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116話 マティアスの可愛がっていたカナリアが死んでしまいました。
雨が止むと夜が明けました。
マティアスは、
西側の窓の前に置かれた椅子に
もたれかかり、
明るくなって来る朝を見ました。
昨日降った春の雨の中で
バラが咲いたようで、
開け放たれた窓から、風に乗って
新鮮なバラの香りが漂って来ました。
バラが咲いても
レイラのいない季節がやって来て、
その季節に彼の鳥が去りました。
マティアスは首を回して
がらんとした鳥かごを見つめました。
まだ、餌と水が
そのまま残った鳥かごの中には、
黄色い羽が
いくつか散らばっていましたが
彼の鳥だけが、
いなくなってしまいました。
マティアスは、
再び目の前に置かれたテーブルに
視線を移しました。
そこに置かれた小さな木箱の中には、
今や冷たく固くなったカナリアが
永遠の眠りに落ちた姿で
収められていました。
鳥と共に過ごした過去の時間が
頭の中でゆっくりと流れました。
一目で心を奪われ、
手に入れたかった小さくて美しい鳥。
怖がって逃げて悲鳴を上げていた鳥が
次第に自分に慣れていった姿は可愛く
そうして、
完全に自分のものになった鳥と、
その愛らしい歌がもたらした喜びも
やはり、かなり大きいものでした。
その鳥が、ペチャクチャ喋りながら
遊んでいた風景。
手の甲の上に座って
彼をじっと見つめる、その澄んだ目。
限りなく柔らかかった羽毛の感触は
マティアスの
大きな楽しみとなっていました。
もう全てが無意味なことに
なってしまいましたが。
マティアスは椅子から立ち上がると
テーブルに近づき、
ゆっくりとその冷たい体を
撫でてみました。
金色の羽は依然として柔らかだったので
すぐにでも再び目を覚まし、
彼に向かって
飛んでくるような気がしました。
理由は分からないと
言っていました。
ただ、
こうなってしまっただけでした。
長患いの末に
勝手に消えてしまいました。
彼の人生から永遠に。 あの女のように。
マティアスは、
しばらくテーブルの前にいました。
死んだ鳥の歌を待っている間に
眩しい朝が明けました。
その光が箱の上にも温かく降り注ぐ頃
マティアスは「レイラ」と
静かに鳥の名前を呼んでみました。
「レイラ・・・」
初めて見た瞬間、
カナリアの名前をレイラと決めました。
そんな自分の姿が滑稽だと
分かっていても気にしませんでした。
この鳥にだけは、
思いきり優しくても構いませんでした。
そして、彼が優しい分だけ
鳥は彼を愛しました。
マティアスはそれが好きでした。
何度もその甘美な名前を囁いてても、
冷たくなった鳥は
目を開けませんでした。
鳥が歌わない一日の始まりでした。

レイラは痛みに耐えられず
目を覚ましました。
微熱が続いた後、今は
体がひどく疲れて、だるく、
全身がずきずきと痛みました。
よく食べられないせいで
力が全く出ませんでしたが、
依然として食欲は戻りませんでした。
肩をすくめたレイラは
布団を頭まですっぽりかぶりました。
昼間は大丈夫だったけれど
夜を耐えるのに苦労しました。
あの男の時間だったせいだろうか。
悪夢のような記憶を振り返る自分が嫌で
レイラは目をギュッと閉じて
枕カバーを握りました。
しかし、意志で考えるのを止めることは
不可能でした。
結局、
諦めたレイラはベッドを抜け出して
窓際に近づきました。
夏の空で輝く星が、
焦点の定まらない透明な彼女の瞳を
埋め尽くしました。
自分の願いは叶ったのだろうかと
無情な神に聞きたくなる夜でした。

「ご主人様」
音が消えた世界に、
聞き慣れた声が流れ込んで来ました。
「そろそろ起きなければなりません」
とても遠い所から
聞こえて来るような気がしたその声が、
今は少し近づきました。
マティアスは寝返りを打つこともなく
目を開けました。
視界がはっきりすると、
ベッドのそばに立っている随行人の
困っているような顔が見えました。
まず彼は頭を下げて、
許可なくここまで入って来た無礼を
謝罪した後、
今日の会議には必ず出席して欲しいと
頼みました。
マティアスは、
目覚めたばかりの人らしくなく、
落ち着いた声で
「はい」と答えました。
彼が起き上がって
ヘッドクッションに寄りかかって
座ると、待機中のメイドたちが
カーテンを開けました。
眩しい日の光が差し込みました。
時間はもう一時を過ぎていましたが、
マティアスは、
それほど驚いた様子もなく
ベッドから立ち上がりました。
今はこのように乱れてしまった日常に
慣れていました。
マティアスは、
長く差し込んだ日光の中に
ぼんやりと立っていました。
使用人たちが皆退いた部屋は
とても静かでした。
それが嫌で口笛を吹いてみましたが
マティアスはクスクス笑いました。
ああ、もうレイラはいないんだ。
鳥かごが片付けられ、
今はがらんとしている部屋の片隅を
眺めると、
再び笑いがこみ上げて来ました。
今日の天気のように、
ごく普通の日常の一部のように、
カナリアが
死んでしまったという事実が、
今は淡々と受け入れられました。
マティアスは落ち着いて
外出の準備をしました。
随行人が話していた、
必ず参加しなければならない会議が
何なのかは、
タイの結び目を作った後に
ようやく思い出しました。
会議。懸案事項は何だったっけ。
おそらく最悪の事態に
備えるべきかを巡って、
役員たちが再び激しく
対立していたようでしたが、
その記憶もやはり不明瞭でした。
マティアスは、
自分の姿をあえて確認せず、
そのままドレスルームを出ました。
少し前から、服が大きくなったのが
感じられましたが、
特に気にしませんでした。
一時的なことに過敏に反応し、
服を新しく仕立てるのも
馬鹿げていると思いました。
そのような熱意も
残っていませんでした。
ロビーのホールに降りて来ると、
ぎこちない笑みを浮かべた
母親が見えました。
彼女が、たまたま、
ここをうろついている理由はないので
おそらく彼を待っていたようでした。
彼女はマティアスに
出かけるのかと尋ねました。
マティアスは「はい」と答えました。
母親は、
会社の仕事かと尋ねました。
マティアスは、いつもと変わらず
優雅な笑みを浮かべながら、
理事会が開かれる日だと答えました。
病的な容姿と超然とした態度との
ギャップに当惑し、
エリーゼ・フォン・ヘルハルトは、
言葉に詰まり、これ以上、
話を続けることができませんでした。
その間にマティアスは、
丁重に挨拶をしてホールを去りました。
邸宅の外に出ると、
もう夏の気配が感じられ始めた日差しが
マティアスを包み込みました。
レイラがいなくなって
どれくらい経ったのだろうか。
考えてみようとしましたが、
マティアスは、すぐにやめました。
結婚式は来月だったっけ?
それさえも、別世界の出来事のように
感じられました。
じっと立って空だけを眺めている
彼が心配だったのか、
随行人が「ご主人様・・・」と
声をかけながら近づいて来ました。
マティアスはゆっくりと手を上げて
彼を止めた後、
自ら車に乗り込みました。
マーク・エバースが
あらかじめ準備しておいた
今日の会議資料は、後部座席の片隅に
きちんと置かれていました。
マティアスが、それを確認している間に
車は出発しました。
マティアスは、会議資料に
集中するのが難しかったけれど、
じっくり読んで把握しようと
努めました。
当然すべきことでした。
これまでの人生で、マティアスは、
一度も自分の役割を
果たせなかったことは
ありませんでした。
今日もそんな日々の中の一日に
ならなければなりませんでした。
別に問題なく、
そのように流れているようでした。
市街地の中心部に入った車が
会社の建物の前に到着するまで、
状況は大きく変わりませんでした。
急いで降りた運転手が
後部座席のドアを開けました。
マティアスは軽い気持ちで
車から降りました。
待機していた理事たちと
自然に挨拶を交わし、
会議室の机の前に座りました。
予想通り会議は、
序盤から熱を帯びていました。
国境線が砲火に包まれる前に、
この会議室が先に
焦土と化す勢いでした。
今日は確実な一つの道筋を
選ばなければならなかったし、
方向を決めることが、ヘルハルト公爵の
最大の責務だということも、
マティアスは、よく知っていました。
彼は微かな頭痛を忘れようと努めながら
目の前に広がっている資料に
集中しました。
しかし複雑な数字と文言は、
意味もなく頭の中を、
徘徊しているだけでした。
ある瞬間からは、
何を見ているのかさえも
分からなくなりました。
あり得ない音が聞こえ始めたのは
その時からでした。
転んだ自転車の車輪が
空中で空回りする音。
風に揺れる葉が波打つ音と
心臓が優しく鼓動する音。
マティアスは、痩せて節くれ立った手で
目の前に置かれた水のコップを
握りました。
しかし、逃れようとすればするほど、
幻聴は、ますます鮮明になり、
彼を泥沼のような記憶の中に
引きずり込んで行きました。
倒れているレイラに一歩ずつ近づくほど
心臓の鼓動が速くなりました。
バラの香りが漂う体の匂いが
感じられるほど、近づいた頃からは、
喉が渇いて唇が乾きました。
しかし、その全ての動揺は、
すぐに消え去りました。
彼の影の中で
レイラが頭を上げたその瞬間、
全てが消え去り、
一人の女だけが残りました。
埃まみれの女子校の制服を着て、
路上に倒れている、
その小さな女の子が
マティアスを圧倒しました。
見下ろしているのは彼なのに、
かえって自分が、
卑賤になった気分でした。
それまで感じたことがなく、
何なのかも分からなかった
あの日の感情が、
もう分かったような気がしました。
それを否定したくて必死だったけれども
レイラの前に立った時の自分は、
いつも、そうだったということも
分かったような気がしました。
今も同じでした。
あの女は、彼を限りなく弱く、
みすぼらしくしました。
マティアスは、
自分を呼ぶ声に顔を上げましたが、
これ以上、何にも
集中できませんでした。
適当にしゃべった後、家に戻って
再び睡眠薬を飲みたくなりました。
他のことには何も
気を使いたくありませんでした。
今すぐこの世が消えてしまっても
構わないと思いました。
狂った考えでした。
非現実的に感じられる会議室の風景を
ゆっくり見回したマティアスは、
残っている理性を総動員して
申し訳ないと謝罪し、
息を整えて首をまっすぐに伸ばすと、
今の自分は、最善の判断を下すことが
難しいようだと告げました。
それはどういうことなのかと聞かれると
マティアスは、
十分な議論を重ねた後、
理事会が下した決定を
ヘルハルト家は尊重する。
その最終調整はハウセン氏に
担当してもらって進めるつもりだと
答えると、
深みを増した青い目を上げて
専務理事の顔を眺めました。
先代ヘルハルト公爵の時から、
ずっと実質的な経営を率いてきた
ハウセンは、
マティアスに会社の仕事を教えた
師匠でもありました。
大声が飛び交っていた会議室は、
あっという間に
冷たい静寂に包まれました。
ヘルハルト公爵の健康が
悪化したという噂は
すでに広まっていましたが、
まさか、ここまでひどかったのかと
役員たちがざわめき始めた頃、
公爵は席を立ち、
もう一度、謝罪の言葉を口にしました。
事実上、業務を放棄すると
宣言した人らしくなく、
その場にいる人たちに気を配る
彼の姿勢と表情は気品があって
厳粛でした。
しかし、その目つきは、まるで
冷たい炎に包まれた人のようであり
いや、まさに、彼自身が炎そのものに
なってしまったような気もしました。
マティアスは、
そのまま会議室を出て行きました。
強張った手が、なかなかボタンを
留めることができないので、結局、
ジャケットを脱いでしまいました。
激しく引っ張ったタイも適当に丸めて
ジャケットのポケットに
押し込みました。
急いで付いて来たマーク・エバースに
付き添いは必要ないと、
マティアスは命令しました。
荒い息が混じった声が
裂けるように聞こえました。
その威圧感に圧倒された随行人が
ぐずぐずしている間に、
マティアスは壮大なロビーを通り抜けて
大理石の階段を降りました。
彼は途方もなく明るい世界の中を
ふらふらと歩き始めました。
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どなたかが、
カナリアの名前は
レイラではないかと
推測されていたように思いますが、
カナリアが死んで初めて
その名前がレイラだということが
明らかにされました。
本物のレイラがいなくなっても
まだカナリアのレイラが
マティアスを慰めてくれたので
辛うじて正常な精神を保てたけれど
そのカナリアが死んでしまったことで
もうマティアスの精神は
ほぼ崩壊してしまったように
思います。
レイラはマティアスを
傷つけたいと思っていたけれど
まさか、ここまでマティアスが
腑抜けになるとは
想像もできなかったと思います。
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