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36話 晩さん会の後、オデットは寝室に戻ると・・・
節度のあるノックの音が
夜更けの静けさの中に染み込みました。
ぼんやりと鏡を見つめながら
ブラッシングをしていたオデットは
びっくり仰天して、
そちらへ顔を向けました。
危うく落としそうになったヘアブラシを
握り直している間に、
再び、ノックの音がしました。
それは寝室のドアではなく、
夫婦の寝室をつないでいる通路側から
聞こえて来る音でした。
その意味を理解したオデットが
慌てて立ち上がったと同時に、
彼女を呼ぶ聞き慣れた声が
聞こえて来ました。
オデットは入室を許可すると
急いで化粧台を片付けました。
蓋を閉めたスミレクリームを
元の場所に置くと、
一見、壁のパネル装飾と
あまり変わらないドアが
ゆっくりと開きました。
その向こうから、
姿を現したバスティアンは、
青灰色のガウンを羽織っていました。
どうすればいいのか分からず、
オデットは、そこに立ち尽くしたまま
どうしたのかと、慎重に尋ねました。
数回、週末を一緒に過ごしたけれど
あのドアが開いたのは
初めてのことでした。
その状況に当惑するオデットと違って
バスティアンは、極めて
感情を表に出さない顔をしていました。
化粧台とベッドの間の中間地点で
立ち止まったバスティアンは、
何の返事もせず、
オデットを見つめていました。
シャワーを浴びたばかりなのか
濡れている髪の毛は、
普段より濃い色を帯びていました。
少しはだけたガウンの間から
見える肌にも、
まだ水滴が残っていました。
これほど、無防備で
乱れた姿をしている瞬間にも、
目つきは依然として冷厳でした。
その静かな凝視はしばらく続きました。
堂々とした姿を見せようと
努力しましたが、結局オデットは
諦めたかのように後ずさりしました。
日に焼けた砂が、
肌に乗って流れるような
奇妙な感覚を覚えました。
スリッパを履いているつま先。
握り合っている手。
そしてまた赤くなった顔。
バスティアンは、
オデットをゆっくり観察した後、
背を向けました。
少し不快そうに見えた表情の意味に
気づいたのは、
彼が窓際のティーテーブルの前に
座った後でした。
やっと一息ついて振り返ったオデットは
今にも悲鳴を上げそうな口を
急いで塞ぎました。
そこに置かれている化粧台の鏡は、
白いモスリンのナイトドレスと
その薄い生地の下に、
鮮明に浮かび上がっている
体の線まで全て映し出していました。
急いで胸を隠したオデットは、
半分魂が抜けたまま
周囲を見回しました。
ガウンは、
ベッドのフットベンチの上に
置かれていました。
それほど離れていないけれど、
裸同然の格好で、バスティアンの前を
堂々と歩く気になれませんでした。
痛くなるほど強く噛んでいた唇を
離したオデットは、
少しだけ視線を・・・と
ようやく口を開きました。
どれほど情けなく見えるか
よく分かっていましたが、
他にこの苦境から抜け出す方法が
思い浮かびませんでした。
ゆるく腕を組んで、
オデットを見守っていたバスティアンは
失笑混じりのため息をつきました。
呆れている様子でしたが、
幸い窓の向こうに視線を移す程度の
配慮は見せてくれました。
オデットは、ようやく
フットベンチに近づきました。
ガウンで体を隠してから、
さらに大きな羞恥心に襲われました。
散らかっている化粧台なんかに
気をとられて、こんな恥をかくなんて。
全く馬鹿げたことでした。
オデットは
バスティアンにお礼を言い
もう終わったと告げました。
逃げ出したい気持ちだけでしたが、
オデットは必死に
毅然としたふりをしました。
ゆっくりとオデットの方を向いた
バスティアンの顔には、
先ほどのような不快感が
漂っていました。
彼は、額を覆っている髪を
払い除けると、
座るようにと命令しました。
そして、今日の晩餐会のことで
分かち合うべき話があるようだけれど
そう思わないかと尋ねました。
バスティアンの口調は、
いつもと変わらず無情でした。
オデットは、その事務的な態度に
心から感謝しました。
少なくとも、今この瞬間だけは
確かにそうでした。

指先の震えが止まった後も、
オデットは依然として、
ガウンを強く握りしめていました。
すでに全て見せた後で、
こんなことをして、
一体、何の役に立つのか
分かりませんでしたが、バスティアンは
あえて指摘しませんでした。
深夜、ガタガタ震える女を
待っているうちに、
時間を無駄にする気は
ありませんでした。
バスティアンは、
優雅なお姫様ごっこをさせるために
あなたを、あの場に
座らせたのではないと、
すぐさま本論を切り出しました。
オデットは驚いた目を瞬かせながら
自分が理解できるように
話してくれないかと説明を求めました。
バスティアンは、
あなたは平民と結婚したのだから
平民の妻であるあなたも、
もう平民だと告げました。
オデットは、
それは、自分もよく知っていると
返事をすると、バスティアンは
「そうかな?」と聞き返しました。
やんわりと曲がったバスティアンの唇が
赤く輝きました。
バスティアンは、
それなら平民らしく振舞うようにしろ。
貴婦人ぶって高尚な姿で
振舞っているうちに、踏みにじられて
噛みちぎられるという情けない姿を
見たくないという意味だと言えば
理解しやすいだろうかと
話しました。
オデットは、
晩餐会での出来事に対する
自分の対応が気に入らなかったのなら
その点はお詫びする。
覚悟はしていたけれど、
とても混乱してしまったため、
至らない点があったということは
認める。
しかし、自分が階級意識を
捨てることができなかったという
指摘には同意できないと思うと、
オデットは眉を顰めながら
反論しました。
両頬が上気していましたが、
声だけはいつもと変わらず
落ち着いていました。
続けて、オデットは、
自分のやり方で行動しただけ。
それは身分とは関係なく、
ただ自分という人間の考えから
出て来た判断だったと主張しました。
考え。余程好きなのか。
その単語を言うオデットの瞳が
きらりと光りました。
オデットは、
公爵家の令嬢であれ軍人の妻であれ、
自分は自分。
そして今夜、自分は、
十分に品格のある女主人だったと思うと
主張しました。
これではいけないと思いましたが、
喉元までこみ上げて来た鬱憤を
最後まで我慢できませんでした。
オデットは、
目の前にいる男の友人や恋人に
耐えるために、
それこそ、ありったけの力を
振り絞りました。
蔑視と嘲弄の中でも笑いました。
体を売る女のように扱われ、
侮辱されても耐えました。
約束したから。 その責任を
果たしたかったからでした。
もし、本当に
ディセン家の娘だという幻影を
捨てられなかったら、最後まで、
あの場所を守り続けることは
なかっただろう。
あの全てを甘受したのは、
ただクラウヴィッツ夫人の職分を
全うするためだったからでした。
オデットは、
窓の向こうの夜の海を眺めながら
涙を堪えました。
バスティアンに、
分かってもらいたかったわけでは
ありませんでした。
これは、単なる
契約履行に過ぎないからでした。
オデットは一瞬も、その事実を
忘れたことがありませんでした。
それでも、このように心が痛むのは、
まだ自分のものではないものの重さに
慣れていないせいのようでした。
じっと彼女を見つめていた
バスティアンは、
オデットの彼女自身に対する評価が、
元々そんなに高い方なのかと、
明らかに嘲笑が込められた
質問をしました。
オデットは、
それなりの事に関してはと答えました。
オデットは熱っぽくなった顔を
彼の方へ向けました。
不安で、再び胸が
ドキドキし始めましたが、
引き下がるつもりはありませんでした。
結局、時間が経てば慣れるもの。
オデットは、
その事実をよく知っていたので
大丈夫だったのかもしれませんでした。
背もたれの奥深くに寄りかかって
座ったバスティアンは、
今晩、助言したことを
もう忘れてしまった淑女が
言うことではないようだと
非難しました。
オデットは、
その点は心配しないで欲しい。
考えるのは、
あなたの役目だという言葉なら、
確かに覚えていると言い返しました。
バスティアンは、
分かっていながら破るのかと
聞き返しました。
オデットは、
その助言は、
クラウヴィッツ夫人の仕事のための
ものではなかったか。
あなたの妻の役目を
果たさなければならない時は、
あなたの考えに従うようにしてみると
答えました。
バスティアンは、
「それでは、今は?」と尋ねました。
悩んでいたオデットは、
これは、オデット自身のことだと
言ってもいいかと、
とんでもない質問をしました。
茶目っ気一つなく真剣な表情を見ると
冗談を言おうとしているわけでは
なさそうでした。
他でもないオデット。 ただのオデット。
女性が見つけた妥協点の意味を悟った
バスティアンは、失笑しました。
戸惑っていたオデットは
再び最初のように緊張して
息を殺しました。 一言も譲らず、
きちんと口答えをしていた時とは
全く違う姿でした。
ゆっくりとため息をつくことで
笑いを消したバスティアンは、
皆目、見当もつかない妻を
じっと見つめました。
あの気分が悪かった晩餐会については
これ以上、
考えたくありませんでした。
神経を逆撫でした
不満だらけの妻の存在も同じでしたが
全ての虚飾をはぎ取った場所に
残っている女は、ただ美しく
その事実は
バスティアンを虚しくさせました。
バスティアンは、
いつ頃、また自分の妻の仕事を
始めるつもりなのかと尋ねると、
目を細めて、ガウンを握っている
オデットの手を見ました。
正確には、その手にはめられた
結婚指輪でした。
オデットは、
自分があなたの妻だと
信じている人々の前では
クラウヴィッツ夫人になると
答えました。
バスティアンは、
いずれにせよ、今は違うのかと
尋ねました。
オデットは「はい」と答え、
アドバイスしてくれるなら聞くので
話して欲しいと促しました。
バスティアンは、
自分の好き勝手にすると
大口をたたいていたと思ったけれどと
皮肉を言うと、オデットは、
そういう意味ではなかったと否定し、
小さく首を横に振りました。
深い夜の色に似た髪が波打ちました。
オデットは、
自分の最善とあなたの望みが
一致しなければ言って欲しい。
一朝一夕で、全く別の人間になることは
できないけれど、それでもできるだけ、
その差を縮められるように努力すると
告げました。
彼を見るオデットの目つきが
一段と穏やかになりました。
バスティアンは、
自分は名誉ある敗北者より、
非情な勝者になりたいと答えました。
彼は今、
ガウンを握り締めている
オデットの白い手の甲を見ていました。
じっくり考え込んでいたオデットは
多少、品位が欠けても?と
慎重に聞き返しました。
バスティアンは、
どんな手を使ってでも勝つ。
それがまさに
クラウヴィッツの品格だからと
答えました。
しかし、オデットは、
ラナト伯爵夫人に対しては、
そんなことをしてはいけないだろうと
指摘しました。
バスティアンは、
その理由を尋ねました。
オデットは、
ラナト伯爵夫人の方がずっと
重要だと、あの日あなたが・・・
と言いかけたところで、
バスティアンは、その言葉を遮り、
自分たちが夫婦の役割を遂行する時は、
妻の権利を優先すると
確かに言ったはずなのに、
記憶力が半分しかないのかと
非難しました。
そして、オデットが、
必死に隠している体を見ていた
バスティアンは
ゆっくりと視線を上げました。
オデットは、
もちろん知っているけれど、
自分たちの契約を知っている
ラナト伯爵夫人の前で、
あなたの妻のふりをするのは難しいと
言うと、バスティアンは、
そういう時は、
あなたの好きな考え事をすればいい。
この仕事をやり遂げる見返りとして
手に入れるお金の額を
思い浮かべるようにと、
嘲笑うような助言をすると
席を立ちました。
うずくような感じがする下から
始まった熱気が
だんだん鮮明になって行きました。
時間を無駄にすればするほど、
より滑稽な格好になるだけでした。
もちろん、自分の好きなようにしても
構いませんでした。
バスティアンは、
本能的な欲望を満足させる行為に
特別な意味付けをしたことが
なかったし、今もそうでした。
自分には契約を無視するだけの
力があるという事実も
よく知っていました。
しかし、一瞬の衝動が
もたらすかもしれない影響を
甘受するだけの価値があるかと思えば
それは明らかな損失でした。
二年間の偽の妻。
バスティアンが定めた
オデットの意味は、そこまででした。
バスティアンは、
ぼんやりとした青緑色の瞳を
見つめながら、
「それでは、お休みなさい」と
短い挨拶をしました。
寝室を横切って行った彼が
通路のドアを開けて再び閉めるまで
オデットの返事は聞こえませんでした。
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マンガの29話では、
オデットが
バスティアンのはだけている胸を見て
恥ずかしがったり、バスティアンが
オデットのためを思って、
自分の気持ちを抑えている風に
描かれていましたが、原作は、
あっさりとしたものでした。
しかし、バスティアンの
オデットに対する気持ちや
体の反応は、しっかり
感じ取ることができました。
時間が経てば慣れるもの。
この言葉から、オデットが
どんな苦境にも耐えて来た
力強さを感じました。
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