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134話 レイラは抵抗する気力がなくなってしまいました。
少佐の女が変わった。
毎日のように彼女を見てきた当番兵は
その事実を、
はっきりと感じることができました。
うっかり顔を合わせれば、
ここを出られるように助けて欲しいと
すがりついたり、あるいは
カイル・エトマンは
どうしているのかと聞いて
困惑させた女が、今は沈黙を貫き
ぼんやりと窓の外だけを
眺めていました。
食事を取らないことで抵抗したり、
ドアを壊そうとして飛びかかることも
もはや、ありませんでした。
女は出されるままに食べて、
おとなしく、うずくまっていました。
彼女が従順になったことで、
当番兵の仕事が楽になったけれど
果たして、これを喜んでもいいのか
確信は持てませんでした。
ずっと、このままでいいのか
分からない。
扉を閉めて背を向けた当番兵は
心配そうに呟きました。
廊下で待機していた他の兵士の顔色も
それほど明るくありませんでした。
当番兵は、
女が少し変だと思うけけれど、
知らせるべきではないだろうかと
呟きました。
別の兵士は「誰に?」と尋ねました。
当番兵は、「それは少佐に・・・」と
答えましたが、口に出してみると
馬鹿げた言葉だったので、
当番兵は長いため息をつきました。
確かに、女の状態を
誰よりもよく知っているのは
ヘルハルト少佐だと思いましたが、
彼は、
ただ毎瞬間が楽しいだけの人のように
見えました。
その上、あの女のことに関しては
かなり鋭い反応を示すので、
むやみに口を開くのも困難でした。
彼が先に聞かない限り、
誰もあえて少佐の女に
言及しないことが
不文律になりつつありました。
あの女のお腹の中にいる子は
少佐の子供だって。ということは、
ヘルハルト公爵家の私生児ではないか。
あの女は逃げた公爵の愛人なのかと、
がらんとした廊下を
注意深く見回した兵士は、
声を低くして、ひそひそ話しました。
当番兵は、
そうらしいと答えました。
兵士は、
その噂も聞いたのか。
部屋にいるあの女は、
元々、主治医の息子である
カイル・エトマンの婚約者だったけれど
なんと公爵が奪ったらしい・・・
と話していたところで、当番兵は
廊下の端から近づく長い影を見て
急いで自分の前に立っている
兵士の脇腹を叩きました。
刺激的な噂を騒々しく話すことに
興じていた彼は、後になって、
その噂の主人公が現れたことに
気づきました。
マティアスは、
凍りついている二人が立っている所へ
悠々と近づいて来ました。
端正に着こなしている軍服と
優雅な姿。
穏やかな笑みを浮かべた顔のどこにも
汚ない噂の跡など
見当たりませんでした。
過度な礼儀を尽くした
部下たちの挨拶に短い黙礼で
答えた彼は、すぐに
一人の女の監獄になっている
客室の中に姿を消しました。
向かい合って、ため息をついた
二人の兵士も立ち去ると、
日差しが差し込むホテルの廊下は
再び静寂に包まれました。

マティアスが持って来たのは本でした。
それが何なのかは分かるけれど、
一体、どんな意図で持って来たのかは
理解できず、レイラは、ぼんやりと
テーブルに置かれた本の山を
見つめました。
マティアスは、
無知な子供に教えるかのように
穏やかな口調で、
退屈な時に読んで。
君が好きな推理小説、
鳥に関する本もあると告げました。
レイラは熱意のない目で
本の背をじろじろ見るだけで、
何の返事もしませんでした。
お菓子、花、本。
公爵が持って来るものは全て、
この状況に
ふさわしくありませんでした。
そしてレイラは、
もうそれを指摘する熱意を
失ってしまいました。
マティアスが、
この状況がどういうことなのか
認知できていないのは明らかでした。
毛布でお腹を包んだレイラは、
一番上に置かれている本を
開きました。
字が目に入るはずがないけれど
公爵と向き合わなくてもいい口実が
必要でした。
向かいの椅子に座ったマティアスは、
満足そうな目で、
その姿を見つめました。
ゆるく編んだ髪は
やせ細った肩を伝って流れ落ち、
お腹まで届いていました。
日差しの中で、
本を読む妊娠した女の姿は
穏やかで美しいと思いました。
上の空で
ページをめくっていたレイラは
怯えた目で彼を見ながら、
逃げないと約束するので、
少しの間だけでも、
外に出して欲しいと懇願しました。
しかし、マティアスは
完璧だった平穏に生じた亀裂が
あまり気に入りませんでした。
レイラは、
家に行って来たい。
ビルおじさんにも・・・と
訴えましたが、マティアスは、
静かにレイラの名前を呼ぶことで
彼女の言葉を遮りました。
椅子から立ち上がった彼は、
レイラの前に近づき、
彼女の顔を抱きしめると、
君には、もう家も家族もない。
自分のそばが君の家で、
自分が君の家族だ。
だから、自分が君の全てで、
君は自分だけいればいいと
返事をしました。
レイラは、
違う。そんなことを言わないで。
自分は・・・と反論しましたが、
マティアスは、
外は危険な戦場なので、
自分のそばにいるように。
守ってやるからと告げました。
レイラは驚いて窓の外を見回し、
再びマティアスを見ました。
都市への爆撃も、この男より
恐ろしくありませんでした。
続けてマティアスは、
子供のことを考えなければと
助言しました。その言葉に、
レイラの顔が歪みました。
お腹の中の子供の話をする時、
彼は、まるで子供を心から愛する
父親でもあるかのように、
いつも、このように
優しい表情をしました。
憎らしいことに、実際は、
子供を自分の欲を満たす手段としか
見ていない男なのに。
レイラは、
そんな風に自分の赤ちゃんを
侮辱しないで欲しい。
そんなのは嫌だと訴えると
さらに毛布をしっかりと引き上げ、
お腹を包みました。
こんなことをしたところで
防げるとは思えませんでしたが、
それでも子供が、
このような話を聞いてしまうのは
嫌でした。
マティアスは、
「そんな風に?侮辱?」と聞き返すと
理解できないと言うかのように
首を横に振りました。
そして、
君は何か誤解しているようだけれど
自分はその子が大好きだし、
その子のおかげで、
君の命を奪わずに済んだし、
自分たちがこうして、
また幸せになれるではないかと
返事をしました。
マティアスの抑揚のない声に、
何の悪意も感じられませんでした。
ただ、ありのままの事実を
伝えるだけのような彼の態度の前で
レイラは絞り出した最後の戦意まで
失いました。
レイラは、再び沈黙の中に
自分を隠しました。
マティアスは屈んで
彼女の額にキスをしました。
そして、再び自分の椅子に戻って
鑑賞するように
レイラを見つめました。
レイラの体温が
普段より少し高いことに気づいたのは
彼女を抱いてベッドに移した
夕方頃でした。
「熱がある」
マティアスはレイラの額に手を触れて
熱さを感じると、眉を顰めました。
レイラは小さく首を振って横になると
嘆くように「休みたい」と告げて
目を固く閉じました。
ベッドに腰掛けて、
彼女を見守っていたマティアスは、
手首を縛るためのタイを
そのまま、
サイドテーブルの上に置きました。
そして、
レイラの背中の後ろに横たわり
閉じ込めるように、
彼女を大切に胸に抱きました。
そして、そのままの姿勢で
マティアスは多くの話を
レイラに聞かせてやりました。
彼はレイラが好きな所に、
レイラのための世界を
作ってやるつもりでした。
ヘルハルト家が所有している
邸宅の中に、
そのような場所がなければ、
新しく用意すれば済むことでした。
島を一つぐらい買うのも
悪くないと思いました。
君を閉じ込める塔を、
高く、高く積み上げて、
自分たちの天国を作ろう。
自分の世界を君にあげる。
今のように君が、自分のそばに
自分のレイラとして留まるならば。
愛している。
眠っているレイラの耳元で、
マティアスは声を低くして囁きました。
今は、こんな風にしか
伝えられない告白だけれど、
いつかは美しい緑の目を見つめながら
話せるかもしれない。
恐怖という鉄格子が消えて、
レイラが彼から離れない日が来れば。
もしかしたら、
それほど長い時間が
かからないような気もしました。
レイラは子供を愛しているから。
子供が生まれて、
その子供に父親が必要になり、
彼がその役割を喜んで果たしてやれば
レイラは彼を受け入れるだろう。
愛する子供に家族を。
この女が、
あれほど大切にしている家族を
作ってあげるためにも。
マティアスは喜び、
片手いっぱいに握った
レイラの柔らかい髪に
キスをしました。
微熱を感じる額と頬。
やせこけて、
骨が浮き出ている肩の上にも。
愛している。
今度は静かに、
熱いため息を漏らすように
唇だけで囁きました。
このまま彼女を
壊したい衝動を抑えながら、
マティアスはレイラの首筋に
顔を埋めました。
彼女から漂う新鮮なバラの香りは
依然として甘美でした。
自分を弄んだ女の心を乞う自分が
滑稽で、しかし嬉しく、
胸に抱いたレイラは
このように愛らしい。
どうすればいいのか分からず、
呆然とした顔でマティアスは、
レイラをさらに強く抱き締めました。
彼女は、微かに柔らかな体を
ばたつかせました。
マティアスは、
そのサディスティックな快感の中で、
笑いました。
ひょっとしたら、
泣きたいのかもしれませんでした。

レイラは夕日の光の中で
目を覚ましました。
非現実的な日々が、
さらに夢のように感じられる
幻想的な色でした。
冷や汗で濡れた額に触れながら、
レイラは熱気混じりのため息を吐き
体を小さく丸めました。
「大丈夫?」と尋ねるように
お腹を撫でると、
子供が優しく動きました。
安堵感と共に、
骨の関節が壊れそうな痛みが
広がりました。
数日前から始まった微熱と悪寒が
ますますひどくなっていました。
ビルおじさんを失って、
壊れた家に一人残された時も
持ち堪えましたが、
公爵に出会ってからは、
ひびが入った堤防が崩れるように
体と心が
崩れていく気分でした。
それがとても嫌だったけれど、
体の状態は、
意のままになってくれませんでした。
実は、毎日がとても怖くて
大変だったことを、
今になって分かった気がしました。
ビルおじさんの葬式を終えて
帰ってきた日以来、一日も
ぐっすり眠れませんでした。
家の中が静かになると息が詰まり、
割れた窓から吹き込む激しい夜風が
ヒューヒュー鳴ると、
まるで空襲が再び始まったようで
恐怖を感じました。
それでも赤ちゃんがいたから、
守ってあげなければならないから
屈することなく
耐えてみようとしました。
しかし、それがうまくいかない瞬間が
たくさんありました。
マティアスのそばで、
そのことを悟った自分が
レイラは嫌でした。
このように屈辱的に連れて来られ
閉じ込められたままで食事を取り、
一人の時より安らかに眠る自分の姿は
時に耐え難いほど痛い傷として
感じられたりもしました。
何よりも耐え難いのは、
赤ちゃんが、あの男を
好きだという事実でした。
ある瞬間から、赤ちゃんは
彼の声が聞こえても、驚いたり
怖がったりしなくなりました。
彼の体が触れた時も同じでした。
時には踊るように
動いたりもしました。
赤ちゃんには、
今まで母親だけだったので、
あの男が好きなのではなく、
ただ、母親ではない他の人の存在が
不思議なのかもしれませんでした。
レイラは、
それがとても悲しくて悔しくて
申し訳ないと思いました。
あの男の子供を妊娠したことを
知ったのは、逃げて来て
この都市に定着した後でした。
「もしかしたら」という予感を
無視しようと努めましたが、
いつまでも現実に背を向けることは
できませんでした。
実際に現実に向き合うと、
レイラは自分でも驚くほど自然に
子供を受け入れるようになりました。
父親が、
永遠にその存在さえ知らない私生児を
産むということが何を意味するのか。
自分の人生がどのように変わるのか。
ビルおじさんを、
どれだけ失望させ悲しませるか、
全て分かっていても、そうでした。
それで、気軽に話せませんでした。
赤ちゃんを絶対に守りたいのに、
あたかも、それが、
アルビスに捨てられずに、
この遠い所まで持って来た
未練のように見えるのではないかと
思いました。
ビルおじさんも、
そう思うのではないかと思いました。
そして、その気持ちが
限りなく恥ずかしくて
仕方がありませんでした。
こんなに大きな罪悪感が残ると
分かっていたなら、
少なくともおじさんには
隠すべきではありませんでした。
一夜にしてビルおじさんを失った後
最も痛く胸を押さえ付けて来た後悔が
再び訪れました。
赤ちゃんは、
とても寂しかったのだろうか?
それで、残酷で無情な父親でも、
こんなに喜んでしまうのだろうか?
そうしないで欲しい。
傷つくことになると思うから。
レイラは気絶するように眠りにつき、
意識を取り戻すと、
自分を呼ぶマティアスが見えました。
すでに暗くなった部屋の中を
明かりが照らしていました。
彼は続けて何かを
言っているようでしたが、
よく聞こえませんでした。
寒くてぞくぞくするのに暑くて、
じっと横になっているだけなのに
息苦しさを感じました。
「レイラ」と、
自分の名前を呼ぶ彼の声が
もう少し大きくなると、
子供の動きも大きくなりました。
赤ちゃんはマティアスが呼ぶ
彼女の名前が好きでした。
このまま自分の名前が
レイラだと思ったらどうしよう?
彼女は、
とんでもない悩みを抱えている自分が
おかしくて、クスクス笑いました。
しかし、笑いの代わりに、
熱いため息だけが漏れました。
マティアスは、しきりに名前を呼び、
その声が好きな子供は
喜んで踊っているけれど、レイラは
悪寒と混ざった眠気に勝つのが
困難でした。
ビルおじさんに会いたい。
レイラが深い眠りに落ちる前の
最後の考えでした。
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レイラの
恐怖という鉄格子を消すためには
最初にマティアスがレイラに
愛していると伝えなければダメ。
マティアスが考えている順番とは
逆でないといけないのに
マティアスはレイラの方から
自分に歩み寄ることを求めています。
自分を閉じ込めて、
身動きできない状態にさせている人を
どうやって許すことができるのか。
カナリアで
それが成功したからといって、
レイラには、それが通用しないことを
なぜ、マティアスは気づかないのか
不思議です。
それは、幼い頃からの育った環境が
影響しているのだとは思いますが・・
レイラは
マティアスに監禁されていることに
腹を立て、悲しみ、失望しているけれど
それでも、ビルおじさんを失った後、
不安なく暮らせるようになったことに
安堵していることを認めた。
それが罪悪感の元となってはいますが
戦時中、女一人で、お腹に子供を抱えて
暮らして行くのは容易ではないので
レイラがそのように感じても
決して悪いことではないと思います。
レイラの苦しみの原因のほとんどは
マティアスに起因するものなので、
まずは、彼が変わらなければ
ダメだと思います。
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