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51話 バスティアンに乗馬はできるかと聞かれたオデットは「たぶん」と答えました。
オデットは少し当惑した顔で
放牧地を眺めました。
十数頭の馬が白い柵で囲まれた
広い草地の上を
のんびりと歩いていました。
馬小屋が、この辺にあるのは
知っていましたが、
実際に来たのは初めてでした。
慌てて走って来た
馬小屋の作業員たちが
彼らを迎えました。
バスティアンが、
馬小屋の番人と話をしている間、
オデットはゆっくりと
放牧地を見物しました。
馬について、よく知らなかったけれど
ここにいる馬たちが全て、
優れた血統を
持っているということくらいは
難なく察することができました。
オデットは呆然としていましたが
バスティアンに名前を呼ばれて
我に返りました。
オデットが夫のそばに近づく間に、
馬小屋の番人が、
シューネという名の、
雪のように白い三歳の雌馬を
連れて来ました。
馬小屋の番人は、
非常に穏やかで賢い馬なので
扱いにくいことはないだろうと
簡単に説明した後、
バスティアンに手綱を渡しました。
バスティアンは、
どうしてもダメだと思ったら
言うように。
練習用のポニーを買ってやるからと
言いましたが、
オデットは首を横に振って
「いいえ」と返事をすると、
白い雌馬のそばに近づきました。
そして、
乗馬は子供の頃に身に着けた。
随分前のことなので、
実戦感覚は
かなり鈍っていると思うと
言いました。
バスティアンは、
最後に乗馬をしたのはいつかと
尋ねました。
オデットは、
おそらく六年くらい前だったと思うと
答えると、
馬小屋の番人が持ってきた籠から
取り出した角砂糖を
気兼ねなく馬に食べさせました。
馬を扱う手つきが、
かなり慣れているのを見ると、
基礎から教える手間をかける
必要はなさそうでした。
バスティアンは、
女性用の鞍はないけれど
大丈夫かと尋ねました。
オデットは、
以前も父の鞍を使っていた。
母親は嫌がっていたけれど、
自分はその方がずっと良かったと
答えると、
優しい笑みを浮かべながら
馬のたてがみを撫でました。
この女が誰なのか、
改めて実感させる姿でした。
たとえ罪人のようになって
亡命生活を送っていたとしても、
皇女は皇女でした。
持ち出した金品を売って
用意した資金は少なくなく、
外国にいる親戚たちも、喜んで
好意的な様子を示しました。
ディセン公爵の無駄な欲さえなければ
十分に安楽な人生を享受して
復権することもできたはず。
名門貴族の家の女主人、
あるいは外国王族の妃。
ディセン公爵が騒ぎ立てていた
娘の未来が、
現実になることもあり得ました。
無駄な考えを捨てたバスティアンは
それでは、
とりあえず乗ってみようと言って
目配せすると、馬小屋の番人が
足場を用意しました。
オデットは躊躇うことなく
馬に乗りました。
きちんとした
服装をしていないままでしたが、
身のこなしがとても軽やかで
機敏でした。
安定感のある姿勢も、特に
指摘する部分がありませんでした。
生まれつき運動神経が
優れているようでした。
バスティアンは妻を乗せた馬を引いて
ゆっくりと放牧地を歩きました。
しばらくは緊張した様子でしたが、
オデットは、
すぐに昔の記憶を取り戻しました。
馬もやはり、自分の背中に乗せた人が
嫌ではないようでした。
バスティアンは、その辺で退き、
状況を見守りました。
手綱を握ったオデットは慎重に馬を操り
広い放牧地を一周回りました。
再びバスティアンのそばに戻った頃には
はるかに自信がついていました。
徐々に速度を上げて行くオデットを
見守る馬小屋の労働者たちは
ポニーなんか
全然いらないのではないかと言って
目を丸くしました。
クスッと笑うことで
同意したバスティアンは
自分が好んで乗る黒褐色の馬を
連れて来るよう合図を送りました。
オデットが、
再び放牧地の入り口に戻った頃には
バスティアンも
馬の背中に乗っていました。
彼は、
このくらいで練習は十分だと
思うけれど、どうですか?と
尋ねました。
その言葉に、
オデットの目が丸くなりました。
サプライズプレゼントをもらった
子供のような表情でした。
バスティアンが顎で合図を送ると
待機中の労働者たちが
柵の門を開けました。
バスティアンはオデットに、
思いっきり走ってみてと勧めると
森へと伸びている道の向こうへ
視線を投げかけました。
そちらを見るオデットの瞳には
期待感と恐怖が共存していました。
バスティアンは、
大丈夫、自分が護衛すると、
淡々と付け加えると、オデットは
ようやく安堵の表情を浮かべました。
無防備な笑顔が清らかで
爽やかでした。
人生の全てを経験した老人のように
振る舞っていた時より、
はるかに好ましい姿でした。
手綱を引いて握ったオデットは、
大きく開いた門の向こうへ
馬を駆り立てました。
徐々にスピードを上げていき、
深い森へ入った頃からは
本格的な疾走を始めました。
どうして女性用の鞍を使うことに
気乗りしなかったのか
その理由が分かるような実力でした。
空高くそびえる高い木が並ぶ
森の道の上を
力強く走る馬の蹄の音が
響き始めました。
その気配に驚いた鳥たちが
バタバタと飛び立つと、
生い茂った葉の付いた木の枝が
波打ちました。
そのリズムに合わせて
揺れる日差しの影は、
オデットが毎晩、丹精込めて編む
レースの模様に似ていました。
バスティアンは、その風景を
一望できるほどの距離を保ちながら
オデットを追いました。
髪の毛を結んでいたリボンが
解けたのは、
風に乗って漂う海の匂いが
濃くなり始めた頃でした。
鳥のように舞い上がった白いリボンは
たちまち森の向こうへ
姿を消しました。
一歩遅れて、
その事実に気づいたオデットは
速度を落としながら
首を回しました。
仕方がないと言うように
笑ったオデットは、
再び前を向いて馬を駆り立てました。
曲がりくねった黒い髪と
白い服の強烈なコントラストが、
その瞬間の印象を、
さらに鮮明にしました。
見慣れないオデットを見る
バスティアンの目が
次第に細くなって行きました。
その間に、
森の終わりが近づいて来ました。
光に向かって走るオデットに
追いついたのは衝動的な選択でした。
並んで走り出した二頭の馬は、
同時に、眩しい日差しの中に
入りました。
白い砂浜に押し寄せる
穏やかな波の音と、
力強く疾走する馬の蹄の音が
一つに溶け合いました。
森と海の境界に沿って続く道を
一緒に走る間、
バスティアンの視線は
日差しのように輝く女に
留まっていました。

テオドラは慎重な手つきで
密封された手紙を開きました。
あまりにも悪筆である上、
綴りも滅茶苦茶でしたが、
そんなことは、いくらでも
理解することができました。
そのメイドが渡した手紙を
几帳面に読んだテオドラは
バスティアンらしくない
気まぐれだと言って空笑いしました。
ようやくバスティアンが
新しい邸宅に移って来た。
そして、これ見よがしに
妻と同じベッドを使い始めた。
要約すると、そういう内容でした。
彼らの愛情行為も
詳細に記録されていましたが、
一様に
呆れてものが言えませんでした。
期待とは異なる知らせでしたが
バスティアンの妻のそばに置いた
あの田舎者の能力は立証されました。
これくらいなら、
当分は役に立つはずでした。
細かく破った手紙を捨てたテオドラは
やはり、
あなたの推薦を受け入れて良かった。
姪っ子はかなり賢い。気に入ったと
優しい笑みを浮かべた顔で、
メイドの労を労いました。
並んで立っている別のメイドの顔色が
目に見えて暗くなりましたが、
気にしませんでした。
中年になった二人のメイドは、
実家の家門から一緒にやって来た
忠実なメイドたちでした。
古物商の娘を片付けるのに
大きな功績を立てたのも
やはり彼女たちでした。
これなら、
完全に自分の人間といっても
過言ではありませんでした。
彼らは主人の寵愛をめぐって
神経戦を繰り広げる犬猿の仲でしたが
そのおかげで、テオドラは
大きな利益を得ていました。
自分がより有能で
頼もしいということを立証するために
彼女たちは互いに競い合って
成果を挙げているからでした。
褒められたナンシーは
喜びで顔を上気させながら、
モリーは幼い頃から賢かった。
奥様のそばに置けば、
きっと大変役に立つと思うと
言いました。
意気消沈していたスーザンは、
すでに、あの家のメイドとして、
顔の知られた子供を、
どうして奥様のそばに置けるのかと
鋭く言い放ちました。
のんびりと、
その神経戦を眺めていたテオドラは
手を振りながら立ち上がると、
正式に採用しないからといって
必ずしも
自分の人ではないというわけではない。
他の方法を、
一度考えてみることにするといって
まずナンシーを安心させました。
そして、
どうやらディセン家の娘を
注視しなければならないようだけれど
今回もうまくやってくれますよね?と
スーザンを宥めることも
忘れませんでした。
二人のメイドが静かになると、
テオドラは窓際に近づいて
厚いカーテンを開けました。
海の向こうに建てられた
バスティアンの新しい邸宅が
見える所でした。
皇帝の歓心を買うための
芝居をしているとばかり
思っていたけれど、
まさか本気なのだろうか。
今まで彼女が見て知って来た
バスティアンは、決して
愛のために損をするような結婚をする
部類ではありませんでした。
いえ。そもそも愛が何なのか
知っているのかも疑問でした。
カール・イリスは、
自分たちが子供をダメにしたと言って
カンカンになって怒りましたが
それは過剰な非難でした。
あの子は、元々正常ではなく
あの幼い子の瞳が、
どれだけ鳥肌が立つほど
落ち着いていたことか。
バスティアンの目を見ていると、
まるで一筋の光も入らない
深い海の中に
沈んでいくような気がしました。
だから、あの過酷な年月を
耐え抜いたのだろう。
崖っぷちに追い込むたびに、
ますます強くなって行った
あの頃の少年のことが思い浮かぶと、
自然と身震いがしました。
夫は古物商が孫を連れて行ってくれて
幸いだと思いましたが、
テオドラの考えは違いました。
スキャンダルを覚悟してでも、
あの時、この邸宅の塀の中で
決着をつけるべきでした。
そうしていれば、
こんなひどい恥辱に耐える日は
来なかっただろうと思いました。
名誉を守ろうとして逃した獣の子が
猛獣として成長し、
自分の息の根を止めるために
口を開けて牙をむき出しにしたまま
帰って来たようなものでした。
もちろん猛獣といっても
獣はただの獣だけれど。
テオドラはナンシーに、
しばらくは用心して、
バスティアンの妻の目に留まることに
集中するよう姪にしっかり伝えろと
厳命を下しました。
それから、テオドラはブランデーを
グラスに、なみなみと注ぎ
再び椅子の奥深くに
身を埋めました。
そして、ひょっとしたら、あの子と
いい友達になれるかもしれないと
言うと、朗々と
アルコールの香りが漂う笑い声を
上げました。
ふとテオドラは、
また一口、酒を飲みながら
その密書の内容が全て事実であっても
悪くはないだろうと思いました。
愛に勝る足枷はないからでした。
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マンガでは、
それ程長く描かれていなかった
オデットとバスティアンの乗馬シーン。
もし、今までバスティアンが
オデットに恋をしていなくても、
今回は絶対に、
恋をしたのではないかと思います。
テオドラは、
バスティアンが元々正常ではない。
幼い頃の瞳が、鳥肌が立つほど
落ち着いていたと表現していますが、
テオドラがメイドの力を借りてまで
バスティアンの母親を
排除しようとしたことや、
それ以外の母親に対する酷い仕打ちを
バスティアンが見ていたとしたら、
彼は幼いながらも、
自分の身を守るために
むやみに感情を
露わにしてはいけないという、
防衛本能みたいなものが
芽生えていたのかもしれません。
父親に復讐するためだけに、
生きて来たバスティアンにとって
乗馬でさえ、何かを手に入れるための
手段だったのかもしれませんが、
眩しい光の中で
純粋に乗馬を楽しむオデットを見て、
自分も、そうしてみたい。
彼女と一緒に光の中に
入ってみたいという欲求が芽生えて、
彼女に追いついて
並走したのではないかと思いました。
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