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111話 アルビスからの知らせとは何なのでしょうか?
マティアスは、
「連絡?何?」と尋ねました。
マーク・エバースが躊躇っていると
マティアスは眉間にしわを寄せながら
話すよう催促しました。
マーク・エバースは、
何度も唇を動かした後、震える声で
どもりながら、
庭師のビル・レマーさんと、その養女が
いなくなったという知らせだと
ようやく口を開きました。
クロディーヌは、
思わず両手を取り合いました。
続けて、マーク・エバースは
夜中に逃げるように
アルビスを去ったらしいと、
報告しました。
マーク・エバースの言葉が終わるや否や
老婦人は、
ビル・レマーが逃げるなんて、
何てことかと、ため息をつきました。
青天の霹靂のような知らせに
当惑したのは、
エリーゼとブラント伯爵夫妻も
同じでした。
クロディーヌは気を引き締めながら、
何とまあ、レイラが逃げただなんて
あの子が一体なぜと言うと、
とても驚いた表情で
マティアスを見ました。
手紙が、きちんと届いたようだ。
クロディーヌは、声を出して
高らかに笑いたい気持ちを
抑えるために、
これまで学んで来た淑女の身だしなみを
総動員しなければなりませんでした。
クロディーヌは、
このようなことが起こったので、
話し合いは、次回に
持ち越さなければなりませんねと
思いやりのある婚約者の顔で
遺憾の意を表しました。
今日だけは、あの卑しい子の
気に入らないプライドを
褒められそうでした。
その話は、永遠に
できなくなったようだけれど
どうしましょうか。公爵閣下。
クロディーヌは、心の中で
マティアスに話しかけながら、
ある程度、心からの憐憫を込めて
マティアスを見つめました。
混乱に陥っている二人の奥様とは違い
マティアスの表情は、
冷たく、もの静かでした。
しかし、クロディーヌは、
この男を取り巻く空気の流れが
変わったことを感じられました。
息を整えたマティアスは
立ち上がりました。
このような瞬間でも、彼は、
真っ直ぐな姿勢を崩しませんでした。
マティアスは、
申し訳ないけれど、家のことを
調べなければならないので、
今日の昼食会に参加するのは
難しそうだと謝罪しました。
感情などというものが
全くないのではないかと思うほど
無情な声とは違って、
ジャケットのボタンをかける
彼の指先は微細に震えていました。
それに気づいた瞬間、
クロディーヌは喜んで
レイラを許すことにしました。
自分と同じ痛みを味わった後、
結局、自分の夫になる男。
これくらいなら、
なかなか満足のいく結末でした。

列車は深夜に国境を越えました。
窓の外は濃い闇に包まれていましたが、
幼い頃、一人で列車に乗って故郷を離れ
見知らぬ国へ向かった
まさにその道だったので、
レイラは、外の風景を
思い描くことができました。
あの日の子供のように、
レイラは息を殺して
窓の外を眺めました。
窓ガラスに映った自分の姿が、
記憶の中の、あの子供の顔と重なると、
虚しい笑いが漏れました。
恐怖と期待が入り混じった目を
輝かせながら、国境を越えた子供は、
傷だらけの疲れた女になって
再び国境を越えていました。
少し休めと
そばから聞こえて来た低い声に
レイラは驚き、
そちらへ目を向けました。
眠っていると思っていたビルおじさんが
じっとレイラを見下ろしていました。
ビルおじさんは、
まだまだ先は長い。
まあ、故郷だから、レイラの方が
よく知っているだろうけれどと
言いました。
濃い疲労の色が
滲み出ている顔をしていても、
ビルおじさんは、
優しい笑顔を見せてくれました。
その気持ちが分かるような気がして
レイラも微笑みで答えました。
ガタガタ揺れる列車と、
あちこちから聞こえて来るいびきが
今は有難いと思いました。
その騒音がなかったら、この深い沈黙に
耐えられなかっただろうと思いました。
レイラは、
ビルおじさんがくれた毛布で体を包み、
目を閉じました。
ロビタに行こうという話を
初めて聞いた時、レイラは、
本気だとは思いませんでした。
しかし、ビルおじさんは、
稲妻のように、
立ち去る準備を終えました。
皆の目を避けて逃げる状況だったため
まともな準備というものは
ありませんでした。
これまで貯めておいたお金と
トランクに詰め込めるだけの荷物を
用意したのが全てでした。
ロビタの南端にある海辺の都市に
ビルおじさんの遠い親戚が
住んでいると聞きました。
親戚とはいっても名ばかりで、
辛うじて連絡がつく程度の縁だと
話していましたが、幸いにも彼は、
彼らの定住を助けるという意思を
明らかにしてくれました。
結局、眠るのを諦めたレイラは
目を開けて、
ビルおじさんを見つめながら、彼に謝り
自分がおじさんを
訪ねさえしなければ・・と言いましたが
ビルおじさんは、レイラの言葉を遮り
いくらお前でも、
そんなことを言うのは許さないと言って
恐ろしい表情で目を剥きました。
ビルおじさんは。
お前より大切なものは、
自分の人生にない。
お前が自分を訪ねて来てくれた日、
自分の本当の人生が始まった。
本当にそうだったんだと言うと
レイラの頭を撫でながら笑いました。
それは彼の最も率直な本心でした。
レイラがいなかった時代、
彼の人生は味気なく平穏でした。
この子を預かって、育てていなければ
依然として、そんな日々が
続いていただろうと思いました。
しかし、ビルは決して
その時代に戻りたくありませんでした。
美しい色に満ちた世の中を味わった後、
再び白黒の人生に戻るようなことを
できるはずがありませんでした。
ビルおじさんは、
自分たちは、
今まで、ずっとそうして来たように
どこにいても、
うまくやっていけるはずだと
言いました。
ガタガタと揺れる三等車の隅の席で
二人は長い間、見つめ合いました。
そして誰が先ということもなく
微笑みました。
赤くなった目頭と鼻の頭は
気づいていないかのように。
初めて食卓で向かい合って見つめ合った
あの夕べのように優しく。
レイラは、
「そう、大丈夫」と、
未練を断ち切る呪文のように
その言葉を呟きました。
その間に、徐々に
夜が明け始めました。
ビルおじさんは深い眠りに落ちて
いびきをかいていました。
自分の毛布をビルおじさんに
掛けてやったレイラは、
再び窓の向こうに目を向けました。
春の花が咲き乱れる野原が
線路に沿いに続いていました。
振り返りたくなかったレイラは
ギュッと目を閉じました。

まさに夜逃げ。
それ以外のどんな言葉でも
庭師とその養女が姿を消した理由を
説明する方法がなさそうでした。
執事室に入って来た
学校へは行ってみたかと
沈んだ声で尋ねました。
彼は沈痛な表情で頷くと、
校長に会ってみたけれど、
ルウェリンさんが、
このように姿を消してしまったことに
当惑しているだけで、
他に知っていることはなさそうに
見えたと答えました。
ヘッセンは、
ビル・レマーが訪ねて行きそうな
人たちを探していたのは
どうなったかと尋ねました。
マーク・エバースは、
レマーさんの兄が二年前に亡くなり、
もう彼の家族は残っていないし、
特に連絡を取り合っている親戚も
いなかったと答えました。
ヘッセンは、
これは困ったことだと嘆くと、
深いため息をつきながら
額を撫でました。
公爵は、庭師の逃亡の知らせが
伝えられた夜に、
アルビスに帰還しました。
「探しなさい」と
落ち着いて口にしたその一言が
どれだけひやっとしたことか。
背筋がぞっとするほどでした。
むしろ、急き立てたり、
怒りを爆発させてくれる方が
まだ気が楽かもしれないのに
公爵は、その一言の命令以外、
このことに関するどんな言葉も
口にしませんでした。
慌てて帰ってきた初日を除けば、
何の動揺もなく
平穏な日々を送っっていました。
ありふれた情事で片付けるには、
特別な何かがあるのではないかと
思っていたヘッセンを困惑させるほど
無心で冷徹な態度でした。
あの日以来、何も言わないのを見ると
諦めたのではないか。
そうでなけれは、ここまで・・・と
マーク・エバースが
慎重に推測をした瞬間、
執事室で、三階の公爵の部屋からの
呼び出しベルが鳴りました。

マティアスは
いつもの一日を過ごしました。
朝早く起きて新聞を読んで
簡単な朝食を取りました。
不安な情勢を懸念する
理事たちの報告を受け、
午後には会議に出席しました。
悪化の一途をたどる国家間の紛争を
懸念するグループと、
その意見に反論するグループとが
激しく対立しました。
マティアスは、退屈な劇を見るように
会議を見守りました。
両者の主張は、
それぞれ一理ありましたが、
正直、マティアスは、
どうでもいいという気がしました。
そんな無責任な態度に、
自分が情けなくて、マティアスは
クスクス笑いました。
慌てた理事たちが、
チラチラと顔色を窺っているのが
感じられましたが、笑いが、
なかなか止まりませんでした。
彼がいつもの顔を取り戻した時、
会議室は、
冷たい水をかけたような静寂に
包まれていました。
マティアスは謝罪すると、
首をまっすぐにしました。
口元には、再び社交的な笑みが
漂っていました。
その後は、
再び元の状態に戻りました。
マティアスは、
双方の主張を巧みに調整しました。
どうせ実務は、
専門家たちの役割でした。
当初は家門の事業でしたが、
その規模が膨大になると、
経営方式も、体系的に
細分化されていました。
マティアスの役割は、
総合的に決定することでした。
それに相応しい教育を受け、
無理なく進めていました。
会議が終わった後は、
招待された晩餐会に出席しました。
よく知っている顔に囲まれながら、
適度に楽しくて倦怠な時間でした。
マティアスは、
いつものように食事をし、笑い、
会話を巧みにリードしました。
だから今日もまた、
完璧なヘルハルト公爵の日常の
一日に過ぎませんでした。
自分でも驚くほど、静かな日常でした。
沈黙を守っていたヘッセンは
ようやく、申し訳ないと謝りました。
そばに立っている執事の存在を、
マティアスは、
ようやく思い出しました。
跡形もなく消えてしまった。
二人とも縁故がない。
そのため、彼らの行方を探す
手がかりがないという、
少し前に聞いた報告の内容も
一つ二つ頭に浮かび始めました。
しかし、マティアスは、
まるで何も聞いていない人のように
「探してください」と
同じ命令だけを繰り返しました。
言葉に詰まって、
ぼーっとしていたヘッセンは、
咳払いを何度もした後、
すでに、お伝えした通り・・・と
声を絞り出しました。
しかし、マティアスは、
まさか、この世の誰とも
繋がりがないはずはないだろうと
言い返すと、
ゆっくり瞬きしました。
早朝から忙しく動き回った一日を
過ごしたせいか、
濃い疲労感が押し寄せて来ました。
マティアスは、
砂を撒いたような
ざらざらした目を閉じたまま、
必要ならば、
あらゆる手段を使っていいので、
探し出すようにと
ゆっくり命令しました。
頭を後ろに反らすと、
鋭い顎のラインが目立ちました。
平然とした日々を送っている公爵が、
実は少し痩せたのではないかという
気がしましたが、
余計なことは言いませんでした。
ヘッセンは承知すると、
礼を尽くして退きました。
寝室は深い水の中のように
静かになりました。
マティアスは、さらに長い間
椅子に深く身を沈めました。
燕尾服のジャケットも
脱いでいませんでしたが、
不便さなどは感じられませんでした。
突然、飛び込んで来た知らせを
聞いた、あの日、マティアスは
あの女の策略に、
見事に嵌められたことを
悟りました。
何か企みがあることは、
よく分かっていたけれど、
まさかこんな手口だったとは。
あの日のようにマティアスは
声を出して笑いました。
逃げるために愛を囁くなんて。
やはり彼を狂わせた女らしいと
思いました。
長くなりそうな考えを断ち切るように
マティアスは、このくらいで
立ち上がりました。
すぐに見つけるだろう。
ただそれだけのことでした。
ゆっくり服を脱いだマティアスは、
いつもより長くシャワーを浴びた後
寝床に入りました。
そして次の日も、彼の一日は
変わらない秩序の中で始まりました。
決まった時間に目を覚まし、
食事をしました。
彼を乗せた車が
邸宅の出入り口を通り過ぎる頃、
ふと酷い虚無感が
押し寄せて来ました。
平気だというのは嘘でしたが、
だからと言って、
耐えられないほどでも
ありませんでした。
それなのに、
レイラ・ルウェリン一人を失えば、
まるで、全生涯が崩れるように
戦々恐々として、
狂人のように執着してきた自分が
滑稽でした。
あまりにもおかしくて、
クスクス笑いが漏れました。
結局、これだけのことだったのか。
熱く乾いた、ため息のような失笑を
漏らしながら、マティアスは、
シートの奥深くに
背中をもたせかけました。
たった、この程度に過ぎない
女一人に狂って、
取り返しのつかない過ちを
犯さないようにしてくれたのだから
むしろ君に感謝すべきだろうか?
ぼんやりとした頭の中で、
浮かんだり消えたりを繰り返していた
考えが止まると、
マティアスの口元に浮かんでいた
歪んだ笑みも消えました。
今、彼の車は、
生い茂ったプラタナスの葉が
影を落としている道を通っていました。
美しい薄緑色の波を眺めながら、
マティアスは、
再びクスクス笑いました。
この全てが、ただただ滑稽でした。
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マーク・エバースは、
ヘルハルト公爵一家と
ブラント伯爵一家が
結婚の準備のための、
大切な話をしようとしていることを
おそらく知っていたと思いますが、
それにもかかわらず、
使用人一人(レイラも一緒だけれど)が
消えたという報告をするために、
応接室に入って来たのは、
レイラがいなくなったことを
すぐに伝えなければ
まずいのではないかと
切羽詰まった状況だったのでは
ないかと思います。
そして、アルビスから、
そのことをマーク・エバースに
連絡して来たのは、おそらく
ヘッセンではないかと思います。
二人とも、
マティアスのレイラへの執着が
普通ではないことを
知っていたから、
とにかく早く知らせることしか
考えられなかったのではないかと
思います。
レイラを
マティアスの毒牙から守るために
何もかも捨てて、
レイラと逃げることを選ぶほど、
レイラのことを
愛しているビルおじさん。
レイラを厄介者扱いして、
親戚のおじさんは、
単なる思い付きで、レイラを
ビルおじさんに押し付けたけれど、
この選択は、
レイラとビルおじさんを
幸せにするための
神様の思し召しだったのではないかと
思います。
このお話に度々出て来る
プラタナスの道は
レイラが自転車に乗って
通っていた所。
マティアスは出かける前まで、
レイラがいなくなったことを
感謝すべきではないかと
考えていましたが、
プラタナスの道を通った時、
きっとレイラのことを
思い出してしまい、
悲しみを笑いで
ごまかしたのではないかと
思いました。
クロディーヌは
自分の作戦が成功したと思って
今のところ、
一人で悦に入っていますが、
彼女の勝利は
長続きしないと思います。
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