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29話 バスティアンが病院にやって来た目的は?
これが、先程伝えた件を整理した
契約書なので、確認して欲しいと
前置きをした後、バスティアンは
書類の束をオデットに渡しました。
厄介な皇女の盾の役割をするという
苦労を共有していた間柄であるだけに
現在の状況を説明するのは、それほど
難しくありませんでした。
皇帝が結婚を命じたため、
二年間だけ妻が必要になった。
報酬は十分に支払う予定だ。
あなたが適任者だと思う。
結婚式は来月末頃に執り行われる。
本質はそのように単純。
頭の悪い女ではないので
難なく理解しただろう。
そうする気があれば。
必要であれば、もう一度
説明することも可能だと言う
バスティアンの控えめな声が
沈黙を破りました。
書類をぼんやりと
見下ろしていたオデットは、
ようやく頭を上げました。
このように時間を浪費するのは、
それほど好ましくなかったけれど
バスティアンは急かしませんでした。
状況が状況であるだけに、
普段のような知性と品位を
期待するのは難しいはずでした。
ぼんやりとした目を
瞬かせていたオデットは、
今、自分にプロポーズしているのかと
ようやく口を開きました。
バスティアンは、
そういうことになるけれど、
この場合は、契約という表現の方が
適していると思う。
要するに、自分は今、あなたに
給料のいい仕事を提案していると
答えました。
オデットは、
父親が伏せっている病院に
突然訪ねて来て、
職業の斡旋をしてくれるなんて、
新しい種類の慈善活動なのか。
本当に親切だと皮肉を言うと、
失笑しました。
今すぐこの狂人を放って
去らなかったのは、
純粋に、まともに歩く自信が
なかったからでした。
夢の中を彷徨っているような
ふわふわした感じが消えると、
初めて、まともに
目の前に立っている男が見えました。
つまり、今
皇帝と交わした取引のために
二年間だけの、
使い捨ての役に立たない偽の妻を、
お金で買うという話を
しているのでした。
ひどくなった眩暈に
耐えられなくなったオデットは
よろめきながらベンチに戻りました。
倒れるように座り込んで
息を整えている間に、
バスティアンが近づいて来ました。
そして、さらに断固とした態度で
再び、書類を差し出しました。
バスティアンは、
多分に感情的にならざるを得ない
状況だという点は理解している。
しかし、
冷静に判断してみようと努めることが
あなたに利益をもたらすと
言いました。
オデットは、
今、自分に善意を施していると
言っているのかと尋ねました。
バスティアンは、
最低限の判断力は
保っているようで良かったと答えると
契約書を、
オデットの膝の上に置きました。
そして、
自分は皇帝が決めた日に結婚する。
それに適した候補者を何人か選出し、
可能であれば、
今日中に新婦を決める予定だ。
一番最初にここを訪れたのは
オデット穣が最優先の候補者だから。
代替案がないわけではないという
意味だと、感情を表に出さない顔で
事務的な説明を続けました。
オデットは、
これ以上、怒る気力さえ失ったまま、
一瞬たりとも、
躊躇したり揺らぐことのない、
その真っ青な目を凝視しました。
バスティアンは、
あなたを最優先にしたのは、
最も優れた容姿と血統を
持っているから。
交際中だと知られているので、
急に結婚話が進んでも、
理解されやすいという
大きな利点がある。
もちろん、一番大きな不安要素を
抱えていたことも事実だったが、
もう、その問題は解決したと
言いました。
オデットは、
死んだ人のような顔色で、
まさか、不安要素って・・・と
呟きました。
バスティアンは、
あの事故がなかったら、
オデット穣を最優先に考えるのは
難しかっただろう。
ディセン公爵の腰が壊れたことが、
娘にしてあげた唯一のことだと言っても
無理はなさそうだと
遠慮なく真実を伝えました。
確かにトロフィーの役割をするのに
最適な女だけれど、
息をするように問題を起こすことが
明らかな父親を、
甘受したくはありませんでした。
ディセン公爵が、
一生ベッドに縛り付けられて
暮らさなければならない境遇に
ならなかったとすれば、
彼がここを訪れることも
なかったはずでした。
バスティアンは、
愛で結ばれた結婚に対する
幻想を持っているなら
断ってもいい。
しかし、そうでなければ、
この結婚はオデット穣にとっても、
悪い取引ではないと思うと言うと
左手を上げて時計を確認しました。
最優先の候補者に
割り当てる予定だった時間が、
すでに半分以上経過していました。
この無意味な対峙状況が、
そろそろ退屈になり始めた
バスティアンは、
父親が退院したら、
あなたが自宅で
介護しなければならないし、
使用人どころか介護士も雇えない
ディセン家の状況を考えると、
その仕事は、完全に
あなたが引き受けることになる。
下町の借家を転々としながら、
残りの人生全てを、
障害を負った父親の
介護に捧げるという犠牲を
甘んじて受け入れるほど
愛情深い親子ではないはず。
この自分の推測は間違っているかと
最もシンプルで明瞭な方法で
現実を周知させました。
膝の上に置かれた書類を握る
オデットの手の甲の関節が
浮き上がっていました。
バスティアンは眉間にしわを寄せたまま
自分の影の下で震えている女を
見ていました。
まるで棚の端ギリギリに置かれて
揺れている、
ガラス人形のような姿でした。
すぐにでも床に落ちて、粉々に砕けても
おかしくはなさそうでした。
この取引を拒否すれば、
オデットに残された未来は
結局それだけでした。
オデットは赤くなった目を上げて
バスティアンを見ました。
目から溢れそうな涙が
透明に輝いていましたが、
結局、泣くことはありませんでした。
賭場の借金のせいで売られた
あの夜と同じように、
少女と老婆が共存するような
目をしていました。
バスティアンは
丁重だけれど関心のない視線を送って
辛抱強く待ちました。
オデットの血の気のない手が
書類を広げたのは、それから、涙が
さらに流れた後でした。

契約書を精読したオデットは、
この契約は、厳密には結婚ではないと
結論を下しました。
結婚式を挙げた後、同じ家で
生活しなければならないという点を
除けば、
今と大きく変わりませんでした。
公式の場では、完璧な夫婦の姿を
披露しなければなりませんでしたが、
それ以外の場合は、ただ他人として
生活すればよく、ベッドはもちろん、
正常な夫婦が共有するすべての生活が
徹底的に排除された関係でした。
そのように二年を過ごせば、
人生を変えることができる。
契約書の最後のページを閉じると、
気前よさそうに振る舞っていた
バスティアンの態度が
初めて理解できました。
オデットは、
先程とは違う混乱が込もった目で、
そばにいる男を見つめました。
バスティアンは足を組んで座り
バラの花壇の向こうを
見つめていました。
オデットは、突然、
恐くなりました。
見知らぬ男に
襲われるかもしれないという
恐怖に囚われた
初めての出会いの時とは違い、
まるで冷たい霧が、血管を伝って
広がっていくような感覚でした。
必要とあれば、自分の人生まで
取引の手段として利用する男でした。
目的のためには何も憚らないので
予測と統制の範囲外にありました。
上流社会が、
過剰に敬遠し警戒する理由が、単に、
その血統のためだけではないと
感じさせるような姿でした。
世の中を支配する秩序は、
数多くの変化要因という枝を
剪定した後に残った
堅固な木の幹のようなものでした。
それで、ほとんどの人は、
木の必要に応じて
形を整えられることを
いくらでも甘受して、
生き残る枝になるために
必死になっていました。
しかし、何と言うか、
最初から、その木の一部になりたいと
思わない人のように見えました。
切り落とされた枝の残骸の中から
芽を出して、幹に巻き付きながら
上へ上がる丈夫な蔓なら、
まだ理解できるけれど。
そんな蔓は、いつか木を殺すので
庭師たちが、生命力旺盛な植物に
うんざりしていました
オデットは、
皇帝との取引は、
これほどの巨額なお金を支出するほど
重要なことなのかと尋ねました。
ゆっくりとオデットの方へ
顔を向けたバスティアンは、
感情がこもっていない笑みで
肯定を示しました。
続いてオデットは、
二年間の契約が終了した後に、
大尉と本当に結婚する花嫁は、
おそらくラナト伯爵夫人だろうと
指摘しました。
意識がはっきりしてくると
オデットの声は、
一段と澄んで来ました。
バスティアンは
その頃には、彼女の最初の結婚も
きれいに片が付いているはずだからと
今回も率直に答えました。
オデットは、
この結婚が続いている間も、
大尉とラナト伯爵夫人の関係は
有効なのか。
つまり私の言いたいのは・・・
と尋ねると、バスティアンは、
夫婦の姿を披露するすべての場では
妻の権利を優先する予定だ。
しかし、私生活においては、
サンドリン・ドゥ・ラビエルが
自分にとって
とても重要な人物であり、
その事実は変わらないと、
その件についても簡単にまとめました。
妻と愛人の立場が
変わったような関係でしたが、
オデットは淡々と納得しました。
どうせ、全てが嘘の結婚に
常識の物差しを当てるのは滑稽でした。
オデットは、再び手にした契約書に
視線を落としました。
ここにサインさえすれば、
父親は最高の設備を備えた病院で
余生を送ることができました。
また、ティラも、
名門寄宿学校へ行って
良い教育を受けることになるだろう。
一生オデットを束縛してきた枷から
解放されるようなことでした。
さらに、新しい人生を始めるのに
十分な報酬まで。
このような機会を逃すのは
愚かなことでした。
しかし、オデットは、
書類に挟まっている
万年筆を触るだけで、
簡単には決められませんでした。
道徳や名誉のような
観念のためではなく、それよりは
もう少し本能的な領域にある恐怖が
オデットを躊躇させました。
彼女は、やっとの思いで、
一日だけ、考える時間が欲しいと
頼みましたが、バスティアンは、
先ほども言った通り、
自分にはあまり時間がないと言って
ベンチから立ち上がりました。
そして、腕時計を確認した
バスティアンは
「断るのですか?」と尋ねました。
一度頷いただけで、未練なく背を向け
次の候補者を探すかのような
冷たい態度でした。
バスティアンは、
それでは、あなたの意思は・・・と
言いかけましたが、オデットは
「いいえ!」と衝動的に返事をして
首を横に振りました。
契約書を回収するために
近づいて来たバスティアンは、
しばらく、猶予を与えると言うように
一歩後ろに下がってくれました。
オデットは震える手で
万年筆を握りました。
間違った選択かもしれない。
しかし、まだ来ていない明日は
絶望に満ちた今日より
恐ろしくありませんでした。
これからの二年間が
どのように流れても
この機会を逃した後に
向き合うべき現実よりはマシだろう。
それで十分だ。
少なくとも水の泡となって
消える結末より、
マシだろうと思いました。
オデットは万年筆を握り直して
息を整えました。
ペンの先に溜まっていたインクが
契約書の署名欄の上に落ちて
シミを作りました。
慌てたオデットは、顔を上げて
バスティアンの顔色を窺いました。
日差しに背を向けて立っている
男の顔は、
最初と変わらず無情でした。
指先から始まった震えは、
いつの間にか全身に
広がっていました。
食べることも寝ることもできずに
気を揉んだこの三日間で
蓄積された疲労が、
一瞬、オデットを襲って来ました。
やっと意識を取り戻したオデットは
シミが付いた隣の場所に
力を込めてサインしました。
最後の線を引く瞬間、
手の力が抜けて、逃したペンが
地面に転がり落ちました。
代わりに、それを拾った
バスティアンは、
すぐに契約書も回収しましたた。
もう一度、署名欄を確認した彼は、
書類を閉じることで、
この契約の成立を告げました。
その瞬間、
涙のようなため息が出ました。
オデットは崩れ落ちるように
体を丸めたまま、
息を吐き出しました。
歩けるかと尋ねるバスティアンの声が
耳元に響きました。
オデットは声を出せそうにないので
小さく頷きました。
それとほぼ同時に、
宙に浮いた感じがしました。
驚いて目を開けた時、オデットは
すでにその男の腕の中に
抱かれていました。
オデットを短く一瞥した
バスティアンは、病院に向かって
大またに歩き始めました。
途方に暮れたオデットは、
男の肩に顔を埋めました。
体が壊れそうなくらい痛く、
この状態で、
この大きくて、がっしりした男を
押し退けることは
できそうにありませんでした。
意識が薄れて行く中、
脱力発作だ。
クラーモ博士の診療室へ行くと
バスティアンの落ち着いた声が
聞こえて来ました。
院長は一般の患者を・・・と
言う声が聞こえて来ましたが
バスティアンは
婚約者だと、躊躇なく
反論を切り捨てると、
しばらく止まっていた足を
再び動かし始めました。
オデットは、馴染みのない体温と
清潔な日の光の匂いの中で
そっと目を閉じました。
契約の効力は直ちに発生しました。
元に戻す方法はなさそうでした。
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私の家の庭のあちこちにも
蔓植物が侵食して来ていて、
とても悩まされています。
これからは、それを
バスティアンだと思えば、
少しは愛着が湧く・・・
わけがありませんね。
さて、冗談はさておいて、
オデットも、人並みに
愛する人と結婚することを
夢見ていたかもしれませんが、
厄介者の父親を抱えている限り、
結婚するのは無理だと
考えていたかもしれません。
また、愛に目が眩んで、
後先考えずに駆け落ちして、
悲惨な状況に陥った両親の姿を
見ていたので、結婚することに対して
臆病になっていたかもしれません。
そんなオデットに
バスティアンはプロポーズし、
しかも、すぐに返事をしろだなんて
いくら契約結婚でも、
即答するのは無理な話だと思います。
けれども、
一日返事を先延ばしにしたところで
オデットは悩むだけで、
結論が出たかどうかも分かりません。
バスティアンがそれを見越して
強硬手段を取ったかどうかは
分かりませんが、
今まで以上に苦労するくらいなら
結婚した方がマシという
オデットの本音を見事に引き出せたのは
さすがでした。
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