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123話 マティアスとカイルは同じ部隊にいます。
消毒を終えたカイルはマティアスに
痛くはないかと、
突然、衝動的に尋ねました。
他の幕舎に呼ばれた軍医と
治療を終えた将校たちが去り、
この幕舎には、公爵以外、
誰も残っていませんでした。
カイルは、この男の痛みなど、
気にも留めていませんでした。
ただ、自分の体に銃弾が当たっても
他人の不幸を見ている傍観者のように
平然として、何も考えていない、
この魂の抜けた男に
ただ、呆れているだけでした。
公爵は返事をせず、
カイルをじっと見つめました。
口元には、
微かな笑みが浮かんでいました。
カイルは必死に怒りを抑え、
彼の首筋に
ハサミを突き刺さないように
しなければなりませんでした。
前線で出会った公爵は、
カイルが最後にアルビスで、
彼を見た日とは、
全く別人になっていました。
いや、別人というよりも、
本来の彼に戻ったと言う方が
正解でした。
父親から、
公爵の健康を心配しているという
話を聞いた時は、
この男が、遅ればせながら
ほんのわずかでも、
後悔してくれているのではないかと
若干の期待を抱きました。
どうせカイルとは
関係ないことだけれど、
レイラのために、それを望みました。
それすらなければ、
この男を愛したレイラが、
あまりにも可哀想だからでした。
でも結局こんなものか。
治療を終えたカイルは、
歯を食いしばって
鬱憤を堪えながら退きました。
何事もなかったように
軍服の袖を下ろして
立ち上がった公爵は、
酒を一杯注いで振り向きました。
戦場の軍人というよりは、
依然として社交界の紳士に
近い姿でした。
「一杯どう?」
じっとカイルを見つめていた
公爵が口にした言葉に、カイルは
危うく失笑するところでした。
カイルは、自分と少佐は、
気分よくお酒を飲む間柄ではないと
非難しました。
すると、マティアスは、
それでは、気分悪く飲むかと
提案しました。
まさか、
冗談でも言おうとしているのか。
カイルはからかわれた気分になり
眉を顰めました。
それが面白いのか、公爵は、
ニヤニヤしながら、
お酒をもう一杯注ぎました。
カイルは、
腹立ちまぎれに受け取った酒を
一気に飲み干しました。
強いブランデーが、食道を焼くように
通り過ぎる感じがして、
ヒリヒリしました。
カイルは、
少佐は銃傷を負っても
気分がとても良さそうに見えると
言いました。
マティアスは「うん」と答えると
一口飲んだグラスを下ろし、
ゆっくりとした動作で、
軍用コートを肩にかけました。
そして、心地よい音楽のように、
シエンが近づいて来ているからと
付け加えました。
狂った野郎。
カイルは身震いしながら
空のグラスを置きました。
その間に、
公爵もグラスを空けました。
確かに傷がかなり痛いはずなのに、
少し動きが鈍い以外に、
そのような様子は見られませんでした。
立派なヘルハルト公爵は
戦場でも立派な軍人でした。
彼はよく寝て、よく食べて、
よく命を奪いました。
参戦後、数ヵ月で、
大尉から少佐に昇進したことが
その実力を物語っていました。
時折、
本当に嬉しくてたまらないように
見えたりもしましたが、
そんな時には、
彼を悪鬼と呼ぶ敵軍の気持ちが
自然と理解できました。
カイルだけが
そう感じているのではないのか、
他の兵士たちも、ヘルハルト少佐に
気兼ねをしていました。
彼より階級の高い将校たちも
同じでした。
しかし、いずれにせよ
彼は有能な指揮官であり、
彼と共に戦いに臨むということは
生きて帰ってくる確率が
高くなるという意味だったので、
その点においては、
確固たる尊敬と評価を
受けていました。
本人は、それさえも
関心がないように見えましたが。
それでは、
一体どういう理由なのだろうか?
よく考えてみたけれど、
カイルとしては、
全く見当がつきませんでした。
一体、シエンは何だから、
そこへ近づくほど、あんなに
楽しそうにしているのだろうか。
実際、楽しそうだというのも
滑稽でした。
妙に高揚してはいるけれど、
一方では、
その姿にぞっとしました。
とにかく敵軍に出会わなくて
良かったのは明らかでした。
あの勢いを維持していけば、
戦争が終わる頃には、ヘルハルト家が
帝国の戦争の英雄を、
もう一人輩出することになるかも
しれませんでした。
マティアスは「行け」と
誠意のない命令で、
短い会話の終わりを告げました。
カイルはいつものように
つっけんどんな態度で挨拶をした後
退きました。
カイルは、虫が鳴いている道を
歩いて帰りながら、
星でいっぱいの他国の空を
見上げながら、
レイラが無事でありますように。
そして次回はどうか、敵の銃弾が
あの男の心臓を、
貫いてくれるようにと祈りました。

人々は、午前0時過ぎになって
ようやく避難所である
礼拝堂の地下室から出て来ました。
すでに空襲が止んだ都市は、
平穏な闇の中に沈んでいました。
しかし、その闇も、
砲弾に当たって壊れてしまった
広場の鐘塔と、人々のざわめき。
そして広がる恐怖まで
隠すことはできませんでした。
あれが本当だったとは。
ビルは凍り付いたように
呟きました。
陸路を通じてベルクが進撃する間、
北部連合の、
もう一つの強大国の一つである
ベロップが、
艦隊を動員して海上を封鎖し、
爆撃を加えるという話が
出回ったことがありました。
敵軍が流した偽情報だろうと、
皆は無理に信じようとせず、
口を閉ざしていましたが、
今やその噂は凄惨な現実となって
目の前に広がっていました。
ビルは、
怖がっているレイラを
慰めるために、
ベロップの奴らは
一つ良いことをしてくれた。
耳をつんざくような、
あの忌まわしい鐘の音を
もう聞かなくても良さそうだからと
余計なことを言いました。
眼鏡をかけて
崩れた鐘塔を見たレイラは
プッと弱々しく笑うことで、
さらに彼が
安心できるようにしました。
レイラはビルの言葉に同意すると
やっと慣れてきたところなので
少し寂しいだろうと返事をしました。
依然として心臓は、
不安そうにドキドキしていましたが
レイラは笑おうと努めました。
きれいで良い家を、
安い値で探せたと思いましたが、
その理由が何なのか分かるまで、
それほど時間がかかりませんでした。
広場の鐘塔が問題で、 安い家賃は
一時間ごとに鳴り響く鐘の音を
すぐ近くで聞く代償でした。
今は、静かで安い家で
暮らせるようになったから
得したのだろうか。
無理にでも、
気楽に考えてみようと努力すると、
初めて、きちんと息ができました。
レイラの乱れた髪の毛を
撫でていたビルは、
しゃがんで背中を見せながら、
「さあ、おぶされ。
家に帰らなければ」と言いました。
自分が靴を履いていないことを
思い出したレイラの顔に、
狼狽の色が浮かびました。
彼女は、
歩いて行けばいい。
厚手の靴下を履いているからと
拒否しました。
ビルは、
馬鹿なことを言っていないで
早くおぶされ。このままだと
路上で徹夜することになると
言いましたが、レイラは、
本当に自分は歩きたい。
歩いた方が眠れそうだと、
必死に断りました。
空襲に驚いて逃げる時は、
無我夢中で気づかなかったことが、
一つ二つと浮び上がると、
目の前が真っ暗になりそうでした。
腹帯を巻いていない上、
ワンピースの生地も薄いものでした。
わざと、ゆったりとした服を買って
着ていたけれど、だからといって
安心できるわけではありませんでした。
もう話さなければならないことは
分かっているけれど、
今、こんな状況で、どうやって?
レイラは途方に暮れ、罪悪感に
涙が溢れ出そうになった頃、
ビルおじさんは、
さっと立ち上がりました。
何事もなかったような
顔をしていました。
ビルおじさんは、
大したことではないのに、
随分、意地を張っていると
文句を言いました。
レイラはビルおじさんに謝りました。
ビルおじさんは、
とんでもないことを言うな。
本当に大丈夫なのかと尋ねました。
毛糸で編んだ靴下を履いている
レイラの足を見つめるビルの目は
心配に満ちていました。
レイラは力強く地面を踏むことで
びくともしないということを
証明して見せました。
幸いビルおじさんは「ハハハ」と
いつものように笑って
頷いてくれました。
レイラとビルは手をつないで
ゆっくりと道を歩きました。
広場の鐘塔を除けば、
他の建物の被害は、
それほど大きくありませんでした。
ベロップの戦闘機の操縦士たちの実力は
家の前の食堂の料理人の実力と
同じくらいひどいという
無駄な冗談を交わしながら、
二人は再び笑いました。
笑おうと努力しました。
二度と来ないから心配するなと
ビルは嘘をつきました。
「はい、そうですね」と
レイラは喜んで
その嘘に参加しました。
レイラはビルおじさんを呼ぶと、
自分たちが好きなことについて
話しながら歩かないかという
彼女の突拍子もない言葉が、
虫の鳴き声と共に聞こえて来ました。
ビルおじさんが、
「好きなこと?」と聞き返すと、
レイラは、
好きなことを考えると
気分も良くなるので、
一つずつ話してみようと提案しました。
ビルおじさんは、
くだらないと返事をしましたが、
レイラは、
まずは自分から話すと言うと、
「ビルおじさん!」と言いました。
満天の星明かりの下で笑う
レイラの顔は晴れやかでした。
ビルは、
「それでは、うちの子供。」と
言いました。
レイラは、
子供だなんて、
自分がすっかり大きくなってから
どれくらい経つと思っているのかと
反論しました。
ビルは鼻で笑いながら、
すっかり大きくなったなんて
まだまだだと、
レイラの反論を封じました。
鳥。花。木。 アイスクリーム。
推理小説。 初雪。
ビルもよく知っている、
レイラの好きなものの名前が
夏の深い夜の中に
静かに溶け込んだ行きました。
だが、その名前と名前の間に
ビルが伝えた名前はただ一つ、
レイラだけでした。
レイラは、春のように訪れた、
ビル・レマーの人生の宝物でした。
レイラは、
反則だと小言を言いましたが、
ビルが答えられるのは、
その名前以外にありませんでした。
退勤途中、
空襲が始まったという知らせを聞いて
狂ったように家へ駆けつけ、
レイラを抱き抱えて外に出たビルは
これが親の気持ちであることを
悟りました。
自分が死んでも、
レイラさえ生きていれば、
それで十分だと思いました。
彼が死んで、
レイラを生かす道が開かれれば、
何の迷いもなく
喜んで死ぬことができました。
この子が無事に生きて行けるなら
自分は死んでも生きているのと
変わりませんでした。
そんなお前なのに・・・
ビルは震える目でレイラを見ました。
安堵している無邪気な顔が
胸をさらに痛めつけました。
震える視線を下に移したビルは、
レイラと目が合う前に
慌てて顔を上げて前を見ました。
気が狂いそうな気分でしたが
その理由が何なのかは
はっきりしませんでした。
この可哀想な者を徹底的に追い詰める
けしからん世の中なのか、
依然として無能な父親に過ぎない
自分なのか、それとも、
命を奪えずに逃げてきたことを
歯ぎしりするほど後悔している
公爵のことなのか・・・
レイラが握っている手を振りながら
ビルおじさんを呼ぶと、
彼は、はっと我に返りました。
いつの間にか、
家が目の前にありました。
緊張した顔で顔色を窺う
レイラを見るのが嫌で、
ビルは再び、
ハハハと意味もなく笑いました。
そして、
お前の言うとおりだ。
くだらないことを少し話したら、
ずっと気楽になったと
再び嘘をつきました。
レイラは、
自分もそうだと返事をしました。
幸いにも、彼女は
何も知らないように笑いました。
いつものように、
とてもきれいな笑みでした。

先発騎兵大隊が、
橋梁と道路を確保したという
情報が伝えられると、
北側と東側に分かれて
待機していたすべての連隊に
進撃命令が下されました。
ヘルハルト少佐が率いる歩兵中隊は
砲撃後、敵の要塞の中央を突破する
任務を任されました。
城壁を破壊している迫撃砲の轟音が
止まる時が、
彼らが戦う戦闘の始まりでした。
マティアスは、
埃っぽい雲が立ち上る空の向こうを
じっと見つめました。
巨大な迫撃砲が
要塞の城壁を破壊する音は、
歩兵隊が待機している所まで
はっきり聞こえました。
砲弾が飛んで命中する度に、
長い間都市を守ってきた石壁は
次第に本来の姿を
失って行きました。
この要塞が陥落すれば、
シエンに進撃する関門が
開かれたのも同じでした。
早ければ半月、
遅くとも一か月以内には、
シエンを占領できるかも
しれませんでした。
もうすぐ終わりそうだと、
砲撃中の要塞の方を見ていた
偵察兵が告げました。
戦闘直前の殺伐とした緊張感が
漂い始めると、中隊員たちは、
約束でもしたかのように、
一斉に彼らの中隊長を見つめました。
冷水を浴びせたような静寂の中
まもなく突撃を知らせる
ラッパの音が長く鳴り響きました。
表情を変えることなく、
マティアスは、
躊躇なく歩き始めました。
彼ら中隊の任務は、
要塞の裏側に退いて
待ち伏せしている敵を全滅し
新しい占領地に
帝国の旗を上げることでした。
もし成功したら、次の旗は
シエンで
翻ることになるはずでした。
レイラ。その名前を囁く
マティアスの唇の端に、
微かな笑みが浮かびました。
しかし、
その瞬間も笑わない瞳は、
彼が必ず占領しなければならない
遠い南側を見つめていました。
先日、ベロップの戦闘機が
シエンを空襲したというニュースが
伝えられました。
空襲が成功したという報告に
ベルク軍は歓呼しましたが、
マティアスの心は、
限りなく冷たく沈みました。
レイラは、
彼が見つけて命を奪うまで
生きていなければならないし、
それまで、誰も彼女に
手を触れてはいけませんでした。
それが味方であれ敵軍であれ
たとえ神といえども。
だからマティアスは、
一日も早くレイラの元へ、
彼のレイラの元へ
行くつもりでした。
怪物であれ悪鬼であれ、
何になろうとも。
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カイル、
お前は知らないだろうけれど、
実はレイラがシエンにいるんだよ。
もうすぐ、彼女に会えるかと思うと
私は嬉しくてたまらない。
でも、
お前には教えてやらないからね。
フッフッフッ
マティアスは、
こんな言い方をしませんが、
彼が心の中で、こんな風に
カイルに向かって
ほくそ笑んでいるのが
感じられました。
マティアスは短期間で昇進するほど
その戦いぶりは見事で
凄まじいのでしょうけれど、
まさか彼を突き動かしているものが
早くレイラに会いたいためだなんて
皆が知ったら、
ぶったまげると思います。
レイラが妊娠していることを
気づいていながらも、
レイラが、
その事実を隠している気持ちを
思いやって、
何も言わないビルおじさん。
彼のレイラへの愛で
涙腺が緩みっぱなしです。
バスティアンに登場する
ベルクのイザベル皇女は
無事にベロップの皇太子と
結婚できたようですね。
そうでなければ、
ベルクとベロップが
味方同士のわけがありませんから。
そして、
オデットの母のヘレネ皇女が
無事にロビタに嫁いで
王妃となっていたら、
この戦争は
起きなかったかもしれないと思うと
ヘレネ皇女とディセン公爵は、
本当に罪深いことをしたと
思います。
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