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45話 オデットとバスティアンは電話で話をしています。
別邸の工事。
追加で購入することにした家具と絵。
早いうちに
返事を書かなければならない招待状。
オデットは、
アルデンの邸宅での生活について
正確に報告しました。
別邸の庭に植える花と木の名前が
次々と口から出る頃になって、
バスティアンは、
オデットの目的が何なのか
理解することができました。
最近、度々執事は、
「奥様から連絡があった」という
知らせを伝えて来ました。
オデットが電話で用件を伝え、
それをロビスがバスティアンに
伝えるという流れでした。
バスティアンが、一度もオデットと
直接、電話で話したことがなかった
理由が何なのかも、
今、分かったような気がしました。
おそらく夫のいない時間を慎重に選んだ
クラウヴィッツ夫人の努力の
おかげでした。
早退という変化要因のせいで、
今日は、その計画が
狂ってしまったようでしたが。
しばらく躊躇っていたオデットは
今日、ピアノが届いたと、
再び支離滅裂な雑務について
喋り始めました。
「ピアノ?」
バスティアンは疲れた声で問い返した後
腕時計を見ました。
休憩できる時間は
すでにかなり過ぎていました。
オデットは、
サンルームに入れたピアノのことだと
答えました。
そして、その楽器が
どれほど素晴らしいかを説明する
オデットの声からは、
これまでになかった生気が
滲み出ていました。
そのようなものを
注文したことがあったかどうか
記憶を辿ってみましたが、
バスティアンは、結局何も
思い出せませんでした。
新しい家の装飾については、全面的に
インテリアコーディネーターに
任せていました。
高価で豪華な物を探す能力は、
この帝国で最も優れた者なので
それで事足りるはずでした。
どこに何を置こうと、バスティアンは
小切手を切る以上のことに
関与する気はありませんでした。
バスティアンは、
それがどうしたのかと
上の空で聞き返しました。
そろそろ、この通話が癪に障り
イライラして来た頃、
ようやくオデットは、
そのピアノを使ってもいいかと
本論を切り出しました。
バスティアンは、
なぜ、それを自分に聞くのかと
尋ねました。
オデットは、
あなたのものだから。
もし別の所有者を念頭に置いて
購入したのなら、
手を触れないようにすると答えました。
オデットは、
非常に用心深く、慎重でした。
妻が言及した別の主人の正体に
遅れて気づいたバスティアンは
ため息のような失笑を漏らしました。
自分にとっては、
あんなに厄介な女なのに、
サンドリンの顔色を窺うという事実が
ふと滑稽に思えました。
あまり、
愉快な気分ではありませんでした。
バスティアンは、
そこに何があっても、
自分は何の興味もない。
あなたの勝手にするように。
これで十分な答えになったかと
返事をしました。
オデットはお礼を言うと、
気をつけて使うと言いました。
オデットの声の調子が
微妙に変わりました。
依然として事務的な口調でしたが、
それでも、
隠すことができない喜びが
何となく感じられました。
「あの、バスティアン。」と
オデットが囁く彼の名前が
いっそう柔らかくなりました。
オデットは、
楽譜が必要なので、
明日ラッツに行こうと思うけれど
あなたは、どう思うかと尋ねました。
バスティアンは、
自分が嫌だと言ったら諦めるのかと
聞き返しました。
オデットは、
残念だけれど、
そうしなければならないと
答えました。
バスティアンが、その理由を尋ねると
オデットは、
あなたの心を不快にさせるようなことは
したくないからと、
少しも躊躇うことなく、
心にもないことを口にしました。
バスティアンは
満面の笑みを浮かべながら
受話器を握り直しました。
もう時計を見なくなった彼の目は
金色の陽射しが煌びやかな
窓の向こうの庭園に
向かっていました。
暮れ行く夏を予感させる
キンモクセイの甘い香りが
吹いて来ました。
あの日以来、オデットは熱心に
馬鹿げた真似をしていました。
その戦略が、
どのような計算に基づいているのか
分からないわけではありませんでしたが
それほど大きな効果があるとは
思えませんでした。
それでも適当に
歩調を合わせてやっているのは、
今はこの女に
気を使う暇がないからでした。
奇襲的な宣戦布告に驚き、
右往左往していた父親が
戦列を整えると、バスティアンも
着実に対抗して行きました。
勝負をすることは、
すでに決まっているけれど、
相手の対応による微細な調整が
必要でした。
まんまと欺くためには
巧妙な罠が不可欠だからでした。
時間は十分あるので、
急ぐ必要はないと予測していましたが
意外な変化要因が入り込んで
計画に支障が生じました。
皇帝が自分たちのことを
心配していると、
デメル提督がほのめかしました。
ラッツとアルデンの距離は
それほど遠くないのに、
結婚したばかりの夫婦が
あえて離れて暮らすのは不思議だと
言っていたとのことでした。
公然と噂になる余地を
残さない方が良いという助言でしたが
実際は、デメル提督の口を借りて
伝えられた皇命に他なりませんでした。
疑い深い皇帝を安心させるためには、
やはり、
一日でも早く会社の仕事を片付け、
一緒に、
住まなければならないようでした。
バスティアンは、
明日の12時に海軍省に来てと
落ち着いた口調で命令しました。
まさか会おうという意味なのかと
当惑したオデットの声が
しばらくの静寂を破りました。
バスティアンは、
長い間、席を空けるのは難しいけれど
昼食くらいは一緒にできると思うと
返事をしました。
オデットは、
そうする必要はない。
楽譜だけ買って帰るつもりだと
断りましたが、バスティアンは、
入り口の検問所に話しておくので
自分の名前を伝えるようにと
告げました。
バスティアンは、
状況を明瞭に整理しました。
デメル提督は皇帝の目と耳でした。
依然として熱心に
「忠誠を尽くしている」という情報を
事前に流しておくのは
悪いことではありませんでした。
気乗りしない様子でしたが、
それでもオデットは従順に
「はい、そうします」と答えると
一つだけお願いしてもいいかと
尋ねました。
バスティアンが話すよう促すと
オデットは、
海軍省の中に入るのは
慣れていないし、気まずいので、
少し困ると思う。できれば、
約束の場所を変えたいのだけれど
あなたの考えはどうかと尋ねました。
バスティアンは、
それでは海軍省正門前の噴水台で
会うことにしようと、
快く代替案を提示しました。
何の意味もない悩みを抱えていた
オデットは、結局、
「はい」と小さな返事をしました。
明日の12時。 海軍省前の噴水台。
約束を確定したバスティアンは
受話器を置きました。
ズキズキする目と、
こめかみを揉みながら振り返ると、
定刻を告げる掛時計の音が
鳴り響きました。
短い休憩時間は
いつの間にか終わっていました。

テオドラ・クラウヴィッツは、
本当に酷い。一体いつまで、
このように
生きなければならないのかと、
神経質に叫びながら
カーテンを引きました。
かつて、この邸宅の自慢だった
美しい海の風景は、
厚い布の向こうに姿を消しました。
読んでいた本を
しばらく置いたフランツは、
深いため息をつきながら
顔を上げました。
母親は苛立たしげに、
部屋の中をウロウロしながら
タバコを吸っていました。
湾の向い側に建てられた
バスティアンの邸宅が公開された後
母親は極度の不安と怒りの中で
暮らしていました。
耐え難い苦痛が続くと、
自然に酒とタバコへの依存が
強くなりました。
それほど品位があるとは
言い難い様子でした。
フランツは
父親を信じるように。
解決すると決心したのだから、
すぐに策を講じるだろうと、
必死に幻滅を隠そうとしながら
母親を慰めました。
テオドラは、いつもフランツが
この悲劇を他人事のように
話していると非難しました。
フランツは、
自分も心配している。
ただ我慢しているだけだと
言い訳をすると、テオドラは
それなら無駄な本ばかり読んでいないで
父親を助けるように。
今は、そんなに
呑気にしている場合ではないと
非難の矛先を変えました。
幻滅しましたが、フランツは
母親の小言に辛抱強く耐えました。
ひとしきり暴言を吐いたテオドラは、
まさか、乞食公爵の娘を利用して
人脈を作った後に、
あの蛇のようなフェリア公爵の娘と
再婚するつもりではないだろうかと
今度は、荒唐無稽な妄想を
膨らませ始めました。
フランツは、
いくら正気ではないとしても、
まさか皇帝の姪に
そんなことをするだろうかと
疑いました。
しかし、テオドラは、
皇帝の姪だなんて、
言葉は立派だけれど、実際は、
何の力もないのだから、
捨てられない理由もない。
しかも、あの子は
ジェフ・クラウヴィッツの息子だと
叫ぶと、思わずタバコを投げつけ、
その手でグラスを手に取りました。
テオドラは、
評判なんて気にしないで、
早く芽を摘んでしまえば良かったのに。
あなたの父親は愚かだった。
名分を作って追い出そうとして
怪物を育てたようなものだ。
恐ろしいと呟くと、
酒で安定剤を飲み込み、
倒れるようにソファーにもたれて
座りました。
それから、テオドラは
どうも少し変だ。
皆は、あの二人が、
互いに夢中になっている新婚夫婦だと
思っているけれど、
近くで見ている使用人たちの言葉は
少し違うと話題を変えました。
フランツは、
どういうことかと尋ねると、
テオドラは、
バスティアンは週末ごとに
アルデンを訪れるけれど、いつも
別々の部屋を使っているらしい。
あのような妻を持つ血気盛んな男が
そんなことができるはずがないのに。
あのフェリア女が
夢中になっているのを見ると、
まさか下半身に問題はないだろうと
言いました。
その言葉に驚いたフランツは、
そんな下品な裏調査までしたのかと
尋ねると、真剣な表情で
立ち上がりました。
その拍子に落ちた本が
カーペットの上を転がりました。
しかし、テオドラは
それを馬鹿にすることなく
再びタバコを持ち上げました。
テオドラはフランツに、
我が家門の高潔な花として
咲いているように。
自分が代わりに泥水の中で
転がってあげるからと言うと、
一層、穏やかになった目つきで
息子を見つめました。
そして、自分は
自分の人生のすべてを捧げて
あなたの父親を守った。
だからその愛の歴史であるあなたも
必ず守る。あなたは、
それだけ分かっていればいい。
どうか
父親をがっかりさせないようにと
頼みました。
フランツは、
自分が何をしても、父親は
失望する準備ができている人だと
言いました。
しかし、テオドラは、
だからこそ、
努力をしなければならないと励ますと
なぜ、エラと全く会わないのか。
クライン伯爵家と
姻戚関係を結ぶことになり、
どれだけ父親が喜んでいることか。
婚約者をしっかり
捕まえておくように。
会社に行って仕事も学ぶようにと
忠告しました。
フランツは、
父親は貴族になるために
一生を捧げて来たのに、
いざ貴族の血を受け継いだ
家門の後継者である自分を
商人にしたくて
やきもきしているなんてと
皮肉を言いました。
テオドラは、
世の中が変わっているからだと
返事をすると、
深くため息をつきながら
息子のそばに近づきました。
テオドラは、
もはや金脈を手に入れられなかった
貴族は、貴族とは呼べない。
バスティアンの妻を見ても
そうではないか。
あの高貴な血を受け継いでいても、
あんな生活を送っている
しかし、あなたは違う。
あなたの父親の財産と自分の血統。
そのすべてを受け継いだあなたこそ
新時代の完璧な貴族だと言いました。
フランツは
「しかし私は・・・と
言い返そうとしましたが、テオドラは
あなたができるということを
自分は分かっていると告げると、
「そうでしょう?」と確認しました。
フランツの肩を握り締めた
テオドラの手に、
熱い力が加わりました。
「はい、母上」とフランツは、
今日も自分に許された唯一の答えを
口にしました。
満足そうな笑みを浮かべたテオドラは、
しばらくして
再び眠りにつきました。
フランツは使用人を呼んで
母親を寝室に運ばせました。
しばらく続いた騒ぎが治まると
いつの間にか
夕日が沈み始めていました。
自分の部屋に戻ったフランツは、
海に面しているバルコニーに出て
長いため息をつきました。
バラ色に染まっていく海の向こうに
邸宅の輪郭がかすかに見えました。
オデットのいる所でした。
手すりに近づいたフランツは、
ベストのポケットの中に入れておいた
小さな金色の紙を
そっと握り締めました。
運命のように出会ったあの日、
画廊で一緒にお茶を飲みました。
大口の顧客の歓心を買いたくて
仕方がなかった画廊の主人が、
様々なクッキーとケーキを
運んで来ましたが、
オデットが口にしたのは
チョコレート一切れが全てでした。
その包装紙をこっそり持ち出したのは
衝動的な選択でした。
自責の念もありましたが、
後悔はしていませんでした。
今あなたは何をしているのだろうか。
フランツは指先に触れる
金色の紙の感触を感じながら
オデットを描きました。
理想的な美しさが宿ったあの顔を
限りなく見つめ、彼女と心を分かち合い
彼女を愛したいと思いました。
熱い息が落ち着き始めた頃、
濃い夕闇が降りて来ました。
バルコニーを離れたフランツは
隠しておいたノートを
机の上に広げました。
オデットを描いた絵だけで
埋め尽くされた
スケッチブックでした。
フランツは最後のページに
オデットを描き始めました。
鉛筆の音は、闇が深まるまで
止まりませんでした。
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マンガでは
オデットが楽譜を買いに来ることと
バスティアンがオデットを
昼食に誘ったことは、
ロビスを通して伝えられましたが
原作では、直接二人が
電話で話をしていました。
バスティアンは睡眠不足で
イライラしているにもかかわらず
オデットの声だけで、
彼女が、いつもと違うとか
喜んでいるとか、彼女の心情まで
察しているのに、オデットは
バスティアンが疲れていることに
全く気付いていない様子。
二人の相手に対する気持ちの温度差を
感じました。
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