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128話 マティアスはレイラを自分の宿舎へ連れて来ました。
嵐の後の静けさが
部屋を埋め尽くしていました。
何をやっても無駄だということに
気づいたレイラは沈黙し、
マティアスは、
相変らず面白そうな表情で、
そのレイラを見つめました。
レイラは、
一体なぜ、あなたがここにいるのかと、
震える声でたどたどしく尋ねました。
これは夢ではない。
もう、その事実だけは、
確実に分かるような気がしました。
どんな悪夢も、これ程ではない。
レイラ・ルウェリンの現実を、
悪夢よりさらに
悪夢のようにすることができる人は
この世にたった一人、
マティアス・フォン・ヘルハルト
だけでした。
だから彼でした。 彼が来ました。
マティアスは、依然として、
レイラを両目に湛えたまま
「私?」と
微笑みながら聞き返すと、
君の命を奪いに来たと答えました。
にっこり笑って囁く顔が、
本当に嬉しそうに見えて、
レイラは鳥肌が立ちました。
彼女は指先一つ動かせないまま
ぼんやりと彼を見つめました。
マティアスは、
自分が損をするような
商売をしないということは、
君が一番よく知っているはず。
もらった分だけ返すには
この方法しかないからと答えました。
そして、
まともに話を続けることもできず、
ブルブル震えているレイラが
面白かったのか、
公爵は再び笑いました。
ガラス玉のようにきれいに輝く
青い瞳が、その微笑を、
より鮮明に見せました。
それから、
細くなったマティアスの目が
ゆっくりと下に動いて、
レイラの膨らんだお腹に触れると、
もちろん、そんな可愛い変化要因は
考えてもいなかったので、
少し混乱していると告げました。
その後、彼はゆっくりと立ち上がり、
レイラに近づいて、
彼女の頬に触れました。
マティアスの手を
冷たく払い除けたレイラは、
触らないで。自分はもう、
あなたの愛人のようなものではないと
訴えると、子供を隠すかのように
両腕でお腹を包み込みました。
強く握っただけで折れそうなくらい
痩せた彼女の腕を見たマティアスの目は
涙で潤んでいる緑の目に向かいました。
彼を捨てて消えてしまった、
あの最後の日と
少しも変わらない目でした。
マティアスは、
そんなに大声で叫んだら、
自分たちの子供が驚かないかと
尋ねると、軽く眉を顰めて笑い、
再びレイラの頬を包み込みました。
レイラは身震いしながら
彼の手を押し退けると、
あなたの子供ではないと否定しました。
レイラの切羽詰った言葉が
マティアスをクスクス笑わせました。
彼は「そう?」と
興味深そうに聞き返しました。
レイラは、ここに夫がいる。
自分も、ここで結婚したと答えました。
マティアスは、
でたらめなことを言い続ける女を
静かに見つめました。
レイラは、かなり決然とした目つきで
彼を見上げていました。
彼はもう、そろそろこの状況が
本当に面白くなって来ました。
まあ、あの浜辺から、
もう結構、面白かったけれど。
笑顔で頷いたマティアスは、
ソファーの横の、
小さなテーブルに置かれた
ランプを点けました。
その光が、カーテンを閉めたままの
薄暗かった部屋の中を
明るく照らしました。
彼が再びソファーの前に近づくと、
レイラは背もたれに深く体を沈め
肩を縮めました。
ゆっくりと目を開けたマティアスは
明かりが照らし出したレイラの顔を
じっくり見つめました。
濡れている目元が赤く、
震えている瞳は、子供一人さえ
まともに騙せないようでした。
この女は、そんな目をして
うまく嘘をつきました。
マティアスは首を傾げながら
その夫は誰なのかと尋ねました。
レイラは激しい悩みに陥った顔で
乾いた唇をピクピクさせました。
ひびが入ったメガネのレンズ越しに
見える眼差しも、
やはり焦って揺れていました。
マティアスは、
よく考えてから言うようにと告げると
レイラの頬を覆っている髪に
手を触れました。
そして、
怯えたレイラの目を見つめ、
彼女の髪をゆっくり撫でながら
どんな名前でも適当に言え。
その名は死ぬ。自分が命を奪うと
告げました。
吐き出す言葉とは裏腹に、
優しい手つきが
レイラをぞっとさせました。
マティアスは、
レイラの顎をそっと握りしめて
引き上げました。
どうしようもなく再び目が合うと、
レイラは思わず唇を噛み締めました。
そして、胸の奥からこみ上げて来た
熱い感情が、
「あなたの子供じゃない!」という
鋭い叫び声となりました。
レイラは、
自分の赤ちゃんには父親なんかいない。
誰とも関係ない、
自分一人だけの子供だと主張しました。
マティアスの皮肉な嘲笑が
レイラの怒りをさらに高めました。
じっとレイラの顔を覗き込んでいた
マティアスは低い声で笑うと、
聖女役に心酔し過ぎていないか。
聖霊の力で妊娠でもしたのか。
神の子だと言っているの?
自分が君の神だったなんて光栄だと
言いました。
彼の笑い声は、
もう少し大きくなりました。
その瞬間も笑わない両目は
執拗にレイラを見つめていました。
確認など必要ありませんでした。
風が露わにしたレイラのお腹を
目にした瞬間、
すでに分かっていたからでした。
ほんのわずかな疑いも
抱きませんでした。
彼を捨てて去った女が持っている
彼の子供でした。
茫然自失のレイラの顔を包み込む
マティアスの手に、
徐々に力が入り始めました。
手の中に握られた
レイラの顔を撫でながら、
マティアスは、ため息をつくように
「レイラ」と囁きました。
唇と鼻筋、
赤くなった目頭に触れる指先が
小さく震えました。
レイラは、
その馴染みのない感覚に
引かれて視線を上げました。
その時、
ドアが壊れそうな程の騒音が
聞こえ始めました。
「レイラ!中にいるの? レイラ!」
部屋のドアを叩く音の合間に
聞き慣れた声が響き渡りました。
「・・・カイル?」
マティアスに向けられていた視線が
一瞬にして、
揺れるドアの方へ移りました。
レイラは、
まさか本当にカイルなの?
カイルもここにいるの?
戦争のために徴兵されたの?
どうやってカイルが・・・
と尋ねましたが、マティアスは、
「止めろ」と告げると
握りしめている彼女の顔を
自分の方へ向かせて、
奪われた視線を再び引き寄せました。
「カイル、カイル、カイル」
自分を軽蔑している女が
切なく呼ぶその名前が、
マティアスの神経を鋭く刺激しました。
またしても、限りなく卑しく
惨めになった気分でした。
皇帝とも対等に渡り合える彼を、
この女は、こんなに簡単に
この世で最も卑賤な者に
転落させてしまう。
しかし、この屈従さえも
恋しがっていたという事実が、
マティアスを、
さらに虚しくさせました。
侮蔑感に、
ひどく腹が立つほど甘美でした。
最初から、そうでした。
マティアスは、
もう一度、その名前を呼んだら、
自分は本当にカイル・エトマンの頭に
銃弾を撃ち込むかもしれないと
苦痛に満ちた呻き声のように
囁きました。
低くしゃがれた彼の声に
レイラの眼差しが揺れました。
彼は、
「だから、どうか、その名前を呼ぶな」
と告げました。
レイラは直感的に、
ただの脅しではないと気づいたので
顔が青ざめました。
彼女を見下ろすマティアスの
無表情な目は、やや、
ぼんやりとしているようにさえ
感じられました。
彼はこんな風に
冗談を言う男ではありませんでした。
震えている唇を固く閉じると、
彼はいい子を褒めるように
レイラの頭を撫でました。
溶けそうなくらい
柔らかい手つきなのに、
いつでも息の根を止めることが
できるかのように
残忍に感じられたりもしました。
固まってしまったレイラを残して
背を向けたマティアスは、
揺れる客室のドアに向かって
一歩一歩近づき始めました。

ヘルハルト少佐が滞在している
客室前の廊下に集まった兵士たちは
何とかカイル・エトマンを止めようと
必死でした。
上官が狂ったので、
部下も狂ってしまったのか。
真面目過ぎて問題だった衛生兵が
気が狂ったように暴れ始めました。
食堂からまっすぐ
こちらへ走ってきた彼は、
今や、鍵のかかっている
客室のドアを壊そうとする勢いで
飛びかかっていました。
レイラの名前を叫び続けるカイルに
一人の兵士が、
カイルを狂った奴呼ばわりし、
こんなことをしたら大変なことになると
警告しましたが、
カイルは何も聞こえないかのように
「離せ!レイラ!」と
一人の女性の名前だけを呼びながら
もがきました。すると突然、
ドアが勢いよく開きました。
乱闘が繰り広げられている廊下を
窺っているマティアスの視線は、
普段と全く変わらず
落ち着いていました。
カイルは、
あなたがレイラを連れて来たのか。
まさか、あの子がここにいるって、
最初から知っていたのかと
尋ねました。
しかし、マティアスは
後ろのドアを閉めながら、
「戻れ、エトマン一等兵」と
何も考えずに命令しました。
レイラに関することを、何一つ
差し出さないというような態度が、
カイルの怒りに火を点けました。
彼は、マティアスが、
レイラの行方を知っていながら、
ここ数ヶ月、
ずっと知らないふりをした上に、
再びレイラを、こんな風に、
物のように扱ったことを責めました。
そして、
それでも人間なのか。
レイラを一体どうやって・・・と
非難しましたが、
彼らを取り囲む兵士たちの
驚きのため息と共に、
彼の叫びは止まりました。
平気な顔をしているのは
取り出した拳銃を
カイルの頭に当てている
マティアスだけでした。
引き金に緩く指を掛けたマティアスは
叱るように眉を顰めると、
「うるさい、カイル・エトマン。
お前のせいで子供が驚く」と
非難しました。
彼の口調は低く、
一様に高低がありませんでした。
「子供?」
理解できない言葉に
カイルが顔を歪めると、
彼は客室のドアを開けて出てきた後
初めて感情と呼べるようなものが
浮かんだ表情で、
「私の子供だ」と答えました。
マティアスが微笑んだ瞬間、
カイルは、ふと耳にした
レイラに関する言葉を思い出しました。
妊娠した女。 皆、そのように
ひそひそ話していました。
ヘルハルト少佐が
妊娠している占領地の女を
捕まえて来たと。
それがレイラなら、
もし、そうなら、まさか・・・
マティアスは、カイルの目が
徐々に光を失っていくのを
嬉しそうに見つめました。
この数ヵ月間、
無感情に部下を眺めていた目とは
明らかに違う視線でした。
歪んだ悪意と嫉妬、
取るに足らない勝利感。
そして、それと同じだけの
自己恥辱感が入り混じった彼の目が
この戦争が始まって以来初めて
生きている人間のもののように
見えました。
互いに見つめ合う彼らの間に
氷のような沈黙が舞い降りた頃、
暴動の知らせを受けた憲兵たちが
駆けつけて来ました。
マティアスは、
カイルの額を狙っていた拳銃を
収めながら一歩退きました。
沈黙を守っていた彼を
チラチラ見ていた憲兵たちは、
上官に歯向かった問題の兵士を
逮捕することで状況を収拾しました。
憲兵たちに連れて行かれた
カイルの姿が消えるまで、
マティアスは、その場にいました。
騒動を見守っていた彼らは
一様に混乱に陥っていましたが、
この全ての騒ぎの
真っただ中にいる彼の姿は
静かでした。
彼らを残して、
マティアスは部屋に戻りました。
ドアの向こうに立っていたレイラは
彼と目が合うと驚いて
後ずさりしました。
カイル。
その名前を呼ぼうとした
小さなふっくらとした唇は、
結局、何も言えずに
再び、美しく閉じました。
満足げな笑みを浮かべたマティアスは
よろめくレイラを
軽々と抱き上げました。
このようにレイラを抱き締めると、
自分自身を完成させる
最後のパズルの一つを
見つけた気分になったりもしました。
マティアスは、
それが良いと思いました。
抵抗しないレイラを
ベッドに座らせたマティアスは
彼女の足元に片膝をついて
座りました。
そして、平然と濡れた靴と靴下を
脱がせました。
彼と出会った浜辺で、
彼を避けるために海に逃げて
濡れてしまったものでした。
水を怖がる女が、
自ら海に向かって逃げた。
そしてマティアスは、
それほど自分を嫌う女を
とうとう捕まえた。
苦痛と幸福、幻滅と喜びが
同時に沸き起こりました。
今もそうでした。
おとなしくしていたレイラは、
彼の手が、膨らんだお腹に
触れようとすると、
頑強に拒否して身を縮めました。
自分を見下ろす女の
涙ぐんだ視線を受けながら、
マティアスは微笑みました。
子供に届かなかった手は、
レイラの冷たい足首を
力いっぱい握ったままでした。
あまりにも愛おしくて
命を奪いたくなる女を、
彼はそうやって、
しばらく静かに見つめました。
どんな姿をしていても、
彼の女王は相変わらず眩しく
美しいままでした。
天国であり地獄のような時間でした。
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とても大切なものを一度失った後、
苦労して取り戻した後は
二度とそれを手放そうとはしないと
思います。
そのために、公私混同し、
狂気に走っているマティアスを
誰も止めることはできないと思います。
マティアスに捕まり
絶望に陥っているレイラは
カイルがそばにいることを知り、
少しでも慰められたのではないかと
思います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
前話で、
マティアスがレイラと再会した時の
第一声。
私は「こんにちは」としたのですが、
原文の「안녕(アンニョン)」は
「안녕하세요(アンニョンハセヨ)」
を、くだけた言い方にしたものなので
皆様がコメントしてくださったように
「やあ」の方が良さそうです。
マティアスなら、
どう言うかを念頭に置いて、
もっと、文章を書くセンスを
身に着けたいと思います。
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