![]()
124話 マティアスはどんどんレイラに近づいています。
一糸乱れることなく走る軍靴の音が
橋を渡りました。
要塞の城壁の出入り口の両端に
二つのグループに分けた中隊員たちを
待機させたマティアスは、
形を留めている城壁の上に上りました。
爆薬の匂いと
死んだ敵軍の血生臭い匂いが
立ち込めている石塚の上に立つと
村が見下ろせました。
鋼鉄の弾頭が
粉々に壊してしまった道路と
壊れた建物を素早く見渡していた
マティアスの視線は、
尖塔と屋根が吹き飛ばされた
礼拝堂の上で止まりました。
神のご加護があったのか、
それでも、そこの壁は、
かなり覆い隠しやすい形で
残っていました。
信仰心が篤いロビタの軍人たちが
とても好きな場所でもありました。
砲撃で息絶えた敵軍の遺体を越えて
マティアスは石の山になった
城壁の下へ駆け下りました。
彼の指示に従って散らばった
中隊員たちは、機敏かつ慎重に
礼拝堂を包囲し始めました。
残念ながら、
神を信じないマティアスは、
ピンを抜いた手榴弾を
割れたステンドグラスの間に
投げ入れることで
戦闘を開始しました。
予想通り悲鳴が聞こえ、
右往左往した敵軍が姿を現しました。
マティアーズは銃を持って
敵に照準を合わせました。
まだ壊れていない塔から鳴り響く
鐘の音が、銃声と混じり合って
街を覆い始めました。

博物館が閉鎖されました。
当然のことだけれど、
レイラが受けた衝撃は
思ったより大きいものでした。
職を失ったという事実よりも、
戦争がこの都市の奥深くまで
迫りつつあるという恐怖が
より大きく作用しました。
そうしたくないのに、
しきりに最悪のことを
考えるようになりました。
また空襲が始まったらどうしよう?
ベルク軍が本当にシエンを占領したら
その時はどうなるのだろうか?
この戦争はいつ頃終わるのだろうか?
答えのない質問が与えた絶望の中で、
うとうと眠っていたレイラを
起こしたのは、そっと額に触れた
ビルおじさんの手でした。
レイラが
「・・・おじさん?」と声をかけると
ビルおじさんは、
起こそうとしたわけではなかったと
謝りました。
レイラは、
ビルが慌てて引いた手を
ギュッと握りながら微笑みました。
レイラは、
まだ夕方でもないのに、
仕事が早く終わったのかと尋ねました。
ビルおじさんは、
昼休みに立ち寄った。
渡すものもあったしと答えると
少し恥ずかしそうに、
ベッドの横に置いた袋を
指差しました。
微かに桃の香りを嗅いだレイラの顔に
薄っすらと笑みが浮かびました。
プレゼントを
買って来てくれたのですねと
レイラが言うと、ビルは、
こんなのがプレゼントなんてと
ぶつぶつ言いながらも
嬉しそうな顔をしていました。
ビルは仕事の最中に、
ふとレイラのことを思い出しました。
空襲があった日以降、
博物館が閉館してしまったため、
レイラは、一日中家に一人で
残されていました。
そんな素振りは見せないけれど、
とても不安で、
途方に暮れている気持ちに
苦しんでいることが感じられ、
ビルの気持ちも良くありませんでした。
できることなら何でもしてあげたいと
思いました。
この戦争を止め、夢を叶え、
愛を取り戻す。
それが何であれ、できるはずなのに
彼はただのビル・レマー、
つまらないビル・レマーに過ぎず、
せいぜい好きな果物をいくつか
握らせるのが全てでした。
ビルおじさんは、
これでも食べているように。
分かったか?と言いました。
レイラは「はい」と答えました。
ビルおじさんは、
返事だけでなく、
しっかり食べなければならない。
こんな時こそ、しっかり食べて
元気を出さなければならない。
牛のようにモリモリ。
分かるだろう?と確認しました。
今日に限って、この子は
どうしてこんなに小さくて、
痩せて見えるのか。
それが気になって、
ビルは訳もなく声を荒げました。
レイラは「もちろんです」と答えると
クスクス笑いながら大きく頷きました。
このような表情をする時は、
間違いなく、
あの時代のあの子だと思いました。
レイラは、
牛のように食べるのは少し難しいけれど
でもたくさん食べると言いました。
ビルは、いい子だと褒めると、
夕方には、本当に美味しい物を
いっぱい買って来ると言いました。
レイラは歓声を上げ、
今日はパーティーの日かと尋ねました。
ビルは、
パーティー?
まあ、それはいいかもと答えると
レイラの頭を撫でて笑いました。
そして、話したいこともあるので
ついでにパーティーでもやってみようと
言いました。
レイラは、
自分も話があると返事をすると、
決意を固めたかのように
ビルの手を力強く握りました。
これ以上、卑怯になりたくないので
今日は全て話すつもりでした。
ビルおじさんは、
すぐに戻って来るので、
ゆっくり休んでいるように言うと
豪快に笑って、背を向けました。
レイラは、
ドアが閉まりかけている寸前に、
「おじさん!おじさん!」と
急いで彼を呼びました。
驚いて振り返ったビルおじさんを見ると
子供っぽい笑みがこぼれました。
レイラは、
いたずらに声をかけただけ。
気をつけて行ってらっしゃいと
言うと、
外しておいたメガネを探して掛けて
小さく手を振りました。
ビルおじさんは、
まだ子供だねと呟くと、
恥ずかしそうに、そっと手を振り
「また後でね、レイラ」
と言いました。

もう一発の銃弾が命中しました。
少し前まで、味方に向かって
銃を撃っていた敵軍の将校は、
自分の銃口から噴き上がった
火薬の煙が消える前に
地面に倒れました。
照準を合わせていた銃を下ろした
ヘルハルト少佐は、
依然として無表情でした。
戦闘が終わった通りを
捜索していた兵士の一人が、
あそこに、逃走する敵軍がいると
声を張り上げて叫びました。
ロビタの軍服を着た兵士二人が
角を曲がり、全力で走っていました。
そこに立っていた軍馬一頭を発見した
マティアスの目が細くなりました。
追いかける代わりに、マティアスは、
軍馬の後ろにある店の
ショーウインドーに銃を向けました。
銃弾が当たったガラスが
粉々に砕ける音に驚いた馬が
疾走し始めました。
その馬に乗って逃げようとした
二人のロビタ兵が
慌てふためいている間に、
追撃して来たベルク軍が
彼らを包囲しました。
手で合図を送って
待機するよう指示したマティアスは
彼らに近づき始めました。
虚ろな顔で空を見上げている中年の男は
要塞を防衛していた軍の司令官でした。
彼らの前に立ち止まったマティアスは
頭を下げることで、
敵国の将軍に対する礼儀を示しました。
マティアスは、
イントネーションに抑揚がないものの
流暢なロビタ語で、
この戦闘は終わったと告げました。
そして、
そうではないかと確認すると、
その言葉の意味を理解した司令官は
深いため息をつきました。
彼が降伏すれば戦闘は終わる。
残っているロビタ軍は、捕虜になっても
命を救うことができるという
意味でもありました。
しかし、この要塞を手放したら、
シエンは?
防ぎようがないことを知りながらも
彼が躊躇している間に、そばに立って
鬱憤を抑え込んでいた副官が
銃を取り出しました。
「少佐!」
それに気づいた一人の兵士の
鋭い叫び声と共に、
発砲音が鳴り響きました。

食欲はなかったけれど、
レイラは椅子から立ち上がって、
ビルおじさんが買って来てくれた桃を
一つ食べました
口の中いっぱいに甘い果汁が広がると、
忘れていた空腹感が
押し寄せて来ました。
もう一つ食べてもいいかな?
それとも取っておいた方がいいかな?
レイラは、真剣に悩みに陥った顔で
桃が入っている籠に向き合いました。
長い間迷った末に、
桃一個を手に取った瞬間、
聞きなれない轟音が鳴り響きました。
驚いたレイラが手から落とした桃が
テーブルの下に転がり落ちました。
無駄だと分かっていながらも、
違う。あまりにも怖くて
聞き間違えただけだと否定しました。
しかし、思いもよらないうちに
悲鳴を上げてしまいました。
爆発音は、もう体感できるほど
近くなっていました。
床が揺れたかと思ったら、
家の中の物が落ちる音が
鳴り響きました。
まずレイラは這いずりながら、
テーブルの下に入り込み
身を屈めました。
心臓が破裂しそうなくらい
ドキドキしました。
空襲があった時は建物から脱出して
近くの地下へ行く。
恐怖に怯えて泣く代わりに、
学んだことを、
思い出そうと努力しました。
できる。ビルおじさんとやった通り
ここから走って礼拝堂まで行けばいい。
向かい側の建物の窓が割れる音が
聞こえてくる頃、
レイラはテーブルの下から出て、
無我夢中で玄関に向かって走りました。
窓越しに、空に浮かんでいる
戦闘機を見ました。
路地の向かいの家は
屋根の半分が消えていました。
歯を食いしばり、
震える足を支えたレイラは
急いで階段を下り始めました。
冷たい水をかけたような静寂の中で、
一人の男がばたんと倒れました。
目を閉じる間もなく息絶えた
彼の頭から赤黒い血が流れ出し
床を濡らしました。
永遠に焦点を失ってしまった瞳が
底のない穴のように見えました。
引き金を引くこともできなかった拳銃も
すぐに彼の血に染まりました。

マティアスは目を伏せて彼を見ました。
自分が命を奪った男の血の飛沫が
残っている顔は無表情でした。
火薬の煙が消えた拳銃を
再びホルスターに入れたマティアスは
その静かな顔を上げて
敵将に向き合いました。
見守っていた中隊員たちも
無意識に乾いた唾を飲み込みました。
マティアスは、
この戦闘は終わったと、
まるで初めて言うように
同じ言葉を繰り返しました。
青ざめた敵の将軍に差し出した手は、
まるで握手を求める
紳士のようにさえ見えました。
「神よ」と
空を見つめながら呟いた彼は、
目をギュッと閉じて苦痛を耐えました。
そして諦めた顔で、
目の前に立っている
ベルクの若い将校の手に
自分の指揮棒を渡しました。
司令官の降伏。
公式的な敗北の認定でした。
やがてシエンの海岸にも、敵の旗が
はためくようになるだろう。
ひどく悲しんで嘆く彼の赤い目が
濡れました。
一歩退いたところで、
その顔を凝視していたマティアスは
格式を備えて黙礼しました。
ロビタの将軍も、
まっすぐな姿勢で立って、
それに応じました。
マティアスは、
副官のことは残念だと、
短い一言を付け加えた後、
背を向けました。
先程、自分の手で
命を奪った人について語るには
あまりにも淡々として
落ち着いた口調でした。
彼らは捕虜となったロビタの将軍と共に
広場に入りました。
その中隊の姿を見たベルク軍の歓声が
高まりました。
しかし、マティアスには、
自分とは関係のない
遠い世界のことのように感じられる
光景でした。
勝利と栄光、名誉。
そのすべてが無意味でした。
この戦争が始まって以来、
ずっとそうでした。
マティアスの目的は、
最初からただ一つだけであり、
勝利は、
ただその一つを成し遂げるための
手段に過ぎませんでした。
レイラ。
もう少し近づいたその名前を
口ずさんでいる間に、
敵将の指揮棒を受け取った
ベルク軍の司令官が
勝利を宣言しました。
それに合わせて
ロビタの国旗が降ろされ、
その代わりに、ベルク帝国の国旗が
広場の旗竿を飾りました。
司令官から
称賛の言葉を聞いている間も、
マティアスの五感は、
ただその名前だけに
向けられていました。
永遠に失ったとしても
永遠に彼のものである名前。
レイラは無事だ。
あまりにも当然のように
その確信がありました。
考えてみるとおかしなことでした。
戦時中で、誰でも一朝一夕に
死んでしまう時代。
ましてや、頻繁に
空襲を受けている都市にいる、
あのか弱い女の安全を
誰が確信できるというのか。
しかし、彼女はレイラでした。
彼のレイラなので無事でした。
それは何の根拠も必要としない、
一種の信仰のような必然でした。
避難していた住民たちが
一人二人と広場に集まると、
敵対行為や無意味な抵抗をしない限り
占領軍は、
住民の安全を保障するという内容の
布告が宣言されました。
マティアスは壇上の端に立ったまま、
鳥たちが飛び立つ夕方の空を
見上げました。
血の跡が乾いた顔に
微かな笑みが浮かびました。
シエンは、
もう目の前まで迫っていました。
![]()
![]()
きっとレイラは夕食の時に、
自分が妊娠していることを
打ち明けるつもりだったし
おそらくビルおじさんも
そのことを
話そうとしていたのではないかと
思います。
けれども、空襲がその機会を
奪ってしまいました。
この後、レイラとビルおじさんは
どうなるのかと考えただけで
涙腺が
緩みっぱなしになってしまいました。
次回はティッシュを
ご用意いただいた方が良いと思います。
![]()