![]()
47話 オデットはひたすらバスティアンを待っています。
オデットは噴水台に座って
本を読んでいました。
まだ約束がキャンセルになったことを
聞いていないのか、
何事もなく、穏やかな様子でした。
バスティアンが
ため息を飲み込んでいる間に
門が開きました。
敬礼をする歩哨兵たちの間を通った車は
ますます噴水に近づいて行きました。
海軍省の前の道は、噴水台を中心に
三つに分かれて伸びていました。
皇宮に通じる西側の道路に
進入するためには、
噴水台を旋回しなければ
なりませんでした。
バスティアンは、
このまま通り過ぎて欲しいと
願いました。
バスティアンは、
オデットに渡すメモを
当番兵に預けておきました。
できるだけ早く渡せと命じたので
まもなく使いに来るはずでした。
そうすれば、オデットはここを離れ
自分の用事を済ませれば良い。
あの女にとっては、むしろ
良いことかもしれない。
そう結論を出したバスティアンが
窓から視線を外そうとしたところ、
オデットが本を閉じました。
腕時計を確認したオデットは
清らかな顔で
海軍省の正門を眺めました。
約束の時間は、もう20分も過ぎたのに
彼女は、ただ黙々と、
待っているだけでした。
公式的な初対面の日も
そうだったということを
バスティアンはふと思い出しました。
意図的に遅刻をした彼を
じっと待っていた
無理矢理押し付けられた縁談の相手。
結局、その女と結婚をしたという
事実を改めて実感した瞬間、
オデットが車の方へ顔を向けました。
それほど、
長い時間ではありませんでした。
走行中の車と、
その場に留まっている
オデットとの間の距離は、
急速に広がって行きました。
しかし、目が合った瞬間のことが
とても鮮明な記憶として
残りました。
バスティアンに気づいたオデットは
急いで噴水台から
立ち上がりました。
ぼんやりした目が彼を映した後
しばらく後部座席を見て、
そして再び彼に向かいました。
心を痛めたような顔を
していたようでしたが、
確信するのは難しく、
そう思った時、車はすでに
西側の道路に入っていました。
無意識に握りしめていた拳を
緩めているうちに、車はどんどん
スピードを上げて行きました。
噴水台の前に
ぽつんと立っているオデットは、
黄色の一点となって
視界から遠ざかって行きました。
皇帝の命令とオデットとの約束の
どちらを優先させるか。
それは、
比較する必要さえないことであり、
バスティアンは、
適切な選択をしました。
噴水台の前に、しばらく車を止めて
状況を説明することもできたことは
分かっていましたが、
そうしませんでした。
二年間の妻を、バスティアンは
優先させることはできませんでした。
それが当然でした。
何も持っていないので、
与えられるものも何もない女。
そんな彼女が、
一体、自分の何だと言うのか。
ゆっくりと閉じていた目を開けた
バスティアンは視線を上げて、
ルームミラーを見ました。
鏡の中で目が合うと、
サンドリンが、そっと微笑みました。
頭痛は良くなったかと、
デメル提督が慎重に質問すると
車内の静けさが破れました。
一瞬にして
表情を変えたサンドリンは、
まだ辛いけれど、おかげさまで、
だいぶ良くなったと答えると、
低くため息をつきました。
まるで、死にかけている病人のような
姿でした。
サンドリンはお礼を言い、
提督が助けてくれなかったら、
きっとまた、
何日も寝込んでいただろうと
言いました。
デメル提督は、
ただ当然すべきことをしただけだと
答えると、
彼女に対する心からの心配と、
騎士道精神を重んじる
軍人の誇りがこもった目で
サンドリンを見つめました。
このくらいで、
その寸劇への興味を失った
バスティアンは、
助手席の窓の外に広がる
プラター川の川辺に目を向けました。
灼熱の太陽の勢いが衰えると、
水の色が一段と濃くなり、その分、
街路樹の緑は色褪せていました。
夏の絶頂を過ぎた風景の上に、
遠ざかっていく車を
じっと見つめていたオデットの姿が
ふと浮かびました。
季節が変わり、祭りが終わると
出征許可が下りるだろう。
役に立たない女の残像がもたらした
苛立ちは、その明白な事実の裏に
姿を消しました。
もうすぐ出発する。
約束した期日が近づいてくる頃に
戻って来て、
この結婚を整理すればいい。
少なくとも、
あっさり消えてくれることだけは
うまくやり遂げる女だから、
それでいいと思いました。
そのくらいで、
無意味な記憶を消したバスティアンは
首を回して
目の前の道を見つめました。
ラナト家を経て皇宮に至るまで、
バスティアンは
一度も振り返りませんでした。

風に揺れる木の葉の音と
噴水台の水の流れの音が
混じり合っていました。
オデットは、その喧騒の中、
ゆっくりと封筒を開けました。
今のオデットの心のように
シフォンを重ねたスカートの裾が
風で乱雑に翻りました。
急用ができたので、食事の約束は
次回に延ばすことにする。
バスティアンの伝言は、
誠意のない知らせが
一行書いてあるだけでした。
オデットは繰り返し読んだメモを
きれいに畳んで
手提げカバンに入れました。
川から吹いてきた風が止むと、
頭の上で波打っていた木の枝の影も
静かになりました。
使いに来た若い兵士は、
依然としてその場に留まりながら
オデットの顔色を窺っていました。
オデットは、
優しい笑みを浮かべた顔で
兵士にお礼を言うと、
もう帰ってもいいと告げました。
頬を赤らめた兵士は、
慌てて頭を下げた後、
引き返しました。
その後ろ姿が、
海軍省の塀の向こうに消えると、
オデットは静かに
堪えていたため息をつきました。
バスティアンの事情は
十分理解することができました。
軍用車に乗って、
デメル提督と一緒に出かけたのを見ると
公的な任務を遂行しているのは
明らかでした。
サンドリンが同行していたという事実が
気になりましたが、
オデットが干渉できる問題では
ありませんでした。
サンドリンは妻より重要な存在であり、
結婚後も何らかの関係を続けるだろうと
プロポーズではない
プロポーズをした日に、
すでに、あの男が
はっきり教えてくれたからでした。
オデットは、
二人が消えていった道の先を
見ていた視線を逸らしました。
自分を待っていた妻の前を
通り過ぎた瞬間、
何の罪悪感もなく超然としていた
バスティアンの記憶も、
もう消すことにしました。
すべてを知っていながら、
この結婚を受け入れました。
だから今さら自分の選択を
後悔したくなかったし、
バスティアンのせいにしたい気持ちも
ありませんでした。
どうせ、これは偽りの結婚で、
各自の利益のための取引に
過ぎないからでした。
心を整理したオデットは
未練を残すことなく
噴水台の前を去りました。
海軍省から繁華街まで移動するのに
それほど、
時間はかかりませんでした。
オデットは、
一人で道を歩きながら、
むしろ、不快な男と
一緒にいなくて済むのだから
良かったと考えました。
ゆっくりと商店街を見物し、
楽譜を選び、
カフェテラスを訪れた時も
そうでした。
支配人は、連れはいるかと、
前回と同じ質問をしました。
一人だというオデットの答えも、
以前と変わりませんでした。
親切な支配人は、
眺めの良いテラスに
オデットを案内してくれました。
よりによって、
思いがけずバスティアンと一緒に
お茶を飲むことになった日に座った
そのテーブルでした。
メニューを置いた支配人は
何か不都合があるのかと
心配そうに尋ねて
オデットの顔色を窺いました。
彼女はニッコリ笑って首を横に振り、
大丈夫だと答えました。
好ましくない偶然でしたが、
たかがそのような理由で
席を変えるのは嫌でした。
バスティアンのせいで
まともに食べられなかった
あのコーヒーとケーキを注文した
オデットは、
プラター川沿いの風景を眺めながら
一息つきました。
穏やかな水面は、
眩しい午後の日差しに
染まっていました。
ふと、
その光に似た男を思い出したのは
テーブルの端を叩く音が
聞こえて来た時でした。
そんなはずがないということを
分かっていながらも、オデットは
ビクッとして顔を上げました。
そこに立っている見知らぬ男を
見た瞬間に訪れた幻滅は、
そのため、さらに大きくなりました。
旧式の歩兵将校の制服を着た男が、
溶けた砂糖のように
ベタベタした笑みを浮かべながら
一人で来たのか。
孤独な女性にお茶をご馳走する
栄誉を与えてくれないかと
オデットに尋ねました。
彼は、本心を露骨に表した目つきで
空いているオデットの向い側の席を
チラッと見ました。
一人の若い女を誘惑することで
暇つぶしをする都会の好色漢。
数え切れないほど経験したので
よく知っている部類でした。
オデットは、
もうすぐ夫が来ると、
そっと力を込めて返事をすることで
線を引きました。
結婚指輪が光っている左手を
テーブルの上に置くことも
忘れませんでした。
照れくさそうな顔をした男は
「あっ、そうですか。
失礼しました。」と返事をすると
急いで踵を返しました。
オデットは、
空いている夫の席を眺めながら
静かなため息をつきました。
苦境から抜け出すことができて
安心する一方で、
虚しくなりました。
こんな時でも、頼れるのが、
ただの偽の夫だけだなんて、
悲しくもあり、
滑稽なことでもありました。
今頃、
その急用を済ませたのだろうか。
オデットは、いたずらに
今日買った楽譜をめくりながら
束の間、考えに浸りました。
おそらく、
ラナト伯爵夫人と一緒だろうと
淡々と結論を下した頃、
お盆を持ったウェイターが
近づいて来ました。
目に入らなかった楽譜を片付けた
オデットは、姿勢を正して座り
結婚指輪を見つめました。
その間に、
自分の仕事を終えたウェイターが
立ち去ると、
テーブルは再び静まり返りました。
息を整えたオデットは、
バラが一輪が挿してある花瓶を
テーブルの中央に移して、
一人だけのティータイムを始めました。
金色の波が立つプラター川は美しく、
コーヒーとケーキは美味でした。
オデットは、宿題をするように
茶碗と皿を空にすることだけに
夢中になりました。
永遠に来ない夫の席のことは
きれいに忘れました。
自分のものでないなら、
未練を持たないのが正しい。
失った時の痛みは、
与えた心の大きさに
比例するものだから。
それは失って、失って、
また失いながら、
人生のどん底まで辿り着いた
過去の人生が与えてくれた
教訓でした。
一人だけの、
のんびりとしたティータイム。
長い間、心に秘めて来た夢を叶えた
オデットは、日が傾き始めた頃に
カフェテラスを立ち去りました。
運転手と会う約束をしていた
市庁前広場に着いた時は、
街中がバラ色に染まっていました。
黄色のコンバーチブルから降りた
ハンスは、戸惑った顔で
「ご主人様は、
先にお帰りになったのか」と
尋ねました。
オデットは「はい」と答えると、
何しろ忙しい人だからと
難なく嘘をつきました。
ハンスは、
確かにそうだと、
何の疑いもなく頷くと、オデットに
良い時間を過ごしたかと
優しい質問をしました。
オデットは、ニッコリ笑うことで、
代わりに答えました。
適正レベルの礼儀と
上辺だけの表情は
今日も自らを守る
立派な武器となってくれました。
クラウヴィッツ夫人の楽しい外出は
定刻を知らせる
時計台の鐘の音と共に
幕を閉じました。
夏の終わりの夕方、
オデットを乗せた車は、
スピードを上げて
ラッツを後にしました。
![]()
![]()
オデットよりも
皇帝を優先させなければ
ならないというのは分かりますが、
先にオデットを昼食に誘ったのは
バスティアンなのだから、
素っ気ないメモを
人づてに渡すだけではなく、
車が近くを通った時に、
直接、オデットに
話をすべきだったと思います。
バスティアンは
オデットに魅かれ始めているのに
二年間だけの妻。
何も持っていないから
何も与えてくれないとう考えに
固執して、
お金や地位以外に大切なものを
オデットが
与えてくれるのではないかという
可能性を全く考えていないのが
残念です。
![]()