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115話 マティアスはレイラとビルおじさんが住んでいた小屋へやって来ました。
埃が積もっていることを除けば、
全てがそのままでした。
全部捨てて
逃げてしまったという事実が
より鮮明に感じられ、
マティアスは失笑しました。
庭師とレイラが、この古い家を
どれだけ大切に手入れして来たかを
よく知っているので、
虚無感は、さらに大きくなりました。
濡れた体から流れ落ちる雨粒が
床板に濃いシミを作るまで、
マティアスは、
じっとその場に立っていました。
窓と屋根を叩く雨音の合間に
彼の吐く息の音が流れました。
乱れた呼吸を整えたマティアスは、
ゆっくりと、
レイラの部屋へ向かいました。
やはり、そこも、
マティアスが記憶している
そのままの姿で残されていて、
今にもレイラが戻って来そうな
風景でした。
マティアスはベッドに近づき、
ランプを点けました。
レイラと名前を呼んだら
彼女が現れそうでした。
どこからか駆けつけて来て
表情豊かな緑色の目で、彼を
じっと見つめるような気がしました。
笑うような気がしました、
あの美しかった夕方のように、
愛してくださいと囁きそうでした。
背筋を伸ばして立っている
マティアスの姿は、
普段と少しも変わりませんでした。
伏し目がちの落ち着いた目と、
穏やかに閉じている唇もそうでした。
しかし、
鎧のような習慣でも消せなかった
体に染み付いている亀裂の跡は、
至る所から滲み出ていました。
焦点の定まらない目つき。
不規則な息づかいと
握りしめた拳の先から始まった
微細な震えのようなもの。
それを否定するかのように、
マティアスは、
再び深く息を吸いました。
数歩踏み出すと、
ベッドの下から半分ほど出ていた
大きな木箱が
つま先に引っかかりました。
何かに集中しなければならなかった
マティアスは、腰を屈めて、
その箱を引き寄せました。
半分開いていた蓋が落ちると、
中に入っていた
がらくたが姿を現しました。
何気なく覗いたその箱の中から、
マティアスは
見慣れた箱を見つけました。
彼があげたプレゼントでした。
マティアスはベッドの端に腰掛けて
ベルベットの箱を開けました。
美しいクリスタルの鳥が
輝いていました。
その弱々しく繊細な光の中に、
マティアスは、
去年の春のレイラを見ました。
子供のように無邪気に感嘆しながら
博物館の通路を走っていたレイラ。
鳥に向かって手を伸ばしたレイラ。
その春を飛んで彼の所へ来たレイラ。
一瞬たりとも、
自分のものでないことがなかった
レイラ。 私のレイラ。
再び閉じたプレゼントの箱を
元の場所に戻すと、マティアスは、
彼が履かせてやり、
今は部屋の片隅に放置されている
靴を見ました。
彼が与えた全てのものを投げ捨て、
彼さえも捨てて、レイラは去りました。
笑いたいのに唇が動きませんでした。
怒りは虚無となり、今では
それさえも消えてしまいました。
それでは、あと何が残っているのか?
マティアスのぼんやりとした目が
再び部屋の中を彷徨いました。
濡れた髪と指先に残っていた水滴が
シーツと床に落ちました。
何かが残っていなければならない。
こんな終わり方にはできない。
どうしていいか分からず、
途方に暮れた顔を撫で下ろした
マティアスは、ベッドから立ち上がり、
部屋の中を徘徊し始めました。
レイラの形跡を追うかのように
クローゼット、本棚、引き出しなど、
目に入るすべての場所を
狭い部屋のあちこちを、
かき回しました。
ほとんどの荷物が
そのまま残っているという事実が、
マティアスをさらに追い詰めました。
ひと騒ぎして乱れた部屋の中に、
さらに大きくなった雨音と
不規則で荒い息遣いが
染み込みました。
その頃、マティアスは
視線を落とした足元に落ちていた
色褪せたノート一冊を発見しました。
開いているそのノートには
子供のものと見られる文字が
はっきりと書かれていました。
マティアスは血の滲んだ手で
それを手に取りました。
幼いレイラが書いた日記でした。
手放そうとしましたが気が変わり、
マティアスは、
再びノートに視線を移しました。
子供の日記は
アルビスに到着した初日から
始まっていました。

今日アルビスに来た。
ビルおじさんにも会った。
おじさんは、とても大きくて
怖い顔をしているけれど、
実は全然怖くない人だ。
私に怒鳴らないし、殴ったりもしない。
夕食もくださった。
牛のようにモリモリ食べてこそ
良い子だと言った。
それで本当にたくさん食べたのに
悪口は言わなかった。
とても美味しかった。
私はビルおじさんが好きだ。
アルビスも本当にきれいだ。
孤児院に行かずに、
ここでビルおじさんと
暮らせるようにして欲しいと祈った。
そうすれば私は
本当に良い子になります。
今度は祈りが叶いますように。
初日の日記の裏には、
乾いた草と花びらが
数枚貼り付いていました。
子供が描いた下手な絵も
何枚かありました。
アルビスの森と花、鳥たちでした。
ゆっくりと古びた紙をめくっていた
マティアスの手は、
まもなく再び止まりました。
学校に通っているという公爵様を見た。
木に登っていた私を銃で撃とうとした。
あまりに怖くて泣いた。
ところで公爵様は本当にきれいだった。
声も、私が拾った水鳥の羽のように
柔らかかった。
貴族の方々は、元々皆きれいなのかと
ビルおじさんに聞いたけれど
違うとおっしゃった。
学校に通う公爵様が
特別にきれいなのだろう。
どうして、そんなにきれいな人が
悪いことをするのか分からない
子供の日記が想起させた
初めての出会いの記憶を思い出した
マティアスの目つきが沈みました。
川辺の木の上に座っていて
鳥だと思って撃ちそうになった
小柄な女の子。
人を殺めそうだったと
驚いた日だったせいか、
あの日のことは、彼の脳裏にも
鮮明な記憶として残っていました。
その後も、
度々狩場で、あの子を見ました。
リエットのように、
子供を可愛がる客たちは、しばしば、
親し気な素振りをしましたが、
レイラは挨拶だけして逃げるのが
常でした。
あの子は特にマティアスを
怖がっていました。
マティアスは、
子供のノートを握ったまま
ベッドの端に腰を下ろしました。
何をしているのか
理解できませんでしたが、
止めたくありませんでした。
日記の中の子供は
何にでも喜んでいました。
新しい花と鳥の名前を知って、
ビルおじさんが褒めてくれて、
天気が良くて、
初めて食べたアイスクリームが
とても美味しくて。
その間に、
突然悲しみが入り込んだのは、
やはりマティアスも
記憶している日でした。
公爵様の親戚が私を邸宅に呼んだ。
一緒に遊びたがっていたが、
私は、そのお嬢様が
やりたがっていることを
一つも知らなかった。
お嬢さんは、私が子犬より、
全然マシではなかったと言って、
行ってしまった。
実は私も
得意なことがたくさんあるけれど
話さなかった。
木登りとかけっこを
嫌がるようなお嬢さんだったから。
私は、ただじっと
待っていただけなのに、
お嬢さんがお金をくれた。
もらいたくなくても、
もらわなければならなかった。
それが恥ずかしくて走り出した。
そうしているうちに転んで
お金を落としたけれど、
きれいで怖い公爵様がそれを踏んだ。
公爵様の前でそのお金を拾ったら、
とても悔しくて悲しかった。
でも、もう悲しまないことにした。
ビルおじさんが、
それは私が自分の仕事をして
稼いだお金だから、
堂々と受け取っていいと言った。
仕事を見事にやり遂げたから、
これから
かなりいい大人になるだろうと
おっしゃった。
本当におかしい。みんな私のことを
不運な孤児だと言っていたのに。
叔母の子供たちは、私が、
あちこち、さすらいながら暮らして
娼婦にでもなるだろうとからかった。
娼婦が何かは後で知った。
とても悔しくて、
その話をした従兄と喧嘩したが、
私がもっとたくさん殴られた。
叔父さんは、私だけを叱って殴った。
罰として、一日中
ご飯を食べさせてくれなかった。
あまりにもお腹が空いたので
菜園にあるカブを抜いて
食べているところを見つかって
また殴られた。
叔父さんは、
私がずる賢い泥棒で、
精一杯、育ててやっても、結局、
そのようになるだけだと言った。
他の人たちも、みんなそうだった。
けれども、ビルおじさんだけは
私が立派な大人になると
言ってくれた。
変ではあるけれど、そうではないとは
言いたくなかった。
ビルおじさんは、何でも知っている
賢い人だから、私は本当に
立派な大人になれるかもしれない。
その言葉があまりにも嬉しくて
よく眠れない。
私が素晴らしい大人になれると思うと、
心が星のように
輝いているような気がする。
私は必ず立派な大人になろう。
それで、ビルおじさんを
とても喜ばせたい。
おじさんは、
嬉しい時にゲラゲラ笑うけれど
私はその笑い声が本当に好きだ。
マティアスは、すぐに
次のページをめくることができず
しばらく手を止めました。
あの日、子供が落とした金貨を踏む
いたずらをした理由は、
自分でも分かりませんでした。
そんないたずらに興味を持ったことは
一度もなかったのに、
なぜか、あの日のあの子には
そうしてしまいました。
危うく殺めそうだった見知らぬ子供が
気に障ったのか?
そうだったかもしれないけれど
長い年月が経ってしまい、
記憶はぼんやりしていました。
ただ、そうしてみたかった。
あまりにも小さくて痩せて
見栄えがしないのに、
あの大きな緑色の瞳だけが
際立って輝く子供が
面白かったような気がしました。
マティアスは暗闇が深まるまで
捨てられた小屋の小さな部屋に
留まりました。
幼い頃、
真面目に日記を書いていた子供は、
少し成長してからは、短いメモ程度で
日常を記録しました。
アルビスの森で見つけた花と鳥。
成績を上げたり、
自転車を習ったりするという
新しい目標。 生活費の仕分け。
ほとんどがビル・レマー、
あるいはカイル·エトマンと
共に過ごした日々が書かれていましたが
度々、見慣れない名前が
見えたりもしました。
彼らもやはり大部分が
アルビスの人々でした。
あちこちに追いやられ、
一人で見知らぬ国まで流れてきた
孤児の少女が、
レマーさんちのレイラになって
生きてきた時間の記録が、
一つ二つと、ベッドの上に
積み重なって行きました。
その記録は去年の冬、
年末が近づいていた時点で、
突然、途切れていました。
マティアスが
あれほど欲しかったものを
ついに手に入れ、あの美しい鳥の
主人になった頃でした。
本の山や本棚、
箱の中まで全て調べましたが、
その後の記録は、
どこにも残っていませんでした。
そしてレイラは立ち去り、
消えてしまいました。
彼にとっては、この人生で
最も輝かしい日々でしたが、
あの女にとっては、
美しく輝いていた人生の終わりでした。
マティアスは、
怒りや幻滅を覚えることなく、
その事実を受け入れました。
まるで自分の人生の
見物人になった気分でした。
すべてが面倒になり、
もう何がどうなろうと
構いませんでした。
もし、ここが彼の寝室なら、
習慣のように
サイドテーブルに手を伸ばし、
手に取った睡眠薬を飲んで
眠りについたはずでした。
灯りを消したマティアスは
静かに小屋を出ました。
ここに入って来た時と同じように、
悠々と、散歩をするように
足を踏み出しました。
邸宅に戻るまでの間ずっと、
マティアスは、そのような姿でした。
降りしきる雨のことなど、
意識すらできない人のように。
びしょ濡れの姿で現れた彼を見た
使用人たちがざわめきましたが、
マティアスは意に介さず。
急いで歩きました。
耳元で、ざわざわしては散るだけの
彼らの言葉は、
意識まで届きませんでした。
そんなマティアスを止めたのは、
寝室から出て来たばかりの
硬い顔をしたヘッセンでした。
彼の後ろでは、若いメイドが
怯えながら、すすり泣いていました。
カナリアの世話をしてきた
メイドでした。
マティアスは、
この状況について説明するよう
目配せしました。
乾いた唾を何度も飲み込んでから、
ヘッセンは、ようやく「鳥が・・・」
と口を開きました。
ヘッセンの声は震えていました。
その間に、メイドのすすり泣きは
さらに激しくなっていました。
ヘッセンは、
彼らしくない視線を向けたまま
残念ながら、鳥が死んだと
沈鬱に告げました。
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ビルおじさんの所へ来る前、
レイラは、厄介者扱いされ、
邪険にされ、暴力を振るわれ
娼婦になるとまで言われたことで、
自分はダメな人間なんだ。
ろくな大人になれないと
思い込んでいたのではないかと
思います。
ところが、そんなレイラに、
ビルおじさんが初めて、
彼女が立派な大人になると
言ってくれたことで、彼女は
自分でも立派な大人になれるという
希望を持つことができたのだと
思います。
レイラは、
安心して暮らせる家や、
美味しいたくさんの食事。
そして、希望まで与えてくれた。
ビルおじさんを
絶対に失望させたくなくて、
彼が誇れるような
立派な大人になりたくて、
ひたすら
頑張って来たのだと思います。
マティアスと体の関係になった後は
立派な大人になれないと思ったけれど
絶対に娼婦の身に落ちたくなくて
マティアスから
何か買ってもらうのを
必死に拒んだのではないかと
思います。
それでも、
クリスタルの鳥には愛着があり、
ベッドの下の箱が半分飛び出ていて
蓋が開いていたのは、
もしかしたら、クリスタルの鳥を
持って行こうかと
迷っていたのかもしれません。
そして、隅に置いてあった靴が、
マティアスが買って
履かせてあげた靴なら、レイラは
いつでも見られるような場所に
置いていたのかもしれません。
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