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113話 レイラはビルおじさんと新しい生活を始めています。
レイラは静かに数を数えながら
歩きました。
広場の鐘塔から四つ目の路地。
その路地の最初の家。
まだこの村に慣れていないため
ぼんやり歩いていると、
道に迷うことが多かったレイラは
幸いなことに、今日は一度で
家を見つけることができました。
レイラは、
食料品でいっぱいの紙袋を
両腕で抱えて、
ゆっくりと階段を上りました。
ビルおじさんの親戚が
紹介してくれたおかげで、
広場からそれほど遠くない
住宅街の建物の二階にある家を
探すことができました。
アルビスの小屋よりは狭かったけれど
ずっときれいでした。
庭と花壇のない箱のような家に
ビルおじさんは、まだ、あまり
慣れていないようでしたが。
食料品を片付けたレイラは、
小走りしながら再び家を出ました。
路地を最後まで歩いていくと、
水色が美しい海と海辺の風景が
広がりました。
「おじさん!」
道の向こうから歩いてくる
ビル・レマーを発見した
レイラの足取りが速くなりました。
ビルおじさんは、今週から、
港の船着き場の倉庫で
働き始めました。
ビルおじさんは、
家にいないで、
なぜ、また、ここまで来たのかと
文句を言いました。
レイラは腕時計を見て、
おじさんと一緒に帰ろうと思う。
もう仕事は終わったかと、
笑いながら尋ねました。
ビルは返事をする代わりに
照れくさそうな笑顔で答えました。
向かい合った二人の顔は、
アルビスで過ごした
平穏な日々のそれと同じように、
平安でした。
決してあの時と
同じではないということを
知っているから、
さらに必死になっていることを
露わにはしませんでした。
ここに落ち着いてから続いている
二人の間の暗黙の了解でした。
レイラは、
自分も仕事が見つかったと
慎重に伝えると、ビルは目を見開いて
「もう?」と尋ねました。
レイラは、
アレンおじさんが教えてくれた
博物館の研究室の助手の面接を
受けたのだけれど、一発で合格した。
明日から出勤すればいいそうだと
答えました。
ビルおじさんは、
ほら、君はどこでも
うまくやれると言っただろうと
言うと、クスクス笑いながら
レイラの頭を撫でました。
しかし、ビルおじさんは、
明日からでは、
とても大変ではないか。
まだ体の調子が悪いのだから
もう少し休めばいいと勧めました。
レイラは、
誰かが聞いたら、自分のことを
病人だと思うと言い返しました。
ビルおじさんは、
ろくに食べることもできないのに
病人ではないだなんて
何を言っているのかと反論しましたが
ぶっきらぼうな口調とは違って、
ビルの目には
多くの心配がこもっていました。
ここへ来てからレイラは、
よく食べていませんでした。
何とか鳥の餌ほど食べても、
吐いてしまうことが多く
とてもハラハラして
気になっていました。
レイラは、
大丈夫。仕事をする方が
家にいるより、ずっといいと思う。
適応するのも、
もっと簡単になるだろうと
返事をしました。
ビルは、
それなら幸いだけれど呟くと
やせ細ったレイラの顔を見ながら
静かにため息をつきました。
むしろ泣きわめいて、
辛いと言ってくれれば
慰めてやれるのに、
このように、にっこり笑って
耐えようと努力している姿を見ると
さらに可哀想になりました。
レイラは、
路地の先の建物の前を
通り過ぎるビルの腕を急いでつかむと
自分たちの家はここだと言いました。
レイラをチラッと振り返った彼は、
何事もなかったかのように
再び歩き始め、
知っていると答えました。
レイラはビルおじさんに
どこへ行くのかと尋ねました。
ビルおじさんは、
暑いので、
アイスクリームでも食べようと
誘いました。
彼に全く似合わない言葉に
レイラは戸惑いましたが、
すぐに彼女は、自分の好きなものを
買ってあげたいという
ビルおじさんの気持ちに気づきました。
広場に行った二人は、
カフェのテラス席に向かい合って
座りました。
レイラの前には
バニラ味のアイスクリームが、
ビル・レマーの前には
冷たいビールが
それぞれ置かれました。
アイスクリームの器を
ぼんやりと見つめているレイラを
見たビルは、
このままだと溶けてしまうと言って
ハハハと笑いました。
ビクッとして顔を上げたレイラは、
ようやくスプーンを握りました。
ビルおじさんは、
これも食べるのが大変なのかと
尋ねました。
レイラは首を横に振り、
そんなことはないと否定すると
スプーンで大きくすくった
アイスクリームを急いで口に運び、
「美味しいです」と言いました。
そして、考えたくない顔を消しながら
笑うと、 しっかり、
アイスクリームの器を
空にしていきました。
力を入れて開いた目で
見上げた空は澄んでいて、
すっかり
夏の空の色をしていました。
遠い北の美しい都市にも
やがて夏が訪れるはずでした。

堅固な秩序の亀裂は
夜から始まりました。
マティアスは、よく眠れませんでした。
日が経つにつれ、不眠の時間も
次第に長くなって行きました。
不眠のせいで、
ひどい疲労に苦しめられた体が
水を含んだ綿のように重く、
頭がボーッとして、
何かに集中しにくくなっている事実を
マティアスは、これ以上、
否定することができませんでした。
彼はいつもより遅い時間に
ベッドを出ました。
昨夜もほとんど眠れなかったため、
今や彼の顔は、
目に見えて、やつれていました。
痩せた分だけ、
さらに鋭くなった顔の線が
彼の印象を、
さらに冷たく見せていました。
浴室に入ったマティアスは、
血走った目で、
鏡に映っている自分の姿を
ぼんやりと見つめました。
情けないこと、この上ない姿でしたが
これ以上、笑いは出ませんでした。
無意識にクスクス笑っていたけれど
いつの間にか、それもなくなりました。
いつからだったのか。
記憶を辿ってみましたが、
よく思い出せませんでした。
ほんの数日のことなのに、
はるか昔のことのように
ぼんやりしていました。
水を使わず、
ゆっくり顔を擦ったマティアスは、
そのくらいで鏡に背を向けました。
シャワーを浴びている間に
頭痛がさらにひどくなりました。
ガウンを着て浴室から出ると
ヘッセンがドアをノックする音が
聞こえて来ました。
マティアスは、
淡々と入室を許可すると
窓際に置かれた椅子に
深く寄りかかって座りました。
無意識に首を回すと、
バラの蕾が芽吹く庭が
見下ろせました。
小走りしながら
出勤していた女が消えた道の上に
降り注ぐ春の日差しが
煌びやかでした。
平凡な朝でした。
相変わらず、騒がしくて
複雑な世の中を伝える新聞と
今日一日の日程を知らせる
ヘッセンの声。
ホットコーヒー。 眩しい日差し。
そして繰り返される報告。
謝りながら
庭師とレイラ・ルウェリンの足取りを
報告するヘッセンの声は
悲痛に沈んでいました。
昨日も、一昨日もそうだったように
マティアスは、探すようにと、
同じ答えを繰り返しました。
ヘッセンは、無気力感を隠すように
最善を尽くすと、
力を込めて答えました。
頷くマティアスの顔には、
ひどい疲労感が滲み出ていました。
静かに壊れていく主人の日常を
ヘッセンは、よく知っていました。
決して、それを
表に出したくないという性情を
知らないわけではないので
沈黙して来ましたが、もはや、
ただ見守るだけではいられないと
決意を固めたヘッセンは、
今日の帰宅時間に合わせて、
エトマン博士を呼ぶと
先に口を開きました。
マティアスは目を細めて
彼を見ました。
なぜ?
その目に込められた疑問を
ヘッセンは読み取りましたが、
退きませんでした。
ヘッセンは、
そうしなければならない。
この老執事のお願いだと
懇願しました。
どんなに元気旺盛な男だとしても、
ろくに寝ることも、
食べることもできないまま、
いつまでも、持ちこたえることは
できませんでした。
その心配を感じ取ったのか、
公爵は彼の提案を受け入れました。
握っていたカップを
静かに下ろしたマティアスは、
低い声で
「そうしましょう」と答えました。

軽い気持ちで
マスタースイートに入った
エトマン博士の顔には、
いつの間にか、
濃い心配の色が浮かんでいました。
公爵は寝室の椅子に座って
彼を待っていました。
軽く礼を尽くした挨拶と表情、仕草は
彼が知っているヘルハルト公爵の姿
そのままでしたが
顔は、明らかにやつれていました。
それでも依然として鋭い眼光が
奇妙な雰囲気を醸し出していました。
簡単な診察を終えたエトマン博士が
退くと、公爵は、睡眠薬で十分だと、
先に口を開きました。
エトマン博士は、
もう少し精密な検査をしてから・・・
と勧めましたが、マティアスは、
よく眠れないこと以外に、
特に問題はないと主張しました。
エトマン博士は、
体重もかなり減ったようだと
指摘しましたが、マティアスは
眠れるようになれば
食欲も戻って来るだろうと
主張しました。
落ち着いて淡々とした声でしたが、
そこに込められた公爵の意思は
強硬でした。
悩んだ末、エトマン博士は
今日はこの辺りで
一歩退くことにしました。
一目見ただけで、
十分、眠れていない様子でした。
薬の力を借りることを
勧めたくありませんでしたが、
今の公爵は、そうしてでも
まず眠らなければならないように
見えました。
これは一体どういうことなのか?
どう考えても、彼には
見当もつきませんでした。
しかし、患者に対する
必要以上の好奇心を、
表に出してはいけないことを
よく知っている医師である彼は、
その辺で退きました。
静かに待機していたヘッセンも
エトマン博士の後を追いました。
一人になったマティアスは、
疲れた体をベッドに投げ出しました。
底なしの水の中に
潜るような気分でした。
目を閉じれば、
死んだように深く眠れそうだけれど
依然として、意識は、
研ぎ澄まされた刃のように、
鋭く尖っていました。
エトマン博士が、
人づてに送って来た薬は、
日が暮れた後に到着しました。
眠れずに横になっていた
マティアスは、
ヘッセンがノックする音に
目を開けました。
明かりをつけなかった寝室は
いつの間にか
暗闇に包まれていました。
テーブルに薬を置いたヘッセンは
夕食は寝室まで持って来ると
慎重に告げました。
マティアスは、
天井を見詰めていた目を
彼の方へ向けると、
その必要はないと答えました。
「しかし・・・」と
ヘッセンは反論しようとしましたが
マティアスが再び目を閉じると
言葉を濁し、
それでは、ゆっくり休むようにと
挨拶をして退きました。
彼が立ち去る音が、
耳元でブンブンと鳴りました。
マティアスは、その後も長い間
目を開けませんでした。
どこまでが本気で、
どこから嘘だったのだろうか?
騙されたという事実を
受け入れてからは、無意識的に
それに執着するようになりました。
全てが嘘ではなかった。
そうすることはできなかった。
だから、本心を見つけなければ
なりませんでしたが、
一向に、糸口がつかめませんでした。
あの愛らしい顔、
照れくさそうな笑顔と優しい手つき。
時には、全てが本気のようだったし
時には、
全てが嘘のようにも見えました。
それを知ることができれば、
その明確な境界線を
見つけることができれば、
自分の人生が、再び元の位置に
戻って行くかのように、
マティアスは必死に考え続けました。
しかし、激しい苦悩の終わりは
いつも虚しく、
諦めたように目を開けたマティアスは
体を起こして
ベッドに、もたれかかりました。
じっと闇の彼方を見つめていた彼は
口笛を吹いてみました。
しかし、彼の鳥は歌いませんでした。
鳥かごのドアは開いているけれど、
鳥は自分の巣の中に
静かにうずくまったまま
沈黙するだけでした。
もう一度呼んでみても同じでした。
マティアスは、
さらに少しぼんやりした目を
サイドテーブルに移しました。
こんなものに頼りたくない気持ちと、
こうでもして眠りたいという渇望が
激しく対立しました。
長い間悩んだ末、
彼は薬を飲み込んで
ベッドの上に体を投げ出すと、
乾いた笑いが漏れました。
薬の効果が、
ゆっくりと広がるにつれて
安堵感が広がりました。
これで大丈夫になるだろう。
眠ることさえできれば、
この眠りから
目覚めることさえできれば全て。
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食欲がなく、
食べたものを吐いてしまうレイラ。
避妊もしないで大丈夫なのかと
皆様がコメントで心配されていた通り、
おそらくレイラは
妊娠しているのでしょう。
前話で、マティアスが、
レイラとの子供について
妄想していたのは
このシーンの伏線だったようです。
カイルと一緒に
アイスクリームを食べたことは
懐かしい思い出だと思いますし、
家族同様に思っている彼の顔を、
思い出したくないはずがないと
思うので、
レイラが思い出したくない、
消したいと思っているのは
マティアスとの記憶だと思います。
でも、お腹の中に
マティアスの子がいれば
彼のことを忘れることなんて、
できないのではないかと思います。
マティアスは、
不眠状態で、昼間、
仕事をしているのでしょうか。
見るからにやつれているのに、
周りの人たちは、彼のことを
どう思っているのでしょうか。
マティアスが、
そのような状態になっている理由を
知っているはず。
今の彼らの心情を知りたくなりました。
そして、クロディーヌは、
今の彼の状態を
知っているのでしょうか?
ヘルハルト公爵夫人の称号欲しさに
マティアスと結婚したとしても、
一人の女性に去られただけで、
腑抜けになったマティアスと、
彼女が描いていたような理想の生活を
送ることはできないと思います。
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