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32話 オデットとバスティアンは結婚式を挙げました。
晩餐会と祝賀パーティーの間の
休憩時間に、オデットは
あちこちで、ひそひそ話している、
「同じだ」という言葉の意味を
知りました。
信じがたい話でした。
じっくり考え込んでいたオデットは
つまり、向かい合っている
父と息子の邸宅が、
同じような姿をしているという
意味なのかと慎重に聞き返しました。
トリエ伯爵夫人は、
白髪の老人らしくない、
茶目っ気のある目を輝かせながら
頷くと、
まるで双子みたいだ。
こんな風に宣戦布告をするなんて
さすが英雄と呼ばれるほどの
度胸があると答えました。
何ということなのか。
オデットは目を見開き、
静かなため息をつきました。
ずっと怒った顔をしていた
クラウヴィッツ一家が
急いで去った理由が、今になって
分かったような気がしました。
音もなく近づいてい来たメイドが
準備ができたので行きましょうと
やや低い声で告げました。
彼女が指差したパーテーションには、
手入れの行き届いた
緑色のシルクのドレスが
かけられていました。
結婚式と晩餐会、そしてパーティー。
儀式を進める順番に用意された
三着のうち、
一番最後のドレスでした。
トリエ伯爵夫人は軽く手を振り
早く行って来るようにと告げると
窓際に置かれた椅子に座って
残りのカクテルを飲み始めました。
表情を整えたオデットは
静かに立ち上がり、
メイドに付いて行きました。
巧みに服を脱がせたメイドたちが
新しいドレスを着せている間に
長かった夏至の太陽が傾き始めました。
ちょうどドレスの最後のボタンを
閉めた時、低くクスクス笑う声が
聞こえて来ました。
オデットは、
それほど当惑した様子もなく
鏡を見ました。
そこに映った彼女を
チラチラ見ていたメイドたちは、
ギョッとして目をそらしました。
結婚式が行われる間、
ずっと繰り返されて来たことでした。
オデットは、
この冬に生まれると思っている
子供の性別を当てる賭けのことだけれど
息子と娘の、どちらに賭けたのか。
聞いたところでは、
息子だろうという意見が
優勢のようだけれど、
皆は勝率の高い方を選んだのかと
穏やかな声で尋ねました。
そして、新しい靴を履くと
再び鏡の前に立ちました。
まだ身なりを整えることが
残っていましたが、
メイドたちは気軽に動けず、
顔色を窺いました。
オデットは視線を斜めに下ろして
彼女たちを見ました。
体を投げ出して妊娠することで
足を引っ張ることに成功した女性。
この結婚が発表されると、
オデットの名前の後ろには
そのように不名誉なレッテルが
貼られました。
結婚式の日程が、
あまりにも迫っていたので、
その憶測に信憑性がありました。
おかげで、オデットは、
全帝国の社交界から
ウエスト回りを監視されるという
とんでもない経験をしました。
甚だしくは、トリエ伯爵夫人まで
それとなく、疑いの目を向けました。
彼女は、
ウエディングドレスが合わなくなると
大変なので、自分には事前に、
教えてくれても大丈夫だと
言いました。
侮辱的な噂でしたが、オデットは
あまり気にしませんでした。
どうせ時が来れば
おのずと解明されるからでした。
その話が続くほど、
ますます関心が高くなるだけなので
使用人たちのことも
あまり気にしませんでした。
ただし、適正ラインが
守られるという仮定の下では。
オデットは、
自分が難しい質問をしたのなら
申し訳なかった。
皆、隠す気がなさそうなので、
会話に参加しても大丈夫だと思った。
面白い話だと思ったからと
言いました。
メイドたちは、
それが・・・そうではなくて・・・
と戸惑っていると、
オデットは、
自分の考えが足りなかったのなら
謝る。
けれども、自分と分かち合うのが
難しい会話なら、自分に対しては
秘密を守った方が良いのではないか。
聞こえなければ、
なかったことにできるし、
そうすれば自分が、
こんな軽率なミスを犯すことも
なさそうだけれど、
メイド長の考えはどうだろうかと
尋ねました。
凍りついている若いメイドたちを
通り過ぎたオデットの視線が
メイド長の赤く燃え上がった顔の上で
止まりました。
全ての始まりには試行錯誤がつきもの。
人間関係も同様でした。
どこまで近づくか。 どこで退くか。
その適正ラインは、
それぞれ違いました。
円満な関係を維持する秩序は、
その地点を明確にしておくことから
始まりました。
オデットが先に、
自分の適性ラインを示したので、
今度は相手が答える番でした。
奥様の考えが正しいと言って
メイド長は頭を下げました。
気に入らない女主人の
機先を制しようとした時とは
全く変わった姿でした。
オデットは、
理解してくれたことにお礼を言い
自分もこれからは、
このようなミスを犯さないように
努力すると、優しい笑顔で伝えて
会話を締めくくりました。
たった一言で、
相手の考えを変えることは
できないということを
よく知っているけれど、
どうせ裏の面は、
オデットの管轄外にありました。
彼女が望むのは
不必要な感情消耗をしない礼儀と
表面的な尊重だけでした。
適正ラインを越えた考えと感情は、
完全に相手の役割でした。
オデットは再び視線を上げて、
鏡に向き合いました。
しばらくは、
息が詰まりそうな静寂が流れましたが、
メイドたちは、
すぐに各自の任務を思い出しました。
急いで服のしわと装飾を整えた
メイドが退くと、
パーテーションが片付けられました。
黙礼で感謝の意を表したオデットは、
化粧台に向かって静かに歩きました。
一人のメイドが化粧を直している間、
他のメイドは、
素早く髪の形と装飾を修正しました。
メイド長が持って来た
新しい宝石を身に付けると、
結婚式の最後の関門のための
準備が終わりました。
メイド長に短くお礼を言うと、
オデットは、
窓際に置かれた長椅子に座って
状況を見守っているトリエ伯爵夫人に
近づきました。
準備は全て終わったと、
丁寧に告げるオデットを見上げる
トリエ伯爵夫人の顔の上に
満足そうな笑みが広がりました。
彼女は、
全くそのようだと返事をしました。

極めて礼儀正しく
オデットを迎えた執事は、
ご主人様はあちらにいると
当然のように、
バスティアンの居場所を告げました。
オデットは、
気軽に足を運ぶことができず、
今や夫と呼ばれるようになった
男がいるところを眺めました。
体にぴったり合うように仕立てられた
燕尾服姿のバスティアンは、
海に面したバルコニーで
誰かと話をしているところでした。
その場を離れる
適当な言い訳を見つけられて
ほっとしたのもつかの間。
その客は、
すぐにバルコニーを離れました。
一人になったバスティアンは、
手すりに斜めに寄りかかり
タバコを一本取り出して
口に咥えました。
深呼吸をしたオデットは
ゆっくりとそこに近づき始めました。
完璧な夫婦を演じることは、
この契約で最も重要な条項でした。
それが何なのか、
まだよく分からないけれど、
少なくともグズグズしながら
夫を避ける姿を見せては
ならないようでした。
バルコニーの前に立ち止まった
オデットは、バスティアンに、
もしかして自分は
あなたが一人でいる時間を、
邪魔しているのかと尋ねました。
ゆっくり振り返ったバスティアンは
指の間に挟んだタバコで、
自分の隣の場所を指差しました。
あまり紳士らしい行動では
ありませんでしたが、オデットは
素直にその要求に応じました。
バスティアンの沈黙が
気まずくなったにオデットは、
本当に長い一日だったと
先に口を開きました。
沈んだ太陽が残した微かな光が
水平線を赤く染めていました。
しばらくの間、
さらに気まずそうな視線を向けていた
バスティアンは、
これといった返事もなく
タバコの箱を差し出しました。
小さく首を横に振って断った
オデットは、
体を回して欄干に寄りかかりました。
太陽の光で温められた
大理石の温もりが背中に広がると、
忘れていた疲労感が
押し寄せて来ました
並んで立っている二人の頭上に
青い闇が降りた後、バスティアンは
気に入ったかと
最初の言葉を口にしました。
オデットは悩んだ末に
何を言っているのかと尋ねました。
普段から、言葉数が少ない男だけれど、
表情と目つきも、
極度に平静を保っているので、
話相手を
非常に困らせる面がありました。
バスティアンは、
これから二年間住むようになった家を
どう思うかという意味だったと
答えると、
灰を払い落としたタバコを
反対側の手に持ち替え、
自由になった手で、
オデットの腰を引き寄せました。
そして、オデットに向かって
「笑って、オデット」と命令しました。
その声は、彼の優しい手つきを
しばらく忘れさせるほど
冷たく沈んでいました。
バスティアンは、
あなたに使った自分のお金の分だけ
成果を見せて欲しいのだけれど
それは無理なお願いなのかと尋ねて、
バルコニー越しのパーティー会場を
目で指しました。
そちらを見たオデットは、
「ああ」と呟きました。
新婚夫婦を見物しに来た客たちが
露骨にこちらを
チラチラ見ていました。
自分の手でサインした、
あの契約書が何を意味するのか、
改めて気づいた瞬間でした。
オデットは、
「すみません、大尉様。
初めてなので・・・」と謝ると
彼は「バスティアン」と言って、
オデットの言葉を遮りました。
その名前の意味に気づいたオデットは、
「・・・すみません、バスティアン」
と、落ち着いてミスを訂正しました。
オデットは、
まだまだ至らないと思うけれど、
それでも最善を尽くしている。
失望させることがないよう努力すると
告げると、
夫の手を押し返そうと努力するのを止め
ぎこちないが笑みを浮かべました。
赤い口紅を塗った唇を
チラッと見たバスティアンは
再び視線を上げて、
オデットと目を合わせました。
まだ固くなったままの体とは違って、
目つきはかなり毅然としていました。
オデットは、
まるで最初に習った単語を練習する
子供のように、はっきりと
「バスティアン」と発音して彼を呼ぶと
これからも、ずっとこの邸宅で
暮らすことになるのかと尋ねました。
疑問を示すたびに、オデットは
そっと目尻を曲げました。
無意識の習慣のようでした。
バスティアンは、
もう本拠地をここに移したので。
そうなるだろう。しばらくは、
あなた一人でいることになるけれどと
答えました。
オデットは、
もっと分かりやすく
説明してもらえないかと頼みました。
バスティアンは、
まだラッツで
処理しなければならない仕事が
たくさん残っているので、
一、二ヶ月くらいは、週末だけ
アルデンに来るつもりだと
説明しました。
オデットは、
つまり、それが終わるまでは
週末だけ一緒に
過ごせばいいということなのかと
尋ねました。
バスティアンは、
その通りだと答えて頷きました。
オデットは明るく笑いました。
仕方なく、
固い唇の端を上げていた時とは
はっきり、表情が違いました。
バスティアンは、
まだ完成していない部分が多いけれど
住む分には何の問題もないだろう。
女主人がここに残って、
仕上げ工事を監督すると言っておけば
見た目にも自然だろう。
もちろん、あなたが自分の役割を
きちんと果たしてくれるという前提でと
言いました。
オデットは、
心配をかけないようにする。
他に注意する点があったら
教えて欲しいと
躊躇うことなく答えました。
これまでに見たことのない
積極的な態度に、
バスティアンは笑いました。
バスティアンは、
疑いを招くような行動さえしなければ
何でも、思い通りにするように。
まさか、
そんなことはしないと思うけれど、
あなたの家族と自分の家族を
自分の家に入れないようにと
忠告しました。
オデットは、
あなたの家族とは、
実家のことを指しているのかと尋ねると
慎重な眼差しで、
海の向こうに建っている邸宅を
指しました。
バスティアンは淡々と頷きました。
世間をひっくり返した
宣戦布告をしたようには見えない
顔でした。
オデットは、
あちらと全く同じ屋敷で
本当に大丈夫なのかと尋ねました。
驚いたことにバスティアンは、
そうですね。どうもこれは
少しおかしいのではないかと
全く予想外の返事すると、
片方は壊さなければならないと
短い見解を付け加え、
タバコを灰皿に投げ入れました。
ホールから音楽が聞こえて来ました。
そろそろパーティーが
始まる時間でした。
オデットはバスティアンに
もう一つだけ答えてもらえないかと
急いで頼みました。
バスティアンは顎の先を軽く下げて
許可を示しました。
オデットは、
何の問題もなく
平穏な二年を過ごしたら、
その時、自分たちの離婚の理由は
何になるのかと尋ねました。
オデットは、
心から心配して尋ねたのに、
バスティアンは、
つまらない冗談でも聞いたように
にっこり笑うと、
何がいいと思うかと尋ねました。
オデットは、
少しずつ、考えてみることにする。
おかげさまで、考えやすい場所で
ゆったりとした二年間を
過ごせそうだからと答えると
馬鹿みたいに思われたくなくて
急いで会話を終えました。
笑いが残った顔で頷いたバスティアンは
当然の権利を行使するかのように
オデットを導きました。
腰を包み込んだ堅い腕に
とても気まずい思いをしましたが、
オデットは、
何ら感情を表に出すことなく
妻の義務を受け入れました。
二人は躊躇うことなく歩きました。
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クラウヴィッツ家の方々は
早々と帰ってしまったのですね。
確かに、家のことで
あれこれ言われる中、
パーティーに出席までしたくは
ないでしょうけれど、
逃げたと思われるくらいなら、
人の陰口なんて気にしないくらいの
度量の大きさを持った方が
いいのではないかと思います。
バスティアンと週末だけ過ごせばいいと
分かって喜ぶオデットが
可愛いと思いました。
次にバスティアンが来るまでの間、
母親が好きだった海を眺めながら
気楽に過ごして欲しいです。
結婚式のシーンを
期待していたのですが、
原作では入場したシーンだけで
終わってしまいました。残念。
マンガの11話で、雪の中、
バスティアンがオデットに
帽子をかぶせてあげたシーンと
12話の
オデットとサンドリンの絡みも
マンガのみ。
作画担当者様は、
原作の良さを取り入れつつ、
よりマンガを面白くする
演出をされているように感じました。
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