28話 ディセン公爵は階段から落ちて大怪我をしました。
むしろ目が覚めなかったら
良かったのに。
どうしても口に出せない本音を
飲み込んだトリエ伯爵夫人は、
ただ深いため息だけをつきました。
閉ざされた病室のドアの向こうからは
すでに数分間、奇声に近い泣き声が
聞こえて来ました。
様子を見ていたオデットは、
父親がとても興奮しているので、
今は、お見舞いが難しいと思うと
困惑しながら謝罪しました。
今にも倒れそうな姿とは違って、
表情と声は、
理性的で落ち着いていました。
トリエ伯爵夫人は、
その必要はない。
二度と歩けなくなるという話を聞けば
そうなるのも無理はないと返事をし、
「分かっている」と言うように、
オデットの肩を軽く叩きました。
その間、病院の廊下に響き渡っていた
叫び声が止まりました。
医師たちが、
適切な処置をとったようでした。
二日間、意識のなかったディセン公爵が
ついに目を覚ましました。
人の命について、こんなことを
考えてはいけないということは
分かっているけれど、
オデットの将来を考えると、
どうしようもなく
胸が苦しくなって来ました。
一生、体の不自由な父親の
世話をしなければならないかも
しれないなんて。
唯一の希望だった
縁談も、水泡に帰したと言っても
過言ではありませんでした。
この世の、どんな正気でない男でも
果てしない不幸を背負った女を
妻にするはずがありませんでした。
トリエ伯爵夫人は、
皇室に話しておくので、
病院代は心配しないように。
皇帝が出さなければ
国が助けるようにすると言いました。
涙を浮かべた目を
瞬きしていたオデットは、
伯爵夫人にお礼をいい、
厚かましいけれど、お願いしますと
頭を下げました。
そして、あの縁談についての約束は、
自分の代わりに、
皇帝に了解を取って欲しい。
だから、どうか年金は・・・
と言いかけたところで、
オデットは
話を続けられなくなりました。
唇だけを動かしているオデットを
見つめるトリエ伯爵夫人の目に
涙が浮かんで来ました。
このような絶望の中でも、
そのわずかな年金の心配を
しなければならない皇女の娘だなんて。
それを武器にして、
この子を追い詰めた張本人が
まさに自分だという事実を
思い出すと、
喉が詰まるような気がしました。
適当な慰めの言葉を
見つけられなかった
トリエ伯爵夫人は、
ひたすらオデットの頬を撫でました。
その時、
「お姉様!」と叫んだ痩せた少女が、
息も絶え絶えに泣きながら
病院の廊下を走って来ました。
スカートを握り締めていたオデットは
そこから手を離すと、伯爵夫人に
申し訳ないけれど、
少し待って欲しいと了解を求めました。
この少女のやせ細った肩に
置かれた荷物は、
醜い父親一人だけではなさそうでした。
息が詰まりそうでしたが、
トリエ伯爵夫人は
表情を変えずに頷くと、
心配しないで行って来るようにと
送り出しました。
しばらく泣き続けていたティラは、
自分は、刑務所に行くんだよね?
そういうことだよね?と尋ねました。
急いで周囲を見回したオデットは、
病院の裏庭の隅に
妹を連れて行きました。
オデットは、カラマツの影の下に
ティラを押し込むと、
父親はそのことを知らないと
声を低くして囁きました。
そして、
父親は、酷く酒に酔っていたので、
記憶が曖昧なようだ。
自分が後ずさりして、
足を踏み外したと思っている。
そのように信じているなら、
それが真実だと、
強気な態度で言いました。
そして、
あれはどうしようもない
不幸な事故だったので、
忘れるようにと勧めました。
しかし、ティラは、
それでも確かに自分は、
この手で父親を押したと言いました。
オデットは、
ティラに黙るよう注意しました。
しかし、ティラは、
とても怖い。
父親が覚えていなくても、
もし誰かが自分のことを
通報したらどうしよう。
あの建物に住んでいる他の人が
見ていたらどうしようと心配しました。
そして、
極限の不安と恐怖に襲われたティラは
寒気がするかのように震え始めました。
ティラは、
きっとそうに違いない。
管理人の奥さんが、
自分をとても憎んでいるので、
あの日も監視していたかもしれない。
そういえば、彼女を見た。
お姉様の後ろの階段の手すりの陰に
隠れていたみたいだと主張しました。
そして、
自首すれば罰が軽くなるだろうから
今から警察署へ行く。
このままでは、
とても怖くて死にそうだ。
自分は地獄へ行くことになる。
自分が父親を・・・
と言いかけたところで、
激しく頬を叩く音が、
ますます速くなって行く
ティラのとりとめのない独り言を
中断させました。
オデットは、
ティラの肩をギュッと握り締めると
しっかりしてと、厳しく叱りました。
怯えたティラは泣き声を飲み込んで
顔を上げました。
オデットは、
ティラ・ベロー、
自分の話をきちんと聞くように。
あなたは、ただ正当防衛をしただけ。
誰が何と言おうと、
その事実は変わらない。
自分は神を信じていないけれど、
もし神がいたとしても、
このことで、
あなたを地獄に送ることはない。
それでも誰かが
地獄に行かなければならないなら
自分が行くと言いました。
そして、もう一度、
周囲を見回したオデットは
ティラを見つめながら、
もう取り返しのつかないことのために
あなたまで不幸になることを
望まないと言うと、
先程の厳しい手つきとは
全く違う手つきで、
流れ落ちるティラの涙を
拭いてあげました。
そして、自分のために
秘密を守って欲しいと頼みました。
ティラの口から、「うん」と
呻き声のような返事が漏れました。
そして、本当に申し訳ないと
オデットに謝ると、
苦しそうに歪んだ顔で、
ギュッとオデットを抱きしめました。
オデットは、
妹の震える背中を抱きしめたまま
目を閉じました。
ティラが爆発させた激しい泣き声は、
オデットのブラウスを濡らしてから
ようやく静まりました。
その後もオデットは
ずっと妹を抱いていました。
実はティラのように途方に暮れて
恐怖を感じていたけれど、
どうしても表に出すことが
できませんでした。
愛は責任を負うことという信条が
疲れ果てた心を支えました。
オデットは
ティラを愛していたので、
この子に対する責任を
果たさなければなりませんでした。
意志を固めた目つきを取り戻した
オデットは、袖先で、
滅茶苦茶になったティラの顔を
拭いてやりました。
乱れた髪を整え、
曲がった襟の形も整えました。
オデットは
「もう帰ろう」と言って、
ティラの手を取ると、
裏庭の隅の花壇を出ました。
父親の病室がある
病院の二階の廊下に着いた頃には、
小さくすすり泣く声も、
きちんと止まっていました。
廊下に置かれた椅子に座っていた
トリエ伯爵夫人は
無事に話は澄んだのかと尋ねると、
姉妹のそばに近づいて来ました。
オデットはトリエ伯爵夫人に
謝罪しようとしましたが、
老婦人は厳しい表情で、
もう一度、お詫びを言ったら怒ると
言って、オデットを阻止しました。
そして、
医者の話では、父親が目覚めるのに
三、四時間以上かかるそうだ。
その間、
ベッドのそばで見ててくれる人を
付けてやるので自分と一緒に行こう。
見たところ、
何日も徹夜しているようなので
少しでも休むように。
そうしないと、
持ちこたえることができないと
言いました。
オデットは
大丈夫だと答えましたが、
トリエ伯爵夫人は、
とても、そのように見えないと
反論しました。
しばらく考え込んでいたオデットは
良かったら、自分の代わりに
ティラを連れて行ってもらえないかと
慎重に頼みました。
トリエ伯爵夫人は、
ようやく姉の背後に隠れている
薄汚い少女に目を向けました。
気後れした顔で、顔色を窺っていた
オデットの腹違いの妹は、
消え入りそうな声で挨拶をしながら
うつむきました。
滅茶苦茶な格好でしたが、
少なくとも
無作法な子供ではなさそうでした。
オデットは、
大きなショックを受けた状態なので、
ティラをここに置いておくのは
難しそうだ。
しかし、家にも、
この子の面倒を見てくれる人が・・・
と言うと、トリエ伯爵夫人は、
この子は自分が連れて行くと
急いで承諾しました。
オデットは、
せいぜい四、五歳くらいしか違わない
腹違いの妹を、
まるで自分の子供のように
思っていました。
その姿から窺える
オデットの過去の人生が、
気難しい老婦人の心を弱くしました。
トリエ伯爵夫人は、
その代わり、今夜は、
あなたも自分の家に来て休むように。
愚かな意地を張ることは考えるな。
こんな時は勝てないふりをして
世話になるのが真の淑女だと
言い聞かせました。
オデットは
「はい、そうします」と答えると
青白い顔で微笑んで頷きました。
そして、躊躇っていたオデットは
丁寧にお礼を言いました。
じっとその姿を眺めていた
トリエ伯爵夫人のしわだらけの唇に
笑みが浮かびました。
捨てられた皇女の娘は、
自分の母親よりも、
はるかに皇女らしいという事実に
限りなく悲しくなりました。
のどかな春の日の午後。
オデットはベンチに座り、
病院の裏庭の花壇を眺めました。
そよ風に揺れる色とりどりの花びらが、
まるで美しいドレスを着て踊る
淑女たちのようでした。
すべてが金色に染まった時間。
しかし、この美しい春の祭典から
オデットは疎外されていました。
この世は、
取るに足りない人間なんかに
何の関心もないことを、
オデットはよく知っていました。
ただ時間が流れ、
変わり行く季節に沿って花が咲き
また散り、 時には晴れて、
時には雨が降るだけ。
その無情で堅固な秩序のどこにも、
個人の喜びと悲しみが
割り込む余地はありませんでした。
ただそれだけのこと。
もし今日雨が降ったとしても、
オデットの気持ちは今と変わらず、
同じように惨めで
憂鬱であっただろうということは
あまりにも、よく知っていました。
しかし、それでも、どうしようもなく
心が弱くなってしまう瞬間が
ありました。
今が、まさにそのような時で、
今日だけは、どれだけ惨めになっても
良さそうでした。
オデットは、
道に迷った子供のような顔で、
過度に美しく、心が痛む風景を
眺めました。
アップした髪が
半分ほど解けていましたが、
どうでも良いと思いました。
しわくちゃになった服と
埃のついた靴も、これ以上、
気にしたくありませんでした。
病的に品位に執着していた母も、
どうしても今のオデットを
責めることはできないだろうと
思いました。
ティラはトリエ伯爵夫人の家に行き
暴れた父親は、
強制的に鎮静剤を投与されて
眠っていました。
おかげで平穏が訪れていたけれど、
これは、一時の休息に過ぎず、
もうすぐ激しい波が
オデットを飲み込むところでした。
彼女は、水の泡になって
消えたくなった頃、
遊歩道の向こうから
規則的な足音が聞こえ始めました。
そして、だんだん近づいて来た
その足音は、オデットが座っている
ベンチの端で止まりました。
頭を下げていたオデットの目に
最初、長い影が映り、そして、
眩しいほど白い靴に反射した光が
両目を刺して来ました。
見知らぬ感覚ではありませんでした。
オデットは不吉な予感がして、
視線を上げました。
靴と同じ色のズボンに包まれた
長い足を遡ると、
真っ白なジャケットが
視界に入って来ました。
続いて金色のベルト。
煌びやかな勲章と徽章。
軍人の名誉を象徴する、
その装飾品に気づいたのと同時に、
オデットの視線が目的地に届きました。
彼は、呆然としているオデットを
見下ろしながら、
ゆっくりと帽子を脱ぎました。
明るい日差しの下で見た彼の目は、
オデットが記憶していたよりも、
はるかに澄んで鮮明な青色を
帯びていました。
事故の知らせを聞いた。
公爵のことは残念だと言う、
バスティアンの最初の言葉が、
到底信じられない状況に
現実感を与えました。
オデットは、
フラフラする体を起こして
彼と向かい合いました。
まず、黙礼すると、
バスティアンも頭を下げました。
彼は、
しばらく時間が欲しい。
折り入って話したいことがあると
すぐさま本題を切り出しました。
頼みというよりは
命令に近い言葉でした。
それでも父親が元気であれば、
彼を置いて、
どこかへ逃げることもできた。
しかし、どんなに酷い父親でも
身動きができない父親を
放っておくことはできない。
頑張っても、どうにもならない
悲惨な未来に、
オデットが打ちひしがれている様子に
胸が痛みました。
けれども、警察に行くと言ったティラを
止めたのは理解できません。
ティラは未成年だし、
正当防衛が認められれば、
大した罪に問われないかも
しれません。
一生、父親を怪我させてしまった罪を
隠しておくくらいなら、
いさぎよく罰を受けさせた方が
ティラのためになると思うし、
家族への愛情のために、オデットが
罪をかぶろうとするなんて
言語道断です。