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44話 バスティアンが先にオデットのネックレスを拾いました。
オデットだった。
それに気づいた時、バスティアンは
すでに登山道の下の谷へ
向かっていました。
釣りを終えた後、
遠足に行った一行と合流するために
道を下っていました。
何気なく目を向けた谷間で、
水の中に歩いて入って行く
一人の女を見ました。
一体、何をするための目的なのか
自分でも分かりませんでした。
特に変わったことはありませんでした。
視線が行き、両足が動き、
そして、そこにオデットがいました。
オデットは大胆不敵な目つきで
彼を睨みつけていました。
頭をまっすぐに立てたまま
虚勢を張っていましたが、
指先の震えまで
隠すことはできませんでした。
風は止んだけれど、
オデットが抱えている
野の花の花束の花びらは
依然として小さく揺れていました。
もう片方の手に集めて握っている
スカートの裾もそうでした。
探るように妻を見ていた
バスティアンの喉が
ゆっくりと蠢きました。
野生動物の襲撃でも受けたかのように
震えている女にイライラするほど、
今この瞬間が滑稽でした。
バスティアンが谷に着いた頃、
小川を渡っていたオデットが
突然立ち止まりました。
何かを落として、
慌てている様子でした。
素早く判断を下したバスティアンは
躊躇うことなく水の中に入りました。
石の隙間で輝いている
ローズクォーツを見つけるのは
それほど難しいことでは
ありませんでした。
「おい、クラウヴィツ大尉!
もう我慢できなくて、
妻の所へ駆けつけたのか」と、
坂の上の登山道から
豪快な笑い声が聞こえて来ました。
一団でした。
短い黙礼で答えたバスティアンは
硬くなっているオデットのそばに
もう一歩近づきました。
ネックレスを返して去るつもりでしたが
この状況では、それほど良い選択では
なさそうでした。
ビクッとして退こうとする
オデットに向かって頭を下げた
バスティアンは、「見る目が多い」と
声を低くして警告しました。
オデットは、この契約から
逃れることはできない。
バスティアンは、
それをよく知っていました。
どんなことが起こっても、
たとえ彼が全ての約束を破ったとしても
同じでした。
崖っぷちに立たされている女でした。
騒ぎを起こして皇帝に嫌われ、
彼に保障された代価さえ
得られなくなれば、
断崖絶壁のはるか下に墜落すること以外
他に方法がありませんでした。
しかし、そうするには、彼女は、
人生に対する愛着と責任感が
強過ぎる女でもありました。
バスティアンは、留め具を外して
ネックレスを
オデットの首にかけました。
生々しく感じられる
オデットの恐怖と反感は、
考慮の対象になりませんでした。
いずれにせよ、この結婚において
強者はバスティアンでした。
だから彼は、
ただ自分の望み通りにすれば
良いだけでした。
それがまさに強者の権利だからでした。
見物人たちが投げかけた、
つまらない冗談と笑いが
涼しい風に乗って伝わって来ました。
オデットは必死で、
今この瞬間を耐え抜きました。
恨みのこもった視線を向けて
抵抗してみましたが、バスティアンは
過去の過ちを、
否定も反省もしていない顔でした。
オデットをまっすぐ見つめる目は、
何の感情もなく、ただ青いだけでした。
これ以上、その視線を受けるのが
辛くなった頃、ようやく
ネックレスの留め具がはまりました。
ほっとしたオデットが
息をついている間に、もう一組の客が
登山道を下りて来ました。
その時、
首筋をゆっくりと撫で下ろした
バスティアンの手が、
ペンダントに触れました。
心臓の鼓動が感じられるかもしれない
場所でした。
これ以上、
耐えられなくなったオデットは、
力いっぱい、
バスティアンを押し退けました。
そのために、
手から離れた花束とスカートの裾が
小川の流れの上に落ちました。
しかし、彼は微動だにせず、
むしろオデットだけがバランスを失って
ふらつきました。
しかし、バスティアンの堅い腕が
背中を抱いているおかげで
水の中に落ちるという醜態は
免れました。
それを幸いと言っても良いかどうかは
簡単に判断がつきませんでしたが。
オデットは、絶望的な気持ちで
流されて行く花束を見つめました。
きらめく水面の上で、
大切に集めていた色とりどりの花びらが
ゆらゆら踊っていました。
最後の花が姿を消すまで、
オデットはぼんやりと
小川の向こうを眺めました。
オデットを抱きしめている
バスティアンの視線も
そこに向かっていました。

その後も、度々、
あの日のことを考えました。
絶え間なく流れる力強い水の流れの音に
耳元がひりひりした夏の森の午後。
色鮮やかに咲いていた花々と濃い水色。
うっそうとした木の葉の間を
通り抜けて来た、
日光の欠片のようなもの。
その記憶の終わりは、
いつもバスティアン。
オデットとしては、
到底理解できないあの男でした。
水に流れて行った花のように、
いつか、この混乱も
人生の向こうに消えていくだろう。
オデットは、その慰めを胸に
小さな書斎の扉を開けました。
デメル家の別荘から帰って来た翌週
この部屋のインテリアが完成しました。
古典風の風景画とフェリアの装飾品。
サンドリンの要求を
ある程度反映した空間でした。
オデットは、
自分が選んだ絵と向かい合う場所に
置かれた机の前に座って
メイド長の業務報告を受けました。
結婚を祝うために集まった
客たちの足が遠のくと、
アルデンの日常は単調になりました。
バスティアンが来る週末を除けば、
オデットは、ほとんどの時間を
この別邸で一人で過ごしました。
知人が訪ねて来ることもありましたが
それほど頻繁ではありませんでした。
できるだけ外部との接触を
減らさなければならないと判断し
外出も最小限に抑えました。
いつの間にか結婚式を挙げてから
二ヵ月が経っていました。
まもなくベルクの短い夏が終わると、
涼しい風が吹く季節が訪れる。
そのように時間が流れ、次の夏が来て
再び、その次の年の夏が来れば、
この結婚は幕を閉じるはずでした。
二年という時間が、
それほど長くはないかもしれないという
気がすると、オデットは
もう少し慎重になりました。
これくらいで、
思いやりのある新婚夫婦の姿を
十分に披露したのだから、
そろそろ、注意深く
行動しなければならない時でした。
彼らの離婚がもたらす影響を
最小限に抑えるためには、
それが正しい判断でした。
メイド長は、
今日の午後、
サンルームに置く家具が到着予定だと
最後の報告事項を伝えると、
一歩後ろに下がりました。
オデットは優しい笑みを浮かべながら
ドーラを労い、
しばらく休んでいるようにと伝えると
郵便物の入っている箱の
一番上に置かれている手紙を
開きました。
ティラから来たものでした。
オデットはお茶を飲みながら
ティラの手紙を読みました。
新しくできた友達と最近の関心事。
もうすぐ始まる新学期への期待。
とりとめがないけれども優しい、
とてもティラらしい手紙でした。
一日くらい、
妹の所へ行きたいという願いは
聞き入れてくれるだろうか?
しばらく悩んだオデットは
開いたノートの一番下に
そのメモを追加しました。
彼とぶつからないようにしよう。
デメル家で週末を過ごして帰る途中
オデットは決心しました。
この結婚が終わる日まで、
自分を無事に守るためには
バスティアンと対立してはいけないと
思いました。
振り返ってみると、
バスティアンが辛く当たったのは
概してオデットと衝突した時でした。
それ以外の場合は、
感情と呼べるようなものを
一切見せない男であり、
彼らは、互いに礼儀正しい他人でした。
あの日以来ずっとそうだったように。
デメル家の別荘に、もう一晩、
泊まらなければなりませんでしたが
前日のような不祥事は
起きませんでした。
一晩中カードゲームに興じていた
バスティアンが、
夜明け頃になって、ようやく
寝室に戻って来たおかげでした。
夫にベッドを譲ったオデットは、
前日、デメル侯爵夫人と約束していた
早朝の散歩に出かけました。
不自然な行動ではありませんでした。
アルデンで一緒に過ごした
二回の週末も変わりませんでした。
オデットは、
直ちにオペラ劇場の舞台に
上がってもいいほどの華やかな姿で
夫を迎えました。
ただ人形のようにおとなしく座って
笑うだけで、考えと判断は
徹底的に排除しました。
たまに鬱憤が
こみ上げてくることもありましたが、
オデットは、よく我慢しました。
二度とあんなことを経験するよりは
屈辱に耐えたほうがマシ。
経験から得られた、
身にしみる教訓でした。
カーテンを開けておいた窓から
降り注ぐ日差しが、
机の端に届く頃になると、
郵便物が山積みになっていた箱には
たった一通の手紙だけが残されました。
差出人は
マクシミン・フォン・ジェンダス。
あの優しい植物学者でした。
新しい邸宅の庭園を
造成中だという話を聞いた
ジェンダス伯爵は、親切にも
アルデンの気候でよく育つような草花を
推薦してくれました。
娘に親切にしてくれたことへの
お礼の言葉と、最近のアルマの近況も
短く付け加えられていました。
その思いやりのある手紙が
伝えてくれた温もりで心を癒された
オデットが席を立った頃、
新しい家具が届いたという
連絡が来ました。
髪型とスカートのしわを
素早く整えたオデットは、
サンルームへ行き、
インテリアコーディネーターに
会いました。
海に向かって突き出ている
六角形の部屋には、
全く予想もしていなかった
ピアノが一台置かれていました。
オデットは、
夫がピアノを購入したのかと
尋ねました。
インテリアコーディネーターは、
サンルームにピアノを置くのが
最近の流行だと勧めたら、
喜んで承諾してくれたと答えると
満ち足りた笑みを浮かべながら
ピアノの蓋を開けました。
インテリアコーディネーターは、
自慢ではないけれど、
このようなピアノは、お金を払っても
簡単に手に入れることができない。
自分と楽器会社の親交のおかげで
ようやく手に入れることができたと、
大げさに話しましたが、
少なくとも、この発言だけは
真実に近いものがありました。
長年ピアノと共に過ごしてきた
オデットは、一目で、
その事実に気づきました。
音楽に何の興味もない男が、
このような、
名器を手に入れたという事実に
当惑さえしました。
自分の物ではないのに欲張らないでと
自分を厳しく叱る瞬間にも、
オデットの目は、
美しいピアノに向かっていました。
手に入れられなくても、
しばらく、そばにいたいと思いました。
この邸宅に足を踏み入れて以来、
初めて生まれた欲でした。

海軍祭の準備がほぼ終わったおかげで
バスティアンは、
いつもより早く退社しました。
これまでの激務に対する
ご褒美のつもりでしたが、
どうせ、再び会社に
行かなければならなかったので
大きな意味はありませんでした。
バスティアンは、ロビスに
少し休憩すると伝えると、
すぐに二階の書斎に上がりました。
着替えて移動する時間を除けば、
与えられた休憩時間は
30分にもなりませんでした。
バスティアンは、
まず制服のジャケットを脱いだまま、
椅子に深く腰を下ろしました。
一日でも早く、
急ぎの業務を早く終わらせるために、
もう何日も会社に残って
残業しました。
深夜まで、その業務を処理した後、
帰宅して、少し仮眠を取り、
再び海軍省に出勤する日々でした。
少しでも眠ろうとして目を閉じた瞬間
電話のベルが鳴りました。
放っておいて、
ロビスに任せておいても
良かったものの、
バスティアンは習慣的に立ち上がって
机の前に近づきました。
「はい。
と言って、受話器を握った彼の上に、
遅い午後の日差しが降り注ぎました。
電話は切れていないのに、
なぜか相手は
何の返事もしませんでした。
バスティアンが
受話器を置こうとした瞬間、
「・・・こんにちは」と
ぎこちない挨拶をする澄んだ声が
聞こえて来ました。
バスティアンは、閉じていた目を
ゆっくり開くと、窓の外を見ました。
オデットが
「私です。 だから・・・」と
言いかけたところで、
バスティアンは、
低いため息混じりの声で
「分かっている」と返事をし、
彼女の不必要な説明を遮りました。
濃いコーヒーで覚醒させておいた
神経の刃が鈍くなる気がしました。
だるい疲労感に似た、
とても甘美だけれど、
嬉しくない感覚でした。
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川の中にいるのが
オデットだと気付いた途端、
バスティアンが何も考えずに
谷へ向かったのは
彼女が危険ではないかと
心配したからだと思います。
そして、オデットが
ローズクォーツを落としたのを知って
拾ってあげたのも、
ただ彼女のために、
そうしてあげたかっただけで、
何の下心もなかったと思います。
けれども、
前の晩の出来事があったし、
普段のバスティアンは無表情で
優しさの欠片も見せたりしないので
オデットは
彼が善意でやっているとは
思えなかったのだと思います。
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