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49話 バスティアンがアルデンにやって来ました。
シャワーを浴びると、
疲労感がさらに濃くなりました。
バスティアンは、
ゆったりとしたガウンの紐を
結びながら、
バスルームを出ました。
きちんと乾かしていない髪の毛が
まだ湿っていましたが、
そんなことを気にするだけの余力が
残っていませんでした。
彼は、
きちんと寝たのがいつだったか
よく覚えていませんでした。
予定より早く仕事を完了させるために
ハードなスケジュールを
こなしてきました。
耐え難いほどの眠気に襲われると
仮眠を取り、義務的に食事を取り、
そして再び業務に邁進する日々の
連続でした。
無意識に閉じていた目を
ゆっくりと開けたバスティアンは
妻の寝室につながるドアに向かって
近づきました。
今はようやく九時。
寝るには早い時間だけれど、今日は
もう休みたいと思いました。
このままベッドに身を投げれば、
優に数日は、死んだように
ぐっすり眠れそうでした。
もう全て終わった。
バスティアンは、その事実を
繰り返し考えながら、
二つの部屋をつなぐ通路に
入りました。
念入りに準備した餌を
ぶら下げたので、あとは、
父がそれに噛みつくのを
待つだけでした。
海軍祭の準備も、
いつの間にか終わりの段階に
差し掛かっていました。
だから、
今残っている任務はただ一つ。
甘い新婚生活を
完璧に演じることだけでした。
デメル提督が提案した
ハネムーン休暇を受け入れたのは
そのためでした。
疑い深いベロップの皇太子を
騙すためには、
精巧な嘘が必要でした。
それが苦労の末に作り出した余裕を
最も実利的に
利用する方法のはずでした。
微かに光が漏れる通路の
反対側の端に着いたバスティアンは
まず落ち着いてノックをしました。
濡れた髪の先に付いていた水滴が
鼻の上に落ちたのと同時に、
「はい、どうぞ」と
オデットの返事が聞こえて来ました。
驚いた様子のないオデットの声は
歌うように滑らかでした。
バスティアンは、
顔に残った水気を拭き取った手で
ドアを開けました。
オデットは窓際に立って
彼を待っていました。
部屋の中いっぱいの明かりが、
青白い女を、
暖かい色に染めていました。
オデットは、
肩に掛けたレースのショールを
前で握りしめながら、
話したいことは何かと
淡々と尋ねました。
バスティアンは「ありません」と
予想外の返事をすると、
寝室を横切って来ました。
眠そうな彼の目は、夕食時よりも
さらに赤くなっていました。
のろのろした動作も
普段とは違っていました。
オデットは、感情的にならないように
非常に努力しながら、
それでは何の用なのかと尋ねました。
しかし、バスティアンの
「寝ようと思う」という
信じられない一言が、
オデットの堅固な壁を崩し、
バスティアンがベッドに近づくと
その行動の意味に気づいた
オデットの目が丸くなりました。
オデットは、
まさか同じベッドを
使うということなのかと尋ねました。
バスティアンは、
知っているのに、
あえて聞く理由は何なのかと
聞き返すと、
遠慮なくベッドに上がり、
ヘッドクッションに深く腰を下ろして
オデットを見つめました。
オデットは、
よく理解できないと呟くと、
強張った顔で
バスティアンに向き合いました。
オデットは息を整えて、
ベロップ皇太子の訪問のために
自分たちが一緒に暮らす日が
繰り上げられたことと、
より親密で、仲睦まじい姿を
見せる必要があるという点も
理解したと、落ち着いて話しました。
バスティアンは、
奇襲的に事を進めた後になって
ようやく一緒に住む事実を
知らせました。
無礼な仕打ちでしたが、
表には出しませんでした。
どうせ契約で結ばれた関係なのに、
今さら、夫婦の礼儀云々口にして
嘲笑われるのは愚かだからでした。
使用人と雇用主。オデットは、
バスティアンが定めた自分たちの関係に
忠実であるつもりでした。
そのため、サンドリンのことを聞かず、
一方的な命令にも従いました。
しかし、これは
その範疇を超える要求でした。
そっと目を閉じたバスティアンは
「それで?」と聞き返しました。
低く沈んだ声から、明らかに
疲労感が滲み出ていました。
驚くべきことに、彼は疲れていました。
もう一つの信じられない事実が
オデットをさらに当惑させました。
オデットは、
その件については
喜んで協力するけれど、
こうする必要はないのではないか。
今まで、
それぞれの寝室を使って来たけれど、
何も言われなかったと、
できるだけ丁寧に、
バスティアンの了解を求めました。
沈黙の重さが耐え難くなり始めた頃
バスティアンが目を開けました。
彼は、
万が一、最も重要な時期に
問題が発生したらどうするのか。
あなたが責任を取れるのかと
尋ねました。
オデットは
「それは・・・」と
言葉を詰まらせました、
そのオデットをじっと見つめる
バスティアンの目に刃が立ちました。
彼は、
おそらく、今も別々の部屋を使っている
クラウヴィッツ夫妻についての噂は
広まっている。
まだ表面化するほど
大きくなっていないだけだと
告げると、
ベッドサイドのサイドテーブルに
手を伸ばして、ランプを消しました。
限界を超えた眠気は、
今や激しい頭痛を伴っていました。
まるで、
深海に沈んでいくような気分でした。
彼が明確に認知できるのは、
光の中に立っている
オデットが全てでした。
オデットはしばらく悩んだ末、
品位のある夫婦は、本来、
寝室を別にするものではないかと
ようやく反論しました。
しかし、バスティアンは、
自分は下劣な男だから、
そんなことは知らないと
返事をしました。
オデットをじっと見つめていた
バスティアンの唇の先が
少し曲がっていました。
それから彼は、
ベッドにドサッと身を投げました。
すると、
ふんわりと甘い香りが漂って来ました。
オデットの体の匂いでした。
バスティアンは、
古物商の孫が、
あなたのような高貴な人間に
なれるはずがないのではないかと
大したことではないというように
冗談を言いましたが、
オデットの瞳は揺れました。
オデットは、
そういう意味ではなかった。
自分はただ・・・と
言い訳をしようとしましたが、
バスティアンは、
話は明日しようと言って
長いため息をつき、目を閉じました。
もう限界でした。
こんな状態で、
オデットのやかましい話に
耐えられそうにありませんでした。
バスティアンは、
今はあなたの言っていることが
よく聞こえない。
だから、残りは明日だと、
半分眠っている状態で
低く囁きました。
「バスティアン?」
名前を呼ぶオデットの声が
近づいて来ました。
目を開けようとしましたが、
すでにバスティアンの体は、
意識のコントロール外でした。
一歩、もう一歩。
警戒しながら近づいて来る
足音が止まった瞬間、
そっと肩を揺らす柔らかい手を
感じました。
バスティアンが記憶している
その夜の最後でした。

ディセン公爵が微動だにせず、
ぱっと目を覚ましたので、
ちょうど病室に戻って来た介護士は
驚いて後ずさりしました。
その拍子に落としてしまった
ブリキのお盆とコップが床を転がる音が
夜の静寂の中に
鋭く響き渡りました。
その瞬間にも、
ディセン公爵は眼を見開いて
天井を睨んでいるだけでした。
そうだ。夢だったはずがないと
独り言を呟きながら
クスクス笑っていた公爵の視線が、
突然、介護士に向けられました。
そして、今すぐ自分を起こせと
命令しました。
一瞬で笑みが消えた顔の上に、
恐ろしい怒りが
浮かび上がりました。
驚いた胸をなで下ろしていた介護士は
慌ててディセン公爵を起こして
座らせました。
彼は、
やはり自分の記憶は正しかった。
あの女が、
自分をこんな目に遭わせたと
戯言をまくしたてながら
暴れ出しました。
介護士は、静かにため息をつき
引き下がりました。
毎日繰り返されている騒ぎなので
目新しいものはありませんでした。
成金の婿が
手厚い報酬を払ってくれなければ
誰も、この悪名高い患者を
引き受けようとしなかっただろうと
思いました。
介護士は、
悪夢でも見たのか。
鎮静剤を差し上げましょうかと
渋々、
形式的な慰めの言葉をかけました。
いつも、このような時は、
さらに怒り狂って
悪口を吐くのが常でしたが、
今日は、なぜか
公爵が静かになりました。
乱れた髪を撫でていた
ディセン公爵は、
早くペンと便箋を持って来いと
冷たく命令しました。
その勢いに呆れた介護士は、
急いでその命令に従いました。
筆記具と紙が置かれたテーブルが
ベッドの上に載せられると、
ディセン公爵は、
まるで飢えた獣のように猛烈な勢いで
飛びかかりました。
血走った目が鋭く光っていました。
本当に狂人になってしまったような
姿でした。
顔色をうかがっていた介護士は、
こっそり、
病室の外へ逃げ出しました。
しかしディセン公爵は少しも意に介さず
ただ手紙を書くことに没頭しました。
ティラ、あのクソ野郎。
ディセン公爵は荒い息を吐きながら
ペンを握り直しました。
あの日の出来事は、
決して事故ではなかった。
細かく砕けていた記憶の
最後のピースが、
ついに、はまりました。
力いっぱい自分を押し出した
ティラの手を、
彼ははっきりと思い出しました。
階段を上ってくる途中だった
オデットが、その光景を
目撃していたという事実も。
それなのに、二人とも
口を固く閉ざしていました。
ディセン公爵は、
乾いて腫れあがった唇を
噛み締めながら、
怒りと恨みのこもった手紙を
書き連ねました。
二人で手を組んだとしか
思えないことでした。
しかし、後ろ盾なしに
そんなことはできなかったはず。
おそらく裏には、古物商の孫、
オデットと結婚したあの男がいたに
違いありませんでした。
そうだ。間違いなく奴だ。
動けなくなった自分の足を見る
ディセン公爵の顔が、
ひどい苦痛に歪みました。
あの事故が起きるや否や
あいつはプロポーズしたそうだ。
そして、オデットは
待っていたかのように受け入れた。
聞くところによると、ティラは
あいつが出した金で贅沢をしながら
名門女子校に通っているらしい。
こんな状態で、
病院に監禁された彼を除いた皆が
幸せになった結末でした。
その三人の野郎たちが、
共謀したに違いないと、
ディセン公爵は確信しました。
ところで、なぜ今まで、
きちんとした記憶を
思い出せなかったのだろうか。
彼は警戒心に満ちた目で
病室を見回しました。
ここ数ヶ月、
起きているほとんどの時間を
薬のせいで
朦朧として過ごしました。
もしかしたら、そこにも
何か陰謀が隠されていたのかも
しれませんでした。
すぐに、
オデットに会わなければならない。
その一念に囚われたディセン公爵は、
怒りで震え始めた手に
力を入れました。
慌ただしく動くペン先の音が、
再び夜の静寂をかき乱し始めました。

ベッドの端に差し込んだ日の光に
オデットは目を覚ましました。
いつもと変わらない朝の始まりでした。
仰向けになったオデットは、
ゆっくり目を開けて天井を見ました。
ゆっくり揺れる光の影が
一番先に視界に入って来ました。
窓を通ってきた光は、真夏に比べて
その勢いが
明らかに和らいでいました。
パリッとした布団の感触と
心地よい温もり。色褪せた日差しは
変わっていく季節を実感させました。
ここがどこなのか思い出したオデットは
低いため息をつきながら
目を閉じました。
昨夜のことを思い出したのは
その時でした。
バスティアン!
その名前を思い出したオデットが
ぱっと目を覚ましたのと同時に、
クスクス笑う声が聞こえて来ました。
夢でありますようにと
オデットは微かな願いを込めて、
いつも一人だった広いベッドの隣、
見慣れない体温と視線が感じられる方へ
ゆっくり首を回しました。
そしてしばらくして、
彼と目が合いました。
バスティアンは、
ベッドにゆったりともたれかかって
オデットを見下ろしていました。
彼の青い目を
ぼんやりと見つめているうちに、
次第に意識がはっきりとして来て
自分勝手に占有したベッドで
眠っている男を
しばらく見守っていた昨夜の記憶が
鮮明に浮かびました。
オデットは何度も躊躇った後、
バスティアンの隣に横になりました。
眠れなかったけれど、
寝返りを打つことができませんでした。
ひょっとして、
彼を起こしてしまうのではないかと
思ったからでした。
他の場所で別々に眠ることも
やはり賢明な選択ではないという事実は
すでにデメル家の別荘で迎えた夜明けが
証明してくれました。
そんな絶望の中で、
オデットが選ぶことができた道は
ただ一つ、耐えることだけでした。
それでも、いつになく
深くて安らかに眠れました。
理解しがたいことでした。
一歩遅れて、
自分が何を見ているのかに
気づいたオデットは
頬を赤らめて視線を避けました。
大きくて温かい手が
顔を包み込んだのはその時でした。
バスティアンはゆっくりと、
しかし断固とした手つきで
オデットの視線を自分に向けました。
見た目は演奏者のように
滑らかな手なのに、
手触りはとてもゴツゴツしていました。
硬い皮膚と
傷跡の感触のためのようでした。
しばらくして、
また目が合いました。
ようやく我に返ったオデットは、
まずは落ち着いて、
黙礼で朝の挨拶をしました。
バスティアンは、
ハハハと声を出して笑い、
乱れた髪をかき分けました。
平凡な新婚夫婦の朝のようにも見える
風景でした。
笑うのを止めたバスティアンは
「奥さん、準備はいいですか?」と
突拍子もない質問をしました。
オデットは思わず頷きました。
なぜか、
そうしなければならないような
気がしました。
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結果的に、ベルクとロビタが
戦争を起こすような大罪まで犯して
皇女と駆け落ちしたくせに、
その純愛を貫くどころかメイドと浮気し
その結果、生まれた子供を
ないがしろにして来たディセン公爵。
ティラのやったことは
許されることではないけれど、
これまでのティラへの仕打ちを考えたら
そうされても当然のことをして来たと
思います。
そもそもディセン公爵が、
ティラのお金を
取り上げようとさえしなければ
二人が階段の上で揉み合うことも
なかったはず。
全ての原因の発端は
ディセン公爵にあるのに、
ティラやオデット、甚だしくは
バスティアンまで恨むのはお門違い。
足は動かなかくなってしまったけれど
そのおかげで、
どうしても止めることができなかった
ギャンブルとお酒に依存する生活から
抜け出すことができたことを
喜ぶべきではないでしょうか。
ここで心を入れ替えて、
オデットやティラに苦労をかけたことを
謝罪し、
二人が幸せに暮らしていることを
喜んであげれば、
オデットやティラも、ディセン公爵に
優しくするようになると思います。
彼がないがしろにされているのは
全て自分のせいなのに、
娘の幸せの妬み、
腹を立てる自分勝手さに
本当に腹が立ちます。
ところで、Solche様は、
これ以外のお話の中でも、
登場人物の名前をフルネームで
お書きになられていますが、
ディセン公爵だけは、
ここまで名前が一度も出て来なくて、
ずっとディセン公爵のままなのです。
あまりにも酷い父親過ぎて、
Solche様が
名前も与えたくないと思っているのだと
勝手に思っています。
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