![]()
110話 学校からの帰り道、レイラはマティアスの車に出くわしました。
しばらく止まれという
指示を受けた運転手は、
プラタナスの道端に車を止めました。
かなり濃い緑色に染まって来た木の葉が
夕方の風に揺れていました。
マティアスは、その影がちらつく道を
木陰の下に立っている
彼のレイラに向かって、
ゆっくりと歩きました。
向かい合った二人は、
黙って見つめ合っていましたが
腕時計を確認したマティアスは
「考えてみた?」と
先に口を開きました。
昼食会に出席したため
出発が遅れました。
明日の皇后の誕生日パーティーに
出席するためには、夕方の列車に
乗り遅れてはなりませんでした。
「欲しいプレゼント」と
彼が付け加えると、レイラは
「ああ」と、
小さくため息をつきました。
自転車のハンドルをしっかり握って
立っている女は、今日に限って、
より幼く小さく見えました。
彼をじっと見つめながら、
レイラは再び沈黙に包まれました。
マティアスは、
レイラがじっと考えに浸っている
その時間が好きでした。
心の中にたくさん浮かんだ考えが
言葉になり、穏やかで低い声に乗って
流れる瞬間が、さらに好きでした。
レイラの考え方と話し方。
長い睫毛が落とす美しい影。
爽やかな両頬と笑みを浮かべた唇が
好きでした。
時々、彼の神経に障る
猛々しい態度や、
顔色を窺いながらも、
きちんと言いたいことを
言い続けていく時の
煌めく目つきも好きでした。
これ以上、恐怖に震えることなく
ほんのり赤く染まった顔と甘い寝息。
まるで彼が、
この世の全てであるかのように
すがりついてくる、
小さくて柔らかい体も、もちろん
彼に大きな喜びを与えました。
「思い出しました」と
ほどなくして口を開いたレイラは
にっこり笑いました。
どこか具合が悪いかのように、
青ざめていた顔に、
ようやく生気が戻って来ました。
レイラは、
言ってもいいかと尋ねました。
マティアスは
「言って」と促しました。
レイラは、
「言ったら、くれますよね?」と
誕生日プレゼントをねだった日のように
ツンと澄まして尋ねました。
ふと、鋭い公爵の目つきが
和らぐのが見えました。
公爵は「うん」と頷きながら
笑いました。
一瞬浮かんだ笑みは、
すぐに姿を消しましたが、
依然として、その余韻は残り
冷たい刃が立っている彼の雰囲気を
和らげました。
レイラは穏やかな顔で
マティアスを見ました。
この男の人生は、
愛人を失っただけで崩れる程、
脆弱でないことを
よく知っていました。
一瞬、怒りと喪失感程度は
覚えるかもしれないけれど、
クロディーヌの夫になって、幸せに、
うまく生きていくだろうと
思いました。
それでも、どうか自分が
この男を傷つけられるようにと
切実な思いで神に祈りながら、
レイラはゆっくり唇を開くと、
愛して欲しい。
自分を愛してくれたら嬉しいと
告げました。
眩しいほど明るく微笑みながら
レイラは、
この瞬間がまるで愛のように、
彼の胸の奥深くに刺さった棘として
残ることを。
何気なく生きていても
永遠に癒えないその傷に、
心が沈む日が来るようにと祈りました。
そうすれば、彼も、一度くらいは
自分のことを考えで
泣くことになるだろうかと考えました。
夕方の金色の日差しが、
感情を読むのが難しい表情をしている
公爵の顔を照らしました。
ただそれだけなのに
レイラの目頭が赤くなりました。
その事実を否定するかのように
レイラはもっと明るく笑おうと
努めました。
この男が
躊躇うことなく壊した自分の人生と
カイルの涙、
ビルおじさんの絶叫を思い出すと、
いくらでもそうすることができました。
「とてもたくさん。 いつまでも」と、
レイラは甘い声で静かに囁きました。
そして、心の中では、
最後の別れの挨拶のように。
さようなら、永遠にさようならと
告げました。

開いた後部座席の車のドアの前に
立っているマーク・エバースは、
困惑しながら時間を確認しました。
後方で待機している
他の侍従たちの表情も
変わりませんでした。
列車の出発時間が
目前に迫っているにもかかわらず、
公爵は動く気配を見せませんでした。
濃くなった夕日の光が、
物思いに耽っている公爵の
横顔の輪郭を浮き上がらせました。
これ以上、遅くなることはできないと
判断したマーク・エバースは
「ご主人様」と丁重に促しました。
マティアスは、
ようやく彼を見ました。
いつもと変わらず、
落ち着いた目つきでしたが、
どこか微妙に違っていました。
とても大切なものを
失くしてしまったけれど、
それが何なのか、
分からない人の顔のようでした。
マーク・エバースは
出発時間が迫っている。
もう行かなければならないと
告げました。
顎の先を触っていた手を下ろした公爵は
「はい」と低く答えました。

彼はいつものように、控えめな動きで
車から降りました。
マティアスが先頭に立ち、
侍従たちが後に続きました。
駅舎は混雑していましたが、
ヘルハルト公爵の進路を阻む
通行人はいませんでした。
おかげで一行は、遅れることなく
ラッツ行きの列車が停まっている
プラットフォームの前に
到着することができました。
マティアスは、
慌てて退いて道を空ける人混みの中を
通り抜けて、列車に乗り込みました。
ほぼ最後の乗客である
彼らを乗せた列車は、
まもなく動き始めました。
マティアスは目を細めて、
列車の窓の外を流れる風景を
見つめました。
首都を行き来することは、
ごく平凡な日常の一部に過ぎず、
しかも、
たった一週間の短い訪問でした。
たかが、それだけのこと。
このように、焦ったり
不安になってはいけませんでした。
窓から目を逸らすと、
マティアスは、座席の奥深くに
背中をもたせかけたまま
目を閉じました。
すると、清々しく輝いていた
緑色の目が浮かんで来ました。
今の時期の若葉に似た色でした。
愛だなんて。
全く予想できなかった望みでした。
こんな変な気分を振り払うのが
難しいのも、
何の返事もできなかったことも、
おそらく、そのせいだと思いました。
マティアスは、
黙ってレイラを見ていました。
意図的に沈黙したのではなく、
彼女の口から出て来るとは思えなかった
愛と言う異質な単語が、彼の言葉を
遮ってしまっただけでした。
この世にたった二人だけが
存在しているかのような
甘い沈黙の時間は、
まもなく幕を閉じました。
近寄って、
催促できなかった随行人は、
遠くから数回、咳払いをすることで
合図を送り、マティアスは、
ようやく、それに気づきました。
彼女に背を向ける前に、マティアスは
その美しい緑の目を見つめながら、
虚しい笑みを浮かべました。
その言葉も、嘘かもしれないけれど
そんなことは、
あまり重要ではありませんでした。
足元がガラガラと
崩れ落ちるような気分でしたが、
墜落するようではなく、
翼のようでした。
あの女が、彼の人生を
根こそぎ崩している、あの小さな女が、
まるで自分の救いのように見えました。
再び目を開けた時、窓の外の空は、
澄んだ暗闇に染まっていました。
今では、その空の上に
レイラが浮かんでいました。
短い笑いだけを残して去る彼を
レイラは引き止めませんでした。
その場に立ち止まって、彼の後ろ姿を
見つめているだけでした。
車が出発した後もずっと。
だんだん小さくなっていった女性は、
ある瞬間から、
もう見えなくなりました。
しかし、マティアスは、
その後も何度も振り返りました。
その度に、喉が蠢きました。
胸の奥深くから始まった異物感は、
レイラから離れるほど、少しずつ
大きくなって行きました
線路の向こうに遠ざかっていく
風景に向かって、
マティアスは、再び振り返りました。
そこに置いて来たレイラが
いるかのように。

ラッツに到着した後も、
そのような瞬間が続きました。
マティアスは、
ヘルハルト公爵の人生に
忠実でありながらも、
壮麗な皇宮の宴会場で、
車に乗って、ラッツ都心にある
自然史博物館の前を通りながら、
ふと後ろを振り返りました。
金髪の小柄な女とすれ違う時も、
そうでした。
その度に、記憶の中に残っている
レイラの最後の顔が、少しずつ
さらに鮮明になっていきました。
その笑顔が明る過ぎたという事実が
マティアスを苛立たせました。
太陽の光のように輝いていて、
闇の中に消えてしまいそうでした。
情けない考えでした。
椅子から立ち上がったマティアスは、
習慣のように窓の前に近づき、
カーテンを開けました。
目の前に広がる風景に向き合うと、
ここがアルビスではないということを
改めて悟りました。
まもなく、
レイラが生きていくことになる都市を
マティアスは静かに見下ろしました。
あの女が、
あなたは全てのことが
本当に簡単な人だからと、
言ったのだろうか。
マティアスは喜んで、
その意見に同意しました。
彼の世の中はそうでした。
欲しければ手に入れる。
志せば成し遂げる。
誰の顔色も窺う必要は
ありませんでした。
彼は、それで構いませんでした。
そのように単純で明瞭だった世の中に
複雑な感情の算法が登場したのは
おそらく、あの夏。
日差しが眩しかった午後、
プラタナスの道を走っていた
古い自転車が倒れた時でした。
あの日のことを思い出すと、
空中で空回りしていた
自転車の車輪の音が
耳元に聞こえてくるようでした。
生い茂った木の葉を揺らしながら
通り過ぎる風の音と、
その間に染み込んだ
自分の心臓の鼓動も。
すべてが本当に簡単でした。
彼女一人を除けば、
この世の全てがそうでした。
マティアスは、
長いため息をつきながら
窓枠に背中をもたせかけました。
今日ブラント一家が、ラッツの邸宅を
訪れることになっていました。
大詰めを迎える結婚式の準備について
話し合うためでした。
彼はもうすぐ結婚する。
それはレイラとは
関係のないことでした。
そうあるべきでした。
だから、彼の道に向かって、
振り返ることなく、
歩かなければなりませんでした。
当然そうしなければならない、
その人生の中へ。
しかし、
そんな人生が存在し得るのだろうか?
鋭い閃光のような疑問が訪れた瞬間
ノックの音が聞こえて来ました。
予定より早いブラント伯爵一家の訪問を
知らせに来たメイドでした。

新たに仕立てた、
春のドレスを着たクロディーヌは、
咲いたばかりの花のように
清々しく華やかでした。
その姿を見つめる
公爵家の二人の奥様の目からは、
あえて隠す気のない満足感が
滲み出ていました。
昨夜、皇宮で行われたパーティーでも
クロディーヌは、
最も注目される女性でした。
次期ヘルハルト公爵夫人に対する
社交界の期待感は非常に高かかったし
クロディーヌは、
その高い期待を満たせるくらい
貴婦人の風貌を備えていました。
プライドが高い皇后でさえ、
自分の娘に勝って
公爵夫人の座を手に入れた
ブラント家の令嬢を
喜んで認めてくれました。
あとは、
長年、両家が力を入れて来た
この結婚の完成と、
そして、次の代にも間違いなく続く
ヘルハルトの栄光だけでした。
応接室に入るマティアスを発見した
クロディーヌは、
「ヘルハルト公!
いらっしゃったんですね!」と言うと
嬉しそうに笑いました。
マティアスは、
礼儀正しく彼らに近づきました。
極めて
ヘルハルト公爵らしい姿でしたが、
クロディーヌは妙な違和感を覚えて
息を殺しました。
昨夜もそうでした。
非の打ち所一つない婚約者の姿で
クロディーヌのそばに留まりましたが
マティアスの目は一瞬たりとも
彼女を映しませんでした。
目を合わせている瞬間もそうでした。
社交的な挨拶が終わる頃、
マティアスは、
しばらく庭を散歩しないかと
突然、提案しました。
今までなかったことに、
クロディーヌはもちろん、
見守っていた全ての人々は
目を見開きました。
クロディーヌは戸惑いながら
公爵と自分と、二人きりで
散歩をするのかと尋ねました。
マティアスは、
話したいことがあると答えました。
クロディーヌは、婚約者が初めて、
自分をまともに見ていることを
感じることができました。
しかし、少しも
嬉しくありませんでした。
クロディーヌは、
聞いてはいけないことだと
直感的に気づきました。
少なくとも、この夏が終わるまで、
この男は、あえて、その言葉を
持ち出すべきではありませんでした。
クロディーヌが、
拒絶の言葉を口にしようとした瞬間、
随行人が
「ご主人様!」と呼びながら
息を切らして姿を現しました。
客が来ているのに何て軽率なのかと、
眉を顰めたエリーゼが
小言を言いましたが、
随行人は退きませんでした。
途方に暮れた顔で、慌てふためきながら
顔色を窺うことに、
あくせくしている様子でした。
尋常ではない雰囲気を察知した
マティアスは、
どうしたのかと尋ねました。
今や皆の耳と目が
随行人に集中していました。
乾いた唾をごくりと飲み込んだ彼は
先ほどアルビスから
緊急の連絡が入ったと答えました。
![]()
![]()
109話の最後で、レイラは、
最後の希望を手放せないことを
よく知っていると書かれていましたが
その希望とは、まさにレイラが
誕生日のプレゼントとして
マティアスに要求したもの、
彼が自分のことを
愛してくれることなのではないかと
思いました。
レイラはマティアスの愛を
切に求めていたので
「言ったらくれますよね?」とまで
聞いてしまった。
けれども、結局マティアスは
返事をくれなかった。
マティアスは、ただ、
答えられなかっただけでしたが
レイラは、それを
マティアスの拒絶だと思い、
最後の望みを絶たれた彼女は
やはり彼の元を離れるしかないと
改めて決意をしたのではないかと
思います。
マティアスの乗った車を
いつまでも見つめていたのは、
彼の最後の姿を、目に焼き付けて
おきたかったからではないかと。
そして、そんなレイラを見て、
心を大きく動かされ、
レイラがいないのに、
彼女の姿を探してしまうなんて、
マティアスは、完全に
恋に狂った男になったと思います。
![]()