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38話 オデットはラッツにやって来ました。
フランツは一目で
オデットに気づきました。
彼女は、
白い夏の光で満たされた展示室を
泳ぐように歩いていました。
明るい笑みを浮かべた画廊の主人が
影のように、
彼女の後を追っていました。
フランツが
気軽に近づくことができず、
躊躇っている間に、オデットは
展示室の中央に掛かっている
風景画の前に近づきました。
何とか
見られないこともないけれど
平凡な作品でした。
残念ながら、まともな鑑識眼を
備えていないようでした。
素晴らしい選択だ。
時間が経つにつれて、
価値が上がっていく作品になるだろうと
美術商のお世辞に騙されたオデットは
結局、間違った選択をしました。
フランツは失望感を堪えながら
ため息をつきました。
どうしても、
知性というものを見つけるのが
難しい婚約者と話をする度に
味わっている幻滅が訪れましたが、
その瞬間、
オデットが足を止めました。
光が届かない隅。
画家との私的な親交のために
仕方なく買い入れたけれど、
売れる見込みがないと判断して
放置された絵が掛かっている所でした。
フランツが選んだ、
まさにその作品でした。
オデットは、
それほど長く悩むことなく決意を固め
この絵も一緒に購入できるかと
尋ねました。
驚いた美術商は、
まだ売ってはいないけれど、
目をつけている客がいると答えると
困った顔でフランツの方へ
顔を向けました。
オデットの視線も、
自然にフランツに向かいました。
一歩遅れて、
彼らの関係を思い出した美術商は
そういえば、
お二人はご家族でしたねと
大げさに叫びました。
フランツは思わず息を殺して
身だしなみを整えました。
まもなく、オデットは、
彼に気づきました。
社交的な笑みを浮かべた
オデットは「お久しぶりです」と
先に挨拶しました。
緊張したフランツは
乾いた唾を飲み込み、
日陰の外へ出ました。
目を刺すような明るい光に
自然と眉間にしわが寄りました。
じっとオデットを見つめていた
フランツは、しばらくしてから
理由を聞いてもいいかと、
尋ねました。
いきなり投げかけられた
質問の意味を
理解できなかったオデットが
物思いに耽っている間に、
彼は一歩近づきました。
以前より痩せたせいか、
神経質で鋭い印象でした。
指先で眼鏡を上げたフランツは、
あの絵を買おうとする理由だと
問い詰めるように
説明を付け加えました。
戸惑っている周囲の視線など、
眼中にない顔をしていました。
オデットは、
美しい作品だからと、
簡単に答えることで、
この困難な状況を収めました。
しかしフランツは、
なかなか引き下がる気配を
見せませんでした。
彼は、
普通、美術の基本も分からないまま
色を撒き散らしただけだと
酷評される。
そのため、あの画家は、
依然として無名のままだと言いました。
オデットは、
伝統的な観点からは
そうかもしれないけれど、
美しさの基準は、
それぞれ違うものだと思うと
返事をしました。
フランツは、
特にどんな所が気に入ったのかと
尋ねました。
暗く沈んだフランツの灰色の瞳が
輝き始めました。
オデットは、
光と空気の流れを、
夢うつつで捉えた作品のようだ。
特に黄昏の時間が込められた
色味が好きだ。
表現やテーマが明確ではないけれど
夢は元々曖昧で美しいものだからと
答えると、
「そうではないですか?」と
美術商のリンジャーに
意見を聞く方法で助けを求めました。
幸いなことに、彼は素早く同意し、
そういうところが
特に魅力的な作品だ。
あの男性も同じ見解なので、
気にすることはないと
言ってくれました。
オデットは、
二人がとても親しい間柄のようだと
指摘しました。
リンジャーは、
ラッツの美術界で
フランツ・クラウヴィッツの
名前を知らない人は
誰もいないだろう。
有名なコレクターで、
芸術に対する造詣が深く、
そのような話をする時は、
かなり猪突猛進になるけれど
悪気はないので・・・
と説明していると、
美術商の話が終わる前にフランツが
「その絵を買ってください」と
突然、口を挟みました。
美術商はフランツが
安物の絵を推薦するのが
気に入らない様子で、
彼に厳しい視線を送りましたが、
フランツは気にしませんでした。
ただオデットだけを
見つめる目つきには、
隠れた傑作を見つけた時のような
情熱が漂っていました。
フランツは、
いつかはあの絵一枚が、
この展示室にある
他の全ての作品を合わせたよりも
大きな価値を持つ日が来るだろう。
だから、あなたの眼識を
信じて欲しいと言いました。
しかし、オデットは、
自分より先にフランツが
購入を決めたのではないかと
尋ねました。
フランツは、
大丈夫。
その価値を知っている人には
いくらでも譲ることができると
答えました。
フランツは慎重な足取りで
オデットに近づきました。
頬骨が出ている青白い頬に
かつてない活気が漂い始めました。
突然の結婚の知らせがもたらした
衝撃と失望。
結局、バスティアンに
汚されてしまった女性を思い出す度に
胸を刺すような恐ろしい劣等感を
覚えましたが、それは、
一瞬、雪が溶けるように消えました。
あの下品な獣が穢したのは、
せいぜい中身が空っぽで殻だけの
肉体だけ。
あえてこの女性と、
精神的に交流するに値する
存在ではありませんでした。
だからオデットは、
依然として高貴で純潔であり、
その事実は、
フランツを歓喜させました。
フランツは、
絵を譲る代わりに、お茶を一杯、
一緒に飲む時間をくれないか。
絵を選ぶ手伝いをしたいと
言いました。
フランツは、かつてない程の
勇気を奮い立たせました。
今にも破裂しそうな
心臓の鼓動が全身に広がりました。
あまりにも恍惚とした、
生の感覚でした。

最初に目についたのは
黄色い車でした。
見慣れた色と形に引かれて
目を向けたところで、
バスティアンは
意外な顔を発見しました。
彼の妻、オデットでした。
ここにいるはずのない女でしたが
見間違いではなさそうでした。
バスティアンは、
ロビーのホールにある
大きな窓の前に立ち止まり、
そこをじっと見ました。
オデットは、
社交クラブと対角線に面した建物から
出て来ました。
広々とした道路を挟んでいましたが、
バスティアンは、
難なく妻に気づきました。
驚いたことに、
隣にいる男はフランツでした。
バスティアンの眉間にできたしわが
徐々に深まっていく間、二人は
かなり親密で
穏やかな会話をしていました。
主にフランツが騒いで、
オデットは、笑みを浮かべた顔で
傾聴していました。
やむを得ず口角を上げた時とは
全く違う表情でした。
おそらく、
あそこが画廊だったのだろう。
毎日のように
通り過ぎていましたが、
一度も関心を持ったことがない
場所でした。
絵に夢中になっている
フランツにとっては
聖地も同然でしたが。
もしかするとあの女、
オデットにとっても。
なかなか面白い場面の上に
静かに春の雪が降った日のことを
思い出しました。
オデットは目を輝かせながら
熱心に展示室を歩き回りました。
今にして思えば、
美しく無用なものに対する深い愛情は
フランツとかなり似ている面でした。
ただ、
絵だけに没頭している女の顔の上に
チラチラしていた雪片の影を
数えていた午後の記憶を消した
バスティアンは、
躊躇なくクラブを出ました。
なぜ許可なくここへ来て
フランツに会っているのか?
オデットに、
直接その質問に対する答えを
聞くという決心を変えたのは、
最後の階段の下に降りた瞬間でした。
去ろうとしたオデットを
呼び止めたフランツが、
小さく折った
メモのように見えるものを
差し出しました。
しばらく
躊躇っていたようでしたが、
結局、オデットは
それを受け取りました。
背を向けていたせいで
オデットの顔を見ることは
できませんでしたが、
代わりに向かい合っている
フランツの表情は、
はっきりと読み取ることが
できました。
尿意を催した犬のように、
たじたじとなっている様子は
見るだけの価値がありました。
彼の母が見ていたら、
何日も寝込んでしまうような
光景でした。
フランツを乗せた車が
先に画廊の前を離れると、
オデットも待機中の
黄色のコンバーチブルに
向かいました。
しかし、
その車には乗りませんでした。
バスティアンは、
ますます不可解な行動をする女を
じっと見守っていました。
運転手に短い指示を出したオデットは
銀色の日差しが降り注ぐ街を
一人で歩き始めました。
軽い足取りに合わせて
水色のスカートの裾が波打ちました。
女たちの服には
何の興味もないけれど、
それでもバスティアンは
オデットが将校との晩餐会の日に
選んだドレスであることが
分かりました。
バスティアンはクスクス笑いました。
言われた通りに
おとなしくしていると思っていた
妻の秘密の私生活を
垣間見ることができた気分でした。
バスティアンは、
シャツの袖口を上げて
時間を確認しました。
重要な業務はすべて終えたけれど
夕食の約束が残っていました。
ポロクラブの会員たちが
一堂に会する場でした。
服装を整えたバスティアンが
顔を上げた時、オデットは、
ちょうど通りの角を
曲がったところでした。
やがて彼女の痕跡が
跡形もなく消えた街は、
ただ平穏でのんびりしていました。
眩しい夏の日の午後に
バスティアンは
大きな一歩を踏み出しました。

日差しは熱かったけれど、
日陰に入ると
あまり暑くない天気でした。
日傘をさしたオデットは、
のんびりと、
繁華街のショーウインドーを
見物した後、本屋に行きました。
紙とインクの匂いを含んだ
金色の埃が、静かに本を読む客の間を
漂っていました。
慎重に選んだ本を一冊購入した
オデットは、急いで、
あらかじめ目をつけておいた場所に
向かいました。
レースを納品するために
行き来した街角にあるカフェテラス。
何度も入口をうろうろしながら
悩んだ末、
結局、踵を返したものでした。
静かに近づいて来たウェイターは
連れの者がいるか尋ねました。
オデットは一人だと答えると
親切な笑みを浮かべたウェイターは、
テラスに置かれたテーブルに
オデットを案内しました。
眺めの良い席でした。
メニューをじっくり見たオデットは、
クリームと泡が
豊かに乗っているコーヒーと
チョコレートケーキを
一切れ注文しました。
そして、
カバンから取り出したばかりの本を
開いた瞬間、ノックするように
テーブルを叩く音が聞こえて来ました。
「こんにちは、美しいお嬢さん」
その目的があまりにも明確な質問が
聞こえて来ました。
オデットはページをめくることで
話を交わす意志がないことを
伝えましたが、男は依然として
テーブルのそばに立っていました。
男は同席してもいいかと尋ねました。
オデットは、
申し訳ないけれど、そこは夫の席だと
巧みに嘘をつきました。
こんな感じで色目を使う男を引き離す
最も簡単で早い方法でしたが、
なぜか今回の相手は、
簡単に退く気配を見せませんでした。
「あっ、そうなんですね」と
厚かましい返事をした男が
勝手に向かいの席に座りました。
思わず本を閉じたオデットは
不快感を露わにした
ため息をつきながら頭を上げました。
招かれざる客と目が合うと、
思わずため息が出ました。
皮肉っぽく笑っている男は
オデットの夫でした。
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夫の席だと嘘をついたら、
本当に夫がいた今回のシーン。
ロマンチックで私は結構好きです。
オデットはバスティアンの声を
覚えていないのかな?
と思いましたが、
ラッツで、バスティアンに会うなんて
微塵も思っていない上に、
以前から、オデットは
男性に声をかけられることが
多かったとすれば、
たとえ声が似ていると思ったとしても
当の本人がいるなんて
思いも寄らなかったのだと
思います。
バスティアンは、
わざわざオデットに会いに行ったのに
すぐに気づいてもらえず、
つれない態度を取られて
お気の毒さまでした。
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