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41話 オデットとバスティアンは、デメル提督邸に来ています。
客用の寝室がある三階に入ると、
にぎやかな音楽と笑い声が
次第に消えて行きました。
オデットは、メイドが案内してくれた
東端の寝室に入りました。
今は夜が更けて、
暗闇に包まれていましたが
夜が明けると、
斜面の下の湖と森を見ることができる
眺めの良い部屋でした。
ドレスを脱ぐのを手伝ってくれた
メイドにお礼を言い、
あとは一人でやると言って
彼女を下がらせたオデットは、
自分で後片付けを済ませました。
酔っているせいで、
軽いめまいがしましたが、
体を支えられないほどでは
ありませんでした。
最後に結婚指輪を外したオデットは
ゆっくりとした足取りで
浴室に入りました。
浴槽にお湯を注ぐ音が
爽やかに響き渡り始めました。
これくらいなら、
いい妻ではなかっただろうか?
オデットはお湯が満ちて行く
浴槽をじっと見下ろしながら、
今日一日を振り返りました。
デメル侯爵夫人の歓待と配慮のおかげで
オデットは、普段よりはるかに
リラックスした雰囲気の中で、
クラウヴィッツ夫人の役目を
果たすことができました。
再考しながら問い詰めるという
神経戦を繰り広げる必要のない、
気持ちの良い会話と笑いの中で
美味しい食事を楽しめた時間でした。
それでも。もしかして。
オデットは、
しきりに閉じようとする目に力を入れて
バスティアンの記憶を辿りました。
その価値に見合うだけのことを
十分に果たせなかったと
二度と指摘されないように
彼女は暇あるごとに、
バスティアンの顔色を窺いました。
あまりにも表情の変化が大きくない
男でしたが、それでも今は、
おおよその気分程度は
察することができました。
バスティアンはよく笑い、
時には優しい眼差しで
オデットを見つめていました。
普段より多くの酒を飲んだオデットを
先に寝室へ行かせてくれたのも
バスティアンでした。
おやすみなさい。
その甘い挨拶は、
優しい夫の真似をするための
嘘だったはずでしたが、
口元をよぎった笑みまで装う理由は
ありませんでした。どうせ、
オデットしか見ていなかった瞬間に
過ぎなかったから。
おそらく、バスティアンは
満足しているようだったと、
大まかな結論を下したオデットは
安堵のため息をつきながら
蛇口を閉めました。
その時、
浴槽の向こうの壁を埋め尽くす
大きな窓が目に入りました。
カーテンを閉めるために
近づいたオデットは、
魂が抜けたような顔で
窓ガラスの向こうを眺めました。
星が降り注ぐ夜空が
彼女を圧倒しました。
まるで星の海が頭上を流れているような
光景でした。
オデットは取り憑かれたように
窓を開けました。
さらさらと秘密を囁く木々と
虫の鳴き声が加わると、
銀河の下に広がる真夏の夜が
さらに美しくなりました。
どうして浴室に
こんなに大きな窓を付けたのか
初めて理解できるような気がしました。
しばらく、
星で埋め尽くされた夜空を
眺めていたオデットは
窓を閉めずに振り返りました。
明かりを消してガウンを脱ぎました。
ピチャピチャいう音が止んだ浴室は、
再び静けさに包まれていました。

黒い森の向こうから
コヨーテの鳴き声が聞こえて来ました。
バスティアンはしばらく立ち止まって
廊下の窓の向こうを見つめました。
月が沈んだ夜空を埋め尽くす星が
群れを成して輝いていました。
大抵はこんな夜だったと、
バスティアンは淡々と、
あの時代を回想しました。
月のない夜。
不祥事が起こりやすい
そんな日が来ると、
特別な授業が始まりました。
将来、家門を率いる
立派な後継者を育てるためという
免罪符を与えられた教師たちは
概して残酷になりました。
もちろん、皆が
悪魔だったわけではなく、
中には、残忍でない者もいました。
しかし、
複雑な思いと憐憫のこもった
まなざしを持つ部類は、
間もなく姿を消しました。
最も長くバスティアンを教えたのは
野戦兵出身の退役将校で、
部下たちに対して
過酷な行為を繰り返した末、
不名誉な形で軍服を脱いだ
失敗者でした。
しかし、父親にとっては
立派な師匠のようなものでした。
暗闇に包まれた風景から
視線を外したバスティアンは、
再び規則的に歩き始めました。
適正ラインを超えて飲んだ酒の力が
徐々に広がり始めましたが、
判断力を鈍らせるほどでは
ありませんでした。
愛酒家で名高い
大抵、飲み過ぎてしまいました。
要領よく避ける方法がないわけでは
ありませんでしたが、
今日はそのような苦労を
甘受しませんでした。
簡単に眠れる程度の酔いは、
今夜、役に立つはずだからでした。
今夜過ごすことになっている
部屋に近づくと、
足音を立てないようにしました。
静かにドアを開いて中に入るまで、
今頃、オデットは眠っているだろうと
思ったからでした。
サイドテーブルに置かれた
ランプの明かりで照らされたベッドは
空っぽでした。
それに気づいたのと同時に、
微かにハミングが聞こえて来ました。
バスティアンは、
半分開いている浴室のドアの向こうから
それが聞こえて来ていることに気づくと
判断を下す前に体が先に動きました。
足音を立てずに
寝室を横切ったバスティアンは、
不意に浴室のドアを開けました。
オデットでした。
幻聴のような歌声の正体に気づいた
バスティアンは、
その場に釘付けになったように
立ち止まりました。
オデットは窓際に置かれた浴槽に
体を浸したまま、
星が輝く夜空を眺めていました。
美しい夢のような歌を口ずさみながら。
魅惑的な魔女のように。
バスティアンは、無意識に息を殺して
その光景を見ました。
水に濡れた女の裸身が
澄んだ闇の中で白く輝いていました。
まだ人の気配を感じていないのか
オデットは完璧に無防備な姿でした。
バスティアンは、
わけの分からない不快感と
虚無感が混じったため息を飲み込み、
拳を握り締めました。
その時、黒い森の向こうから
風が吹いて来て、
ザーッと緑の波の音が
夜の静けさを揺るがしました。
オデットはようやく歌うのを
止めました。
そしてゆっくりと、
風の方向にそって首を回しました。
真夏の夜の透明な闇の中で
二人の目が合いました。
ぼんやりと
バスティアンを見つめていた
オデットの顔に、
突然、恐怖の色が浮かびました。
その直後に飛び出した鋭い悲鳴は
幸いにも、浴室の外に
漏れることはありませんでした。
危機を察知したバスティアンが
動いたおかげでした。
バスティアンは素早く浴槽に駆けつけて
オデットの口を塞ぎました。
驚いた彼女はもがきましたが、
その取るに足りない抵抗は
すぐに完璧に制圧されました。
バスティアンは息を呑んだまま
廊下から聞こえてくる気配に
耳を傾けました。
各自の寝室に戻る客たちの
会話と笑い声が
ぼんやりと聞こえて来ました。
夜更けまで続いた晩餐会が、
もう完全に終わったようでした。
ひとしきり、騒ぎが通り過ぎると、
バスティアンは首を回して
浴槽を眺めました。
オデットは青ざめて震えていました。
こんな不埒な真似をした女らしくない
姿でした。
バスティアンは、
この不可解な状況の解答を探すように
オデットを、
じっくり観察してみました。
万が一の突発的状況に備えて、
口を塞いだ手は放しませんでした。
青い血管が透けて見える
長い首を過ぎた視線が
鎖骨の下に向かうと、
オデットの抵抗が激しくなりました。
揺れる胸の先に付いていた水滴が
ポタポタと水の上に落ちました。
その波紋が消えると、
バスティアンも、そのくらいで
視線を上げました。
シーッ。
バスティアンは
唇の上に指を当てることで
警告しました。
オデットは怯えた目で
彼をじっと見つめながら
首を横に振りました。
バスティアンはオデットを放して
立ち上がりました。
タオルを一枚投げてやったのは
自分のためでした。
今にも息が詰まりそうに喘ぎながらも
オデットは慌ててそれを拾って
脱いだ体を隠しました。
オデットは、
「どうして・・・あなたがここへ
どうして・・・」と
オデットは苦しそうに息をしながら
たどたどしく囁きました。
とても混乱している瞳と向き合うと
バスティアンは、
この状況を理解しました。
彼は、
まさか、あなた一人で使う部屋だと
思ったのかと尋ねると、
熱が上がった唇を舐めました。
臨界点を超えた苛立ちが、
失笑となって流れ出ました。
オデットは、
自分たちは、元々・・・・と
抗議しようとしましたが、
バスティアンは、
今からでも、皇帝の友人である
デメル提督の所へ行って、
この結婚は偽りだ。
名前だけの夫婦なので
同じベッドを使わない。
どうか、もう一部屋、
用意してくださいと頼むのかと
責めました。
オデットは涙声で謝りました。
そして、
あなたなら何らかの形で
その問題を解決したと思っていた。
それで自分は・・・と言い訳をすると
震える手を上げ、
真っ赤になった顔を撫でました。
何とかして正気を保とうと
必死に努力しているようでしたが、
それほど大きな効果はなさそうでした。
バスティアンは
支度をして出て来るようにと
ぎこちなく命令して浴室を出ました。
ドアを閉めると、
初めてびしょ濡れになった
自分の姿が目に入りました。
バスティアンは、
大雑把に水気を拭き取った後、
タバコを吸いながら
バルコニーに出ました。
白く広がる煙の下に視線を落とすと
まだ鎮まっていない
ズボンの前立てが目に入りました。
バスティアンは、
深く吸い込んだ煙を吐き出しながら
失笑しました。
ため息混じりの悪口も一緒でした。
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大きな窓の向こうは星の海と
秘密を囁く木々に虫の声。
こんな素敵なお風呂を見たら
誰だって入りたくなるのではないかと
思います。
だから、オデットは絶対に悪くない。
彼女がお風呂に入っていることに
気づいたなら、バスティアンは
ドアを開けるべきではなかった。
つい、オデットの姿に見惚れてしまった
バスティアンが悪いと思います。
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