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101話 いつもはぐっすり眠っているビルおじさんでしたが・・・
枕に頭さえ触れれば眠りにつき、
朝まで目覚めることのない
ビル・レマーが、夜明け前に
ぱっと目を覚ましたのは
レイラを失うという
あまりにも恐ろしくて
思い出したくもない
悪夢のせいでした。
くそったれ。
どうして、こんな夢を見たのかと
悪口を吐いたビルは、
ベッドから飛び起きて座り、
殺気立って闇を睨みました。
再び眠ろうとして
横になりましたが、
悪夢が頭から離れませんでした。
レイラは公爵家の後援を受けて
勉強をすることになるだろうし、
自分たちは、
今までそうだったように
首都でも
幸せに暮らせるはずでした。
もちろん、カイルとレイラが
同じ大学に通うことになるのは
気になりましたが、
二人が互いに未練があるなら
そのまま、
縁を切るなら、そのまま、
ビルは受け入れるつもりでした。
後は、うまく行くだけの子供のことで
こんな夢を見るなんて。
ビルは、悪夢に
悪口を浴びせたい気持ちで
起き上がりました。
できれば冷たい水でも一杯かけて
記憶を洗い流したいと思いました。
そのような狂ったことでも
むしろ、やってみた方がマシだと
思ったビルは布団を蹴飛ばし、
直ちに
水道のそばに駆けつける勢いで
立ち上がりました。
ところが、
カーテンをかけていない窓越しに
白い服を着た、か細い女が
森の道の向こうから歩いて来るのを見て
彼の衝動を止めました。
悪夢を見た後に幻覚まで見るのか。
頭が
どうかしてしまったのではないかと
不吉なことを考えた頃、ビルは
幽霊のように、
闇の中を歩いて来ている
その女がレイラであることに
気づきました。
フラフラ歩いているレイラは
とても疲れているように見え、
レイラが浮かべそうもない
疲れた老婆のような
表情をしているという点が
唯一の違いでした。
あの子が一体どうして?
すぐに飛び出して確認したい衝動を
必死に抑えたビルは、
途方に暮れて右往左往した後
ベッドに再び身を投げました。
まもなくドアが開き、
慎重に床を踏む足音が
聞こえて来ました。
確認するのが怖くて、
ビルは起き上がれませんでした。
深夜を彷徨う幽霊を見たのだと
信じたい気持ちでした。

その切実な願いが
間違っていなかったのか、
朝、食卓で向かい合ったレイラは、
ビルが知っているレイラに
戻っていました。
出勤準備を終えた姿で
せっせと台所を行き来しながら
食卓を整えた子供は
笑みをを浮かべた顔で
ビルの向い側の席に座りました。
早春の朝より、さらに
清々しい生気を含んだ姿でした。
レイラはビルに、
何か話したいことでもあるのかと
尋ねました。
ビルは、いつもの彼らしくなく
どもりながら
「いや、ない」と答えて
手を振りました。
レイラは、
言いたいことは何なのかと
問い詰めました。
ビルは、
そんなのないと答えましたが、
レイラは、
違うと思うと反論すると
首を傾げながら、パンと卵を
彼の皿に取り分けました。
レイラは、ビルが、
確かに話したいことがあるような
顔をしているので、
もしかして、
何かあったのではないかと
尋ねました。
心配に満ちたレイラの目を
見たビルは、真顔になって
首を横に振ると、
余計なお世話だ、何もないと
否定しました。
レイラは、
どこか具合が悪いのではないかと
心配しましたが、ビルは、
自分を年寄り扱いするのは困る。
石でも噛んで食べられるほど
しゃんとしている。
ピンピンとしているのを
見せてやろうかと冗談交じりに言うと
レイラは、ようやく
安心した表情を浮かべました。
良かったと言って笑う子供の顔は
見ていて飽きないほど
愛らしいものでした。
こんな時、
ビルの平然としている胸の片隅も、
ジーンと痛くなったりしました。
深く愛する心には、
いくらかの悲しみが宿るということを
ビルは、この小さな子供を預かって
育てるようになってから
初めて知りました。
ズキズキする鼻の頭を
手の甲でごしごし擦ったビルは、
お前こそ、このままでは
あの金串のようなちびっ子に
戻ってしまうと言うと、
バターを厚く塗ったパン一切れを
レイラに差し出しました。
いつものように
優しい笑みを浮かべた子供は、
彼がくれたものを、
美味しそうに食べました。
一体、それが何なのか。
またビルの目頭が熱くなりました。
このビル・レマーも
老いる時は老いる。
子供が育った分、
年をとった自分を考えると、
憂鬱な気分になりました。
しかし、ビルは
自分の分の食べ物を残さず
食べることで、
弱くなった気持ちを振り払いました。
レイラのことを思えば、
千年であろうが万年であろうが
しっかり頑張らなければ
なりませんでした、
この子が翼を付けて
ひらひら舞い上がるのも
見なければならないし、
悪い奴にひったくられないよう
両目を光らせて監視しなければ
なりませんでした。
そして、いつか、
この子とそっくりな孫が生まれたら
その子は、どんなに可愛いことか・・
限りなく
感傷的になっていく自分が
気に入らなくなったビルは、
もう一度首を横に振りました。
その断固たる動作が、
昨夜の不吉な夢と、
その夢の延長線のようだった
幻影まで消してくれることを
願って。
食事を終えたビルは
普段のように、
早くから仕事場に行く代わりに
出勤するレイラを
見送ってくれました。
たったそれだけなのに、
何が嬉しいのか、
レイラは何度も振り返って
大きく手を振りました。
遠くで「行ってきまーす!」と
大声で叫んだ挨拶が
草の匂いのする爽やかな風に
運ばれて来ました。
せっせと自転車のペダルを漕いで
遠ざかっていくレイラの後ろ姿を
ビルはしばらく見守りました。
ラッツに行ったら、新しい自転車を
一台買ってあげなければと、
固く決心すると、また胸の片隅が
ピリピリ痛んで来ました。
ビルは乱暴に顔を叩くと
荷車に道具を積み始めました。
もう少し年をとったら
泣き虫になりそうだと思いました。

ずっと沈黙したまま
クロディーヌを見守っていた
リエットは、
あえて捨てる必要はないのではないか。
大事にしていた物なのにと
言いました。
チラッと目を上げて
彼を見たクロディーヌは、
気持ちを変えるつもりはないと
言わんばかりに、未練なく
手に握ったブレスレットを
暖炉の炎の中に投げ入れました。
破いた手紙も、すぐ後に続きました。
あの子の手が触れたものは
汚くて不潔だと言う
クロディーヌの口調が
あまりにも尋常ではないので、
リエットは一瞬、
自分の耳を疑いました。
しかもクロディーヌは、
今日は本当に天気がいいと
無意味な社交辞令のように
自分の婚約者の愛人について
話しました。
ズキズキする額を抑えたリエットは
立ち上がって、
暖炉の前に近づきました。
クロディーヌはじっと立って
レイラ・ルウェリンの痕跡を
飲み込んだ炎を見下ろしていました。
メイドが小包を一つ持ってきた時
リエットは、
大したことではないと思いました。
クロディーヌは
社交界で最も羨望される淑女なので
追従するお嬢さんたちの
手紙とプレゼントが
絶えなかったからでした。
しかし、それが
レイラ・ルウェルリンからで、
彼女から聞いた呆れた話は、
どういうことなのかと
思いました。
あの日、クロディーヌが、
レイラの前に投げ捨てて来たという
壊れたブレスレットは、
きれいに修理されて戻って来ました。
謝罪と約束の言葉が書かれた
手紙も一緒でした。
マティアスとレイラの関係は
クロディーヌが予想した通りでした。
リエットも、
やはり予想していたので、
その事実自体は、それほど驚くことでは
ありませんでした。
しかし、何事にも呑気なリエットを
彼の最愛の従妹であるクロディーヌが
凍りつかせました。
クロディーヌは、他人事のように、
レイラにしたことを
淡々と語りました。
カイル・エトマンを利用し、
その方法が思わしくないと、
直接、乗り出して、
あの子を踏み付けるなんて、
リエットの知っている、
あの孤高でプライドの高い
クロディーヌ・フォン・ブラントと
どうしても、関連付けることが
できませんでした。
リエットは、
これは、むしろマティアスと
談判すべきことではないかと
言いました。
しかし、クロディーヌは、
ヘルハルト公爵は知らないし、
これからも永遠に
知ってはいけないと答えると
ゆっくりと席に戻りました。
そして、自分が卑怯だと思うかと
尋ねました。
リエットを見上げる
クロディーヌの口元に
笑みが浮かびました。
クロディーヌは、
勝てない相手である
婚約者の代わりに、
手強くない婚約者の愛人に
手を出すのは、
正当なことではないけれど、
汚い相手と
卑怯に向き合うだけなので、
大して不公平なことではないと
主張しました。
驚いたリエットは
「何だって?」と聞き返すと、
クロディーヌは、
レイラさえ消えれば、
すべてが元の場所に戻る。
ヘルハルト公爵にまで手を出して
騒ぎを大きくする必要はないと
言いました。
リエットは、
レイラがいなくなったら、
まさか、あのすごい公爵閣下が
永遠にあの子を見つけ出すことが
できないとでも思っているのかと
呆然として尋ねました。
クロディーヌが受け取った
レイラの手紙には、
結婚式が執り行われるまでに、
何があっても
マティアスから離れるので、
その時まで、是非この事を
秘密にして欲しいという
切実な願いが書かれていました。
そして、
拭えない罪を犯してすまない。
二人の人生から永遠に消えることで
償うとも書かれていて、
マティアスに対する未練など
毛頭感じられませんでした。
むしろ、何とかして、
彼から逃げ出したい気持ちだけが
切実に感じられました。
マティアスの欲望と執着から始まった
関係なら、ただレイラが去るだけで
終わるはずがありませんでした。
クロディーヌは、
結婚式を無事に執り行い、
後継者だけを産んだら、
それ以上は、あえて
関わりたくないと言いました。
リエットは、
公爵夫人になって、
次代のヘルハルト公爵を産むことが
君の人生の全てなのか。
その任務を果たせば、
君の人生が終わるのかと
尋ねました。
クロディーヌは、
全部ではないけれど、
半分程度にはなるのではないか。
もちろんヘルハルト公爵が、
あの卑しい子供に狂っている姿を
二度と見ないことができれば
最高だと答えました。
そして、
いっそのこと、
あの子が死んでしまえばいい。
あの子がこの世から
永遠に消えてしまえば、
自分の婚約者が、二度と
あんな下品でくだらない男に転落せず
自分が望んでいる
一生完璧な、ヘルハルト公爵に
なってくれるだろう。
自分は本気だ。
毎日、心の中で、
あの子の命を奪っている。
過ちを犯したのは、
マティアス・フォン・ヘルハルトだと
いうことを知っているけれど、
あの男は、必ず自分の夫に
ならなければならないので
死んでしまっては困ると言うと
歪んだクロディーヌの唇に
自嘲的な笑みが浮かびました。
そんな従妹を見るリエットの目つきが
冷たく沈みました。
クロディーヌを
最もクロディーヌらしく
生きていけるようにしてくれる人が
まさにヘルハルト公爵であるため、
彼らの間に立ちはだかることが
できませんでした。
しかし、果たして今、クロディーヌは
クロディーヌらしいのだろうか。
リエットは、
ノーと断言できました。
すると、鬱憤に近い疑問が
突然湧いて来ました。
君を君らしくないようにする
君さえ愛してさえいないあいつに
なぜ君を
奪われなければならないのか。
リエットは、
公爵夫人の地位がいくらすごくても
君自身を壊すほどの価値はないと
言うと、ゆっくりと
クロディーヌの前に近づき、
マティアスとの婚約を
破棄するようにと言いました。
驚くクロディーヌにリエットは
それしきの名誉と体面で
君の心を蝕むなと言うと、
ぼんやりしているクロディーヌの前に
片膝をついて座りました。
少しの茶目っ気も見られない彼の姿が
クロディーヌの言葉を遮りました。
リエットは、
しばしばこのような言葉を
口にしましたが、
いつも冗談を装っていました。
だからこそクロディーヌも、
平気で笑い飛ばすことが
できました。
彼らが安全ラインを守って来たのは
一種の不文律でした。
そして今、彼は、そのラインを
崩そうとしていました。
婚約破棄したら、
自分たちは結婚できるのかと、
わざと悪く見せかけてあざ笑う
クロディーヌの前でも、
リエットは動揺せず、
できないこともないと答えました。
クロディーヌは、
しっかりするように。
どのような噂が広まると思うのか。
二人を両手でつかんで、
天秤にかけたブラント令嬢。
仲良しだったいとこを裏切って
婚約者を奪ったリンドマン侯爵という
ありきたりなもの。
汚いのは、あの男とレイラなのに、
汚名を着せられるのは
自分たちになると言いました。
リエットは、
自分は構わないと言うと、
深いため息をつき、
クロディーヌの手を握りました。
彼女は、
うちの家門では絶対に受け入れない。
リンドマン家も同じだということを、
よく知っているではないかと
言いました。
リエットは、
知っていると答えました。
クロディーヌは、
自分たちがお互いを選択した瞬間、
この世界から追放されるだろう。
その全てを覚悟できるほど
自分を愛することができるのかと
尋ねました。
充血したクロディーヌの目から、
涙が流れました。
リエットは、
微かに笑みを浮かべながら
「うん」と答えて頷きました。
力を込めて彼女の手を握る
馬鹿みたいな男の手は
とても大きくて暖かでした。
リエットはクロディーヌに
愛していると告げると、
自分と結婚して一緒に出発しようと
言いました。
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周りの人たちには、
他所へやると言い続けながらも、
ずっとレイラを手元に置いて
愛情を注いで、
立派に育て上げたビルおじさん。
レイラの産んだ子を
孫だと思うビルおじさん。
レイラとビルおじさんは、
血の繋がった親子以上に、
固い絆で結ばれていると思います。
ビルおじさんがレイラを見送り、
それに応えるレイラの姿を
思い浮かべるだけで、
涙が出て来てしまいました。
ヘルハルト公爵夫人になることに
憑りつかれているような
クロディーヌ。
そのためには、
レイラが不幸になることなど
全く気にしていないのが
恐ろしいです。
あまり言い方が良くないですが、
いくら賢くても、
家のために結婚し、
嫁いだ先の家門の発展に貢献する以外
使い道のない貴族の女性として
生まれてしまったクロディーヌ。
ヘルハルト公爵夫人になれなかったら
帝国一の女性にはなれない。
万が一、
マティアスがレイラと結婚したら
子供の頃から見下げて来たレイラが
自分より、
身分の上の女性になってしまう。
しかもレイラは、
クロディーヌが持つことができなかった
何にでもなれて、何でもできる自由を
持っている。
そのレイラを叩きのめすためだったら
今のクロディーヌは
悪魔に魂を売ることも
できそうな気がします。
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100話まで到達したことに対して
たくさんのお祝いのお言葉をいただき
本当にありがとうございます。
また、新たに
コメントを書いていただく方も増え、
日に日に、この場が、
盛り上がって行くのが、
とても嬉しいです。
残すところ69話。
これからも頑張りますので、
引き続きよろしくお願いいたします。
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