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31話 夏至にバスティアンとオデットの結婚式が執り行われます。
オデットは、海が広がる窓の向こうに
そっと視線を移しました。
結婚式が行われる
邸宅への道は、
海岸沿いに長く伸びていました。
オデットは馬車の窓際に座り
海を眺めました。
夏至の太陽が照り付けるアルデン海は
美しい銀白色の波が輝いていました。
お前の母親もあの海が好きだったと
かすかな悔恨のこもった声が
長い沈黙を破りました。
オデットは少し驚いた目で
向かいに座っている
中年の紳士を見ました。
ライナー大公。
今日、父親に代わって
新婦の手を取って、
入場することになっている
皇帝のいとこでした。
皇命に逆らえず、
この仕事を引き受けたものの、
大公は公然と
不快な気持ちを露わにしました。
今朝、トリエ家の応接室で初めて会い
大公家の馬車に乗って
ここへ来るまでの間、
彼がオデットにかけた言葉は、
形式的な祝辞程度が全てでした。
大公は、
夏が来ると、ヘレネは、
アルデンにある別荘に来て
過ごしたものだ。
あまりにも明るくて美しかったので
どこへ行っても、
大きな歓待と愛を受けていた。
ヘレネは、キラキラ輝く
宝石のような子だったと言うと
硬く固まっていた大公の顔が
一段と柔らかくなりました。
彼が母親の従兄であるという事実を
オデットは初めて実感しました。
続けて太公は、
あの子は、アルデンの海が
この世で一番美しいと言っていた。
もちろん昔の思い出なので、
その後、考えがどう変わったのか
分からないけれどと言いました。
オデットは、
今も、そう思っているだろう。
母は幼い頃の思い出を
宝物のように大切にしていたと
優しく大公を慰めました。
実はオデットは、
その思い出話の中の愛らしい少女が
自分の母親だという事実が
よく信じられませんでした。
オデットの記憶に残っている母親は、
概して憂鬱そうで
神経質だったからでした。
しかし、
積み重なる過酷な生活の重圧の下で
輝いていた過去の一片が
煌めく瞬間があり、その時の母親は
明らかに特別に見えました。
できれば、オデットは、
その瞬間の母親を思い出したかったし
母親を知っている人たちも
そうであることを願いました。
大公は、
皇女の娘が、古物商の孫に
売られることになったなんて
世の中がどうなろうとしているのか
本当に分からないと言うと、
シワが深く刻まれた額を抑えながら
深いため息をつきました。
世界は、日ごとに、ますます速く
変化していました。
急流のように吹き荒れる変革の速度に
追いつくことができないほどでした。
母のようにまっすぐで澄んだ目で
大公を見つめていたオデットは、
バスティアンが苦しい立場にいることと
いくらでも皇命を
断れることができることも
知っているけれど、このように
大きな助けを与えくれたことに
感謝していると、
とんでもないことを言いました。
大公は、
むしろ皇命だったら、
自分の気持ちは、
今よりずっと良かったはずだと言うと
がっかりした笑みを浮かべました。
オデットは依然として
当惑した様子でした。
大公は、
どうもオデットは、花婿候補のことを
よく知らないようだと憐れむと
深い嘆息をつきました。
そうしている間に、馬車は
別荘のある私有地に入りました。
アルデンの宝石と呼ばれる
北部海岸がある位置でした。
大公は、
降りる準備をするようにと
命令して、話を終えました。
気になることが多い表情でしたが、
オデットは、
これ以上問い詰めることなく
おとなしくベールを下ろしました。
まばゆいほど美しい花嫁が
心を曇らせている頃、
新しく用意したという邸宅が
姿を現しました。
森と白い砂浜を含む敷地の規模が
与えた衝撃は、
相次いで訪れたもう一つの衝撃で
きれいに忘れられました。
呆れてぼーっとした頭の中に
浮かんだ考えは、
二人のクラウヴィッツのおかげで
アルデンは、
かなり騒がしくなるだろうという
ことだけでした。

フランツは、
気が狂っていると呟くと、
歯ぎしりしながら拳を握りました。
父親と母親の反応も
変わりませんでした。
そのため、
バスティアンの余裕のある笑みは、
さらに奇怪に見えました。
ジェフ・クラウヴィッツは
お前は今、一体何の真似を・・と
途中まで言って、
荒い息を吐きました。
怒りを含んだ彼の両目が
向いている所には、
古代の神殿を模した大理石の柱で
正面を飾った
美しい邸宅が立っていました。
正確に八本。 柱の数まで
クラウヴィッツ家の邸宅と
同じでした。
それだけではなく、
建物と庭園の配置、
花壇と噴水台の形まで
完璧に一致していて、
このクソみたいな夏の別荘と
クラウヴィッツ邸が
三日月形に曲がった湾を挟んで
対称を成しているという
滑稽な光景でした。
バスティアンは、
自分が話していなかったようだと
言うと、
大したことではないかのように
肩を軽くすくめました。
そして、バスティアンは、
自分に至らない所がたくさんあって
去らなければならなかった
場所だけれど、いつも心の片隅には
アルデンへの深い郷愁が
残っていたようだ。
新しい家を建てようと思うと、
当然のように、実家のことが
思い浮かんだ。
とても立派な幼年時代を
送ったおかげのようだけれど、
二人はどう思うかと尋ねました。
完全に狂っている。
フランツは、
もう一度身震いしながら
信じられない光景を見ました。
海岸の森が生い茂っているだけの
湾の向い側の土地が、
匿名の大富豪に売れたという便りを
聞いたのは、
すでにかなり前でした。
よくあることだったので、
特に気にも留めませんでした。
工事の規模が
かなり大きいのを見ると
並大抵の成金ではなさそうでしたが
それで済む話だと思っていました。
まさか、あの野郎が、
目の前で、
こんな策略を巡らしていたなんて。
一体どんな手を使って
莫大な資金を調達したのか
見当がつきませんでした。
有名な金貸しだった
母方の祖父がいたけれど、
その古物商も晩年は、
家勢が大きく傾いたと
聞いていました。
軍人として出世するために
必死で努力して来た過去を考えると
その噂が、
嘘であるはずがありませんでした。
こんなことができるほど
莫大な遺産を相続した者が、
なぜ、そんな人生を送って来たのか。
解決できない疑問を
じっくり考えている間、
衝撃に耐えられなかった
テオドラ・クラウヴィッツの体が
ふらつきました。
急いで母親を支えるフランツの顔は
耐え難い怒りと恥辱感で歪みました。
この混乱の中でも、バスティアンは
依然としてのんびりしていました。
バスティアンは、
父親を見習おうとする
息子の気持ちを理解して欲しい。
どうか、お互いを、
鏡のように映し合いながら生きていく
クラウヴィッツ家の姿が
全帝国の手本になることを
願っていると言って、
丁重に頭を下げました。
その瞬間、新たな客が現れました。
これ以上、酷いことはないと
思っていたフランツの信頼が
粉々に砕けるような顔ぶれでした。
それくらいで背を向けたバスティアンは
到着したばかりの皇太子夫妻に
近づきました。
全く驚いた様子がないのを見ると、
すでに事前に打ち合わせ済みの
訪問のようでした。
親しげに挨拶を交わした皇太子夫妻は
この結婚は、皇室が取り持った
縁談の成果だという事実を
宣言するかのように、
新婦側の招待席に座りました。
フランツは、
赤く染まった頬を撫でながら、
背を向けました。
皇太子が、
新婦の親戚の役割をするということは
すなわち新婦を、皇室の一員として
認めるという意味。
すなわち、
皇族の娘を
妻にすることになったという意味。
フランツが期待していた、
皇帝が仕掛けた罠に掛かった
哀れな獣とは、かなり違う姿でした。
「そこで止まれ、フランツ!」
父親の大きな手が
立ち去ろうとするフランツの肩を
つかみました。
フランツは、
今すぐ帰ろう。 これは
自分たちを侮辱するために
仕掛けた罠だと訴えました。
しかし、ジェフ・クラウヴィッツは
鋭い目で周囲を警戒しながら、
聞き耳を立てている者が多いので
声を低くしろと命令しました。
フランツは、ようやく、
こちらを注視している
参列者の視線に気づきました。
近親者だけを招待した
結婚式でしたが、
ほとんどが社交界の名士でした。
ここで起こったことは全て
明日には、都市全体に広まることが
明らかでした。
ジェフ・クラウヴィッツは、
ここから逃げ出せば、
自分たちが馬鹿にされるだけだと
言いました。
フランツは、
そうだけれど、
この情けない舞台に立たされた
道化師になるわけにはいかないと
反論しました。
ジェフ・クラウヴィッツは
まずは道化師の役目を果たせ。
臆病者になるよりは、
その方がましだと、
囁くように命令すると、
すぐに自分たちに割り当てられた
席に向かいました。
フランツは、
渋々、踵を返しました。
結婚式の祭壇の前に置かれた
椅子に座って顔を上げると、
息が詰まりそうな光景が
目に入って来ました。
海の向こうに
見慣れた風景が見えました。
ここに足を踏み入れるまでは、
間違いなく、
この上なく誇らしかった
クラウヴィッツ家の領地でした。
繰り返し引っ張ったせいで
口の入り口の弱い肌から
血が滲み始めた頃、
花嫁の到着の知らせが
聞こえて来ました。
結婚式の始まりでした。

結婚式の祭壇は、
美しい水色の海に向かって
置かれていました。
バスティアンは、そこへ続く道を
躊躇うことなく歩きました。
初夏の日の光が当たると、
結婚式の衣装の装飾が
さらに華やかな光を放ちました。
バスティアンに、
特別な感興はありませんでした。
場所と式次第が
少し変わったことを除けば、
これまで行って来た
数多くの軍事式典と、
別段、差がありませんでした。
司式者はデメル提督。
参列者も、大部分が
異質なのはただ一人。
今ちょうど大公の手を握りながら
式場に入って来た新婦だけでした。
半透明のベールを
顔の上に垂らしたオデットは、
庭いっぱいに咲いている花と
草木の香りが漂っている中を
歩きながら、
彼に向かっていました。
ライナー大公も、
予想より、はるかに協力的な態度を
見せていました。
評判が良くて品のある中年の皇族。
ライナー大公は、
バスティアンが望んだ条件に
最も符合した人物でした。
皇室内での地位もかなり堅固でした。
それだけ鼻が
高かったりもしたけれど、
息子が手掛けている
新しい事業の話が持ちがると、
状況が変わりました。
誰のお金を使っていたのか
分かった大公は、結局、
新婦の父親の役割を承諾しました。
真心がこもっていないことは
重要ではありませんでした。
皇室の一員として扱われながら
結婚式を挙げる新婦の姿を
披露すること。
その目的以外のことは、
どうでも良いと思いました。
どうせ世間が覚えているのは、
大公家の馬車に乗って来た新婦と
名望の高い皇族から
新婦の手を渡された
新郎だけだろうから。
時が来ると、バスティアンは
夏至の花嫁に近づきました。
大公は、
静かなため息をつきながら
オデットを渡しました。
白くて細い手は、晴天とは対照的に
冷たいものでした。
自分の役目を終えた大公が
背を向けると、
バスティアンは新婦を連れて
祭壇の前に近づきました。
オデットが怯えて、
真っ青になっているのに気づいたのは
ベールを上げるために
向かい合った時でした。
バスティアンは無意識のうちに
眉をそっと上げました。
そっと頭を下げたオデットは
相変らず手に持ったブーケだけを
見下ろしながら、
細かく震えていました。
今さら哀れな供物の真似でも
したいようでした。
その調子に合わせる気がない
バスティアンは、躊躇することなく
ベールを剥しました。
無意識の笑みが口の端をよぎったのは
丸く大きくなった青緑色の目に
向き合った瞬間でした。
賭博の借金を返済するために
売られた女のベールを剥した
春の夜の記憶が、
目の前に立っている花嫁の顔の上に
浮び上がりました。
捨てた賭け金を
妻にすることになった。
バスティアンは、
ふと、それがおかしくなり
虚しくなりました。
その気持ちに気づいたのか、
オデットも次第に緊張を緩めました。
一段と柔らかくなった唇は、
少し気まずそうに、
恥ずかしげな笑みを浮かべていました。
6月のように美しい笑みでした。
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バスティアンは、
父親、継母、腹違いの弟を
挑発するために、
わざと海を挟んで反対側に
同じ建物を建て、
ついでに、そこで結婚式を
挙げようしたのでしょうけれど
ジェフの度量が大きければ、
バスティアンが何をしても、
何を言っても、悔しさを隠して
そうかそうか、と言うだけで
済ませられたと思います。
フランツにしても、
結婚式に社交界の名士が来ているのなら
このチャンスを逃さず、
彼らと親しくなるよう
努めればいいのです。
ジェフ・クラウヴィッツは
バスティアンの母親を利用して
一代で財を成したけれど、
心はせせこましいままだし、
フランツも、父親の跡を継げるほどの
才覚がないと思います。
お金があるのにバスティアンが
軍人になったのは、
古物商の孫という汚名をそそぐために
自分の実力で地位や名声を得て、
周りの人たちに、自分を
認めさせたかったからだと思います。
そこまで到達して初めて、お金を使う。
しかも、水面下では、
しっかり、お金を増やしている。
そのおかげで、ライナー大公を
動かすこともできた。
バスティアンは、
フランツとは比べ物にならないくらい
事業家としての才に
長けていると思います。
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