27話 皇帝はバスティアンに責任を押し付けるつもりです。
長い沈黙を破った皇帝は、
自分が、その気になれば、
今夜、お前は生きて、この宮殿を
出ることができないかもしれない。
明日の明け方、夜が明ける頃、
後から分かったことだけれど、
実は巷の小者に過ぎなかった
英雄の遺体が、売春宿の路地で
発見されるようにすることぐらい
それほど難しいこともないだろう。
もちろん不当で残忍な処置だけれど
仕方がない。 権力というものは
本来そういうものだと言うと、
肩をすくめて笑いました。
軽い冗談でも言うような態度でしたが
今、皇帝の目に浮かんだ
もの静かな殺気は、
決して偽りではないということを
バスティアンは分かりました。
続けて皇帝は、
これまでの功績を高く評価し、
寛容を与えることもできるだろう。
立派に帝国の皇室と社交界を
篭絡している、その整った顔を
半分ほど潰す程度で妥協するのも
悪くないと思うけれど、
どうだろうかと尋ねると、
手術を控えた執刀医のような目で
バスティアンの顔を観察しました。
そして、
それも気に入らなければ、
英雄のための
最後の選択肢を与えると言うと
再び背を向けて、窓を開けました。
プラタ川に面した庭園を
通り抜けて来た風からは、
水の生臭い匂いが混じった
バラの香りが濃く漂っていました。
バスティアンは謙虚な態度で
続く言葉を待ちました。
これが皇帝の本当の命令。
彼の明日を決める一言に
なるはずでした。
そっと閉じていた目を開けた皇帝は
今すぐ結婚しろと命令しました。
ずっと大胆だった
バスティアンの目つきが
初めて揺れました。
皇帝は、
自分はオデットが、
お前の妻になることを望んでいるけれど
どうしても、ディセン公爵の娘と
結婚できないなら、
改めて考えた花嫁候補の中から
一人を選ぶようにしろ。
ラナト伯爵の妻と夜逃げをしても、
いくらでも理解してやると言うと
そんなことはどうでもよいと
言わんばかりに手を振りました。
そして、皇帝は、
相手が誰であろうと、
夏祭りが始まる前までに
結婚式を挙げるだけでいい。
そして二年。
イザベルがベロップに嫁いで、
第一子を産むまで、
その結婚を維持するように。
その後のことには、一切関わらない。
幸せな家庭を築くのが最善だけれど
そうでなければ離婚してもいいと
告げました。
バスティアンは、
その日まで、二か月も残っていないと
反論しました。
皇帝は、
もちろん、時間は差し迫っているけれど
このまま死んだり、
顔を潰されるよりはマシではないかと
言い返しました。
漠然とした気分に囚われた
バスティアンを窓際に残し、
皇帝は、何事もなかったように
軽い足取りで背を向けました。
そして、
もしベロップの皇太子が
お前とイザベルの間のことを
知ったとしても、何の脅威も感じず
大したことではない、
ただの空騒ぎ程度に思って
笑うことができるように、
今すぐ結婚して、
一番完璧な夫婦の姿を、
全世界に披露するように。
お前がこれをやり遂げるなら、
自分も
十分な補償をするつもりだと言うと、
今や、有能な交渉家の顔をして
ソファーにもたれて座りました。
皇帝は、
なぜそんな顔をしているのか。
自分が命じれば、
まさにその人になると、
お前の口が言ったのではなかったか。
まさか皇帝を欺いたのかと
尋ねました。
バスティアンは、
そんなつもりはないと否定しましたが
ただ、これは・・・と戸惑っていると
皇帝は、
約束通り二年間過ごせば、
お前が望むものを与える。
他の利権を望むのであれば
それを与えるようにする。
帝国の法規と秩序を損なわない
範囲の中にあるのなら何でもいい。
これは皇帝の名前と名誉をかけた
約束だと誓うと告げました。
バラの香りが濃くなった風に背を向けて
バスティアンは皇帝を見ました。
皇帝は、
これが自分の命令だ。
だから
自分が誰なのか証明して
見せるようにと告げました。
皇帝の私邸を出ると、
東の空が、微かに白んでいました。
バスティアンは、
しばらく足を止めたまま、
まだ青い光を帯びた夜明けの空を
眺めました。
変な夢を見たような気分でした。
目を覚ますと
見慣れたベッドと天井が見え、
昨日と、それ程変わらない今日が
始まりそうでした。
しかし、
そんな儚い考えをする瞬間にも
バスティアンは、
今日は決して昨日のようには
なれないということを
知っていました。
嘲笑混じりの悪口を吐いた
バスティアンは、大股で、
皇宮の裏門につながる道を歩きました。
プラタ川から立ち上る
朝霧と混ざった分だけ、
バラの香りは濃くなりました。
裏門の外に出ると、
塀の横に止めておいた
自動車の周りをウロウロしていた
随行員のハンスが走って来て
大丈夫かと尋ねました。
乱れた髪を撫で下ろした
バスティアンは、
大したことないと言うように笑いながら
先頭に立ちました。
急いで追いかけて来たハンスは
急いで後部座席のドアを開けました。
ジャケットを脱いだバスティアンは
シートの奥深くに体を沈めて
目を閉じました。
忘れていた疲れが押し寄せて来ると、
再び、プッと笑いが漏れました。
バスティアンは、
ジャケットの上に、
外したタイを投げると
大したことではないので
心配しないように。出発してと、
疲れた声で命令しました。
バスティアンが再び目を覚ましたのは
偶然にも、ちょうど車が、
ラインフェルトホテルの前を
通っていた時でした。
花が咲いた水曜日、
皇帝からの下賜品に会った場所でした。
あの女性が一番適しているだろう。
バスティアンは、
皇帝が決めてくれたのと
同じ答えを振り返し考えながら
ゆっくりと顔を撫で下ろしました。
皇帝の怒りと命令は妥当でした。
とても気分が悪いこととは別に、
バスティアンは、
帝国の統治者として皇帝が下した決断を
理解し尊重しました。
二年間を抵当に入れた代価として
希望する利権を得ることができれば、
彼としても損することはない
取引でした。
ラビエル家との問題が
絡んではいるものの、どうせ、
サンドリンの離婚訴訟が終わり、
適当な再婚の時期が来るまでに、
その程度の時間は必要でした。
合間を利用して
大きな利潤を残す商売をした後に、
おのおの一度ずつの離婚経歴を
公平に分け合ったまま
結婚を進める方法が、
現在としては最も合理的でした。
ただ、よりによってオデットが
最善だという事実が、
バスティアンを躊躇させました。
世間が捨てた女を拾って引き受けるのは
どうしても好ましくないことでした。
この不快感が二年間、ずっと続くよりは
次善の策を選んだ方が良さそうでした。
お金と娘を交換する準備ができている
父親は、社交界の至る所にいて、
その中の誰を選んでも、
ディセン公爵より、
さらに酷い者はいないだろうと
確信していました。
バスティアンが、
色々なケースについて考えている間に
車はタウンハウスの見える通りに
入りました。
ちょうど朝が明けて来ましたが、
開けておいた車窓から入って来る風は
それほど冷たくありませんでした、
夏を予感させる天気でした。
苛立たしげに、邸宅の前を
うろうろしていたロビスも、
大丈夫かと、同じ質問をすることで
バスティアンを出迎えました。
一睡もできなかったような
顔をしていました。
ロビスは、自分が代わりに、
デメル提督に連絡をするので、
今日は休んだ方がいいと勧めましたが
バスティアンは、
静かに首を横に振りながら、
その必要はないと答えると
玄関ホールに入りました。
そして、
しばらく寝るので、一時間後に
熱いコーヒーを用意するように。
朝食はなしで。
これで十分だからと言って、
気が気でない老執事を宥め、
ホールを横切って行きました。
ところが、
階段の最初の段を上がった瞬間、
昨晩、客が一人来たと、ロビスが
意外なニュースを伝えて来ました。
バスティアンが「客?」と
ゆっくり聞き返すと、
体を半分回しました。
急いで近づいて来たロビスは、
制服の内ポケットから取り出した
訪問カードとメモを渡しました。
オデット・テレジア・
マリーロール・シャルロッテ・
フォン・ディセン。
その長い名前を見たバスティアンは、
少し眉をしかめました
ロビスは、
主人の命令に従って対応したと、
安心しろと言わんばかりに付け加えると
バスティアンは、
今夜のことに関しては
徹底的に口を閉ざすことという
自分が皇宮へ行く前に
下した指示について、
ようやく思い出しました。
ロビスは、
プライベートな質問があると言ったので
それについては答えたと報告しました。
バスティアンは、
訪問カードの下にあるメモを開いて
何て言ったのかと尋ねました。
ロビスは、
昨日、ディセン公爵が、
この屋敷を訪れたかどうか聞かれた。
昨日ではないけれど、
最近一度、一方的に
訪ねて来たことはあると答えたと
返事をしました。
バスティアンは
短くため息をつきました。
父がクラウヴィッツ大尉に
大きな失礼を働いたという知らせを
一歩遅れて聞きました。
心からお詫び申し上げます。
二度と父のせいで
困らせるようなことはいたしません。
本当に申し訳ございません。
急いで書いたのか、
いくつかの線が曲がっていましたが、
それでもオデットの字は、
その性格と同じくらい端正でした。
ロビスは、
もしかして、自分が
何かミスでもしたのではないかと
心配しましたが、
バスティアンは、軽く首を横に振って
それを否定すると、
「お休みなさい」と告げて、
大またに階段を上り、
寝室に向かいました。
招かれざる客の訪問カードとメモを
テーブルの上に投げ置くと、
バスティアンは
まず浴室に向かいました。
シャワーを終えて出て来た時は、
寝室全体が
明るい日差しに染まっていました。
バスティアンは
ゆったりとガウンを羽織ると、
テーブルに置かれた葉巻の箱を
開けました。
夏至が来ると、
ベルク全域で夏を記念する祭りが
始まりました。
皇帝が定めたその日、彼は結婚する。
それは確定した事実でした。
バスティアンは、
避けられない現実を受け入れ、
葉巻の先を切り落としました。
二年後、
その結婚が終わるまでの間、
クラウヴィッツ夫人は、
あの庭に散らばっている植物のように
静かに留まっていて、時が来れば、
多額のお金を持って
消えてくれれば良い。
簡単なことでした。
条件と報酬に惑わされて、
志願する女性が
たくさんいるという事実を
バスティアンはよく知っていました。
ただオデット。
再び原点に戻って向き合った
その有難くない最善が、
鋭い刃物のように
神経を引っ掻きました。
今日を含めたとしても、
残りの期間はわずか1ヵ月半。
最低限の形式だけでも整えた
結婚式を挙げるためには、
遅くとも三日以内には、
花嫁を決めなければなりませんでした。
火を点けた葉巻をくわえた
バスティアンは、
適当に投げ置いたオデットのメモを
再び手に取りました。
むやみに訪ねてきて、
このような謝罪をすることに
一体何の意味があるのか
よく理解できませんでした。
ディセン公爵は、
一生そのように生きて死ぬ者であり
それは彼女の管轄外のことでした。
守ることもできない約束などを残すより
いっそのこと、ずうずうしく
無視した方が、はるかにマシでした。
汚ないシミのような父娘の記憶を消した
バスティアンは、
葉巻を再び唇に持って行き、
頬がへこむほど深く吸い込みました。
オデット嬢。
最悪であり最善である、
あの女の名前を再び思い出したのは
昼休みが終わる頃でした。
休憩室の簡易ベッドで
短い仮眠を取っていたバスティアンは
彼の家から急ぎの手紙が届いたと、
使いに来た当番兵に声をかけられて
目を覚ましました。
ロビスからの手紙でした。
オデット嬢を邸宅に連れて来るよう
指示したことへの返答のようでした。
丁寧に敬礼をした当番兵が退くと、
バスティアンは乱暴に破った封筒から
取り出した便箋を広げました。
約束の時間を伝える程度だろうという
予測は完全に外れました。
ロビスが力を込めて書いたメモには、
皇帝が下した命令のように
突然で驚くべきニュースが
含まれていました。
オデット嬢は、
とても招待に応じられない状況に
置かれている。
調べたところ、昨晩、ディセン公爵が
階段から転落する事故に遭い、
頭に外傷を受け、脊椎を折るという
重傷を負ったそうだ。
現在は意識がない状態で
ラッツ市立病院に運ばれ
治療を受けている。
運良く、目覚めたとしても、
余生を下半身麻痺で
生きなければならないという
悲観的な状況だ。
もう一度じっくり読んだ
そのメモを、
制服のポケットに押し込んだ
バスティアンは、
再び横になって目を閉じました。
本当に汚くて長い一日でした。
バスティアンのことを聞くと、
すぐに彼を訪ねて、
お金をせびりに行ったディセン公爵。
彼のお金を当てにして、
またとんでもないことを
やらかそうとしているのか、
自分の借金を返そうと
企んでいるような気がします。
バスティアンにとって、現時点では
オデットと結婚するのが最善だけれど
そんなディセン公爵が義父になって
お金をせびられ続けたり、
彼のお金の不祥事の後始末をするのは
まっぴらごめんだと思います。
けれども、今後一生、ディセン公爵が
下半身麻痺で過ごすことになれば
自力で賭博場へ行ったり、
とんでもないことを、
やらかしに行くことは
できなくなると思うので、
お金に関する不安が少し消えると
思います。
ディセン公爵の怪我は
バスティアンの決定を後押しする
機会になったと思います。