![]()
130話 レイラはマティアスの部屋に閉じ込められたままです。
マティアスが戻ってきた時、
レイラは疲れた様子で
窓際に座っていました。
日が暮れて、
部屋の中が薄暗かったけれど、
明かりは点けていませんでした。
ドアに鍵をかけたマティアスは
ゆっくりと彼女のそばに近づき、
明かりを点けました。
意外にもレイラは先に口を開いて
食事をしたことを伝えました。
カーテンを閉めようとしていた
手を引っ込めたマティアスは、
体を回してレイラに向き合いました。
レイラは、
先程、茶髪の軍人が
持って来てくれたサンドイッチを
食べたと伝えました。
マティアスは、
「それで?」と聞き返しました。
レイラは、
だからカイルにも、
食べ物をあげて欲しいと頼みました。
力を込めて開いた目で彼を見る
レイラの表情に
悲壮感が漂っていました。
じっと彼女を見下ろしていた
マティアスは、失笑しながら
窓枠に背中をもたせかけました。
すでに予想していた言葉だけれど
だからといって、
気分が悪くないわけでは
ありませんでした。
レイラは、
嘘ではない。 確かに食べた。
信じられないなら確認・・・
と言いかけたところで、マティアスは
「信じている」と返事をして
彼女の言葉を遮りました。
しかし、マティアスは、
それは、
カイル·エトマンの食事を用意する
理由にはならないと告げました。
レイラは、
約束したのにと抗議しましたが、
マティアスは、
君は忘れてしまったのか。
自分の目の前で食べた分だけ
カイル・エトマンにあげると
言ったはずだと返事をしました。
冷静になればなるほど、
マティアスは落ち着いて来ました。
目を丸くして彼を見るレイラの顔は
徐々に青ざめて行きました。
レイラは、
こんなに卑劣でひどい振る舞いをして
あなたが得るものは何なのか。
ヘルハルト公爵閣下の
あの孤高のプライドは
どこへ行ってしまったのかと非難すると
よろよろと椅子から立ち上がり、
彼の前に近づきました。
そして、
あなたのことが嫌いで逃げた
あなたは愛人の後を追って、
結婚したばかりの奥さんを
置き去りにして
戦場までやって来るほど、
情けない男に転落し、
プライドも捨てたのかと非難しました。
レイラは依然として
彼を恐れていたけれど、
怒りは、今や恐怖を圧倒するほど
大きくなっていました。
マティアスは、
「さて、 そうかな? 」と聞き返すと
帽子をテーブルの上に置き、
微笑みました。怒るどころか、
レイラを嘲笑っているかのような
余裕のある態度でした。
狂っている男。
レイラはしばらく忘れていた
この男に対する見解を思い出しました。
その時も今も、
身震いするほど嫌いで憎い人。
レイラは、
あなたは一体何を考えているのか。
何をどうするつもりで
こうしているのか。
自分を思う存分苦しめたいのか。
そうすることで、
あなたを騙して逃げた自分に
復讐したいのか。
あなたに、
そんな資格があると思うのかと
抗議しました。
マティアスは、
君の子供の父親なら、
その程度の資格はあるのではないかと
返事をしました。
レイラは、
とんでもない。あなたのような人が、
自分の子供について口にすることさえ
ぞっとすると言うと、
両腕でお腹を包み込みながら
後ずさりしました。
そして、
あなたは自分とこの子の人生に
関係ない人なので、気にすることなく
あなたの人生と公爵夫人の元へ
帰るようにと言いました。
レイラは泣きたくなくて
歯を食いしばりました。
何も期待してはいけないと
何度も自分に言い聞かせながら
気を引き締めました。
マティアスと、
ありえない再会をした瞬間から
ずっとそうでした。
また期待するように
なるのではないかと思って
恐ろしかったからでした。
もう一度心が崩れたら、
今度は、本当に耐えられないと
思うのに、あの男は、
いつも、そうやって
自分を踏みにじって来ました。
マティアスは、
理性的に考えるように。
君一人で、この戦争の最中、
この子と一緒に何ができるのかと
尋ねました。
彼は、いつの間にか
彼女の目の前まで近づいていました。
笑いの消えた顔は、
冷酷な色を帯びていました。
レイラは、
自分たちはうまくやっていける。
あなたさえいなければ
いくらでもそうすることができる。
戦争よりもっとひどいのが
あなただからと答えました。
マティアスはレイラの肩を掴んで
彼女の名前を呼びましたが、レイラは
「触らないで!
私の体に手を触れないで!
汚い!」と叫んで、
マティアスの手を押し出しました。
彼は失笑しながら
「・・・汚い?」と聞き返しました。
レイラはいつの間にか
部屋の隅まで逃げていました。
レイラは怯えて震えながらも、
「そうよ、汚い!」と鋭く叫びました。
レイラは、
あなたのことが嫌いだ。
とても憎い。 汚い。
いつもそうだったし、今もそうだし
これからも永遠にそうだ。
これで十分な答えになったかと
尋ねました。

「おい、カイル・エトマン!」と
カイルの名前を呼ぶ声が、
ホテルの地下倉庫を改造して作った
臨時営倉の中に響き渡りました。
冷たい石壁にもたれて座り、
自分の足の先だけを
見つめていたカイルは、
その呼びかけに、
淡々と頭を上げました。
鉄格子の隙間から、
親しい軍医の顔が見えました。
カイルは軍医に、
ここへは、どうやって・・・と
尋ねると、軍医は、
君のことが心配で、
じっとしていられなかったと
答えました。
そして、ため息をついた軍医は、
鉄格子の近くに近づき、
身を屈めました。
夕食は手付かずのまま、営倉の片隅に
放置されていました。
聞いたところによると、
毎食がこんな感じとのことでした。
軍医はカイルに、
きちんと食事を取るように。
こんなことをしても、
君の体が壊れるだけだと
忠告しました。
しかし、カイルは、
ヘルハルト少佐が連れて来た女性は
どうなったか。 解放されたかと
切羽詰った気持ちで尋ねました。
ここを出入りするどの軍人も
答えてくれない質問でした。
困った顔で、周囲を見回した軍医は
長いため息をついた後、
まだ少佐のそばにいる。
でも大したことはないようだ。
ただ、連れて来て
閉じ込めているだけだと思うと
答えました。
カイルは
狂った野郎だと罵倒しました。
軍医はカイルに、
しっかりしろ。 ここは戦場で、
個人的な感情がどうであれ、
少佐は君の上官だと
落ち着いて助言しました。
善良で真面目なカイル・エトマンが
怒りを堪えきれずに暴れるなんて
信じられませんでした。
軍医は、
まずは食べて、理性を取り戻して、
少佐に謝罪をする。そうしてこそ、
一日でも早くここから出られると
勧めましたが、カイルは、
あの男に謝ることは絶対にないと
拒否しました。
軍医はカイルに、
君らしくないけれど、どうしたのか。
あの女性は一体誰なのか。
少佐とはどういう関係なのかと
尋ねました。
ヘルハルト少佐が犯した狂ったことに
カイル・エトマンまで加わると、
噂はますます、
枝葉を伸ばして行きました。
帝国最高の貴族と称えられる公爵と
その家の主治医の息子。
そして、彼らの間にいる美しい女性。
誰もが興味を持つような
スキャンダルでしたが、
当事者たちが、
何のヒントもくれないので、
人々は推測するのに、
さらに忙しくなりました。
乾いた唾を飲み込んだカイルは
唇を固く閉じたまま
視線を避けました。
少佐がそうであるように、
カイルも、何の返事もするつもりは
なさそうでした。
軍医は、
必ず食事をするようにと念を押すと
諦めて立ち上がりました。
冷めてしまった食べ物の上に
倉庫の廊下を照らす光と格子の影が
揺れ動いていました。
軍医が背を向けても、カイルはまだ
その場に座り込んだままでした。

マティアスは立ち止まって
レイラをじっと見つめました。
これといった感情もなく、
静かな顔の上に、数回、
失笑が浮かんでは消えるのを
繰り返しました。やがて、
それさえ消えてしまった瞬間
マティアスは、一歩を踏み出しました。
近づいてくる彼を避けることなく
見つめながら、レイラは
スカートの裾を力いっぱい捻じって
握りました。
クロディーヌのことを
思い出しました。
思い出さないように
努力すればするほど、記憶は、
より鮮明になるばかりでした。
全てに気づいた彼の婚約者から受けた
侮辱と恥辱。
しかし、一言の反論もできず、
さらに惨めになった気持ちも。
全て忘れたと思っていましたが、
本当は、そうではありませんでした。
二人の結婚式が近づいている。
今頃、結婚しているだろう。
春の終わりと夏。
体を支えられないほど
苦しいつわりに苦しめられた後、
レイラは、決まって
そのことを考えました。
冷たいバスルームの床に座り込んで。
あるいは博物館の倉庫の隅に隠れて。
妊娠していることがばれないように
努力した瞬間ごとにそうでした。
子供が大きくなるほど
悲しみも大きくなりました。
ある日、突然やって来た
全世界を揺るがした戦争の恐怖も、
その悲しみを全て消すことは
できませんでした。
急にとても食べたいものができたり、
赤ちゃんを連れた、
思いやりに満ちた新婚夫婦を
偶然、見かける瞬間はなおさらでした。
皆の祝福を受けながら結婚し、
やがて
彼らの子供を産んで育てる公爵夫妻が
その姿の上に浮び上がると、
呪文をかけるように、
大丈夫よ、赤ちゃん。
お母さんが二倍愛するから大丈夫と
お腹の中の子供に囁きました。
そのように、日々耐えて来ました。
これからも、そうやって
耐えていかなければなりませんでした。
再びあの男の陰に閉じ込められ、
お腹の中の子供まで、
自分自身が体験した苦痛と悲しみの中で
生きさせることはできませんでした。
マティアスは一歩ほど離れた所で
立ち止まりました。
あらゆる表情を消した顔は
冷ややかでした。
自然に肩が縮こまりましたが、
レイラは彼を睨み続けました。
マティアスは、
汚い男の子供を
どうやって我慢するのかと尋ねました。
レイラは、
自分の赤ちゃんはあなたと関係ないと
言い返しました。
聞き過ぎて飽き飽きした詭弁を
並べ立てるレイラは、
相変わらず必死でした。
マティアスは、
レイラがその子を、
かなり愛しているようだけれどと
興味津々そうに尋ねました。
レイラは返事の代わりに
両腕でお腹を包み込みました。
その動作が、どんな言葉よりも
確実な答えになってくれました。
膨らんだお腹とレイラの顔を
交互に見ていたマティアスは、
「憎んでいる男の子供を愛する女」
と呟くと、空笑いしました。
目つきは恐ろしいほど静かなのに、
唇だけで声を出して笑いました。
彼は、
面白いと言うと、レイラは、
あなたは本当に気が狂ったのかと
尋ねました。
マティアスは「うん」と答えて
楽しそうに頷くと、
レイラの顔をつかみました。
いくら力いっぱい
首を横に振ってみても、
彼の力に勝つには力不足でした。
マティアスは、
正気でここまで来たと思うのかと
尋ねました。
その態度が、
あまりにも落ち着いているので、
かえってレイラが
ギョッとしてしまいました。
マティアスは、
自分は君のそういうところが
本当に好き。 絶えず弱点を
自分の手に握らせてくれるからと
言いました。
レイラは、
それはどういうことなのかと
尋ねました。
マティアスは、
どんなに自分のことが憎くても、
自分が汚くて、ひどくても、
結局、君は自分のものだと答えました。
レイラは、
そんなことはないと否定しました。
しかし、マティアスは、
そうなるだろう。
自分がその子を手に入れるからと
告げました。
マティアスの声が
あまりにも落ち着いていたので
レイラは、しばらく
自分の耳を疑いました。
一体、何の話を聞いているのか
信じられませんでしたが、
彼は今や、
大きな喜びに襲われた人のように
笑っていました。
マティアスは、
その子が生まれたら
君を解放してやる。
命を奪ったりしないから、
思いっきり逃げてみるように。
子どもを捨てて行ければだけれどと
言いました。
ぼんやりしていた頭の中が
はっきりして来ると、
レイラの抵抗は激しくなりました。
力いっぱいマティアスを押し退け、
殴り、爪を立ててひっかいても、
彼は彼女を離しませんでした。
「離せ! どうやって赤ちゃんを!
許さない! 絶対!」と
レイラは叫びました。
マティアスは、
そんなことをしたら、
レイラが愛している自分たちの子に
害を及ぼすことになるので
落ち着くようにと、たしなめました。
マティアスは、
頬を包んで握っていた手を下ろし
どうしようもなく、
手を振り回しているレイラの両腕を
つかみました。
レイラは身動きが取れなくなっても
愚かに、もがいていました。
マティアスは、
特に力も入れなくても、彼女を
抱き上げることができました。
子供がお腹の中にいても、
相変わらず小さなレイラは
いつものように彼の胸の中に
ぴったりと収まりました。
疲弊したレイラを
ベッドに下ろしながら、
マティアスは、この上なく
優しい笑みを浮かべました。
レイラが消えてしまった春以来、
初めて見せた
真心のこもった笑みでした。
許されなくても、
レイラを手に入れる方法を見つけた。
その事実がもたらす安堵感に
マティアスは、
初めてまともに息ができました。
唇を震わせていたレイラは、
結局、何も言わずに
大粒の涙だけを流しました。
割れた眼鏡を外して
サイドテーブルに置いたマティアスは
濡れたレイラの目頭にキスをしました。
傷をなめる獣のように
唇で涙を辿りました。
マティアスは、
自分は本当に気が狂ってしまったと
涙を味わいながら思いました。
それでも良いと思いました。
![]()
![]()
季節は秋なので、
予定通りであれば、
マティアスはクロディーヌと
結婚しているはず。
それなのに、なぜ彼は新妻を放って
戦争に来て、
わざわざ自分を見つけ出して
こんな所に監禁しているのか。
もしかしたら、彼は
自分のことを好きなのかもしれないと
期待したくなるけれど、
再び期待して失望するのは絶対に嫌。
だから、レイラはマティアスに
ひどい言葉を言うことで、
彼の執着を断ち切り、
自分を解放させようと
仕向けているのではないかと
感じました。
マティアスは、
レイラがいなくなってから、
生きる屍のようになっていたこと。
レイラを必死に探していたこと。
クロディーヌと結婚していないこと。
レイラがシエンにいることを知り
逸る気持ちでやって来たことを
全て打ち明ければいいのに、
なぜ、このように、
ひどい態度しか取れないのか
理解に苦しみます。
マティアスは、人間として、
人と温かい心を通わせる術を
知らないように思います。
![]()