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125話 シエンは空襲を受けました。
爆撃が止んだことを知りながらも
人々は気軽に
外に出ることができませんでした。
前回の空襲は
予告に過ぎなかったかのように
ベロップの戦闘機は
猛襲を浴びせました。
外の様子を知ることはできないけれど
以前のように、鐘塔が一つ
壊れた程度のことではないことが
明らかでした。
薄暗くて息苦しい地下室が
耐え難くなったのか、どこかで、
子供一人が泣き出しました。
それを皮切りに、
あちこちで幼い子供たちの泣き声が
聞こえ始めました。
大人たちの深いため息も一緒でした。
レイラは冷たくなった手を揉みながら
息を整えました。
固くなっていたお腹も
少しずつ張りが収まりました。
ようやく安心すると、
意識していなかった膝の痛みが
遅ればせながら押し寄せて来ました。
どうやってここまで来たのか
よく覚えていませんでした。
かろうじて建物の外に出た時は、
爆撃に驚いて飛び出した人々で
街が混雑していました。
人混みに押されて転んだレイラが
落ちた眼鏡をようやく見つけて
掛けた時、近くの住宅街から
再び爆発音が聞こえて来ました。
怪我をした膝から流れた血が
靴下をびっしょり濡らしましたが、
レイラは前だけを見て走って
礼拝堂の地下に無事避難しました。
その後、どれくらいの時間が、
どのように流れてしまったのか
よく分かりませんでした。
地上を見に行った若い男たちが、
もう出てもいい。奴らは帰ったと
叫びました。
しかし、その言葉を聞いても、
人々は気軽に動けませんでした。
安堵感が広がると、
さらに大きくなった泣き声とため息が
地下室に響きました。
レイラは真っ先に立ち上がり、
微かに灯火の光が流れ込んでいる
地下室の階段の前に近づきました。
我に返ると、真っ先に
ビルおじさんを探さなければならないと
思いました。
彼女が一人であることに気づいた男が
大丈夫かと心配そうに尋ねました。
レイラは頷くと、
急いで通りに出ました。
埃と爆薬の匂いが、
空中を漂っていました。
壊れた建物の残骸から立ち上る煙が
収まっていない所も
少なくありませんでした。
中心部よりは、海辺の村と港側の被害が
大きそうに見えました。
レイラは震える手で眼鏡を外しました。
力いっぱい目をこすって
また、こすった後に眼鏡をかけても
目の前に広がる光景は
少しも変わりませんでした。
片方の眼鏡のレンズに
ひびが入ってしまったというのが
むしろ幸いに感じられました。
あまりにも鮮明に見えるより、
この方が良さそうだからでした。
おそらく、ビルおじさんは、
港の近くの地下に
避難したと思うけれど、
そこへ行ってみるべきか。
いえ、行き違いにならないように
家に帰って
待った方がいいだろうか?
迷ったレイラは、
まず家に向かって歩き始めました。
片方の靴をなくしたことに
気づきましたが、そんなことは、
どうでも良いと思いました。
ビルおじさんさえ見つければ
すべてが大丈夫になる。
だから早く、おじさんの所へ・・・
家が見え始めた頃、
レイラを呼ぶ聞き慣れた声が
聞こえて来ました。
振り返ると、
二人の定住を手伝ってくれた
アレンおじさんが立っていました。
間違いなく、ビルおじさんと一緒に
港で働いていたはずなのに、
なぜか彼は一人でした。
レイラは、
よろめきながら彼に近づくと、
ビルおじさんは先に家に帰ったのかと
尋ねました。
そして、無言の彼に向かって、
二人は一緒に
避難をしていたのですよね。
心配していたけれど、本当に良かった。
おじさんは家に帰ったんですよね?
自分のことを
とても心配していると思うので
早く行かなければならないと
普段より早く言葉を吐き出しました。
ようやく、彼は震える声で、
驚かないで聞いてと告げました。
世の中が、グルグル回っているような
気がしましたが、
それでもレイラは
目に力を入れて彼を見つめました。
アレンは、
ビル・レマーが病院にいると
告げると、我慢できずに
泣き出しました。
彼はレイラに
早く行かなければならないと
急かしました。

ビル・レマーは、
耳元で唸りを上げている
不明瞭な騒音に目を覚ましました。
なぜか視界がぼやけて、
まるで深い水の中に沈んでいるような
気がしました。
全身が砕けるような恐ろしい痛みを
感じたのが最後でしたが、
寝ている間に完全に治ったのか、
今は手足が、ただだるいだけでした。
「おじさん!ビルおじさん!」
息が詰まりそうに泣きながら
彼を呼ぶレイラの声が
不明瞭な騒音の間に混じっていました。
ビルは首を回して
声が聞こえて来る方を見ました。
不思議なことに、
指先一つ動かせない今、
彼にできる唯一のことでした。
レイラ。
あの子が、一体どうして
あんなに泣いているのか。
慰めてやりたいのに、
クソッたれの声さえ、思い通りに
出てくれませんでした。
白い服を着た人たちが、
せわしなく行き来しているのを見ると
病院のようでした。
そうか、少し怪我をしたのかと
思いました。
ビルの記憶は、
港の倉庫が爆発したところで
突然、止まっていました。
彼は軍艦に積み込む砲弾の箱を
運んでいました。
避難命令が下されると、
労働者たちは夢中で走り出しました。
ビルもその群れに混じって
倉庫を横切りました。そして、
ちょうど外に出たと思った瞬間、
世界が崩れ落ちるような音が
響き渡りました。
まるで公爵邸の発電機が
爆発した日の騒音のようでした。
あの憎たらしい奴を壊さなかったら
自分がレイラを
あんな目に遭わすことはなかったのに。
突然、湧き上がった深い後悔と
その後に続く痛みの中で
ビルは意識を失いました。
何かの下敷きになっているような
気がしましたが、
それ以上のことを考える余裕は
ありませんでした。
泣くな、レイラ。
今や彼女は、
身悶えしながら号泣していました。
ビルは確かに、
手をギュッと握っているようでしたが
何も感じられませんでした。
もう起き上がらなければ。
固く決意してもがいても、体は
思い通りに動いてくれませんでした。
その間に医者が駆けつけ、
レイラをビルから引き離しました。
彼が何か言うと、レイラは
氷のように固まってしまいました。
クソ医者め。どうして、
子供をそんなに怖がらるのか。
これ以上泣くこともできない
子供の青ざめた顔が、
しきりに気が遠くなりそうな
彼の意識に深く刻まれました。
とにかく学識のある奴は皆、
どうしようもないのだから、
大丈夫、レイラ。
これくらいのことは何でもないと
カラカラ笑ってみようと
唇を開きましたが、流れ出たのは
不明瞭な呻き声と
荒い息の音だけでした。

早く手術をして欲しい。
何とか手術費用を工面してくると
泣き叫ぶレイラに、
医師は「申し訳ありません」と
重く沈んだ声で謝りました。
医師は、
今の状態での手術は無意味だ。
いまだに意識を保っているのが
奇跡のような状況だと告げました。
一体この人は何を言っているのか。
レイラは理解できず、
首を振りました。
人々の手に引かれて病院に来ると、
血まみれになったビルおじさんが
ベッドに横になっていました。
空襲で崩れた港の倉庫の下敷きになり
大けがをしたとのことでした。
両目で見ても、
現実を信じることができないのに
とてもあり得ないことを言われ、
レイラは、
いいえ、違う。そんなことはないと
必死に否定しました。
しかし、医師は、
お嬢さんを待っていると告げました。
それでも、レイラは
早くおじさんを手術して欲しいと
医師に懇願しました。
しかし、医師はレイラの目を避けながら
これ以上遅くなる前に
最後の別れの言葉を
告げなければならないと
沈痛な様子で話しました。
走って来た看護師が
ふらついているレイラを支えました。
その手を振り切ったレイラは
よろめきながら、
ビルおじさんが横になっている
ベッドのそばに近づきました。
そして、すぐに、
傷ついた獣のような泣き声が
響き渡りました。
レイラは、
「おじさん、私の声が聞こえますか?
早く起きてください。
家に帰りましょう」と
泣きながらしがみつくと、
ビル・レマーは
かろうじて目を開けました。
何とか起き上がろうとして
傷ついた体をよじる彼の唇の間から
うめき声が上がり、涙が流れ出ました。
これ以上、
見過ごすことができなくなった医師が
急いで近づき、
レイラを彼から引き離しました。
そして、
お嬢さんがこうすると、
患者の最期がもっと苦しくなる。
辛いだろうけれど、
安らかに旅立たせてあげるのが、
今できる最善のことだと
言い聞かせました。
最期。その言葉に
レイラの涙がぴたっと止まりました。
すると、
否定したい真実が見えてきました。
ここでおじさんを初めて見た瞬間、
もしかしたら、レイラも
すでに予感していたかも知れない
真実でした。
首を絞められた人のように
喘いでいたレイラは、
泣き笑いしながら、ふらつく足取りで、
再び寝床のそばへ、
ビルおじさんの方へ近づきました。
レイラは、
自分が立派な大人になる。
全部分かっていると、
いつもおじさんは言っていたけれど
まだ、そう思っていてくれているのか。
自分を信じていてくれているのかと
尋ねました。
何を言うかと思っていたら、
こんなに、くだらなくて
当たり前のことを聞いてくるなんて。
ビルおじさんは、
危うく失笑するところでした。
その代わりに、
焼けるような苦痛に襲われて
咳が止まらなくなり、
唇の間から熱い何かが流れ出ました。
慌てて近づいてきた看護師が
彼の口元にタオルを当てました。
一瞬、顔を背けたレイラは、
さらに明るく笑いましたが、
より大きな涙をぽろぽろ流しながら
彼を見ました。
断続的に途切れてはつながる意識の中に
おじさんが信じてくれれば、
自分は何でもできる。
自分は立派な大人だから
全部うまくやると言うレイラの声が
微かに流れました。
そしてふと過去の記憶が
短く通り過ぎました。
バラの苗を植えた春の日、
郵便馬車に乗って来た子供。
その子供と一緒に過ごした日々は、
いつもさわやかな草の葉と花の香りが
漂っているようでした。
一日も美しくない日は
ありませんでした。
こんなことはあり得ない。
ビルは全力で体をよじりました。
この忌まわしい世界に、
あの子を一人残すなんて
とんでもないことでした。
「おじさん!」
駆け寄って来た白い服を着た奴らが
彼を捕まえました。
レイラは花びらのような手で
彼の顔を包み込みました。
ポタポタ落ちた涙が
彼の頬を伝って流れました。
レイラは、
おじさんが自分の家族になってくれて
本当に良かった。 幸せだった。
毎日毎日、本当にそうだった。
自分たちは、いつも本当の家族だったし
これからもそうですよねと尋ねました。
ビルの目からも、
いつの間にか涙が溢れ出ました。
もちろん。そうだともと
答えなければならないのに
次第にレイラの顔が、
ぼやけて来ました。
生まれ変わっても、
自分たちは必ず家族になろう。
しばらく別れてから、
また会おうと言うと、
髭を生やした彼の頬にキスをしました。
そして、泣き声混じりの声で、
「愛しています。お父さん」と
囁きました。
今やビルは、
たった一本の糸のような意識に
かろうじて
しがみついているにもかかわらず、
その言葉をはっきりと
聞くことができました。
苦痛でもがいてたのが止まり、
血のついた唇の上に、
泣いているような笑いが広がりました。
おそらく子供が訪れた年の夏、
のんびりとした夕方に、
一緒に森を通り、
川沿いを歩いていた時のことでした。
彼が教えてやった花と木、
鳥たちの名前を
すらすらと唱えながら歩く
子供の髪の毛と服の裾が
風になびいていました。
嬉しそうに走って行った子供は、
つるつるした小石一つと
白い鳥の羽を拾うと、
ゆっくり歩く彼のそばに
戻って来ました。そして、
彼の大きくてごつごつした手の中に
そっと自分の手を押し込みました。
彼の指の何本かを
かろうじて握っている小さな手は
温かでした。
息を殺したまま
顔色を窺っていた子供は、
彼がほほ笑むと、安堵したように
恥ずかしそうな笑みを浮かべました。
そして、もう少し力を入れて
彼の手を握りました。
その夕方、二人は手をつないで
紫色の夕闇になるまで、一緒に
並んで川辺を歩きました。
そうだね。あの日からだったんだ。
ビルは、今ようやく
分かったような気がしました。
いや、もしかしたら、
ずっと前から、その瞬間から、
すでに気づいていたのかもしれない。
ただ照れくさくて、
知らんぷりしていただけ。
「・・・愛している」
疫病神という奴が心変わりでもしたのか
ビルはかろうじて、
声を出してみることができました。
そうか。 やっぱり
大したことではなかったんだ。
安堵感が広がったためか、
全身から素早く力が抜けました。
目が覚めたら、真っ先に
美味しい物をたくさん買いに
行くつもりでした。
自分たち二人で
パーティーをすることにしていたから。
話したいことも山ほどありました。
もしかしたら、グラスを傾けて
徹夜しなければならないかもしれない。
いや、ダメだ。もうお酒はだめだから、
リンゴジュースのようなものを
買わないと。
そして乾杯、祝杯を上げなければ。
自分たちが初めて家族になった日と
同じように。
「愛しているよ、我が娘」
ビルは笑顔で
もう一度囁きました。
目が覚めたら、
赤面するような言葉を口にした
この瞬間を、
痛切に後悔するかも知れませんでしたが
それでもまあ、
それほど悪くはありませんでした。
それは、永遠に変わらない真実だから。
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涙腺が崩壊し
ハンカチとティッシュを
手放すことができませんでした。
戦争さえ起きなければ、
ビルおじさんはレイラの子供を
腕に抱いて、
まだまだ幸せに暮らすことが
できたのに。
権力者の都合で起きた戦が
何の罪もない一般人を巻き込み
悲しませることに怒りを感じます。
最期の最期でレイラが、
ビルおじさんのことを
「お父さん」と呼び
愛を伝えることができたことと
ビルおじさんもレイラのことを
「我が娘」と呼び、
愛を伝えられたことが
せめてもの救いでした。
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