![]()
121話 ベルクとロビタの間で戦争が始まりました。
両国間で勃発した戦争は、
すぐに大陸全体に広がりました。
南部連合を率いるロビタが
参戦を宣言すると、
北部最高の強大国であるベルク帝国も
待っていたかのように
戦争に足を踏み入れました。
その両国を中心に、大陸は
たちまち二つの勢力に二分されました。
国民の前に立ったベルクの皇帝が、
悲壮な口調で総動員令を宣布した日、
ロビタに住むビル・レマーの親戚が
居住している地域が、
まさに南端の海岸都市シエンだという
もう一つの便りが、
マティアスに伝えられました。
何気なく国境を行き来していた隣国が
一夜にして敵国になってしまったため
これ以上の調査は不可能でした。
しかし、
望んでいたすべてを手に入れたので、
マティアスは満足していました。
どこに逃げたのか分かったので、
あとは、あの女がいる、まさにそこへ
探しに行けばいいことでした。
司令官は、疑念に満ちた目で
マティアスを見つめながら、
本気なのか。もう一度言うけれど
あそこは激戦地になるだろうと
告げました。
マティアスは、知っていると、
あまりにも、あっさり返事をしたので
司令官は少しがっかりしました。
マティアスが望めば、
彼は後方の補給部隊の将校の地位を
得ることができました。
司令官の提案もそうでした。
ところが、彼は、
どうしても最前線のシエンへ行くと
言い張りました。
引き下がらない彼を見ていた
初老の将軍は、
結局、苦笑いをしました。
マティアスが志願した
ベルク帝国の第六軍は、
戦線の右翼を突破して南進し、
ロビタの海軍要塞を占領する任務を
担うことになりました。
最終目的地はシエン。
そこの軍港をベルク軍が占領すれば、
南部連合軍全体の軍事力を、
大きく弱体化させることが
できるはずでした。
司令官は、
君の意思がそうであれば仕方がないと
返事をしました。
許可が下りた書類は
机の片側に片付けられました。
言われてみれば
君はヘルハルトだったという一言で
全てが理解できると言うように、
彼は深く頷きました。
大陸で最も富強な国家の地位に
上り詰めるまで、
帝国が行ってきた無数の戦争に
ヘルハルトは喜んで
息子を捧げて来ました。
皇帝の息子よりも熾烈な戦線で、
より輝かしい勝利と栄光を
築いてきた家門。
その歴史と名誉が
どのように作られて来たのか、
ベルクのすべての貴族たちは
よく知っていました。
マティアスは挨拶をした後、
軽やかな足取りで踵を返しました。
彼に気づいた貴族の将校たちが
ざわめき始めましたが、
マティアスは意に介さず、
彼らの間を悠々と通り過ぎました。
のんびりとした午後の散歩を
楽しむために出かけた人のような
姿でした。
マティアスが消えると、
あちこちで、
ざわめく声が溢れ出ました。
病気になって引きこもり中だって
言ってなかったっけ?
確かに、そう聞いたような気がする。
病気だったというのは
嘘のように見えないけれど、
なぜ、あんなに楽しそうなのか。
ヘルハルトは
軍需産業も持っていたのか。
ヘルハルトが、
何も持っていないはずがない。
しかし、たとえそうであっても
戦場に引きずり出される所に
遠足でも行くような格好だ。
頭が、
どうかしてしまったのではないか
それともヘルハルトは、
戦場の銃刀も避ける運命を持って
生まれて来るのか?
先代の公爵を見ると、
そうでもなかったようだけれど。
刃の立つ皮肉な言葉が
次々と溢れ出ました。
家門の名誉という鎖に縛られ、
死地に追いやられる
自分たちの運命の前で絶望していた
彼らには理解できない態度でした。
落ち着くように。
ヘルハルト公爵は敵軍ではないという
一言が出てからは、
非理性的に過熱していた雰囲気が
落ち着きました。
悪口とため息が、ひとしきり爆発すると
再び絶望的な静寂が訪れました。
恐怖の入り混じった沈黙は、
長く破られることはありませんでした。

どうしてこんなことが、信じられない。
この繁栄した時代に、
野蛮な戦争なんてと言うと、
しばらく泣き止んでいた
エリーゼ・フォン・ヘルハルトは
再び泣き始めました。
息子を見る彼女の目は
赤くなっていました。
沈黙する老婦人と他の親戚の目も
変わりませんでした。
しかし、まもなく戦場に赴くことになる
マティアスは、
普段とあまり変わらない様子でした。
終始一貫して落ち着いた品位を維持し
適切な笑みを浮かべたりもしました。
マティアスは、
ベルクとロビタの国境で、
戦闘が行われるので、
アルビスまで砲火は届かないだろう。
戦争の勃発は突然だけれど、
戦争の兆しは、数年間現れていたし、
各国の軍事計画も把握していたので
会社でも
対応策も立てていると話しました。
彼の声は会議に臨む時と変わらず
落ち着いていました。
資源を扱う会社が受ける打撃は
避けられないけれど、
この大陸で起きた戦争の余波は
海外油田までは及ばないと見ている。
損失は莫大ではないだろう。
カルスバル北東部の沼地を
開発する計画は、
理事会で保留にしている。
戦時状況が終われば再開されるだろう。
マティアスは、
開戦後、証券取引所が混乱に陥り、
各国の情勢が
混乱の渦中に巻き込まれていた間に
整理しておいたことを、
着実に報告していきました。
戦争の知らせが伝えられたその日、
マティアスは離れから出て来ました。
世界が崩壊したも同然の知らせを
聞いても何事もなかったように、
むしろ病の色を、
きれいに洗い流したような姿で
淡々と自分の役目を果たし、
出征の準備を進めました。
以前より痩せてやつれた顔でしたが、
以前の顔色を取り戻したおかげか、
今は全く無気力な病人のようには
見えませんでした。
続けてマティアスは、
ヘルハルトが所有する全ての会社は
独自の体系が整っているので、
自分の不在が及ぼす影響も
大きくないだろう。
それに備えた新しいシステムも
構築していると説明しました。
息を整えた老婦人は、
会社も会社だけれど、結婚を
急がなければならないのではないか。
状況が状況であるだけに、
本来の予定通りに式を挙げることは
難しいだろうけれど、
あなたが出征する前には
済ませておかなければならないと
力を込めて言いました。
マティアスは、
後継者を心配しているのであれば・・・
と言ったところで、しばらく言葉を切り
ヘルハルト一家を見回しました。
その後、マティアスは、
結婚で猶予できる出征期間は
そう長くはない。
その期間内に、
後継者を用意できる保証がない状態で、
無理に結婚を進める必要はないと思うと
言いました。
老婦人は
「しかし、マティアス・・・」と
反論しようとしましたが、
マティアスは、
もし後継者がいない状態で
自分が帰れなくなったら、
クロディーヌは、
夫と数週間も暮らしたことのない
未亡人として、一人残されるだろう。
それは、クロディーヌと
ブラント伯爵家の両方にとって、
過酷すぎることだと思うと
自分の死を想定する瞬間も、
彼の顔には、
特に悲嘆する気配が見えませんでした。
立派なヘルハルト公爵になるために
学んで身に着けて来た、
そのすべての徳目を備えた姿でした。
マティアスは、
もちろん、無事に帰って来るのが
自分の義務であり、
当然の道理であることを
よく分かっている。
それができるように最善を尽くすと
祖母に伝えると、口元に
穏やかな笑みが浮かべました。
しかし、再考の余地はないと言うように
その口調は断固として頑強でした。
誰も気軽に口を開くことができない中
マティアスは、
それでも最悪の事態が訪れた時、
傍系で適当な後継者を探すよう、
その対策を講じておいたと
続けて報告しました。
常に誇りに思っていた息子の
そのような姿から、エリーゼは
初めて痛烈な痛みを感じました。
マティアスは、
まさに完璧なヘルハルト公爵でした。
しかし、一人の人間として見ると、
あの子の人生は完全なのだろうか?
疑問を噛み締めていると、涙だけが
さらに増えて熱くなりました。
しかし、エリーゼは
喉元まで上がって来た言葉を
最後まで口にしませんでした。
必ず戦場に
行かなければならないのかという叫びも
苦い涙と共に飲み込みました。
彼らはヘルハルトでした。
その名よりも私情を
優先することはできませんでした。
じっと孫を見つめていた老婦人は、
自分の夫であり、
あなたの祖父であるヘルハルト公は、
帝国のための戦争に
喜んで命を捧げた。
ヘルハルトは、
今のような名望を持つ家門を興すために
何百年もかけて献身してきた。
最高の名誉を享受する代わりに、
喜んでその義務も負った。
その時間が積み重なって
今のヘルハルトを作ったと
話を切り出しました。
あなたのお父様も同じだと言った時は
息子の死を思い出したためか、
しばらく眼差しが揺れましたが、
彼女はすぐに
毅然とした態度を取り戻しました。
老婦人は、
自分は、そのようなヘルハルトの名前を
誇りに思う。
自分の夫と息子の選択は
本当に勇敢で名誉あるものだった。
その事実は
永遠に変わらないだろうと言いました。
しかし、
あなた一人くらいは、素敵な白髪の
ヘルハルト公爵になって欲しい。
このアルビスにも、
威厳のある白髪の紳士である
ヘルハルト公爵の肖像画が
必要ではないかと言う時は、
彼女の声が微かに震えていました。
その通りだと相槌を打つと、
ハンカチを下ろしたエリーゼも
老婦人に似た笑みを浮かべながら、
あなたは自分の髪に似ているから、
白髪になるには、
かなり長く生きなければならないと
弱々しい手で自分の髪を指差しました。
彼女の黒髪は、
成人した息子がいる年齢になっても
相変わらず美しく艶やかでした。
マティアスは、
そうしたいと思うと返事をすると、
静かに微笑みました。

正当に結婚を回避できるようになって
嬉しいだろうと、クロディーヌは
冷静に皮肉を言いました。
ブラント伯爵夫妻が
席を外してくれたので、
邸宅の応接室には、
マティアスと彼女の二人だけが
残っていました。
結婚は暫定的に延期されました。
クロディーヌは
受け入れらませんでしたが、
家族の決定を変えることは
できませんでした。
結婚式を挙げるや否や、
戦場へ赴いたマティアスが、
万が一戦死したりすると、
クロディーヌは、
子供が一人もいない未亡人として
残される。
そうして、ヘルハルト公爵の爵位が
傍系に移ることになれば、この婚姻は
何の意味もないも同然でした。
今のところは結婚を延ばして
将来を期すことが最善だと、
ブラント伯爵は、
断固として主張しました。
戦時状況のために中止された結婚式を
不名誉だと囁く人は、
誰もいないはずでした。
最も大きな危険は、
何とか結婚式を挙げて、
後継者を残そうと努める
ヘルハルト家でしたが、幸い彼らは
ブラント家の意見を尊重するという
意向を明らかにしました。
尊重。
その言葉を伝えられながら
安堵していた父を見て、
クロディーヌは、何度も苦汁を
飲み込まなければなりませんでした。
そうですね。戦争という悲劇を
喜ぶことはできないと答える
マティアスは、
結婚を破談にするという
意思を伝えた日の、
半分、狂っていた姿が消えて
本来のヘルハルト公爵に
戻ったように見えました。
しかし、クロディーヌは、
この男の内面は、
あの日と少しも変わっていないことを
感じることができました。
クロディーヌは、
あの日も言ったけれど、
自分は誰が何と言おうと
絶対に破談にしない。
その意思は今も変わらない。
公爵が必ず生きて帰って来て
自分の夫になる日を待つと告げました。
マティアスは、
戦争中に、自然に婚約を解消するのが
ブラント家と令嬢にとって
最善だろうと言いました。
我慢ができなくなったクロディーヌは、
自分とブラント家を
心配してくれるなんて、
いつからヘルハルト公爵は、
そんなに利他的な人になったのかと
皮肉を言いましたが、
今回も戻って来たのは
彼の無情なまなざしだけでした。
その真っ青な目は、
もはや全く人間のものとは
思えないほどでした。
クロディーヌは、
レイラが逃げたのは自分のせいだ。
自分との婚約を解消すれば、
あの子が帰って来ると
思っているかもしれないけれど
勘違いをしないように。
結局、全てあなたのせいだと
言いました。
そしてクロディーヌは
目を赤くしながら、
ヘルハルトの名前と、
そのもっともらしい外見が
なくなれば、あなたは
冷たい血が流れる怪物だと
非難しました。
![]()
![]()
マティアスの祖父と父親は
国のために戦争に行ったけれど
マティアスは違う。
ヘルハルトの名よりも
私情を優先しているマティアス。
彼は、
レイラがロビタのシエンにいるから
そこに行きたいだけ。
そのために、はやる気持ちを抑えて
万全の対策を取ったように思いますが
カタリナ様とエリーゼは
そんなことを知る由もなく、
マティアスはヘルハルト家のために
そうしていると心から信じている。
そして、二人は戦場に行く
マティアスのことを心から心配し、
涙を流しながら感動的な言葉を
たくさん投げかけていますが
カタリナ様とエリーゼの陰で
レイラの居場所が分かって
ウキウキして喜んでいる
マティアスの姿が、
どうしても浮かんでしまいました。
さすがのブラント伯爵夫人も、
意味のない結婚をさせたくないという
夫の意思を尊重したのだと思います。
クロディーヌも、
マティアスと結婚したところで
幸せになれないと分かっているのだから
もういい加減に諦めて、
自分の幸せを探して欲しいのですが
マティアスと結婚して
彼を不幸にするという執念に
憑りつかれてしまい、
身動きが取れなくなって
しまっているように思えました。
![]()