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120話 かかってきた電話の内容は?
通話をしていた随行人の声が
止まったかと思うと、
寝室に近づく足音が響き渡りました。
随行人の表情を見たマティアスは
少し席を外してくれないかと
エトマン博士に頼みました。
彼はやむを得ず寝室を離れました。
マーク・エバースは
ベッドのそばに近づくと、
あの件について、進展があったと
連絡が来た。
ビル・レマーさんの遠い親戚が
ロビタに住んでいるそうで、
彼とレイラ・ルウェリンの二人が
ロビタの国境を通過した記録も
発見したようだと
慎重に報告しました。
公爵以外に、
誰も聞いていないということを
知りながらも、マーク・エバースは
精一杯声を低くしました。
意識を取り戻したばかりの患者に
このような言葉を伝えてもいいのか
よく判断がつきませんでしたが、
彼を治す唯一の道が、
これしかないように思えたので、
伝えるのを遅らせるのは困難でした。
公爵は、鳥たちがさえずる窓の外を
眺めながら、驚くほど穏やかな声で
ロビタのどこなのかと尋ねました。
マーク・エバースは、
まだそこまで調査できていないようだと
答えました。
マティアスは、
できるだけ早く調べるよう伝えてと
指示しました。
マーク・エバースを見る公爵の目は
催促する言葉とは裏腹に
落ち着いていました。
若干の狂気さえ感じられた
最近の姿とは明らかに違って
本来のヘルハルト公爵が
戻って来たような態度でした。
しかし、マーク・エバースは、
すぐに自分の判断を
訂正しなければなりませんでした。
虚空の一点を、
無表情で眺めていた公爵が、
突然静かな笑みを浮かべました。
プレゼントの箱を開けた子供のような
無垢なその笑みは、
しばらく留まって姿を消しましたが、
マーク・エバースを襲った寒気は
長い間、消えませんでした。
公爵は、
まだ気が狂っているようでした。

わあーっ!
レイラは心から感嘆しました。
ビルおじさんが、
何気なく食卓に置いた箱の中には
薄茶色の革のカバンが入っていました。
作りがとても精巧かつ繊細で、
一目見て、
良いカバンだと分かりました。
レイラは、
どうして急にプレゼントをくれるのかと
尋ねました。
ビルおじさんは、
プレゼントをあげるのに、
どうしても理由が必要な決まりは
ないのではないかと答えると
首を掻きながら目を逸らし、
今年は誕生日プレゼントも
あげられなかったし・・・・と
それとなく付け加えました。
彼の真心に気づいたレイラの口元に
笑みが広がりました。
そういえば、春と共に
誕生日が過ぎたことも忘れて
過ごして来ました。
忘れようと努力していたみたいだけれど
これ以上、
考えたくはありませんでした。
レイラは
ビルおじさんにお礼を言いながらも
少しやりすぎではないかと、
喜びと心配が共存する目で
ビルを見上げました。
ビルは、
これしきのことが何だと言うのか。
見た目はもっともらしいけれど
全くの安物だと言いました。
レイラは、そんなはずがないと
反論しましたが、ビルおじさんは
自分がそうだと言っているのだから
そうなんだと、
訳もなくぶつぶつ言いました。
しかし、その瞬間にも
ビルの眼差しは穏やかでした。
ビルはレイラに
カバンをどう思うか尋ね、
気に入らなければ、
海に投げ捨ててしまえと言いました。
レイラは、新しいカバンを
さっと抱きかかえながら、
気に入らないわけがないと
急いで叫びました。
しかし、
あまりにも高いものを、こんな風に・・
と、まだ呟いていると、
ビルおじさんは、手を振りながら
もう一度そんなことを言ったら、
本当に海の中に投げ捨ててしまうぞ。
よく覚えておけと、
レイラの言葉を遮りました。
しかし顔には、
満面の笑みを浮かべたままでした。
ビルは、
まあまあいい感じだと思って
買ったのだから余計な心配はするな。
顔色を窺う必要はない。
自分が望むのは、
ただお前が喜んでくれて
幸せなことだけだと言うと、
壊れものを扱うように
レイラの頭を優しく撫でました。
シエンに来てから、
具合が良くも悪くもならない
レイラを見ているのが辛くて
準備したプレゼントでした。
子供が笑ってくれれば、
本当にそれだけで十分でした。
ビルは、
いくら歳月が流れても、
レイラだけは、
いつもあの頃の子供のようで、
こんなに切なく心が痛むのは
なぜだろうと、
本当に不思議に思いました。
カバンをあちこち見回しながら
撫でているレイラを眺めていた
ビルは、
新しいカバンを持って、
一度、出かけてみないかと
衝動的に誘いました。
レイラは「今?」と尋ねました。
ビルは、
夏の澄んだ青空を見上げながら
ちょうど天気も良くて週末だから
二人で一緒にピクニックに行くのも
悪くはないと、
もじもじしながら答えました。
突拍子もなくピクニックだなんて。
口に出してみると、
恥ずかしい言葉でした。
しかしビルは、すぐにその考えを
訂正することにしました。
レイラが頷いて、
ひさしぶりに陰りのない
明るい笑顔を浮かべたからでした。
ピクニックに行きましょうと言って
彼の手を握った小さな手は温かでした。

二人は手をつないで道を歩きました。
ビルは照れくさくて、
乱暴に手を引き抜こうとしましたが
レイラは頑固でした。
ある瞬間からは、ビルも諦めたように
素直に自分の手をレイラに預けました。
広場に向かう途中で会った
下の階に住む奥さんが、
お父さんと一緒に出かけるのねと
笑いながら、
レイラに声をかけて来ました。
ここの人々は皆、ビルとレイラを
父娘だと思っていました。
あえて訂正したくなかったので、
レイラは、いつもそうだったように、
今日も知らないふりをして頷きました。
挨拶を交わした彼女が遠ざかると
ビルおじさんは、
何て言っていたのかと、
そっと尋ねました。
レイラは、
お父さんと出かけるのねと
聞かれたから、そうだと答えたと
返事をすると、少しはにかみながら
ビルの顔色を窺いました。
お父さん。
ビルは戸惑いながら、
何度も、その言葉を繰り返しました。
この可哀想な子を公爵に売って
命を得たのも同然の悪い奴を父だなんて
面目が立ちませんでしたが
良いと思いました。
お父さん。
考えれば考えるほど恐れ多いけれど
だからこそ、余計に胸が溢れそうになる
名前でもありました。
これから先、そう呼べと言われたら
どう思うだろうか?
ビルは広場を歩いている間中、
昼食を食べてビーチに散歩に行く途中も
悩みました。
その言葉が喉元までこみ上げて来ても
実際にニコニコ笑うレイラを見ると、
口が開きませんでした。
胸に、羽が舞っているような
くすぐったい感覚と、
刃物でちくちく刺すような痛みを
覚えました。
ともかく、非常識で、
とんでもないざまでした。
目元が熱くなる頃、二人は
砂浜が長く続く海辺に到着しました。
週末の夏の海辺は、
お祭りのような活気に満ちていました。
露店の色とりどりの手押し車と
派手な色のパラソルがいっぱいの砂浜は
まるで花畑のようにも見えました。
二人は一緒に
アイスクリームを買って食べました。
胃の調子が悪いのか、
美味しい物を買ってあげても
よく食べられないレイラが、
アイスクリームだけは、
美味しそうに食べてくれたので
ビルは嬉しく思いました。
二人は一緒に白い砂浜を歩きました。
靴と靴下を脱いで砂の上を歩くレイラが
とても浮かれて幸せそうなので
彼も楽しく、安らかな気持ちで
たくさん笑いました。
最後に、こんな風に笑ったのは
いつのことだったのか、
ビルもレイラも、
よく覚えていませんでしたが、
ただ今が楽しいということだけを
考えることにしました。
重要なのは、
結局それだけだからでした。
夕日が沈む頃、二人は家に帰り、
平凡な日常の一時を過ごしました。
翌日も大差がありませんでした。
呼び名が、こうでもああでも
何の違いがあるだろうか。
朝の食卓に向かい合ったレイラを見て
ビルは単純な結論を下しました。
何と呼ばれたとしても、
自分たちが本当の家族だという事実は
変わらないからでした。
そっと自分を見つめるレイラと
目が合ったビルは、
何か言いたいことでもあるのかと
戸惑いながら尋ねました。
そういえばレイラは、
昨日からしきりに
彼をちらちら見ていました。
悩んでいたレイラは「いいえ」と答えて
首を横に振りました。
そして、
そんなことはない。出勤時間なので、
もう出かけようと言って、
満面の笑みを浮かべましたが、
ビルは何となく訝しく思いました。
確かに何かあるけれど、
一体何を隠しているのだろうか。
ビルは不安になりながら、
考えてみましたが、
すぐには理解できませんでした。
その間、二人は、
それぞれの職場に向かう
分かれ道がある広場に入りました。
普段は、朝ならではの活気に満ちた
広場の雰囲気が、何かあったのか
限りなく重く沈んでいました。
大勢の人々が市庁前の塀の前に
集まっているけれど、
まるで葬儀場のような悲痛な沈黙が
漂っていました。
レイラは眉を顰めながら
自分が一度見て来ると言って、
そちらへ向かいました。
人混みの中に入ると、至る所で、
非常に深いため息と
すすり泣く声が聞こえて来ました。
その理由は、市庁前に貼られた
張り紙を目にした瞬間、
自然に分かりました。
徴集対象に該当する男たちは
皆軍に入隊することを命じる。
戦時動員令が宣布されていました。

重病になったのなら、結婚式を
延期した方がいいのではないか。
体面も重要だけれど、病人と
結婚するわけにはいかないと言うと
ブラント伯爵夫人は、
しかめっ面で娘を見ました。
しかし、クロディーヌは、
病気ではないと主張し、断固として
母親の心配を断ち切りました。
テラスの向こうに広がる
大庭園を見る目から、
鋭い怒りが滲み出ていました。
ブラント伯爵夫人は、
食べることも寝ることもできずに、
痩せ細っているらしいのに、
病気になったのでなければ、
あの健康だったマティアスが
そんなことになるはずがないと
反論しましたが、クロディーヌは、
本当に重い病気に罹っていたとしても
また結婚を延ばすわけにはいかないと
言い張り、力いっぱい唇を閉じて
息を整えました。
去年の夏の結婚式を延期したのが
手痛いミスでした。
どんな手を使ってでも押し通していれば
こんな目に遭わずに済みました。
マティアスは、来週末までに
時間を与えると言いました。
ブラント家の方で、
この婚約を終わらせる。
つまり破談にするのではなく、
ブラントがヘルハルトを捨てるという
構図を作り出すための時間でした。
クロディーヌが
いくら反発して悪態をついても、
あの男は、眉一つ動かしませんでした。
狂った男のようでした。
あの日のことを思い出す度に、
クロディーヌは、怒りと恐怖を同時に
味わわなければなりませんでした。
レイラとカイルの結婚を阻止するために
エトマン夫人を助けた彼の悪行を
どうやって知ったのか。
いつからレイラと彼の関係に気づき、
そのことで、
どうやってレイラを踏みにじったのか
クロディーヌは一つ一つ話しました。
あの男が苦しむ姿を見るために、
全てを話したのに、
帰って来たのは冷ややかな視線と
少し乾いた笑みだけでした。
そして、何事もなかったかのように
ここまでで終わりだという宣言だけを
繰り返しました。
その瞬間の彼は、人間らしくなく
頭の中のある部分が
完全に壊れてしまった
狂人のようでもありました。
そのような病気があるなら
重病にかかったと
言わなければならないかもしれないと
思いました。
ブラント伯爵夫人は、
健康のせいではないけれど、
あまりにも男たちが短命な家系なので
自分は、なぜか少し不安だと言うと
ゆっくりと扇子で扇ぎながら、
眉を顰めました。
クロディーヌは、絶対に結婚すると
冷たく吐き捨てました。
もう、うんざりするほど
マティアスが嫌いでしたが、
だからこそ、この結婚を諦めることが
できませんでした。
あの男にできる最高の復讐が、
まさに彼を
自分の夫にすることだからでした。
しかし、結婚できるのだろうか。
あの狂った男は、
今や何でもできるように見えました。
彼が与えた猶予期間内に
ブラント家が何の行動も取らなければ、
自ら婚約破棄を宣言するかも
しれませんでした。
あの卑しい女一人のためによくも私を。
激しい悩みに陥っていたクロディーヌを
「奥様! お嬢様!」と叫びながら
慌てて駆け込んできたメイドが
我に返らせました。
一度もこのような軽はずみな行動を
したことがなかったメイドのマリーが、
真っ青になった顔で
全身を震わせていました。
ブラント伯爵夫人は、
どうしたのか。
なぜ、こんなに騒がしいのかと叱ると
マリーはわっと泣き出して、
戦争が起きたそうだ。
とうとう戦争になってしまったと
叫びました。
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とにかくレイラを守りたくて、
仕事を捨て、住み慣れた家を捨て
それまで築いて来た
人間関係を捨ててまで、
見知らぬ土地へレイラを連れて
逃げて来たビルおじさん。
レイラが元気がないのが心配で
彼女の笑顔が見たいばかりに
プレゼントを買ってあげたり
ピクニックに連れて行ってあげた
ビルおじさん。
血は繋がっていなくても、
ビルおじさんはレイラの立派な
お父さんです。
これからずっと、
誰にも邪魔されることなく、
二人でいつまでも幸せに
暮らして欲しいのですが、
ロビタに来たことが
マティアスにばれてしまったし、
戦争が始まったことで、
二人の前途に
暗雲が立ち込めているような
気がします。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
月から木の朝、ブログを開くと
すでにたくさんのコメントを
入れてくださっているのを見て
嬉しい悲鳴を上げております。
いよいよクライマックスを迎え
皆様のコメントも、
さらにヒートアップされるのでは
ないかと思います。
さて、ここで今一度、
コメントを入れる際の
私からのお願いを
お伝えさせていただきます。
口に出すのを憚られるような
言葉、表現は、
どうぞお控えいただきますよう
お願いいたします。
もし、その言葉を
お使いいただく場合は
文字の間に〇を入れるなどして、
直接、
その言葉をお使いにならないよう
お願いいたします。
私にとってのNGワード、NG表現が
ありましたら、申し訳ありませんが
そのコメントは承認いたしかねます。
それは、文章全体が悪いためではなく
一部のNGワード、
NG表現のためであることを
ご理解いただけますと幸いです。
ご協力のほど、
何卒よろしくお願い申し上げます。
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