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112話 ビルおじさんと夜逃げしたレイラをマティアスは探しています。
偶然、マティアスは、
車の窓から、道を通り過ぎる
女子校の生徒たちを見ました。
しばらくの間、彼は無心で
その光景を見つめていましたが
すぐに、その制服が、二年前の夏、
自転車を走らせていて転んだ
レイラ・ルウェルリンが
着ていたものと同じであることに
気づきました。
袖が膨らんだ白の半袖ブラウスに
青色のジャンパースカート。
首には赤いリボンを結んでいました。
あの女子生徒たちのリボンが
白色であるのを見ると、
学年別に色が違うようでした。
覚えていたかどうかさえ
分からなかったのに、
このように事細かに覚えている事実に
マティアスは自嘲しました。
幸い、道路は渋滞していなかったので
彼を乗せた車は、
すぐにその学生たちの群れから
遠ざかって行きました。
だから大丈夫になったと
思っていました。
市街地を抜けてアルビスに向かう道中
プラタナスの枝に座っていた鳥たちが
空に舞い上がるのを見るまでは。
いつも自分のそばにいてくれた鳥が
好きだと言っていたレイラの言葉が
思い浮かびました。
その言葉の意味を、今になって
ようやく理解できそうでした。
彼女が言ったように、
鳥はいつでも、どこにでもいました。
世の中に、これほど多くの鳥が
存在するという事実に、
突然、マティアスは
耐え難いほど恐怖を感じました。
ゆっくりと顔を撫で下ろした
マティアスは、車を止めるようにと
衝動的に命令しました。
困惑した顔をしていましたが、
運転手は適当な道端に
急いで車を停めました。
何も言わずに車から降りる彼を見た
運転手と随行人は驚いて
「ご主人様!」と叫びました。
マティアスは、
自分は歩いて行くので
先に行くようにと告げました。
そして、彼らが
クライン卿との約束の時間を
知らせる前に、マティアスは、
車のドアを閉めて、
道の向こう側に向かって
歩き始めました。

その知らせが
カイル・エトマンの耳に入ったのは、
校庭がバラの香りで
満たされ始めた頃でした。
レイラの誕生日がある週であり、
レイラが一番好きな花が
満開になる季節でもありました。
それを意識しないために、
カイルは短い睡眠時間を除き、
勉強だけに没頭しました。
講義室、あるいは図書館に
一日中閉じこもり、
夜になってようやく家に帰り、
夜が明けると、
再び同じ一日を繰り返しました。
図書館の前で、
同じ学校出身の一団と出会わなければ
今日もそんな日になるはずでした。
目で短く挨拶を交わした後、
故郷にいた時からずっと
親しくしてきた治安判事の息子が
「ねえ、カイル!」と
通り過ぎようとしたカイルを
呼び止めました。
そして、彼は躊躇いながら、
お前、もしかして、
そんなことしていないよねと
脈絡のない質問をしたので、
カイルは目を細めました。
カイルは、
そんなことって、
何をいっているのかと聞き返すと、
治安判事の息子は、
ぐっと声を低くしながら
レイラ・ルウェリンのことだと
答えました。
カイルは、
これ以上説明を聞かなくても
これが、決して
愉快な話ではないということに
気づきました。
カイルは、
レイラのことについて言及した理由を
尋ねました。
治安判事の息子は、
まさか知らないのかと聞き返しました。
カイルは「何を?」と逆に質問すると
治安判事の息子は、
アルビスの庭師と
彼の養女レイラ・ルウェルリンが
夜逃げをしてしまったことを
本当に知らなかったのかと言って
目を丸くしました。
彼の後ろに立っていた一団も
同様でした。
嘘をついていると言うには、
今、カイルの顔に浮かんだ衝撃が
あまりにも生々しく感じられました。
エトマン博士の息子が
密かにその子を連れ去り、
首都で暮らし始めたという噂は
どうやらデマが確実なようでした。
治安判事の息子は、
本当に知らなかったみたいだ。
何と言えばいいの分からない。
余計なことを言って申し訳ないと
照れくさそうに、
遺憾の意を表しました。
この大学のカルスバル出身者で
カイル・エトマンと
レイラ·ルウェリンの縁談を
知らない人は、
多くありませんでした。
名望高い医師の家門の後継者と
貧しい孤児の少女。
その二人が、
どれほどお似合いだったか。
どれほど悲劇的に
別れなければならなかったのか。
しばらく、その話は
かなり熱く語られていました。
治安判事の息子が
カイルに背を向けようとしましたが
その瞬間、カイルは
「待って」と彼を呼び止め、
とても白くて固くなった手で
彼の肩をつかみながら、
レイラとビルおじさんが
一体どうなったのか、
今すぐ、きちんと話してと
要求しました。
バラが満開の
暖かい春の日の午後なのに、
カイルは、
まるで真冬の冷たい風の中に
立っている人のように
青白くなっていました。

緑に染まったプラタナスの葉を
揺らす風の音が、
静かな道の上を通り過ぎました。
あの日もそうだったと、
マティアスは、
覚えていることすら知らなかった
もう一つの事実を思い出しました。
そういえば、
あの日だけだったのだろうか。
すべての葉が落ちた冬の日にも、
この道の上に立つと、
その緑の波の音が聞こえました。
レイラと一緒に、
この道を歩くすべての瞬間が
そうでした。
いや、レイラと一緒に歩く
全ての道がそうでした。
だから、あの風は
君だったのかもしれない。
マティアスは、最後の午後、
レイラが立っていた道で
立ち止まりました。
唇の間から、次第に
荒い息が漏れ始めました。
目を閉じたマティアスは、
微かに震え始めた手で
顔を覆いました。
再び、風が吹き出しました。
あの年の夏が始まったその日から、
一瞬たりとも止むことのない
風でした。
静かな水面のような心に
波紋を描き始めた、
もしかしたら、永遠に止むことのない
あの緑の波の音。
しばらくしてマティアスは
ようやく手を下ろすと、
赤くなった目で、
邸宅の出入り口の向こうの遠い空から
鳥が飛び立つのを見ました。
マティアスは、とぼとぼ歩きながら
邸宅の出入り口に向かいました。
タイを引っぱり、
首元まで留めていたシャツのボタンを
外しました。
マティアスはクスクス笑いながら、
アルビスの正門と進入路、
広大な庭園を通って森へ、
レイラの世界へ向かって歩きました。
揺れる木の枝の影が
彼を包み込みながら揺れ動きました。
完璧な人生を台無しにした
渇望だと思っていました。
しかし、
その渇望に囚われた日以来、
初めて本当の人生が
始まったような気がしました。
一歩ずつ踏み出す度に、
記憶の中の時間が逆流し、
ますます速く、遠くまで
あの夏、走って来る自転車の音に
振り向いた午後まで流れて行きました。
目を刺すような太陽の光の間を
自転車に乗ったレイラが駆けつけ、
彼の横を通り過ぎる。
驚いて振り返った
彼女の目が丸くなった瞬間に
自転車が倒れる。
回転する自転車の車輪の音が響く中
マティアスは、
自分の胸が躍る音を聞く。
胸の中で、穏やかに
流れるように動いていた心臓が、
騒がしくはないけれど、いつもより
少し速く鼓動する。
転んでめちゃくちゃになった彼女の姿を
じっと見下ろしている間に
自転車の車輪の音が止まる。
風に揺れる緑豊かな木の葉の波は
さらに鮮明になる。
目を細めて、しかめっ面で
彼を見上げるレイラの瞳には
永遠の夏の森が込められている。
「レイラ」
名前を呼んでみました。
大人になり、女になって現れた
彼女が与えた当惑感が消えた場所には
日差しで熱くなった真夏の川のような
ぬるい温もりが残っていました。
その水の流れに身を任せるように
手を出す。
躊躇っていたレイラがその手を握る。
向かい合った彼らの間を
爽やかな風が吹き抜ける。
なぜか虚しくなった彼がクスクス笑うと
息を殺して見つめていたレイラも
そっと微笑む。 美しい笑み。
そのような始まりだったら、
自分たちは今と
違っていただろうか?
無意味な考えから逃れるように、
マティアスは、まずます速く
森の道を歩き始めました。
荒々しい息が溢れ出る度に、
喉と肩と、力強く握りしめた拳が、
生涯かけて
堅固に築き上げた全ての時間が、
揺れました。
「レイラ」
森の道を通り抜け、
立ち止まった小屋の前で
その名前を呼んでみる。
小鳥が飛ぶように走って来たレイラが
彼の手を握る。
この森を、川辺を、真昼の街を
何気なく一緒に歩く。
レイラは子供のように笑い、
いたずらをし、
時には甘えたりもする。
たくさんの話を、歌うように
ぺちゃくちゃ並べ立てる声が
澄んで美しい。
翼を切らなくても、
鳥かごのドアを閉めなくても、
彼の美しいカナリアは逃げない。
そんな日々だったら、君はまだ
自分のそばにいてくれただろうか。
川から吹いてきた風に
森が再び波打ちました。
川と森の境界線を越えながら、
マティアスは頭を上げて
日差しが眩しい空を見上げました。
もう我慢できなくて目を閉じました。
それでも十分ではなく、
手を上げて顔を覆いました。
それでも足は止まりませんでした。
倒れてしまった後も、
慣性の力に抗えずに空回りしている
未練がましい車輪のように。
近づいて来た夏に、
彼は予定通り結婚する。
半透明のベールを上げると、
夢を見ているように美しい
緑色の目の花嫁が
恥ずかしそうに彼を見つめる。
ほんのりと赤く染まった両方の頬が
淡いピンク色のバラの花びらに
似ている。
「レイラ」
名前を呼ぶと花嫁が笑う。
互いに見つめ合い、微笑み合うだけで
彼らはお互いの気持ちが分かる。
マティアスは、
次第に遅くなっていた歩みを
ついに止めました。
血の気が消えた手は、依然として
顔を覆ったままでした。
止まることのない
未練がましい車輪に乗って、妄想は、
ますます遠くへ走って行きました。
再び夏。
お腹が大きくなったレイラと一緒に
この川辺を歩く。
そして再び夏。
一抱えもある木の影の下で、
きれいな金髪の子供が
よちよち歩きをする。
目が合うと、「お父様」と叫んで
子供がにっこり笑う。
笑いながら両手を広げると、
子供は飛ぶように駆けつけて
彼の胸に抱かれる。
二人を見守っていたレイラが笑う。
子供とそっくりな微笑み。
できるなら、そうやって、
君を手に入れたかった。
しばらくしてマティアスは
ようやく手を下ろしました。
手のひらに沿って流れた涙が
地面に落ちて
小さなシミを描き出しました。
結局、このように虚しく
無意味な仮定に過ぎませんでした。
木の枝の間から差し込む太陽の光が
赤く湿った彼の目を照らしました。
声を出さすに失笑したマティアスは
目を閉じました。
倒れた自転車の車輪が
やがて止まるように、
マティアスの記憶も、これ以上、
遡ることができませでした。
風さえ止んで寂寞とした川辺に
結局彼は一人残されているだけでした。
自分にしたことを、
ほんの少しは後悔しているかと言う
レイラの涙ぐんだ声が
微かに聞こえてくるようでした。
あの日と同じ答えをせざるを得ない
マティアスは、クスッと笑いながら
「いや」「いやいや、レイラ」と
囁きました。
マティアスは、時間を戻しても
何も変わらないことを
よく知っていました。
彼が彼であり、
レイラがレイラである限り、
そのように始まるだけの関係でした。
そうしてでも
始めなければならなかった
渇望でした。
その始まりが、このような結末を
もたらすということを
知っていたとしても、
同じ選択をするだろう。
だからマティアスは、
レイラ・ルウェリンに関して
何も後悔することができませんでした。
震えが止まった手で、マティアスは、
再び首元のボタンを留め、
解いたタイを締め直して
ジャケットの着こなしを整えました。
唯一の混乱の証拠だった
濡れた睫毛と目頭も、
まもなく川風の中で乾いて行きました。
本来の顔色を取り戻した彼の顔に
残ったのは、
微かな疲労感だけでした。
夕日が沈み始める頃、
マティアスは邸宅に戻りました。
焦った顔で、ロビーのホールを
うろうろしていたヘッセンは
息を切らしながら駆けつけ、
「ご主人様!」と呼んで
彼を迎えました。
マティアスはヘッセンに謝ると、
クライン卿は到着しているかと
尋ねました。
ヘッセンは、
三階の執務室で待っていると
落ち着いて答えました。
マティアスは大股で
書斎に向かって歩き始めました。
約束の時間は
すでに30分も過ぎていました。
ひどい無礼でしたが、
会議の時間に一時間も遅れて
現れたことのある相手との
約束だったという点を
考えて合わせてみれば
対処できないようなことでは
ありませんでした。
マティアスは、
すぐに小さな書斎のドアの前に
到着すると、
完璧なヘルハルト公爵の顔になって
ドアを開けました。
変わったことは何もなかった。
そうしなければなりませんでした。![]()
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マティアス、怒涛の妄想の巻。
プラタナスの葉が揺れる音が
トリガーとなって、
レイラが自転車に乗ったまま
転んだ日のことが蘇り、
レイラとの幸せな未来を
妄想し続けるマティアスと、
天下のヘルハルト公爵が
レイラのことを思って
地面に涙がこぼれ落ちるまで
泣くことに驚きました。
その後の変わり身の早さにも
驚きました。
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