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137話 子供を助けたいなら、君も生きろとマティアスは言いました。
マティアスとカイルの間には
妙な秩序が形成されました。
レイラが意識を取り戻した時は
カイルが、
レイラが深い眠りに落ちた時は
マティアスがベッドのそばに
付き添いました。
意図したわけではありませんでしたが
自然に定着した規律でした。
数日の間に、レイラの熱は
徐々に下がっていきました。
最悪のケースとして想定していた
肺炎ではないということが分かり
軍医は、ようやく安心しました。
女性が死んだら、少佐は
軍医の命も奪うかもしれない
状況だったからでした。
軍医は、
疲れて眠っている女性の手を
握っている少佐に、
あとは患者の意志と体力だけだと
慎重に告げました。
そして、
できるだけ患者が、
心を落ち着かせられるようにすることが
重要だ。
怖がったり、不安にさせないように
してくださいと
命がけで付け加えました。
女性を生かすためには
必ず必要な助言なので、そうしてでも
伝えなければなりませんでした。
マティアスは何の返事もせずに
レイラの手を離して立ち上がりました。
ちょうど食事を持って来たカイルが
客室に入りました。
じっと互いを見つ合う二人の男の間で
軍医は、しきりに乾いた唾だけを
飲み込みました。
ヘルハルト公爵と主治医の息子。
そして公爵が奪った一人の女性の噂は
どうやら事実に近いようでした。
だからといって、
知らんぷりをするわけにもいかないので
なかなか困ったことでした。
幸い、静寂は、
それほど長く続きませんでした。
マティアスは退き、
カイルが後退しました。
そして、しばらくして
レイラが目を覚ましました。
彼を見たレイラの顔に、
ニッコリと笑みが広がりました。
レイラは、
再び、夢と現実を混同するかのように
幾何のノート持って来たかと
とんでもないことを呟きました。
そしてカイルは、喜んで
その夢の一部になってくれました。
カイルはもちろん持って来た。
そうすれば、君に
夕食をご馳走してもらえるからと
答えました。
レイラは、
それは、そういうことではないと
反論しました。
カイルは、
もう夕食を食べようと言いました。
レイラは、
まだビルおじさんが来ていないと
返事をしました。
カイルは、
おじさんは・・・
少し遅れると言っていたと伝えると
赤くなった目元を急いで擦った後
さらに明るい笑顔を見せました。
マティアスは、
ベッドから遠く離れた場所で
彼らを見守っていました。
レイラは無邪気な少女のように
笑いながら、
素直にカイルの言葉に従いました。
そしてカイルは、
適度に冷ましたお粥を
心を込めて食べさせました。
温かくて穏やかな光景でした。
しばらくその姿を見守っていた
マティアスは、
静かに背を向けました。
廊下に出ると、眩しい日差しが
彼の頭上に降り注ぎました。
乾いた唇の上に
苦笑いが浮かびました。

マティアスは、
夜が更けてから部屋に戻りました。
カイル・エトマンが去った部屋の中には
眠っているレイラだけが
残されていました。
熱が少しずつ下がると、
レイラの息遣いも
一層落ち着いて来ました。
そのおかげで、マティアスは、
さらに深まった静寂の中で、
とめどなく彼女を見つめました。
心地良い夢を見ているのか、
眠っている顔は穏やかでした。
何の夢かは分かりませんでしたが、
その夢の中に
彼がいないということだけは
確かでした。
繰り返し、
ごちゃごちゃした気分になるのが
嫌だったので、マティアスは、
バスルームへ向かいました。
いつもより長いシャワーを浴びて
出てくると、
レイラが目を覚ましていました。
じっと天井を見つめて
横になっている女は、まるで
無垢な子供のように見えました。
しばらく躊躇っていましたが
それでもマティアスは
レイラのそばに近づきました。
彼の気配を感じて、
首を回したレイラの顔に、
すぐに、予想した通りの感情、
漠然とした恐怖が浮び上がりました。
彼が布団を持ち上げると、
レイラは驚いて身を縮め、
「や、やめてください」と
抵抗しました。
しかし、マティアスは気にせず
パジャマを脱がせました。
マティアスが、
冷や汗で濡れているレイラの体を
拭いている間、彼女は
無意味な抵抗を続けました。
何の力もない腕を振り回し、
それが、何の役にも
立たないということに気づくと、
両手で自分の顔を覆いました。
軍病院には、
有能な看護将校もいるので、
レイラの世話をしてくれるような
女性を見つけられないわけでは
ありませんでした。
しかし、マティアスは、
そうしたくありませんでした。
それが女性であっても、
他の誰かがレイラを見たり
触るのが嫌でした。
ブルブル震えるやせた体を、
マティアスは、
丁寧に拭いてやりました。
膨らんだお腹に手が触れた時は、
しばらく、目が揺れました。
レイラがやせ細っていく中でも
子供は育ちました。
むしろ流産して、自分の母親を
治療できるようにしてほしいと
願いましたが、
子供は頑強に耐え抜きました。
気味が悪いくらいに執拗につきまとい
心身共に疲弊させているのを見ると
間違いなく彼の子供のようでした。
そして、彼を憎むレイラが
この子だけは、
自分の命をかけるほど愛している。
一瞬、湧き起こった
自分の子供への嫉妬心で、
マティアスは目の前が遠くなりました。
気が狂いそうなくらい
子供が羨ましくて憎い。
カイル・エトマンも、
すでに死んだビル・レマーも
そうでした。
それだけではなく、
レイラが愛した鳥と花、
草の葉一枚さえそうでした。
そのすべての下に置かれた
自分の境遇が情けなくて惨めでも
気持ちは止められませんでした。
全てを消し去ってしまおうか?
話にならないことを知りながらも、
そのような熱望を
抱いたりもしました。
その全てが消えて、
この世に何も残らなければ、
レイラが自分を愛することも
できるのではないかという期待が
マティアスを
そのように追い詰めました。
狂った考えでした。
でも本当にそうするかもしれないと
思いました。
それに気づいた瞬間、マティアスは
いつかは自分の愛が
レイラを死なせるという
もう一つの明確な真実を知りました。
しかし、これが彼の愛でした。
他に、この女を愛する方法を
彼は知りませんでした。一生、
分かりそうにありませんでした。
マティアスは、
乱れた呼吸を整えながら
改めてタオルを握りました。
新しいパジャマを着せた
レイラを寝かせて
布団をかけてあげる間、
彼の目つきは深淵の底に沈みました。
そして、額と頬にかかっている
レイラの髪の毛を撫でながら、
「寝なさい」と囁きました。
レイラは息を殺したまま頷いて、
すぐに目を閉じました。
眠っているようには
見えませんでした。
そうやってでも、
恐ろしくて嫌いな男から
ただ逃げたがっている。
それを知りながらも、
マティアスは、
レイラのそばを離れませんでした。
彼女を見ているのが好き。
そんな自分にうんざりするほど
好きでした。

目が覚めた時、レイラは
マティアスの腕の中に
抱かれていました。
おそらく朝の日差しなのか、
明るい光が眩しく感じられました。
意識がはっきりしてくると
記憶が一つ二つと蘇りました。
寝ている間に、
外に出たい。 退屈だ。
風に当たらせて欲しいと
駄々をこねていたようでした。
マティアスらしくなく、
彼は、かなり困った表情を
していたようでしたが、
それが現実かどうかは不明でした。
レイラは、開いた窓の向こうの空を
眺めていた目をマティアスの方へ
向けました。
彼はレイラを胸に抱いたまま、
窓際に置かれた椅子の奥深くに
もたれて座っていました。
海風のように柔らかい手で、
背中をゆっくりと
さすってくれていました。
レイラが
目が覚めたことに気づいたのか、
彼は「レイラ」と
名前を呼んでくれました。
そして、遠くの空を見つめていた
視線を落として、
レイラを見つめました。
「レイラ」
マティアスは目を合わせながら、
もう一度歌うように囁きました。
舌をくすぐるように流れ出る
その名前は、
いつものように甘美でした。
マティアスは、
子どもは無事だそうた。
だから、自分は嬉しいと
言いました。
彼が命を奪おうとした子供のことを
話す彼の声は、
名前を呼んでくれた時と変わりなく
優しいものでした。
レイラは小さな希望を抱いて
マティアスに向き合いました。
そうよ。
まさか自分の子供を憎む
父親ではないはず。
切羽詰った状況で
判断が鈍ってしまい
あのような選択をしたけれど、
実は彼も・・・と考えていると
マティアスは、
その子がいてこそ、君を
また手に入れることができると
レイラの期待を見事に打ち砕く言葉を
さらに優しい声で伝えました。
そして、
でも、自分を憎んでいる君が、
自分の子供を愛するのを
見守らなければならないということに
腹が立つこともある。
自分は、
それに、とても耐えられそうにない。
君を捕える足枷となっている
その子が好きだけれど、
君がその子を愛していると思うと、
また、その子が嫌いになると
言いました。
レイラは当惑した気持ちで
彼を見ました。
あまりにも澄んだ日差しのせいか
笑うマティアスの顔が
非現実的に感じられました。
熱病が作った
幻影の中にいるのだろうか?
レイラはむしろ、
そうであることを望んでいました。
父親が自分の子供のことを
そんな風に言うことは
できないものだからでした。
マティアスは、
このままではいけないことは
分かっているけれど、
また君を閉じ込めておきたい。
子供を人質にして、
天に届くほど高い塔を築いてでも
君を手に入れられるなら
自分は何でもする。
そして、何も後悔しない。
それが君の人生を台無しにし、
大切なものを奪い、
甚だしくは自分の子供を
不幸にすることだとしても。
今も自分はそう思っている。
自分が君を病気にさせたことを
知っていて苦しいけれど、
それでも君を、このように
自分の胸に抱いているのが幸せだと
言いました。
レイラが息を殺すと、
マティアスの声に反応するように
活発に動いていた子供も
おとなしくなりました。
マティアスは、
自分は君にとって
永遠にこのような怪物だ。
そしていつかこの怪物が
君を死なせるだろう。
命を奪っても愛するだろう。
だから・・・と
ため息と共に言葉を濁した
マティアスは、
片手に巻きつけた金色の髪に
長い間、キスをしました。
彼は、自分が決して
この女の髪の毛一本たりとも
どうすることもできないということを
よく知っていました。
捜し出して命を奪う。
手に入れらないなら
命を奪ってでもという
狂おしい渇望から抜け出すと
誓った瞬間、すでに
自分の人生の支配者である
自分の女王の命を
奪うことができないことを
すでに悟りました。
マティアスは
怯えて震えているレイラを
あやすように
ゆっくりと顔を撫でました。
この女が、自分の心臓を
ズタズタに切り裂いても
喜んで笑って死んでいく愚か者が
まさに彼でした。
それでも、
彼の愛がレイラの命を奪う毒なら
彼の女王のためにマティアスが
できることは結局一つだけでした。
「レイラ」と呼んだマティアスは
握り締めていた金色の羽のような
髪の毛をそっと離し、その手で、
そっとレイラの頬を包み込みました。
相変わらず
とても愛らしい顔でした。
だからこそ、さらにマティアスは
話さなければなりませんでした。
今この瞬間が過ぎてしまったら、
決して言えない言葉だろうから。
マティアスはレイラに、
早く良くなって
自分の元から立ち去れと、
どうしても言えなかったその言葉を
虚しくなる程、簡単に口にしました。
そして、自分の人生に下された
死刑宣告のような言葉を告げながらも
マティアスは笑うことができました。
この女の全てを愛していたこと。
涙に暮れて、枯れ果てた姿さえも
そうだったことを、
マティアスは知っていました。
そんな執着の中で
皆が不幸になったとしても、
彼は自分が作ったその地獄さえ
愛するだろうし、 実は、
今もあまりにも切実に
それを望んでいました。
レイラと子供を握りしめて、
一緒にその地獄の中で
生きて行きたいと思いました。
それが彼で、
レイラを苦しみから逃れられない
状況にした怪物でした。
しかし、それと同時に彼は、
自分が一番愛した、
狂おしいほど欲しかった
まさにその女は、
鳥のように自由で美しい
レイラだったということを
知っていました。
雨の降る小屋に
一人で座って読み続けた、
あの人生の記録の中にいた
アルビスの少女のように。
マティアスは、
自分が君の空になれないのなら
手放してやると言いました。
レイラを手放しても、
この愛は、いつまでも
終わりを知らないだろう。
もしかしたら、永遠に終わらない
苦痛が続くだろう。
しかし、
それさえも愛するから、
耐えてみるから、
レイラ、愛する私のレイラ、
君はどうか・・・
マティアスは、
風のように穏やかな声で
「だから、行け」と命令しました。
レイラは現実感のない目で、
ただ、じっと彼を
見つめてばかりいました。
マティアスは、
君の空へ、ひらひら飛んで
自分から去れと言いました。
そして、自分の愛が、
君の命を奪う前にと
言えなかった代わりに
レイラの額に短いキスをしました。
レイラは、
これが幻影だと確信していたので、
だからこそ微笑むことができました。
お腹の子も、
再び風に揺れる花びらのように
踊り始めました。
美しい夢でした。
少し悲しい夢でもありました。
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記憶が定かではないので、
間違っていましたら、
申し訳ありませんが、
確かマティアスが父親を失くしたのは
12歳頃ではなかったかと思います。
そして、彼がレイラと初めて会った時
レイラは11歳。
若くして、
ヘルハルト公爵家の当主となり
祖母と母の期待に応えるべく、
道を逸れることなく、
決められた道を歩んできた
マティアスにとって、
アルビスの森を自由に駆け回る
キラキラ輝いた少女は
彼の自由への渇望を秘めた
存在だったのではないかと思います。
そして、美しく成長したレイラに
マティアスは恋をした。
そのレイラをマティアスは
欲しかったけれど、レイラは
マティアスと関われば関わるほど
以前の姿を失ってしまった。
マティアスは
彼女を手に入れたと思ったけれど
マティアスは本当のレイラを
手に入れてはいなかった。
今まで、マティアスは自分の力で、
できないことはなかったので
マティアスが見たかった
レイラの心からの笑顔を
自分が引き出せると信じていた。
けれども、レイラは
マティアスに笑顔を見せるどころか
悪態ばかりつき、
ようやく心を許してくれたと
思ったら、逃げてしまった。
苦労してレイラを見つけ出し、
逃げられないように監禁したら
ついには病気になり
死にかけてしまった。
ここまでレイラが酷い状態になる前に
マティアスが自分の間違いや
本当の気持ちに気づければ
良かったのですが、
彼の生まれ持った性格や気質、
子供の頃から染み着いている
貴族としての価値観を覆すには
長い時間が必要だったのかも
しれません。
カイルと一緒にレイラを看病するなんて
以前の彼からは
想像もできなかったことです。
しかも、カイルが
レイラに食事をさせているのを
黙って見ているなんて。
本当は、マティアスが
そうして
あげたかったのでしょうけれど
レイラが
自分を受け入れてくれないと思い
マティアスは耐えたのだと思います。
自分が恋したレイラに
戻って欲しくて、
ようやく、レイラを手放す気になった
マティアス。
でも、彼は、まだレイラに
「愛している」と告白していないです。
まだマティアスの心の中は
葛藤が渦を巻いているので
素直な気持ちを
伝えられるようになるためには
もう少し、
時間がかかるのかもしれません。
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