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118話 マティアスは邸宅に引きこもったままです。
ヘルハルト公爵が、健康問題で
引きこもっているという噂は、
たちまち、
カルスバルの上流社会のあちこちに
広まりました。
まさかと思った人たちも、
今では、それを既成事実として
受け入れなければ
なりませんでした。
すべての公式の場から、
マティアス・フォン・ヘルハルトが
姿を消したからでした。
アルビスを訪問した彼らも
公爵の顔を見ることができないのは
同じでした。
社交界の好奇心は、
日増しに高まって行きましたが、
公爵家では、
マティアスは過労で体調を崩し、
離れで療養中であると
短い返答を繰り返すことで
線を引きました。
再び結婚が
延期されるかもしれないという噂が
そろそろ
出回り始めたところでした。
そのため、今日、クロディーヌは
アルビスを訪れました。
連絡もなしに訪れたクロディーヌが
これから、マティアスの見舞いに
離れへ行くという意思を
明らかにすると、
エリーゼは曖昧な笑みを浮かべながら
あの子が起きているかどうか
分からない。
体調が良くないので、
眠っていることが多いと告げました。
クロディーヌは、
大丈夫。眠っている顔を見るだけでも
ほっとすると言いましたが、
エリーゼは、
マティアスが離れに人を入れるのを
好まないことを伝えました。
しかし、
普段なら適当に引き下がるのに、
今日のクロディーヌは、
自分は公爵の婚約者ではないかと
頑固に主張しました。
結局、エリーゼは
諦めるように頷きました。
むやみに隠して、
予定通り推し進める状況では
ありませんでした。
マティアスの状態が良くならなければ
結婚を、数ヵ月でも延期しなければ
ならないかもしれない。
ブラント家には返す言葉もないので
これ以上、
クロディーヌを阻む言い訳を探すのは
困難でした。
エリーゼは、
そういうことであれば、
そうするようにと返事をしました。
クロディーヌは、
理解してもらえたことにお礼を言うと
にっこり微笑んで立ち上がりました。
マティアスのお見舞いのために
用意して来た花束を
持って行くのを忘れませんでした。
咲き始めたバラの香りが
彼女の歩みに合わせて流れました。
クロディーヌを乗せたブラント家の車は
川沿いの道を走って
離れに向かいました。
公爵邸に滞在している間、
絶えず口元に浮かんでいた
華やかな笑みが消えた
クロディーヌの顔色は、
冷たく沈んでいました。
果たして、あの男は崩れるのか。
それとも、
剛直に耐え抜くのか。
それが、本当に気になっていました。
そして今、その答えを知ったけれど
あまり愉快なだけでは
ありませんでした。
気持ちとしては、
惨めに崩れた姿を見たかったけれど、
一方では、
ヘルハルト公爵らしい品位を
保って欲しいとも思いました。
ところが、結局こんな有様だなんて。
クロディーヌが舌打ちをしている間に
車は離れのある川辺に止まりました。
車から降りたクロディーヌの口元には
再び笑みが浮かびました。
不快極まりない気持ちは
相変わらずでしたが、
崩れたヘルハルト公爵を
嘲笑うことができる日が来たことに
そろそろ期待感が
湧き起こったりもしました。
クロディーヌは、
これも、レイラに感謝すべきだろうかと
考えました。

ノックをしても返事が聞こえないので
随行人は
「ご主人様、ブラント令嬢が・・・」
と言いながら、
応接室に静かに入ったところ、
ギョッとして言葉を濁しました。
公爵は、
シャワーを浴びたばかりの姿で
誰かと電話をしていました。
おそらく、
レイラ・ルウェリンに
関することだろうと思いました。
その件がなかなか進展しないと、
公爵は直接乗り出し、
あらゆる人脈と手段を動員して、
ビル・レマーとレイラ・ルウェリンを
探しました。
それが、最近、公爵が執着している
唯一のことでした。
その他の時間は、
薬を飲んで死んだように眠ったり
バルコニーに座って、
じっと流れる川とその向こうの森を
眺めることが全てでした。
クロディーヌに
しばらく待たなければならないと
伝えるために、
振り返ったマーク・エバースは、
驚いて後ずさりしました。
いつの間にがブラント令嬢が
応接室の前まで近づいていました。
マーク・エバースは
ご主人様は今・・・と伝えましたが
クロディーヌは、
そこを退くよう命令しました。
マーク・エバースが戸惑っていると
クロディーヌは鋭く凛とした声で、
命令だと告げました。
やむを得ずマーク・エバースが
一歩退くと、
通話を終えたマティアスが、
彼らの方に顔を向けました。
彼はガウン一枚を軽く羽織ったのが
全てでした。
当惑しましたが、
クロディーヌは退きませんでした。
彼女と目が合ったマティアスも
同じでした。
クロディーヌは、
平静を装って笑いながら
「こんにちは、ヘルハルト公爵」と
先に挨拶をしました。
軽快な足取りと合わせて、
靴底の音が響き渡りました。
クロディーヌは、
婚約者が病気だと聞いて
知らんぷりするわけにはいかないので
お見舞いに来たと告げると、
マティアスのやつれた顔を
まっすぐ見ながら、
にっこりと微笑みました。
少しは戸惑うのではないかという
予想とは違い、マティアスは、
「なるほど、お座りください」と
返事をすると、
いつもと変わらない表情で
仮面のような笑みを浮かべました。
想像もできなかった姿なのに、
その言葉遣いと態度、身振りは
彼女が知っていた
マティアス・フォン・ヘルハルト
そのままでした。
クロディーヌはソファーに座り、
表情を整えました。
彼女がテーブルに置いた
バラの花束を見たマティアスの口元に
しばらく浮かんだ妙な微笑は、
すぐに姿を消しました。
マティアスは、
見ての通り、
急に押しかけて来た淑女を迎えるのに
ふさわしい姿をしていないので、
少し待って欲しいと頼みました。
いつもより、一段とゆっくりして
落ち着いた口調のせいか、
マティアスの声は、陰鬱なほど
低く聞こえました。
クロディーヌは、ひるんでいる気配を
感じさせないように
首と腰をまっすぐにして、
「はい。いくらでも」と
大胆不敵に答えました。
しかし、クロディーヌは、
これ以上、半裸に近い男を
見ることができず、
視線を少し落としました。
軽く頷いたマティアスが
寝室に去った後、
クロディーヌは、ようやく
息をつくことができました。
なぜ、あえて離れに
閉じこもっているのだろうか?
使用人たちが運んで来たお茶を
飲みながら、クロディーヌは、
注意深く、
離れの応接室を観察しました。
二人の思い出が詰まった場所でも
あるのだろうか。
考えがそこまで及ぶと、
ぬかるみに落ちて
転がっているような気がしました。
その頃、マティアスが、
ズボンにシャツ一枚を羽織っただけで
戻って来ました。
まだ濡れている髪は、
額の上に下ろしたままでした。
黙って自分を見下ろす
マティアスの視線に向き合った
クロディーヌは、
何の許可もなくやって来た
自分の無礼を責めるつもりなのかと
防御的に尋ねました。
病人であるにもかかわらず、
彼が与える威圧感は依然として大きく
むしろ、以前よりもっと
脅威的に感じられたりもしました。
マティアスは、
とんでもないと答えると、
ゆっくりと動いて、
彼女の向かいの席に座りました。
そして、
むしろ良かったと思う。
そうでなくても令嬢に
会おうとしていたところだったからと
話しました。
クロディーヌは、
どういった用件で、公爵は
先に自分と会おうとしたのか。
自分は、
自分たちの結婚についての話以外、
特に話題が思い浮かばないと言うと、
マティアスは、
その話をするつもりだったと
返事をしました。
不安に包まれたクロディーヌが
棘を立てても、マティアスは
一様に落ち着いていました。
クロディーヌは、
公爵の健康のせいで、
結婚を延期しなければならないと
思っているなら、その話は聞かない。
式を挙げる壇上まで、
二本の足で歩いて来られるのであれば
自分は構わないと主張しました。
クロディーヌの見開いた目に
力が込められました。
彼女は、
見たところ、その程度であれば
何の問題にもならないようだと
主張しました。
マティアスは、「令嬢」と呼びました。
クロディーヌは、
これ以上話さないで。
話を聞かないと訴えました。
マティアスは、
「クロディーヌ・ブラント」と
呼びました。
クロディーヌの頭の中が
ぼーっとしました。
婚約が成立してから数年間、
彼は一度もこのように
彼女の名前を呼びませんでした。
事の成り行きが変わった。
否定できないその事実に
息が詰まる頃、ついにマティアスは
ここで止めておこうと告げました。

標本を整理することに没頭していた
レイラは、
休み休みするように。
そうしないと体に悪いと、
背後から聞こえてきた声に、
はっとしました。
レイラは、大丈夫だと答えると、
眼鏡をかけ直して、にっこり微笑み
別に大変な仕事でもないと
返事をしました。
長い間、書かずに過ごしたため、
しばらく不慣れだった母国語に、
今はかなり慣れました。
レイラと向き合った中年の博士は、
ルウェリンさんは、
本当に明るくていい人だ。
自分は先に帰るので、ルウェリンさんも
一通り仕上げて早く帰るようにと、
微笑みながら告げて、去りました。
研究室は、再び静かになりました。
生物標本の整理を終えたレイラは、
今日送るべき郵便物を
几帳面にチェックしました。
博士が開いた本と書類で
散らかっている机を片付けることも
忘れませんでした。
戸締まりをして研究室を出ると、
初夏の午後の柔らかい日差しが
廊下の窓から差し込んでいました。
肩から斜めに掛けたカバンの紐を
握ったレイラは、勇ましい足取りで
長い廊下を歩きました。
ロビタ南部にある海岸都市シエンは、
美しい海と港で名高い都市でした。
ベルクのものほどではないけれど
かなり大きな規模の自然史博物館と
その付属研究所も、
シエンの名物の一つでした。
急いで郵便物を出したレイラは、
市場に立ち寄って、
一日中食べたかった桃を買いました。
アルビスだったら、
かごを持って森へ行けばいいのに。
思わず、そんなことを考えると
虚しくなって、
少し笑ったりもしました。
家へ帰る途中、
レイラは気づかないうちに、
公爵は、
もうすぐ結婚するのだろうと考え、
少し、ぼーっとしていました。
角を曲がって走って来る自転車を
発見できなかったのは
そのためでした。
はっとした時、自転車は、
すでに彼女の目の前まで
近づいていました。
鋭い金属の音と入り混じった
通行人の悲鳴が響き渡りました。

長い沈黙が続く間、
クロディーヌは指先一つ動かさずに
じっとマティアスを凝視しました。
マティアスも、
その視線を避けずに向き合いました。
開いた窓から吹き込む川風に
二人の髪と服の裾が揺れていなかったら
時間が止まったと言ってもいい
光景でした。
クスクス笑ったクロディーヌは
本当に馬鹿げていると、
先に口を開きました。
そして、
あえて、あなたが先に
自分にこんなことを言うなんて、
本当に馬鹿げていると言って
わざと悪く見えるように
高らかに笑っていましたが、
その笑いが止まると、
クロディーヌの顔は
氷のように冷たくなりました。
彼女は、
公爵の体調が悪くて
判断力も鈍っているようだ。
今の話は聞かなかったことにすると
言いました。
しかし、マティアスは、
いつにも増して明瞭な判断だと
反論しました。
クロディーヌは、
なぜなのか。
あの卑しい孤児を探して、
自分の代わりに、公爵夫人の席に
座らせようとしているのかと
尋ねました。
自分の口から出た言葉に
クロディーヌは自分でも
ビクッとしました。
もう、あなたは子供ではない。
淑女にならなければならないと
アルビスに向かっていた馬車の中で
母親の頼みを聞いたその日以来、
自分の一部のように思って来た
優雅な淑女の仮面を
脱ぎ捨てた気分でした。
このくらいにしておかなければ
ならないことは分かっているけれど
そうしたくありませんでした。
クロディーヌは、
マティアスが驚いていないことを
指摘しました。
彼は眉を少しつり上げただけで、
これといった感情の動揺を
見せませんでした。
マティアスは、
確かに、愛人として、
一生そばに置くつもりだったと
打ち明けました。
クロディーヌは、
自分に隠す気もなかったのだろう。
ところで、たとえ自分が
婚約破棄を受け入れたとしても
公爵の望み通りにはいかないと
思うけれど、
どうするつもりなのかと尋ねました。
クロディーヌの唇に笑みが戻りました。
彼女は、
運が良ければ、レイラを
見つけることはできるけれど、
絶対に手に入れることはできない。
あの子は、
全部知って逃げたのだからと
話しました。
マティアスは、
「・・・知っている?」と聞き返すと
クロディーヌは、
ヘルハルト公爵が欲しがった孤児を
手に入れるために、
どんな計略を図ったのか。
それに巻き込まれて、
踏みにじられた姿が、
どれほど可哀想で情けないのか、
全て教えた。
それなのに、レイラが
戻って来てくれると思うのか。
とんでもない。
この世に、
そんな男を愛する女はいないと
話しました。
マティアスの顔に、
ようやく表情と呼べるような
感情の変化が起きました。
クロディーヌは、
微かに笑みを浮かべながら、
だから、虚しい希望は捨てて、
あなたらしく、
ヘルハルト公爵の人生を
生きるように。
自分は喜んで、そんなあなたに
耐える公爵夫人になってあげると
はっきり告げました。
マティアスは、
背もたれに深くもたれかかり
じっと彼女を見ていました。
本音の分からない目つきでしたが
どうでも良いと思いました。
クロディーヌは、あの男が
仮面を奪ってくれたおかげで得た、
今、この瞬間の自由を
満喫することにしました。
どういう意味か本当に分からないのかと
尋ねるクロディーヌの
嘲笑のこもった瞳が冷たく輝きました。
彼女は、
マティアス・フォン・ヘルハルト。
あなたは、あの子を永遠に失ったと
告げました。
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桃が食べたくなるレイラは
妊娠しているのが
確実なように思います。
子供の頃から、
ヘルハルト公爵夫人の座を
手に入れること以外、
将来の目的が何もなかった
クロディーヌ。
淑女の仮面を脱ぎ捨ててまで、
マティアスの気持ちを変えようと
必死になっていますが、
このまま結婚して、
ヘルハルト公爵夫人の座を
手に入れても、ただそれだけ。
つい最近までマティアスは、
来月に結婚することを考えていたので
クロディーヌに直接
結婚を止めると言い出したのは
相当な覚悟があってのことだと
思います。
もしもマティアスが心変わりして
無事に結婚できたとしても、
おそらくクロディーヌとは
ベッドを共にすることもなく
子供も生まれず、そうなると
レイラの子供を後継者にする
可能性も出て来ます。
はたして、クロディーヌは、
ヘルハルト公爵夫人の座さえ
手に入れれば、
そうなってもいいのでしょうか。
名前さえ呼んでもらえなかった人と
結婚するくらいなら、
一時プライドがボロボロになっても
クロディーヌのことを
思いやってくれて
彼女の心の傷を癒してくれる人と
結婚する方が幸せになれると
思います。
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