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43話 オデットとバスティアンは、引き続き、デメル提督邸に滞在中です。
一緒に遊歩道を歩いてきた客たちは、
森の入り口から
二つのグループに分かれました。
男性たちはデメル提督と一緒に
マス釣りへ行き、
女性と子供たちは、谷の下流で、
遠足を楽しむ予定でした。
デメル公爵夫人は、
気をつけて行って来るように。
あまり険しい所まで、
客たちを連れて行かないようにと
頼むと、自分の客たちを連れて
白樺の森に入りました。
群れの最後尾に立っていた
バスティアンとオデットは
短く目配せを交わした後、
それぞれの道を進んで行きました。
これまで、そうだったように、
特別な会話はしませんでした。
「お父様!」と
息も絶え絶えの子供の悲鳴が
森の道の静けさを揺るがしました。
ジェンダス伯爵の幼い娘でした。
バスティアンは首を回して、
小さな騒ぎが起こった方向を見ました。
父親と離れることになった子供は、
世界が崩壊したかのように泣きながら
駄々をこね始めました。
子供というものは、
元々、そういうものだから
驚くことではありませんでした。
ただ、
泣き叫ぶ娘に駆けつけた父親の姿が
やや異例だっただけでした。
ジェンダス伯爵は、
自ら子供をなだめました。
気兼ねなく胸に抱き、
なだめながらキスをし、
甚だしくは、自分の服の袖先で
涙まみれになった娘の顔を
拭いてやったりもしました。
ジェンダス伯爵の説得が通じたのか
子供は、ほどなくして泣き止みました。
しかし、小さな手で、
父親の服の襟をしっかり握ったまま
なかなか放しそうにありませんでした。
ジェンダス伯爵の顔に、
戸惑いの色が浮かんだ頃、
オデットが野の花を摘んで、
ジェンダス親子のそばに近づきました。
あちこちに振って見せた花を握らせると
子供はキャッキャッと笑い出しました。
その間に、オデットは
背中に隠していたもう一つの花を
差し出しました。
一輪、もう一輪。
色とりどりの花が現れる度に、
子供の笑いは、
ますます明るくなって行きました。
最後の花を差し出した頃、
子供の関心は
オデットに注がれていました。
彼女はその隙を狙って
ジェンダス伯爵の娘を
抱き締めました。
素直にオデットの胸に抱かれた子供は
すでに父親を忘れたような顔で
にっこりしました。
ジェンダス伯爵は、
何度も繰り返し感謝の意を伝えた後
釣りに出かけるグループに
戻りました。
彼の娘を抱いたオデットも、
自分の道を急ぎました。
冷ややかさを消した顔に
優しい笑みを浮かべたままでした。
そばに近づいてきたジェンダス伯爵は
不本意ながら、
大変な迷惑をかけてしまった。
子供は人見知りが激しいので
心配だけれど
クラウヴィッツ夫人のことが
気に入ったようだと言うと、
照れくさそうな笑みを浮かべました。
バスティアンは、
唇の端をわずかに上げることで、
理解したという意思を伝えました。
間もなく、
勾配が急な横道が現れました。
デメル提督の釣り場は、
その登山道の先に位置していました。
登れば登るほど、
道はますます狭く険しくなりました。
軍人たちは、難なく山を登りましたが
このような地形に慣れていない
貴族たちは、自然に
遅れを取るようになりました。
取り残された客を見ていた
ジェンダス伯爵を助けてくれ。
彼は、ぜんそく持ちだからと、
密かに命令を下しました。
バスティアンは首を回して
列から取り残されたジェンダス伯爵を
眺めました。
バスティアンは、
それなら、無理な山登りはしない方が
いいのではないかと尋ねました。
デメル提督は、
症状は、それほどひどくはない。
それに、重要な目的があって
ここまで来たのだから、彼は
簡単には諦めないと答えました。
バスティアンは、
釣り以外の目的があるのかと
尋ねました。
デメル提督は、
マクシミンは釣りには全く興味がない。
何とかいう花だとか草だとか、
とにかく珍しい植物の生息地が
この山にあるので、
標本を採取しなければならない。
人は本当にいいけれど変わり者だと
首を横に振りながら、
笑って答えました。
そして、
君の背中に背負うほどでは
ないだろうから、マクシミンが
心苦しくならないように
話し相手でもしてくれと頼むと
バスティアンの肩を軽くポンと叩き
力強い足取りで再び先頭に立ちました。
好ましくない任務でしたが、
バスティアンは素直に受け入れました。
命じられたのだから、従えばいい。
そんな単純なことに、
他の考えや感情を介入させる必要は
ありませんでした。
道を戻って来たバスティアンを見た
ジェンダス伯爵は、
また迷惑をかけてしまったと言うと
照れくさそうに笑いました。
バスティアンは、
ジェンダス伯爵の荷物を持つことを
申し出ましたが、彼は手を振り、
どうせ、そんなに重くはない。
同行してくれるだけで十分だと断ると
先頭に立って歩き始めました。
バスティアンはペースを落とし、
ジェンダス伯爵と歩調を合わせました。
二人の男は、
適度に表面的な会話を交わしながら
山道を歩きました。
植物に夢中になっている
変わり者という評判とは裏腹に、
ジェンダス伯爵は、格調高く
洗練された話し方をしました。
スポーツや政治、株式市場。
男たちの社交術で、
よく取り上げられるテーマに
関する知識も、基本的なレベル以上
備えていました。
もちろん、その何に対しても、
心から関心があるようには
見えませんでしたが。
地面を見ながら歩いていた
ジェンダス伯爵が、
「ちょっと待って!」と
突然、叫びました。
バスティアンは、眉を顰めながら
足を止めました。
それと同時に、あたふたと近付いて来た
ジェンダス伯爵は土の上に跪きました。
正確には、バスティアンに
踏み潰されそうになった、
道端の小さな草の前でした。
いくら探しても見つからなかったのに
こんな所にあったんだと呟くと
ジェンダス伯爵は、
肩に斜めに掛けていたカバンから
取り出した小さなシャベルで
草を掘り起こしました。
巨万の富でも見つけたような
顔をしていました。
バスティアンは、
探していた、あの植物かと尋ねました。
ジェンダス伯爵は否定しましたが
それと同じくらい貴重なものだと
答えると、
根についた土を払い落とし、
きれいな紙で包んだ草を、
慎重にバッグに詰め込みました。
釣りをする渓谷に近づくと、
バスティアンの任務も終わりました。
礼儀正しく、感謝の言葉を伝えた
ジェンダス伯爵は、グループから離れて
目的の、その植物を探しに出ました。
時折、力が及ばないのか、
草地で息を切らしたりもしましたが、
その瞬間でも、まっすぐな姿勢は
少しも崩れませんでした。
バスティアンは、
カラマツの陰が差す岩の上に
座りました。
急な谷間を流れ落ちて来た
渓谷の水が溜まって
流れ始める場所でした。
なぜ、こんな既視感を覚えるのか。
バスティアンは、釣り竿を握った瞬間
その疑問の答えを見つけました。
オデット。バスティアンは、
ふとその名前を繰り返しながら
首を回しました。
ジェンダス伯爵は、草を求めて
せっせと山の斜面を
彷徨っているところでした。
他人への無関心から生まれる親切と
無用なものに対する深い愛着まで、
マクシミン・フォン・ジェンダスは
彼の妻と非常に似ている
雰囲気がありました。
家具のカバーを被ったまま、
ソファーに倒れていたオデットの姿が
目を刺すような濃い緑色の木の葉の上に
浮かび上がりました。
その女を見下ろして味わった
汚らわしい気持ちと、その瞬間、
狂いそうなくらい
下が引っ張られた感覚の記憶も
その後に続きました。
そっと下げていた目を上げた
バスティアンは、
雑念を振り払うように
釣り糸を投げました。
絶え間なく流れる水と
木々の間を通る風の音が
山の谷間を埋め尽くしました。
無意味な記憶は、すぐに、
その爽やかな騒ぎの向こうに
消えました。

水に飽きたからと言って
この深い山の中に別荘を構えたくせに
毎日のように、
船遊びと釣りを楽しんでいる。
本当に心の内が読めない人だと
夫の悪口を言う瞬間にも、
デメル侯爵夫人の顔からは
大きな愛情が滲み出ていました。
それぞれの夫に対する悪口で
相づちを打つ貴婦人たちも
同じでした。
オデットは、
その心地よいお喋りに耳を傾け、
懐に抱いている子供をなだめました。
もっと遊びたくて、
無理に瞼を上げては下げるを
繰り返していたアルマは、
しばらくすると、ぐっすり眠りました。
クラウヴィッツ夫人は
子供の面倒をよく見る才能がある。
いい母親になると、
夫の話が下火になった
貴婦人たちの関心が
突然オデットに向かいました。
もうここへ来て休むようにと言って
デメル侯爵夫人が手招きすると、
待機していた乳母が
近づいて来ました。
これ以上、意地を張れなくなった
オデットは、子供を引き渡した後、
立ち上がりました。
貴婦人たちは渓谷のほとりに座って
ティータイムを楽しんでいました。
二人とも、容姿が
あまりにも優れているので、
本当にきれいな赤ちゃんが
生まれるだろう。
夫は、すでに
クラウヴィッツ夫妻が産んだ
子供の代父になる心の準備を
済ませたそうだ。本当に軽率だ。
それでは、自分は義理の親の座を
目標にしなければならない。
婿でも嫁でも準備はできている。
新しい花嫁をからかう意地悪な言葉が
朗らかな笑い声と共に続きました。
オデットは、
少し気まずそうな笑みを浮かべたまま
頭を下げました。
これまで、
淡々と聞き流して来た言葉に
改めて困惑しました。
どうやら、
あの芳しくない出来事のせいでした。
オデットは、
群れを成して水遊びに出かける
若い婦人たちの間に入り混じって
気まずい席を離れました。
一人でいられそうな場所を
探していたら、
思わず渓谷を遡っていました。
考えないように
努力すればするほど、記憶は
ますます鮮明になって行きました。
理解できない男に対する疑問も
そうでした。
人々の声が、
これ以上聞こえない所に着いた
オデットは、渓谷沿いの
平らな岩の上に座って
息を整えました。
契約を口実にして、躊躇なく
オデットを侮辱した男でした。
高い値段で買って来た
品物のように扱い、
その価値に見合うように行動しろと
命じました。
それでも黙って耐えたのは、
バスティアンの言葉が
正しいということを
知っているからでした。
結局、彼らは偽物であり、
この関係は、冷たい数字から成る
取引に過ぎないからでした。
それなのに、なぜ彼は
あんなに図々しく約束を破ったのか。
オデットは、
シミのように残った記憶を消すように
唇をこすって拭いました。
しかし、そうすればするほど、
言葉では言い表せない侮辱感が
さらに鮮明になるだけでした。
若い男には、
そのような楽しみが必要なものだと
あの晩餐会の夜、
サンドリンは言いました。
体を売る女扱いをしていた眼差しと
安っぽい同情のこもった口調まで
オデットは、その瞬間の全てを
鮮明に思い出すことができました。
この乞食。クルチザンヌ。
皇女が、声を限りに叫んだ
その言葉を巧妙に偽装して
伝えただけで、
結局、本質は同じでした。
結局、あなたも、
自分をそう見ていたのだろうか。
オデットは細かく震え始めた唇に
力を入れました。
初めてではないのだから
慣れているはずなのに、
なぜか最初より、
もっと惨めな気分になりました。
滑稽なことでした。
オデットは、岩の先に落ちている
松ぼっくりと共に、
愚かな心を投げ捨てました。
どんぐりと小石も
それに続きました。
水面に広がっていた波紋が収まると、
オデットは、岩の下に降りて
顔を洗いました。
頬の熱が冷めたおかげか、
意識が一段と冴えてきました。
それで十分だと思いました。
息を整えたオデットは、
一段と軽やかな足取りで、
渓谷のほとりに咲いている
草花の方へ向かいました。
花を摘みに行って来たという
言い訳をするのが、
一番自然だと思ったからでした。
青いアヤメと
黄色のアキノキリンソウ。
白いノイバラ。
色とりどりの野バラまで。
咲き乱れた野花を摘んでいた
オデットの視線が、
渓谷の反対側の斜面に広がる
ホタルブクロの群生の上で
止まりました。
子供に見せたい花でした。
オデットは、
それほど長い時間、
悩むことはありませんでした。
まず、彼女は
靴とストッキングを脱いで、
スカートの裾を膝の上まで
たくし上げました。
真夏でも渓谷の水は
氷のように冷たかったけれど、
耐えられないほどでは
ありませんでした。
オデットは、水が深くない所へ
慎重に一歩を踏み出しました。
何かが落ちるような音が
聞こえて来たのは、
小川の真ん中辺りに着いた時でした。
留め金が緩んでいたネックレスが
外れたことに気づいたオデットは、
急いで水面下を探し始めました。
大きなローズクォーツで飾られた
ネックレスは、幸いにも、
あまり離れていない所に
沈んでいました。
安堵のため息をついたオデットが
そこに向かって一歩踏み出したのと
ほとんど同時に、
大股で水中に歩いて入って来た男が
ネックレスを拾いました。
オデットは目を丸くして
自分の前に立っている男を見ました。
契約という首輪を口実にして
彼女の息を詰まらせている
偽の夫、バスティアンでした。
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他人への無関心から生まれる親切と
無用なものに対する深い愛着について
バスティアンは、
好ましく思っていないような
気がしますが、
オデットにしても、
ジェンダス伯爵にしても、
親切にしてあげた方がいいと思って
親切にしているだけ。
バスティアンにとっては
無用なものであっても、
二人には大切なもの。
金銭的な損得と地位の向上ばかり考えて
行動するバスティアンには
何の役にも立たないけれど、
人間にとって大切なものを
理解できないのかもしれません。
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