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133話 マティアスは自分の命を奪うことが、レイラが逃げられる唯一の方法だと言いました。
マティアスは、その言葉を最後に
ゆっくり目を閉じました。
本当にレイラの手にかかって
おとなしく
死のうとしているかのように
微動だにしない姿でした。
レイラは銃を握り直して、
乾いた唾を飲み込みました。
一度も銃を撃ったことはないけれど
数え切れないほどの
狩りを見守って来ました。
まさに、その男が見せてくれた
優雅で残酷な殺生でした。
だから、そのまま
報復するだけのことでした。
歯を食いしばったレイラは、
震える指を引き金にかけました。
じっと立って
銃を構えているだけなのに、
とても遠い距離を走ったかのように
息が苦しくなりました。
いつから溜まっていたのか分からない
涙もポタポタ流れ落ちました。
レイラは、頭の中が、いや全身が
空っぽになった気分でした。
恐ろしく残忍で優しいあの狂人が
何を望んでいるのか。
これから自分と子どもはどうなるのか。
何をどうすればいいのか、
何も分からない。
分かる気がしませんでした。
結局、堪えきれなくなった涙が
溢れ出しました。
マティアスはその音に反応して
目を開けました。
クリームまみれになったレイラは、
扱い方も知らない銃を握りしめながら
すすり泣いていました。
哀れで不埒で美しいと思いました。
マティアスが落ち着いた目で
見つめている間に、
レイラの泣き声は、さらに大きく
悲しみに満ちて行きました。
それにもかかわらず、依然として
彼に銃を向けたままでした。
唇だけで笑っていたマティアスが
体を起こした瞬間、
ブルブル震えていたレイラが
バランスを失って、ふらつきました。
彼女を制圧することは
「制圧」という言葉で
表現するのも虚しいほど簡単でした。
腕を掴んで引っ張ると、レイラは
ドサッとベッドの上に倒れました。
マティアスは彼女の上に乗り、
簡単に銃を取り上げました。
レイラはもがきながら
息を切らしていましたが、
しばらくして、
力なく、ぐったりとしました。
マティアスは、
命を奪えと言ったのにと
静かに呟きながら
ピストルを持ち直しました。
彼のアドバイス通りに、
安全装置が外れていました。
マティアスは、
君ができないなら、
自分がそれをしなければならないと
告げると、レイラの泣き声の間に
カチッと金属性の音が
入り込みました。
レイラはギュッと閉じた目を開けて
視野を遮っていた涙を落とすと
じっと彼を見上げました。
銃口は、正確に
レイラの頭を狙っていました。
もう泣き方を忘れた人のように
濡れた目だけを瞬きするレイラに
マティアスは、
「助けてあげようか?」と
一見、慈悲深い口調で尋ねました。
レイラは、ぼんやりとしたまま
頷きました。
すべてが夢のように
朦朧としていました。
現実感が湧かなかったので、
恐怖も影を潜めてしまいました。
マティアスは、
それならば、
いい子にならなければと言うと、
さらに上半身を深く屈めました。
近くで見る彼の目は
限りなく優しい光を帯びていました。
レイラは惑わされたように
その青い目を見つめながら、
もう一度頷きました。
彼がクスクス笑ったと思った頃、
何かが床に落ちる
鈍い音が聞こえて来ました。
その音がした方へ首を回すと
それが、マティアスが
投げ捨てた銃だということが
分かりました。
弾倉が外れた拳銃がカーペットの上で
夕日を反射していました。
レイラの目に溜まっていた涙が、
シーツの上にポタッと流れ落ちました。
安堵感が広がると
全身から力が抜けて行きました。
そのため、
さらにぼんやりとした頭の中に、
「汚くなったね」と
マティアスの優しい囁きが
聞こえて来ました。
頭を撫でる手つきも優しいものでした。
マティアスは、
壊れ物を扱うように
慎重に包み込んだレイラの顔を
自分に引き寄せると、
大丈夫。
自分がきれいにしてあげるからと
言いました。
それが、
レイラがはっきりと記憶している
マティアスの最後の言葉でした。

再び意識を取り戻した時、
レイラはお湯で満たされた浴槽に
座っていました。
白く立ち上る湯気の間に見える
マティアスの顔は、
最後の記憶の中のように
優しいものでした。
レイラと目が合うと、マティアスは
「熱い?」と尋ねました。
レイラは、
小さく首を横に振ることで
返事をしました。
気絶したわけでもないのに、
どうやってここまで来たのか
よく思い出せませんでした。
いや、記憶は残っているのに、
それが自分に起きたことのように
全く思えませんでした。
彼女をベッドに一人残して
立ち上がったマティアスは、
そのまま浴室に向かいました。
浴槽に湯を張る音と、
ゆったりとした足音に
耳を傾けている間に日が暮れました。
レイラは、その間ずっと
じっと天井を見上げていました。
マティアスが戻って来るまで
そのような姿でした。
いい子を褒めるように
レイラの頭を撫でてやった
マティアスは、ゆっくり
汚れたレイラの服を脱がせました。
あまりにも恐ろしいことでしたが
レイラは拒否しませんでした。
ある瞬間からは、
羞恥心も薄れて来ました。
全てが嫌になったので、
彼が望む全てのことを早く終わらせ
どうか自分を放っておいて欲しいと
ただ願うだけでした。
そのすべての瞬間が、
まるで遥か遠い世界の、
完璧な他人事のように
感じられました。
今もそうでした。
何も着ていない姿で
公爵の前に座っているのに、
驚くほど、
何の感情もありませんでした。
マティアスは「目」と
低い声で囁きました。
レイラはしばらく考えた末、
その言葉の意味を理解しました。
彼女がおとなしい子供のように
目を閉じると、
マティアスの手が顔に触れました。
生涯、犬一匹も
世話したことのない男は、
不器用だったけれど、
それでも、かなり余裕を持って
レイラを洗って行きました。
ぼんやりとした目で、
空中を見ていたレイラは、
彼の手が肩の下に動くと、
ビクッとして身を縮めました。
膝を抱えた両腕に力が入り
瞳にも、
徐々に焦点が戻って来ました。
水のピチャピチャいう音が止んだ
静寂の中で、二人は静かに
互いを見つめました。
マティアスは
いい子になれと告げると、
肩と胸を覆っていた
レイラの濡れた髪を一つにまとめて
背中に送りました。
レイラは寒気を感じたように
小さく身震いしました。
マティアスは、
「約束しただろう?」と言うと
何度も遠くに向かうレイラの視線を
何度も自分の方へ引き戻しました。
唇を何度もピクピクさせていた
レイラは、すぐに諦めたように
胸を覆っていた両腕を下ろしました。
瘦せこけた肩の下の
はっきりとした変化を探る
マティアスの表情は、それほど、
大きな変化はありませんでした。
若干の戸惑いと満足感が
浮かび上がりましたが、
それさえも、それほど長くは
続きませんでした。
空中を漂っていたレイラの視線を
再び自分の方へ引き寄せた彼は
あのケーキは、
明日また買って来てやると
言いました。
レイラはしかめっ面で
彼と向き合いました。
このような状況と会話が、
あまりにも変でおかしいという
考えのようなものは、彼には
一切ない人のように見えました。
レイラは「要りません」と
疲れた声で呟きました。
明日もまた、
いつもの戦争のような一日が
繰り返されるかと思うと、
全てがうんざりするだけでした。
マティアスは、
最初から彼女の返事など
重要ではなかったかのように
「いや」ときっぱり答え、
「好きだろう?」と尋ねました。
レイラは、
自分が何が好きで嫌いなのか、
それが公爵にとって
意味のあることなのかと尋ねると
再び膝を抱えながら
浴槽に身を沈めました。
そんなことをしても、結局は
一時的なことに過ぎませんでしたが。
マティアスは、
返事の代わりに微笑みました。
その笑顔が
あまりにも優しそうに見えたので、
レイラは、さらに息が詰まりました。
その時、
浴槽に掛かっている彼の腕が、
正確には、
その腕にできた傷が目に入りました。
レイラは目を細めて、
シャツの袖の下にある傷を
観察しました。
まだ、それほど古くない傷跡でした。
この男が熾烈な戦線を突破して
この都市を占領した軍隊の
将校であるという事実を
改めて実感しました。
レイラが何を見ているのかに
気づいたマティアスは、
にっこり笑って
シャツの袖を引っ張りました。
しかし、レイラは、
その腕をギュッと握って、
それを止めました。
医師が診察するように、
注意深く傷を観察したレイラは
とても痛かったのではないかと
囁きました。
その言葉に、マティアスは
声を出して笑いました。
彼は、
自分を撃って命を奪おうとした
君が言うには、
少し滑稽な言葉だと思わないかと
尋ねました。
レイラが黙っていると、マティアスは
「痛くなかった」と答えました。
レイラは、嘘だと反論しましたが
マティアスは、本当だと告げました。
彼は、
自分の腕から離したレイラの手を
再び風呂に入れました。
短い会話が終わった浴室には、
再び水のピチャピチャいう音だけが
満ちていました。
レイラは赤くなった目で
水面を見下ろしていました。
もう止めてほしいのに、マティアスは
まるで遊びを楽しんでいる人のように
のんびりとレイラを洗いました。
かなり膨らんでいるお腹を見て
触れる時も、
彼は何の躊躇いもありませんでした。
まるで、
子供の存在を認知できないように。
あるいは、
少しも気にしないかのように。
他の男の子供という言葉を
信じるようになったのだろうか?
レイラは、ハラハラしながら
息を殺していました。
子供も緊張しているのか
動かずにいました。
しかし、マティアスは依然として、
平気で彼女の体を洗ってくれました。
世話をする使用人のように
振る舞う瞬間も、彼は
この全てを支配する者のように
見えました。
混乱したレイラは、
結局、目を閉じてしまいました。
じっと座って
彼の手に身を任せているだけなのに
しきりに息が切れました。
マティアスは、
きれいに洗ったレイラの体を拭いて、
服を着せ、
濡れた髪の毛まで乾かした後、
新しいシーツが敷かれたベッドに
寝かせました。
レイラは、ほとんど
ぼんやりとした顔をしていました。
時折、目を凝らして
彼を探したりもしましたが、
しばらくして視線を落としたり
顔を背けたりしました。
それ以外は、
まるでゼンマイが切れた
人形になってしまったかのように
おとなしくしていました。
明かりの照度を下げたマティアスは
タイを探して握ると、
再びレイラのそばに戻りました。
レイラはじっと横になったまま、
ゆっくりと目を閉じては開くを
繰り返しながら彼を見つめました。
レイラを安心させるように
頬を撫でていたマティアスは、
レイラの両手を
タイでしっかりと縛りました。
無駄に足掻いて傷つかないように
結び目の下にハンカチを重ねることも
忘れませんでした。
そして、マティアスはレイラに
寝ているようにと告げると、
タイの反対側の端をベッドの柱に縛り
布団で彼女の体を
しっかり包み込んだ後、
立ち上がりました。
何度か小さく寝返りを打っていた
レイラは、
すぐに再び静かになりました。
彼がシャワーを終えて戻って来た時まで
レイラは、その姿のままでした。
彼を見る瞳は、
自分に何が起こっているのかを
知らないように無垢なままでした。
マティアスは、
レイラの両手を縛ったタイを緩めると
今度は片方の手首だけ固く縛り、
反対側の端を、
自分の手首に結びました。
レイラは
今回もじっと見守るだけで、
何の抵抗もしませんでした。
かなり疲れているようでした。
今日の出来事を考えれば、
それも当然でした。
明かりを消したマティアスは
彼女の隣に横たわりました。
一つに結ばれた二人の両手が
シーツの上に重なりました。
「行くな」
指を絡めながらレイラに告げた
マティアスの言葉が、
闇の中に静かに染み込みました。
「私のそばにいろ」
今度は、もう少し低い口調でした。
瞳がゆらゆらと揺れましたが、
レイラは依然として
黙ったままでした。
彼女の手を握ったマティアスの手に
さらに、大きな力が入りました。
レイラの額にキスをしながら
マティアスは、
この戦場に似つかわしくないほど
親密で優しそうに、
「おやすみなさい、レイラ」と
言いました。
レイラは手首と彼の顔を
じっと見つめながら
目を閉じました。
彼女は、深い眠りの中で
恐ろしくて悲しい夢をみました。
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どんなに頑張って抵抗しても、
マティアスに勝つことはできない。
レイラが諦めの境地に入るのも
当然だと思います。
マティアスは、
レイラが自分のそばにいさえすれば
彼女が生きる屍のように
なってしまったとしても、
全く、気にしないのでしょうか。
いつか、レイラの気持ちが
自分に向いてくれることを
期待もしていないようですし・・・
レイラがマティアスのことを
何とも思っていなければ、
傷跡のことを心配したりしないのに、
一笑に付してしまうマティアスに
腹が立って来ました。
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