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140話 ロビタの民兵隊に襲われたマティアスは、どうなったのでしょうか?
伝令として出発した一行を乗せた車は
予定より一日遅れた午後に
ようやく戻って来ました。
民兵隊との銃撃戦で大怪我をした兵士は
駐屯地からすぐの後方の軍病院に
搬送され、
比較的軽傷のもう一人は、
簡単な処置を受けた後、
シエンに戻りました。
戻って来たその負傷者が、まさに
マティアス・フォン・ヘルハルト
だということは、
参謀会議が終わった後に
明らかになりました。
彼は乱れたところ一つない姿で
後方の状況と、
皇太子の意向を伝えた後、
軍病院に向かいました。
遅れてその知らせを聞いたリエットが
病院に行った時は、
すでに全ての治療が終わった後でした。
自分の足で、
病院を歩いて出て来たマティアスに
出くわしたリエットは、
目を見開きながら、
「怪我をしたんだって?大丈夫?」
と尋ねました。
どう見ても、
あまりにも、きれいな姿でした。
間違った噂が伝わったのだろうか。
リエットが混乱に陥っている間に
マティアスは何の返事もすることなく
彼の横をすり抜けて行きました。
消毒薬の匂いが、
微かに漂って来ました。
どこを怪我したのか。
どうしたのか。
レイラ・ルウェリンのことは
どうなったのか。話して。
少し話してみてと、リエットは
休むことなく質問を投げかけましたが
マティアスは黙っていました。
上の空で数言短く答えた後、
ただ先を急ぐことが全てでした。
表情と姿勢、歩き方一つまで、
リエットが今まで見て来た通り、
これからも、そうである
完璧なヘルハルト公爵の姿
そのままでした。
耳が聞こえないのか?
少しは話せと声を掛けながら、
リエットは諦めずに
マティアスを追いかけました。
いつの間にか彼らは、並んで
ホテルの階段を上っていました。
レイラ・ルウェリンに狂って
自分の人生まで投げ出す勢いで
暴れ回ったのは、
いつのことだったか。
今になって、全てを諦めたように
医師の息子に、
それも自分の子供を妊娠している女を
返すなんて、
リエットは、
全く理解できませんでした。
終始、無視されていることに
リエットが、
そろそろイライラし始めた頃、
二人は、308号室の客室の前に
辿り着きました。
マティアスは沈んだ目で、
閉ざされた客室のドアを
眺めるだけでした。
今までとは全く違う態度でした。
今度ばかりは、
リエットも急き立てませんでした。
諦めと期待という
相反する二つの感情が
共存しているマティアスの顔は
奇妙でした。
一見すると、
表情というものがない顔でしたが
生涯、彼を見て来たリエットは
それを感じることができました。
頭のいかれたクソ野郎と
罵倒しようかと思った気持ちを変えて
リエットは唇を固く閉じました。
その間に、マティアスの固い手が
ドアノブを回しました。
ゆっくりとドアが開くと、
午後の日差しで満たされた
客室の風景が広がって見えました。
全てがきれいに整頓されていました。
この部屋に閉じ込められていた
女の痕跡までも。
マティアスは、
しばらくドアノブを握ったまま
その場に立ち尽くしていました。
部屋の中をゆっくりと
見回す目は穏やかでした。
しなやかに曲がった口の端に
少し笑みを浮かべた
マティアスの顔は、
日差しの気持ち良い午後の風景のように
穏やかにさえ見えました。
送り出して、立ち去った。
その事実を、淡々と
受け入れることができたためか、
レイラを失った春の時のような
執着と狂気は、
もはやマティアスの中に
残っていませんでした。
虚しかったけれど、
何とか耐えられはしました。
あえて、そこから抜け出そうと
努力する気も、
否定する気もありませんでした。
慣れなければならないことでした。
生きている間ずっと、
このような日々が続くのだから。
マティアスは、静かに敷居を跨いで
客室に入りました。
リエットは、
しつこく彼の後を追いかけて、
こんなことをするために、
あんな狂ったことをしたのか。
クロディーヌに
あのような侮辱と傷を与え、
戦場まで追いかけて来て
レイラを苦しめた結末が、
結局、これなのかと叫びましたが、
マティアスは、
何事もなかったように、
帽子とコートを脱ぎました。
こんな事なら、いっそ今からでも・・
と怒鳴りたい気持ちで
振り返ったリエットは、
言おうとしていたことを
すっかり忘れてしまいました。
おのずと悪口が流れ、
眉間にしわが寄りました。
マティアスが
軍服のジャケットを脱ぐと、
血まみれのシャツが現れました。
あの状態で、
髪の毛一本も乱れない姿を
維持していたなんて、
鳥肌が立つほどでした。
言葉に詰まったリエットが
目だけをパチパチさせている間、
マティアスは、
血のついたシャツも脱ぎました。
腰に巻かれた包帯にも、
まだ乾いていない血の跡が
鮮明に残っていました。
リエットは、
「銃創か?」と尋ねました。
マティアスは、かすれた声で
「かすった」と答えると、
その姿のまま、
ベッドに横たわりました。
リエットは、
さらにいくつかの悪口を呟きながら
彼のそばに近づくと、
この状態なら、
入院すべきではないかと勧めました。
マティアスは、
ここは戦場だと答えました。
戦時中、この程度の負傷では
入院も後方への移送も
不可能だということを知りながらも
リエットは、
こみ上げて来る感情を抑えきれずに
戦場なら銃で撃たれても
死なないのかと叫びました。
マティアスは、
ヘッドクッションに
斜めに寄りかかって横になったまま
そんな彼を見つめました。
リエットが、
「狂った野郎だ」という言葉を
何度も浴びせても、
マティアスは面白そうに、
クスクス笑うだけでした。
のんびりとした表情とは違って、
顔からは、濃い疲労感が
滲み出ていました。
マティアスはリエットに
休みたいと言いました。
彼の瞬きをする速度が
確実に遅くなりました。
かすれた声も、低く沈んでいました。
それも当然のことでした。
自分の女を他人の手に委ねて送り出し
こんな格好で、
平気なふりをしているなんて。
リエットは、
今この瞬間に思い浮かぶ
唯一の言葉である
「狂った野郎だ」という言葉を、
もう一度大きく吐き出しました。
クスクス笑っていたマティアスは
ゆっくりと持ち上げた腕を
顔の上に置いて
日差しを遮りました。
リエットが去って
完璧な静寂が訪れると、
マティアスは、すっと目を閉じました。
「暑いです。」
一緒に過ごした最後の夜、
小さく寝返りを打って
眠りから覚めたレイラが、
澄んだ目で彼を見ながら囁きました。
当然、ビル・レマー、
あるいはカイル・エトマンを
探すだろうと思っていた
マティアスは、少し途方に暮れて
彼女を見つめました。
暑い。息苦しい。
レイラは寝起きにぐずる子供のように
振る舞いながら、
布団を引きずり下ろしました。
彼女を止めたマティアスは、
バスルームへ行き、
冷たい水で濡らしたタオルを
持って来ました。
体温が下がり過ぎないように、
額の端だけ優しく拭く手は
熟練していました。
「外へ行きたい」
おしぼりを下ろした彼に向かって
レイラは、再び、
ぐずるように言いました。
ぼんやりとした目を見ると、
半分、眠っているようでした。
マティアスは、
ベッドのそばに置かれた椅子に座り
レイラがはがした布団を
再び掛けてやりました。
レイラは、
息苦しい。風に当たりに行きたいと
訴えましたが、マティアスは、
今はダメだと宥めるように
囁きながら、
レイラの額を覆っている髪の毛を
かき上げました。
なぜ?
唇にだけ笑みを浮かべながら
尋ねる、レイラの青白い顔は
夜明けの光のように澄んでいました。
マティアスは、
まだ外は寒くて暗いと、
レイラを宥めました。
しかし、彼女は、
それでも行く。
自分の好きなようにすると
反論しました。
そして半分閉じていた目を開けると
ほとんど囁きに近い小さな声で
苦しめなければならない。
憎いから、思う存分苦しめると
呟きました。
眠気に襲われ、力のない声で
脅してくる女を、マティアスは
しばらくじっと見守りました。
そして、レイラと共に過ごした、
あの平穏な偽りの日のように
プッと軽く笑いました。
彼のあっさりした返事に、
レイラは「苦しめてやる」と
言い返すと、
さらに目がぼんやりとしました。
マティアスは
「いくらでも」と返事をしました。
レイラは
「本当に?」と聞き返しました。
マティアスは「本当だ」と答えました。
レイラは、
それならばそうすると、
固く決意しましたが、彼女の目は
すでに半分閉じていました。
不明瞭な言葉を呟いていたレイラは
すぐに、すっと
深い眠りに落ちました。
果てしなく、その姿を眺めていた
マティアスは、
夜が明けて、温かい光が差し込む頃
レイラを抱いて
窓際に向かいました。
窓を少し開けると、
心地よくて涼しくて穏やかな海風が
中へ入って来ました。
マティアスは、
レイラを胸にギュッと抱いたまま、
椅子の奥深くにもたれて座り、
その日差しと風に当たりながら
ゆっくりと目を閉じました。
駄々をこねながら彼を見つめてくれた
その愛らしい女は、
レイラが目覚めた瞬間に消え、
そして、再び現実が訪れる。
軽蔑の眼差しと拒絶。
そして永遠に変わらない君の心。
マティアスは、
すやすや眠っているレイラの額の上に
笑みを浮かべた唇を下ろしました。
まるで輝かしい偽りの日々に
戻ったような気がしました。
だから、この瞬間で
止めなければならない。
あの親密で甘かった時間を
一緒に過ごした最後の記憶として
大切に残しておくために。
そうすることができて、
マティアスは満足しました。
それでいいことでした。
傾いた夕方の光が
長く差し込む頃になって、
ようやくマティアスは、
顔を覆っていた腕を下ろしました。
バラ色に染まった空を見る
彼の目つきは、
穏やかな夕方の風景のように
物静かでした。
送り出し、去って行った。
そして彼は取り残された。
それだけでした。

レイラに、
その贈り物の箱を渡した人は、
家にあった荷物を整理して
持って来てくれた兵士でした。
レイラが怪訝そうに見つめると、
彼はもじもじしながら、
台所にあった、
食料品の箱の横にある箱の中に
入っていた。
大切な物のように見えたと
説明しました。
ビルおじさんの遺品!
どうしても開けられなくて
そっぽを向いた、
その箱のことを思い出した
レイラは、
目を大きく見開きました。
レイラは感謝の言葉を伝えた後、
急いでそれを受け取りました。
荷物を部屋まで運んでくれた
兵士が帰ると、
レイラは再び一人になりました。
レイラは、
きれいなリボンが結ばれた箱を
手に持ったまま、
窓際に置かれた椅子に座りました。
彼が用意しておいた住まいは、
海辺に近い道の端に位置する
小さな木造住宅でした。
家主の家族が急いで避難したのか
ほとんどの家具が
そのまま残っていました。
どうしても気になって、
レイラは、
客用の寝室を使うことにしました。
ひっそり留まってから
離れたいと思いました。
去る。
まだ現実感が湧かないその言葉を
レイラは静かに繰り返しました。
リボンの端をいじる手に
徐々に力が入りました。
マティアスは、予定より一日遅れて
シエンに戻って来たらしい。
カイルが伝えた言葉は、それだけで、
レイラも、それ以上は
聞きませんでした。
もう全てが終わった。
信じられなかったけれど、
確かにそうでした。
彼が結婚していないという事実は
無意味で、
それは正しいことでした。
公爵に捕らわれて過ごした日々、
どうか彼から逃れられますようにと
祈った多くの日々が、
窓の向こうの平和な風景の上に
浮び上がりました。
あの熱烈な悲しみと苦痛、憎しみは
もう残っていませんでした。
結局、このように、
虚しく終わってしまったことが
少し滑稽でもありました。
看護将校が訪れることになっている
夕方の時間が近づくと、
レイラは、がらんとした道を
眺めるのを止めました。
そして衝動的に、膝に置かれた箱の
リボンを解きました。
震える手で開けてみた箱の中には
赤ちゃんの靴一足が入っていました。
全て知っていたんですね。
涙と笑いが同時に溢れ出ました。
ちょうど、
お前に話したいこともあるから、
ついでにパーティーでもやろうと
頭を撫でながら
おじさんが言った言葉が
ようやく理解できました。
こんなに可愛いプレゼントと一緒に
子供を歓迎しようとしたのでした。
ある日、突然、
郵便馬車に乗って現れた孤児の少女を
愛してくれたように、おじさんは、
その子の子供も、
喜んで愛してくれました。
レイラは濡れた目を
力を入れて拭った後、
立ち上がりました。
真っ白なベビーシューズは、
再び箱に詰めて、
荷物の奥深くに詰め込みました。
立派に生きて行く。
すべてが消え去り、
空虚だった胸の中に、
鮮やかな意志が蘇りました。
ビルおじさんと約束した。
おじさんが信じてくれれば
何でもできる。
立派な大人になって
全てうまくやり遂げる。
だから今度はレイラの番でした。
おじさんが信じてくれたので、
恩返しをしなければ
なりませんでした。
「行こう、赤ちゃん」
胎動する子供に向かって
レイラは誓うように言いました。
ビルおじさんは、
このように無気力に座り込んでいる
娘の姿を見たがらないと思いました。
公爵は約束を守る男でした。
残酷で卑劣でしたが、
彼がした約束だけは
必ず守ってくれました。
そんな彼を、
レイラは憎みながらも信頼しました。
レイラに対する彼の感情が
何一つ正常ではなかったように、
もしかしたら彼に対する
レイラの感情も
そうだったかもしれませんでした。
窓の外に夕日が沈み始めました。
レイラは、そのくらいで
カーテンを閉めました。

マティアスは、
レイラの住んでいる家が見える道で
思わず立ち止まりました。
いつもここでした。
一日に何度も、この道を
うろうろしていましたが、
決して、この線を越えることは
ありませんでした。
マティアスは、
彼女に会いたいけれど、
会ってはいけないことを
知っていました。
そうしてこそ、彼女を
送り出すことができました。
結局、こうなってしまった。
自分の姿が滑稽で自嘲しながらも
マティアスは、すぐに
背を向けることができませんでした。
相変わらず、この有様。
おそらく、
永遠に変わることはないだろうけれど
それでも、大丈夫だと思いました。
レイラが
豊かに暮らしていければいい。
遠くから、すれ違うように一度でも、
その姿を見ることができればと
思いました。
だから、このような人生にも、
彼は、よく耐えなければ
なりませんでした、
時々、レイラに、
ヘルハルト公爵の消息が
伝わるかもしれない。
その便りの中でさえ、彼は、
壊れてみすぼらしい姿に
なりたくありませんでした。
レイラの前に立つ瞬間毎の
気持ちがそうだったように。
初恋でした。
最後の恋でもありました。
もちろん、中身が空っぽの
殻のような人生でも
マティアスは、
うまく生き抜くつもりでした。
レイラが、
この世のどこかで生きている限り、
きっと、そうしました。
しかし、この人生で
再び誰かを愛し、
渇望する日が来ることは
なさそうでした。
残念なことは何もありませんでした。
レイラがいなかったら、
どうせ分からなかった感情でした。
レイラを失っても、その記憶は
一生彼のものとして残るのだから
それで十分でした。
その記憶の力だけで、
彼はこの人生を
生き抜くことができました。
だから、どうかこの傷が
永遠に癒えないようにと願った
マティアスは、
この辺で振り向きました。
ゆっくり歩く彼の背後で
コートの裾が揺れました。
彼女に会わずに背を向けることを
知りながらも、
彼は、毎日完璧な姿で
ここを訪れました。
もしかしたら、偶然レイラに
出くわすかもしれない。
どうせ嫌われるしかないのなら、
せめて素敵な男になりたいと
願いました。
レイラにとっては
無意味なことであっても、
マティアスは、
それを望んでいました。
最後まで捨てられない、
取るに足らない自尊心に失笑する頃
マティアスは広場に到着しました。
その瞬間、ベルク軍の雰囲気が
急変したことが分かりました。
これまで勝者の余裕の中で
休暇を楽しんでいた軍人たちが、
焦って動き回っていました。
眉を顰めたマティアスが
ホテルのロビーに入ると、
彼を発見した当番兵が
「少佐!」と呼びながら
夢中で走って来ました。
彼は、
エタールの大軍が、
シエン上陸作戦に加わったそうだ。
緊急会議が招集されたので、
全ての指揮官は出席するよう
命令が下されたと叫びました。
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マティアスという婚約者がいながらも
リエットはクロディーヌを愛して
彼女と一緒に逃げようとした。
けれども、クロディーヌは、
マティアスと結婚することに
こだわり続け、
リエットの忠告を聞かずに、
レイラを刺激して、
彼女を追い出すことに成功した。
けれども、結局、それは
マティアスが
クロディーヌとの結婚を止める
決定打となってしまった。
リエットはクロディーヌが
侮辱され傷ついたことが
無駄にならないように、
マティアスの恋が成就することを
願っていたのかもしれませんが
マティアスは
レイラを送り出してしまった。
リエットが、
やるせない気持ちになるのも
分かる気がしました。
ビルおじさんに、
再び泣かされました。
ビルおじさんは亡くなった後でも
レイラを立ち直らせてくれました。
ビルおじさんは、レイラにとって
最高の父親です。
レイラが孫を
抱かせてあげられなかったことは
本当に残念ですが、
ビルおじさんのレイラへの愛は、
彼女の子供へも
語り継がれていくでしょうし
レイラはおじさんが注いでくれた愛を
子供に注ぐと思います。
レイラに会いたくて、
一日に何度も、彼女の家のそばに
来ているのに、
レイラに会わずに帰るなんて
マティアスは、
本当に頑張っていると思います。
ようやく、彼も
レイラの幸せを考えられるように
なったのだと思います。
そして、マティアス同様、
レイラも、彼に対する感情が
正常ではなかったのではないかと
気づいたレイラ。
ようやく、二人の距離が
縮まりそうな予感がします。
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