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126話 ビルおじさんは亡くなってしまいました。
シエンが陥落したというニュースが
町中を襲いました。
そして、まもなく占領軍が
入城することを知らせるポスターも
あちこちに貼られていました。
レイラは、
人々が集まって騒がしい
道の曲がり角の壁の前へ
のろのろ近づきました。
張り紙の内容は、
予想と大きく変わりませんでした。
武器と通信機器は官庁に保管し、
占領軍を誹謗したり
攻撃しないことを求めている、
いわば無条件降伏と順応だけが
生き残る道だとする布告でした。
占領軍司令官の許可を得た
通行証なしには、
この都市を離れることができないという
脅し文句もありました。
人々は絶望と恐怖、
あるいは怒りを露わにして
ざわめいていましたが、
レイラは、ただ呆然としていて
何も考えていませんでした。
「ああ、そうなんだ」という程度の
感興が全てでした。
興奮した人波に押されて
張り紙の前を離れたレイラは、
とぼとぼと家に向かって歩きました。
ビルおじさんの葬式を行った後は、
ずっとこのような状態でした。
目を開けていても、
眠ったような気分で、一日一日を
流れに任せて、過ごしていました。
捨てられた植木鉢で枯れていく
植物のような人生でした。
これではいけないということは
分かっているけれど、ただそれだけ。
持てる精神力を全て絞り出してみても
できることは、
せいぜい毎日、ビルおじさんの
墓参りをすることだけでした。
やっとの思いで階段を上って
家に入ったレイラは、
空襲で割れてしまった窓から
吹いてくる風に当たりながら、
しばらく、ぼんやりと立っていました。
空は、とても青く澄んでいました。
爽やかな秋の日差し。
その中を漂う金色の埃。
目に触れるすべてが美しい日なのに
レイラ・ルウェリンは
再び一人ぼっちになって、この世の中に
一人で取り残されてしまいました。
「おじさん」
その事実を否定するかのように、
レイラは声高に叫んでみました。
「ビルおじさん!」
今度は笑みを浮かべながら、
もう少し大声で叫びました。
重たい足音が響き渡り、
勢いよくドアが開き、
カラカラ笑いながら
「うん、レイラ」という声が
聞こえてきそうでしたが、
家の中は息が詰まりそうな程、
静かでした。
崩れ落ちた鐘塔が
ふと懐かしくなりました。
耳をつんざくような、
あの鐘の音でもあれば
少しは耐えられただろうに。
いや、どんな音でもいい。
この静寂さえなければ。
すぐにでも外に
飛び出したかったけれど、
その気力が残っておらず、
レイラは自分の部屋のベッドに
横になりました。
唯一、この部屋の窓だけは
割れませんでしたが、
ひびの入ったガラスが、
いつまでも持ちこたえてくれるとは
思いませんでした。
窓ガラスを
取り替えなければならないのに。
こんな状況で、それが可能だろうか?
このまま冬が来たら、
その時は、どうすればいいのか。
レイラは人形のように瞬きしながら
無気力な考えを続けました。
そういえば食べ物もなくなった。
二日前に、
無理やり噛んで飲み込んだ乾いたパンが
レイラの最後の食事でした。
考えがそこまで及ぶと、
空腹が押し寄せて来ましたが、
体を起こす気力は
残っていませんでした。
間もなく占領軍がやって来るので
町全体が混乱に包まれていました。
共同墓地から帰ってくる時に見た
食料品店は、まるで、
もう一つの戦場のようでした。
その間に
割り込む気にはなれないけれど、
だからといって、
このまま、ひたすら飢えているのは
無責任でした。
その時、レイラは、
アレンおじさんがくれたものを
思い出しました。
ビルおじさんの葬儀を行った週の週末
アレンおじさんの家族は
シエンを離れました。
ベルク軍に占領され、
どうすることもできずに
足止めされる前に、
まだ安全な首都に移るためでした。
アレンおじさんは、
こんな風にレイラを一人残して
去ることになって
本当に申し訳ないと何度も謝りました。
しかし、レイラは
彼を理解していました。
ある日、突然現れた遠い親戚と
その養女の面倒を
ここまで見てくれただけでも、
彼は十分良い人でした。
辛うじて避難する中、
自分の面倒まで見てくれることを
望むのは、お話にならなかったし、
そもそも、最初から
そんな期待を抱いていませんでした。
何よりもレイラは
ここを離れたくありませんでした。
どうせ、この世のどこにも
行く場所がなければ、
ビルおじさんのそばにいることを
望みました。
それでも、
なかなか頭を上げられない彼を見ると
むしろレイラの方が、
より罪悪感を覚えました。
どうか無事に、
元気に過ごして欲しいという
挨拶をしに立ち寄った日、
彼は一袋分の生活必需品をくれました。
食べ物や布地、様々な雑貨まで
たくさん持って来てくれた
彼の心がありがたくて、レイラは
何度も感謝の言葉を伝えました。
そのようなレイラを
じっと見つめていた彼は、
充血した目をこすりながら
去って行きました。
また一人、良い人と別れた日でした。
レイラはガラス瓶に入った
アンズの漬物を一個取り出しました。
倉庫に残っていた
ビルおじさんの荷物が入った小さな箱は
努めて無視しました。
それを開ければ、
本当にすべてが終わりそうで
怖かったからでした。
テーブルの前に座ったレイラは
慌ててアンズの漬物を食べました。
器に移すことさえ考えられないうちに
ガラス瓶の底が露わになりました。
口元に付いた、ベトベトした果汁を
手の甲でこすって拭いていたレイラは
何だか虚しくなって
泣くように笑いました。
まだお腹が空いていて
眠くなったけれども、
依然として生きようとする自分が
とても恐ろしく感じました。

シエンの最終防御線は
予想よりはるかに簡単に崩れました。
最後の希望のような堅固な要塞が
撃破されたという事実に
戦意を喪失したロビタ軍は、
形式的な防御戦を繰り広げた末、
撤退することで、
南部の軍事要衝地を放棄しました。
誤った判断ではありませんでした。
すでに不利な戦線を維持するために
総力戦を繰り広げれば、首都の防御線が
崩れることになるからでした。
ベルク軍は、
広く開かれた城門を通り抜け、
市街地の広場へと進みました。
先頭に立った騎兵隊の馬の蹄の音に続き
司令部と指揮官を乗せた
軍用車の列が続きました。
白旗を手にしたシエンの市長は
無気力な姿で城門の前に立ち
占領軍を迎えました。
占領軍が提示した条件を受け入れ、
無条件降伏をする代償として、
この都市は安全を保障されました。
今のところ、
最善の選択をしたわけでした。
マティアスは、
騎兵隊の後ろを行く軍用車に座り、
見知らぬ街を眺めました。
空襲で倒壊した建物の瓦礫が
所々、散らばっていましたが、
シエンは、おおむね平穏に見えました。
おそらくベルクより、
はるかに明るくて淡い色調の風景と、
透明な日差しがもたらした
錯覚かもしれませんでしたが。
戦利品を鑑賞するかのように、
ゆっくりと市街地を回った
占領軍の行列は、広場で止まりました。
車から降りた司令官が
市庁舎前に設けられた壇上に上がると、
指揮官たちも列をなして、
その後を追いました。
マティアスも、
ゆっくりとした足取りで
それに加わりました。
片手に緩く握っていた将校帽は、
最後の階段を上る頃になって
軽く頭の上に乗せました。
青灰色の制服を着た彼は、
ここへ来る途中で得た
あらゆる残酷なニックネームに
似つかわしなく、
きれいで優雅な姿でした。
司令官は力強い口調で、
長々とスピーチしました。
敵軍の都市を占領する度に
繰り返された儀式でしたが、
今日は一段と熱がこもっていました。
予定より早く目標を達成し、
かなり浮かれているようでしたが
マティアスとしては、
それほど喜ばしいことでは
ありませんでした。
しかし、
このように美しい秋空の下でなら、
理解できないことはなさそうでした。
マティアスの心は、
かつてない寛容さと余裕で
満たされていました。
シエンに足を踏み入れてから
ずっとそうでした。
ここにレイラがいるので、
そうできない理由など、
何もありませんでした。
礼儀正しい姿勢で立った
マティアスの視線は、
壇上の下に集まっている多くの人々に
向けられていました。
獲物を探すような目つきと違って
唇は、この世で最も愛らしいものを
前にしたかのように、
慈愛に満ちた笑みを
浮かべたままでした。
そのギャップが生み出した
ぞっとする気配に、
周辺の将校たちはざわめきましたが
マティアスは、
少しも意に介さない態度でした。
もしかしたら、そのようなことに
何の関心もないという表現が
ふさわしいような気もしました。
ぼんやりしつつ、
高揚しているようでしたが、
一方では、深淵に沈んでいるような
奇妙な雰囲気でした。
やがて長いスピーチが終わると、
広場に集まった人々も散り始めました。
再び脱いだ将校帽を手にした
マティアスは、あまり急ぐ様子もなく
壇上から降りました。
ポマードで整えた髪も、
乱れたところが一つもない服装のように
完璧にきれいでした。
むしろ戦場で健康を回復した彼は、
以前と変わらない姿でした。
病人のような姿で出征し、
日々強健になって来たという点も、
ヘルハルト少佐の悪名を轟かせるのに
大きく貢献しました。
最後の階段を降りた直後、
「見つけました、少佐!」と
叫びながら、当番兵が
息を切らして走って来ました。
宿題を済ませた子供のように
満足そうな表情でした。
マティアスは、
ゆっくり彼の方を向きました。
少佐の影が自分の頭上に落ちると
当番兵は、思わずびくっとして
一歩後ろに下がりました。
遠くから見ると、
すらりとした体だけれど、
あまりにも長身である上に
体格も大きいため、
近くで向き合うと威圧感が大きく、
その青い目と視線が合うと、
今のように、
背筋がぞっとすることもありました。
当番兵は怯えながら、
「つまり、おっしゃっていた・・」
と呟くと、マティアスは
「どこですか?」と尋ねました。
急かしているというには、
過度にのんびりとした口調でしたが、
当番兵は、まるで
追われているような気分になり、
あたふたと住所が書かれたメモを
差し出しました。
彼は、
ここです。レイラ・ルウェリン。
今年の春に引っ越して来た
ベルク出身のお嬢さんで
間違いないと告げました。

死んだように横になっていたレイラは
正午過ぎに、
ベッドから体を起こしました。
固くなった黒パンと茹でた豆を
少し食べて、
砂糖を溶かしたお湯を飲みました。
お腹はいっぱいではなかったけれど、
何とか動けるようになっただけで
十分でした。
体を洗った後、服を着替えると、
日差しは、
もう少し暖かくなっていました。
開け放たれた窓の前に立つと
通りが見下ろせました。
占領軍の入城のせいか、
通りはあまりにも静かでした。
安全が保証されたとはいえ、
この都市の人々は、依然として
敵の軍隊を恐れていました。
無心で背を向けたレイラは、
厚い靴下を探して履き、
靴の紐をしっかり結びました。
天気が暖かいので、ショールは
羽織らないことにしました。
支度を終えて家を出る
レイラの足取りは、普段と変わらず
落ち着いていました。
がらんとした街に出ると、
今日に限って、特に眩しい日差しが
目を刺して来ました。
やっぱり行かない方がいいかな?
しばらく悩みましたが、
結局、レイラは一歩を踏み出しました。
占領軍よりも、息が詰まりそうな
家の中の静けさの方が、もっと恐ろしく
街の騒音でも聞けば、
少しは良くなったりもしたけれど
今日は、それさえ叶わず
息が詰まって来ました。
大丈夫だと
レイラは懸命に自分を慰めました。
好きなものを思い浮かべようと
努力したりもしました。
そして、愛していたものの全ての名前を
失ったということに気づきました。
その事実に、口の端だけで笑うと、
一人で歩くレイラの影だけだった道を
歩いて来る誰かの足音が
聞こえ始めました。
レイラは、
空中を彷徨っていた
ぼんやりとした視線を
そちらへ向けました。
逆光のせいで、
シルエットしか見えない将校が
ゆっくりと歩いて来ました。
レイラを発見した彼が足を止めると
街は再び死んだような静けさに
包まれました。
通行禁止令のようなものが
発令されたのだろうか?
現実感のなかった頭の中に
徐々に恐怖が広がり始めました。
なぜか、その将校は、じっと立って
レイラを凝視していました。
距離が、かなり離れていて、
顔を見ることができなくても
心に響く視線を
感じることができました。
自分を押さえつけている
根源的な恐怖が何かを悟ると、
胸が不安でドキドキし、
自然と息が苦しくなりました。
見覚えがありました。
とんでもない考えでしたが、
道の先に静かに立っている
あの将校に、
あまりにも馴染みがありました。
彼と重なる一人の男の顔が閃くと
レイラは、それ以上我慢できずに
振り向きました。
小走りして逃げる彼女について、
止まっていた将校も
再び動き始めました。
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ビルおじさんが亡くなっても
何とか生きようとしているレイラに
胸が痛みました。
その描写はありませんでしたが、
おそらくお腹の子供が
支えになってくれているのではないかと
思います。
この世界に一人残されたと
嘆くことがあっても、
お腹の中の子供は
レイラの血を分けた唯一の家族なので
この子のためなら、彼女は
何とか生きようとするのではないかと
思います。
そして、とうとうマティアスは
レイラを見つけました。
他国であろうと、
レイラを見つけなければ
容赦しないぞと思わせるくらいの
恐ろしい威圧感で
命令したのではないかと思います。
逃げたレイラを追いかけるマティアス。
どうか、
レイラに酷いことをしないでと
願わずにいられません。
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