![]()
109話 離れから戻って来たレイラをビルおじさんが待っていました。
夜が明けても、
小屋は静まりかえっていました。
レイラは、
もう涙も乾ききった顔で
日が差している古い食卓を
見下ろしました。
焦点が定まらない目を
ゆっくり閉じて開く度に、
昨夜の記憶が一つずつ、
断片的なシーンとして、
浮び上がって来ました。
泣き叫ぶビルおじさん。
その騒ぎに驚いて飛び立った
鳥たちの羽ばたく音。
公爵の命を奪うと言って
駆け出したおじさんの背中を
抱き締めて懇願し、流した涙。
その全てが、
まるで別世界のことのように
感じられました。
そんなはずはない。何かが、
とても間違っているに違いない。
そうでなければ、お前が
こんなことをするわけがないと
やっとの思いで開いたビルの口から、
しわがれた声が漏れました。
郵便馬車に乗って来た小さな子供を、
一生をかけて育てて来た
どんな花よりきれいに育った少女を、
その善良で真っ直ぐな
レイラのことを考えると、
胸が張り裂けそうなくらい
痛くなりました。
この子が公爵の愛人として
生きていく姿を見るくらいなら、
むしろ死んだ方がマシだ。
いや。あいつの命を奪わなければ。
ビルは、
公爵がお前に何をしたのか言ってみろ。
嘘をつこうなんて考えるな。
お前は、たとえ死んでも、
自ら進んで、そんなことをする子では
ないということを、
自分が知らないとでも思っているのかと
言いました。
深い絶望と恐怖に囚われたレイラは
禁断の愛に目が眩んだ女というよりも
窮地に追い込まれた獲物に
近い様子でした。
ビルは、
お前の弱みを握って脅迫でもしたのか。
一体公爵は、どんな口実でお前を・・・
と問い詰めていたところで、
自分の頭の中をよぎった不吉な予感に
言葉を失いました。
レイラが変わったのは昨年の冬、
彼が起こした事故の後からでした。
公爵が、
ただの使用人に過ぎない庭師に
過分な好意を示し始めたのも、
その頃からだったということを
ビルは、ふと思い出しました。
「まさか・・・」
ビルの顔から
血の気が引いて行きました。
なずすべもなく
刑務所に行くことになりそうな彼を
救ったことが、
単に公爵が施してくれた
大きな善処でなかったら?
そんなことをしても、
この家の庭師として
暮らしていけるようになったのも、
楽な仕事を与えようとするのも、
レイラの後援者に
なってくれるというのも、
もしかしたら全部・・・
レイラは真顔で首を横に振って、
「いいえ、違う!
絶対にそんなことない!」と
叫びました。
そして、息を切らしながら
立ち上がったレイラは、
彼の前に駆け寄り、跪きました。
レイラは、
自分が全て悪かった。
自分が自分の欲で悪いことをした。
自分が間違っていたと、
ひたすらビルに謝りました。
この子は嘘をついている。
考えてみる間もなく、
心が気づいた真実が
ビルを崩壊させました。
その全てが、高潔な貴族の善処だと
ひたすら思っていた自分が
あまりにも情けなく、
舌を噛んでしまいたくなりました。
ビルは、
この馬鹿な自分が、お前を売って
釈放されただけでは足りず、
あの破廉恥な奴を
恩人だと思っていたと嘆きました。
レイラは
絶対に違うと何度も否定しました。
しかし怒りに満ちたビルは、
放っておかない。
この手であいつの命を奪ってやると
大声で叫びながら立ち上がりましたが
ビルはすぐに
行き詰まってしまいました。
このことが大っぴらになれば、
レイラの評判が、
地に落ちることになる。
世間が、
ヘルハルト公爵とレイラのどちらに
より厳しく残忍であるかは
火を見るよりも明らかでした。
跪いてビルに近づいたレイラは、
どうかやめて欲しい、
再び、おじさんが、
監獄のような所に閉じ込められたら
自分は生きていけないと言うと
哀願するように彼の手を握りました。
そして、レイラは、
自分が全部終わらせる。
あの男が結婚する前に
二度と会わないように、
とても遠くへ行こうとしていた。
必ずそうすると言いました。
公爵家の後援を受けない。
ここを離れて、
一緒に遠い都市へ行こうと言った
レイラの言葉を、ビルは今になって
ようやく理解できました。
この子が助けてくれと
差し出した手だったのに、
それを全く知らずに、
公爵の善処だの何だのと、
気楽にほざいていました。
「レイラ、この可哀そうな子!」
と叫ぶと、ビルは泣き崩れ,
その場に座り込みました。

何の気配もなく近づいて来たヘッセンは
出発の支度が全て終わったと
静かに告げました。
マティアスは頷いて立ち上がると、
服のブラシを持った随行人が
近づいて来ました。
彼が身だしなみを整えている間に、
マティアスは窓の向こう広がる
庭園を見下ろしました。
もうすぐバラが咲く季節でした。
君は、花が咲くように、
この世に來た子だったんだ。
つまらない考えが、
微かな笑みとなって、
口の端に浮かびました。
遠くから、少しでも
会えるかと思っていましたが
レイラはまだ
帰宅していないようでした。
マティアスは、寝室を出る前に
鳥かごの前にゆっくりと近づきました。
カナリアは止まり木の上に座り
首を横に振っていました。
指先で軽く柵を叩くと、
鳥は澄んだ泣き声で応えました。
居心地のよい鳥かごの中で、
彼の鳥は今日も幸せでした。
その短い挨拶を最後に
マティアスは背を向けました。
欲しいプレゼントが決まったかどうか
聞いてみればよかったと思う頃、
彼は車が待機している
邸宅の玄関に到着しました。
「あれ?レマーさん?」
マティアスの後を追っていた
随行人の視線が
土のついたシャベルを握りしめて
立っている庭師に向かいました。
ちょうど車に乗り込もうとしていた
マティアスも、
そちらへ顔を向けました。
執事のヘッセンまでビルに
どうしたのかと尋ねてみましたが、
ビル・レマーは微動だにせず
公爵を見つめました。
態度が多少粗野ではあるけれど、
このように無礼ではなかった彼を
よく知っている使用人たちは
当惑した目で、
互に顔色を窺いました。
「おい、ビル」と声を掛けられると
ビルは乾いた唾を飲み込み、
何でもないと、
落ち着いて返事をしました。
シャベルの柄を握り直す指の関節が
白く固まっていました。
静かに去りたいと、
跪いて懇願していたレイラを思い出すと
彼は辛うじて、一歩後ろへ
下がることができました。
歯を食いしばったビル・レマーは、
命を奪いたい男に向かって、
忠実な使用人のように頭を下げました。
マティアスは、
今までビルが見てきた
完璧な貴族、皆から称賛される
そのヘルハルト公爵の姿で。
黙礼で答え、
すぐに車に乗り込みました。
公爵一行が去った後、
深刻な表情をしたヘッセンが
ビルに近づき、
こんな行動は君らしくない。
一体どういうことなのかと
尋ねました。
ビルは、すぐにでも
シャベルを振り回したい衝動を
抑えるために、もう一度、
息を整えなければなりませんでした。
公爵の手となり足となっている執事が
そのことを、知らなかったはずが
ありませんでした。
知っていながらも公爵の仲間になり、
主人のためにという、
もっともらしい口実で、
あの可哀想なレイラを
あいつの餌食にしたのだと
ビルは思いました。
ビルは、
何でもないと答えると、
持てる限りの忍耐心を動員して
怒りを静めました。
すべてが無意味になりました。
数十年見て来て、
家族のようだった彼らも、
若さを捧げて育てて来たアルビスの庭園も
もう全てうんざりでした。
ビルは、
「行ってらっしゃい」と
挨拶でもしようと思っただけ。
他に何があるのかと、
いつものように無愛想に答えると
急いで庭に戻りました。
郵便馬車に乗って来た
小さな子供に会った
その花壇の前で立ち止まると、
絶望が入り混じった怒りが、
熱い塊のように
沸き上がって来ました。
必死に握りしめていたシャベルを
放り投げたビルは、
そのまま庭を出ました。
普段の彼らしくない衝動的な姿に驚いた
作業員たちの目が大きくなりましたが、
あえて誰も、その理由を
問い詰めることはしませんでした。
小屋の前庭に入ると、
ちょうど良かったと言って、
郵便配達員が
明るい笑顔で近づいて来ました。
ビルは少し震え始めた手で
彼から電報を受け取りました。
数日前、彼が送った電報への
返信でした。
郵便配達員が立ち去ると
ビルは急いで
その電報を確認しました。
安堵感が一瞬よぎった瞳には、
今や、より決然とした意志が
込められていました。
ビルの胸の中から
すべての雑念が消えさり、
レイラを守るという
その一つの誓いだけが
鮮明に残っていました。
そのためなら、全てを捨てても
惜しくありませんでした。
ビル・レマーの人生に、
あの子より、もっと貴重なものは
ありませんでした。

モニカは心配そうな目で
お姫様先生を見上げながら、
先生は具合が悪いのかと尋ねました。
返事をしないレイラの前で、
子供はいつの間にか
泣き顔になりました。
依然として、ぼんやりとした顔で
何もない机だけを
見つめていたレイラは、
モニカに腕を振られてから、
ようやく、そちらを見ました。
レイラはモニカに謝ると、
真っ赤になった目をこすり、
急いで机の上に置いていた眼鏡をかけ
どうして、
まだ家に帰らなかったのと尋ねて
にっこり微笑みました。
モニカが知っている、
きれいな、お姫様先生になりました。
モニカは、
先生が具合が悪そうだからと答えると
モニカの大きな目に
再び涙が溢れました。そして、
先生、死なないでと訴えました。
モニカが泣き出したおかげで、
物思いに耽っていたレイラは
現実に戻りました。
モニカは、
自分の母親もそうだった。
先生のように
具合が悪そうにしていたら
天国へ行ってしまったと言いました。
レイラは、
自分は病気ではない。
本当に大丈夫だと言うと、
急いで机の前から立ち上がり、
泣いている子供を胸に抱きました。
子供の目にも、はっきり分かるほど
感情を落ち着かせられなかったなんて
本当に馬鹿みたいだと思いました。
思う存分泣いたモニカは、
「これをあげます」と言って
手に持っていた草花を
レイラに渡しました。
すでに、しおれていましたが
鮮やかな黄色が愛らしい
小さな花でした。
レイラはモニカにお礼を言いました。
モニカは、
もう具合が悪くならないようにと
頼みました。
レイラは「うん」と答えました。
モニカは
「本当に?」と聞き返しました。
レイラは、
「もちろん、本当に」と答えて
力いっぱい頷くと、
モニカは笑いました。
レイラはハンカチを取り出して
子供の濡れた顔を拭いてやり、
はみ出ている髪の毛も
きちんと整えてやりました。
子供が去ると、遅い午後の教室は
再び静けさに包まれました。
しばらくしてレイラは、
カバンを持って立ち上がりました。
数日間、沈黙を守っていた
ビルおじさんは、今朝、
「行こう、レイラ」と告げました。
出勤しようとするレイラの前に
近づいた彼は、
自分は一日たりとも、お前を
あの男の手に渡すことはできない。
公爵が二度と
お前を見つけられないように、
この世の果てまででも
一緒に逃げようと、悲壮な顔で、
力を込めて話しました。
ビルおじさんの瞳の中で、
まるで冷たい炎が
燃えているようでした。
レイラは途方にくれましたが、
躊躇うことなく頷きました。
どうせ、すぐに出発する決心を
していたからでした。
このようなやり方で、
恥ずべき部分を見つけられて、
ビルおじさんを
傷つけたくはなかったけれど
元通りにできるものは
何もありませんでした。
レイラが望むのは、もうただ一つ、
あの男から離れることだけ。
彼のいない所なら、
この世のどこでも良く、
あの男を、人生から完全に消し去り
再び、ビルおじさんと
何事もなかったかのように
平凡な人生を送ることができたらと
思いました。
赤くなった目を強くこすったレイラは
急いで自転車にまたがりました。
市街地を離れて
アルビスに続く道に入ると、
ガタガタ揺れる郵便馬車に乗って
ビルおじさんを訪ねた午後のことを
思い出しました。
古い荷物カバンを胸に抱いたまま、
笑う練習をしながら、レイラは、
どうか、ビルおじさんが
自分を気に入ってくれるように。
そうすれば自分は、
本当に良い子になる。
必ずそうすると切実に祈りました。
その誓いを守るために
一生懸命努力したけれど、
結局、こうなってしまった。
拭い切れない罪を犯した
恥ずかしい子供になって、
ビルおじさんの心を
引き裂いてしまいました。
ここに来なければよかった。
住所一つを頼りに
国境を越えてくる代わりに、
孤児院へ行くべきだった。
そうすれば公爵にも
会わなかっただろうし、
少なくとも、このような苦痛は
経験しなかっただろうし、
カイルもビルおじさんも
今のように、
不幸にならなかったはず。
しかし、時間を戻せたとしても
最後の希望を
手放せないということを
レイラはよく知っていました。
そんな自分がとても恐ろしくなる頃
一台の車が角を曲がって来ました。
公爵の車でした。
![]()
![]()
レイラは、自分が来なければ
ビルおじさんとカイルが
不幸にならなかったと
後悔しているけれど、
ビルおじさんは、レイラのためなら
全てを捨ててもいいほど、
レイラのことを愛しています。
もしもレイラが来なければ、
ビルおじさんは、それまでのように
花だけを愛して、淡々と仕事をこなし、
時々、使用人同士で酒を酌み交わすなど
平凡な日常を
過ごして来たでしょう。
レイラが来たことで、
ビルおじさんは、
気苦労が増えたと思いますが、
花以外に
愛するものができたということは
ビルおじさんにとって
大きな祝福であり、
喜びだったと思います。
だから、ビルおじさんは、
レイラが来なければ良かったなんて
絶対に思っていないと思います。
![]()