアスは、
照準を合わせた獲物を見るように
鋭い視線でレイラを見ながら
なぜ、こんなに寛大になったのか。
まるで、嘘みたいにと言いました。
レイラは白くなった手を
急いでカバンの下に隠しました。
どうか、
この男を騙せるようにしてくれと
切実に祈りました。
彼女は「好きだから」と
最も言いたくないことを
ついに口にしました。
もしかしたら、また
疑われるかもしれないと恐れながら
お気に召さなければ
また憎みましょうかと聞くと
明るい顔で微笑んだりもしました。
不安そうに心臓が鼓動する音が、
ぼんやりとした意識の中で
めまぐるしく鳴り響きました。
レイラは、
自分は好きでいたいと、
駄々をこねるように
小声で囁きました。
不審そうにレイラを見ていた
マティアスの目つきは、
幸い、一層柔らかくなりました。
暖かい午後の日差しが
彼の顔を照らしました。
自分が罠にかかったという
考えさえできない
傲慢な悪魔の微笑は魅惑的でした。
レイラは喜んで
彼を憎むほどきれいに
微笑みました。
本当にマティアスを憎んでいるなら
カイルとの楽しい思い出を
マティアスと一緒に
再現したりするでしょうか?
カイルがマティアスに
踏みにじられたと思っているなら
なおさら、
カイルとの思い出を大事に
取っておくはず。
ビルおじさんからもらった
道具入れを、
未だに捨てられないレイラが
カイルとの大切な思い出を
マティアスで
上書きするようなことは
しないと思います。
それなのに、レイラが
それを要求したのは、
楽しかった思い出を、今度は
マティアスと共有したいと
思ったからではないかと感じました。
頑固で意地っ張りなレイラは、
マティアスを好きな気持ちを
彼を憎むことで消そうとし、
親からも捨てられたレイラは、
今度は捨てられる前に捨てることで
今までの全ての恨みを
晴らそうとしているのではないかと
思いました。