![]()
53話 バスティアンはディセン公爵から来た手紙を燃やしてしまいました。
もう何度も同じ答えを聞いたことを
すっかり忘れてしまったかのように
本当に手紙が来ていないのかと
ディセン公爵は、
再び怒鳴りつけるように
質問しました。
公爵への手紙は一通もなかったと
介護士は、
努めて鬱憤を抑えながら、
もう一度、丁寧に返事をしました。
元々、目を覚ますや否や、
戯言を並べ立てる者でしたが、
最近になって、急にその状態が
深刻になりました。
精神科病棟に移さなければ
ならないのではないかと
真剣に心配するほどでした。
ディセン公爵は、
「そんなはずがない。
もう一度、下へ降りて、
きちんと確認してみろ。早く!」と
命令しました。
もう三回も行って来たことを
知っているはず。
昨日も、一昨日もそうだったと言う
患者を宥めようとする
介護士の声から、
隠すことのできない苛立ちが
滲み出ていました。
最高級の病院で療養中の貴族。
言葉は良いけれど、実際は
捨てられた病人に過ぎませんでした。
しばらくは、一度も姿を見せない娘を
罵ったりもしましたが、
程なくして、考えが変わりました。
とっくに父と縁を切って
逃げなかっただけでも、
公爵の娘は、
もう自分の役目を果たしたと
思いました。
ディセン公爵は
怒りに耐え切れずに震えながら、
彼女たちは、
あえてその事実を知っていても
自分を無視するのかと、
やけくそになって、
叫び声を上げました。
また始まった。
チッと舌打ちをした介護士は、
適当なタイミングを見計らって
病室を出るつもりで
そっと後ずさりしました。
いっそのこと、
早く大暴れしてくれれば、
鎮静剤を打って眠らせ、
今日一日、何とか乗り越えられると
思いました。
ディセン公爵は、
ティラの馬鹿が、そのように
頭を使えるはずがないので、
オデットが計画を立てたに違いない。
父親を始末して、自分たちだけで
幸せに暮らそうとしたんだ。
元々、
命を奪うつもりだったに違いない。
もう少し強く落ちていたら、
その場で息絶えていただろうと
戯言をぶつぶつ言っているうちに
突然、わっと泣き出しました。
驚いた介護士は、
ビクッとして立ち止まりました。
ディセン公爵は
あの野郎がオデットを台無しにした。
これは、全部あの卑劣な奴のせいだ。
何が英雄だ。 あいつは悪魔だ。
オデットと結婚するために
自分をこんな姿にした悪魔だと叫ぶと
駄目になった足を搔きむしって
叩き始めました。
このまま放っておいてはならないと
判断した介護士は、
呼び鈴を鳴らして
医療スタッフを呼び出しました。
しばらくして、
がっしりした体格の警備員を伴った
医師が入って来ました。
「放せ! これを置いて
すぐに私の娘を連れて来い!
オデットを連れて来い!
警備員に体を押さえつけられて、
身動きが取れなくなっても、
ディセン公爵は、
暴れるのを止めませんでした。
枯れ木のように痩せ細り、
不自由な体のどこから
あんな怪力が出てくるのか
分かりませんでした。
介護士は病室の隅に退いて、
その混乱した様子を見守りました。
ディセン公爵は、注射針を刺されて
意識を失うその瞬間まで
娘を探し続けました。
主に自分自身の状況を悲観していた
これまでとは、
全く違う様相の怒りでした。
まさか娘が父親を
あんな姿にしたとでも言うのか?
彼女はこの仕事を始めて以来、
初めて公爵の言葉について
真剣に考え込みました。
万が一でも事実なら、
それは明白な犯罪でした。
もちろん、半狂乱の人を、
むやみに信じてはいけませんが。
薬が効いたディセン公爵は
すぐに深い眠りに落ちました。
後片づけを終えた
医療スタッフが去ると、
病室はすぐに静まり返った。
毎日が戦争の、この仕事を
早く辞めるべきだ。
彼女は呆れながら、
めちゃくちゃになった病室を
片付けました。
毎日のように家具を壊しても、
翌日には、新しい物が届きました。
憎悪している婿のお金で
享受している贅沢でした。
それなのに婿と娘を
懲らしめることができずに
やきもきしているのを見ると、
本当に何かあるのだろうか。
疲れた体を引きずりながら
病室を出た頃、
再び、たちの悪い好奇心が、
そっと頭をもたげました。
交代することになっている
次の介護士が来るまで、
あと一時間ほど残っていましたが、
昼食の約束に遅れないためには
そろそろ出発しなければ
なりませんでした。
どうせ公爵は一日中眠っているのだから
少し早めに帰れない理由は
ありませんでした。
介護士は、トラムに乗って
都心に向かう間、
ずっと悩み続けましたが、
彼女が下すことができた結論は、
絶望と憂鬱に襲われた
患者特有の被害意識。
結局、それだけでした。
ディセン公爵は
時限爆弾のような患者でしたが、
それでも、これほどの報酬をもらえる
働き口を見つけることは
困難でした。
そのため、適当に目をつぶるのが
賢明なようでした。
やたらと、高貴な人の個人的なことに
巻き込まれても、
いいことはないからでした。
いつの間にか、
ラッツの中心街に入ったトラムが
止まりました。
つい雑念を消した彼女は、
さらに軽くなった気持ちで
電車から降りました。
「スーザン!」
停留所に立っている姉を見つけた
彼女の顔の上に、
明るい笑顔が浮かびました。

余計な心配をしてしまったようだと
トリエ伯爵夫人は
満面の微笑を浮かべながら
オデットを見つめました。
完璧でした。
アルデンの宝石と呼ばれる海岸の風景が
最も大きな役割を果たしましたが、
そこに適切な品格と品位を与えたのは
明らかに、この邸宅の女主人である
オデットでした。
海が見える庭園と調和が取れるように
飾り付けた昼食テーブルと、
季節に合った料理、
招待した客たちの地位と親交関係を
考慮した席順まで、文句一つない
素敵なパーティーでした。
たった一つの季節が過ぎる間に
全く別人になった。これなら、
立派な貴婦人と呼んでも、
問題ないだろうという、
照れ臭い誉め言葉が、
水面上を低空飛行するカモメの鳴き声と
混ざり合いました。
オデットは、
自分が何も知らなかったせいで
毎日、電話で
伯爵夫人を困らせたことを、
もう忘れてしまったようだと
言うと、静かな笑みを浮かべながら
白い砂浜を見回しました。
庭園での昼食会が終わると、
余興の時間が始まりました。
航海に出る紳士たちは
ヨットに乗って海へ出て、
残りの客たちは海岸に残りました。
水遊びと日光浴、あるいは散歩。
それぞれの好みに合わせて
余暇を楽しむ、
のんびりとした午後でした。
トリエ伯爵夫人は、
オデットが、わずかな助言で
これほどの成果を上げたのは、
称賛に値する才能だ。
やはり血は争えない。
さすが皇女の娘だ。
生まれつきのものだろうと
確信に満ちた口調で
オデットを褒めました。
本当に血統が全てを決めるなら、
半分は父親に
似ているのではないかと、
幻滅に満ちた疑問が
浮かび上がりましたが
オデットは、あえて反論しないことで
有難い老婦人の意思を尊重しました。
無駄に父親の話を持ち出して、
こんなに良い日を台無しにする必要は
ありませんでした。
まだ父親について考える心の準備が
できていない理由も大きかったし。
ティラのために父親を捨てました。
オデットは、あの日の選択を
後悔していませんでしたが、
だからといって、
胸の奥にある罪悪感と負債感さえ
消し去ることはできませんでした。
もしかしたら、それは
一生、背負わなければならない
心の借金。オデットの地獄でした。
半分空けたシャンパンのグラスを
下ろしたトリエ伯爵夫人は、
オデットに
同年代の人たちと
付き合って来るように。
くすんだ年寄りの話し相手になるには
もったいない日だと言って
舌打ちしました。
白い日よけの下に用意された
このティーテーブルに残っているのは
ほとんどが年配の客でした。
花のように美しい若い淑女が
留まるのに値する席では
ありませんでした。
白い砂浜の風景を眺めたオデットは、
自分はここが好きだと言って
小さく首を横に振りました。
もう一人の若年寄りが現れたのは、
トリエ伯爵夫人が文句を言おうとして
口を開いた瞬間でした。
トリエ伯爵夫人は、
このままでは、娘が一生、
一人で歩くことを学ばないようだと
眉を顰めながら言うと
娘を抱いているマクシミンを
見上げました。
マクシミンは、
まだ赤ちゃんなので、
もう少し大目に見て欲しいと頼むと
平然とした笑みを浮かべながら、
空いているオデットの隣の席に
座りました。
不満そうな顔をしながらも、
トリエ伯爵夫人は
その辺で引き下がりました。
マクシミンが妻をどれほど大切にし、
愛していたか。
そして、 行き場を失った愛情を
全て娘に注いでいることを、
よく知っていたからでした。
オデットと、
短く目で挨拶を交わしたマクシミンは
ゆっくり庭園を見て回って来たけれど
庭の造りが本当に素晴らしかったと
適切な話題を提供しました。
オデットは、
ジェンダス卿の助言のおかげだ。
遅れたけれど、もう一度
感謝の気持ちを伝えたいと
お礼を言いました。
マクシミンは、
自分はただ勧めただけだ。
正解を見つけたのは
クラウヴィッツ夫人だと
謙遜しました。
礼儀正しい空世辞を交わす二人を見る
トリエ伯爵夫人の目つきが
鋭くなりました。
オデットとマクシミンは、
まるで兄妹のように
似ているところがありました。
特に、その静かで優雅な雰囲気が
そうでした。
よく見ると、性格と関心事も
似ているようでした。
ああいう男と結ばれていたら
どんなに良かったことか。
ふと残念な気持ちになりましたが、
トリエ伯爵夫人は、
急いで、その無駄な考えを
打ち消しました。
扇子を広げたトリエ伯爵夫人は
「あそこを見て。
あなたのご主人が戻って来ている」と
言って、海を指差しました。
ジェンダス伯爵の娘と遊んでいた
オデットは、ゆっくり首を回して、
その方向を見つめました。
眩しく輝いている水の間を、
一隻のヨットが航行していました。
K
見慣れた金色の頭文字が刻まれた
バスティアンの船でした。

普通の家族だと思っていました。
幼い子供を連れた若い夫婦。
今日の招待客の中には、
そのようなタイプの人々が
少なくなかったからでした。
その程度の判断を下したバスティアンは
海岸の日よけに向かって
大きな一歩を踏み出しました。
一緒に下船した将校たちも
その後に続きました。
もう、それぞれの家族と過ごして
しばらく休んだ後、
邸宅に移動するのに良い時間と
なっていました。
ディナーとパーティーの最後を飾る
花火大会。
残りのスケジュールは、
それで全てでした。
それもまた完璧なものになるだろうと
バスティアンは確信していました。
妻に対する信頼から生まれた
自信でした。
オデットが
有能な女主人であることは、
もはや、
疑う余地がありませんでした。
春までは、蔑視と同情の対象に
過ぎなかった女が、
まるでそれが
当然の道理であるかのように、
一生を高貴に生きてきた女王のように
わずか数ヶ月で
社交界の花として咲きました。
自分のお金で執り行った戴冠式を
バスティアンは、
かなり気に入っていました。
世の中が出してくれなければ
彼が作ればいい。
眩しい王冠を被って黄金の王座に上り、
君臨できるように、いくらでも。
ここにいると思っていた
オデットの姿が見えないのを
怪訝に思った瞬間、
「バスティアン」と馴染みのある声が
聞こえて来ました。
バスティアンは、肩越しに
視線を投げかけました。
彼は、何気なく、
先程、チラッと見た家族を
見つめました。
子供を胸に抱いた女が
席を立ちました。
並んで座っていた男も一緒でした。
オデットとマクシミン。
夫婦だと思っていた
彼らの正体に気づいた
バスティアンの口元が
斜めに傾きました。
「航海は楽しかったかですか?」と
先にマクシミンが口を開きました。
彼らの方へ向きを変えたバスティアンは
不必要な感情を消した顔で
彼らに近づきました。
形式的な挨拶を交わしている中でも、
五感の全てが、他人の子供を
大切に抱いているオデットに
集中していました。
その微妙な対峙状況は、
マクシミンが急いで
娘を受け入れることで終わりました。
バスティアンが、
取り戻した妻の腰を抱きしめると、
「お母様!」と
伯爵の娘がわっと泣き出しました。
そのとんでもない呼び方に驚いた
マクシミンとオデットの顔が
赤く燃え上がりました。
テーブルを囲んで座っている
客たちの反応も同じでした。
しかし、
その事情を知るはずもない子供は、
さらに悲しそうに泣きながら、
「お母様!」と
オデットを呼びました。
何度も、
白い砂浜がザーザー鳴るほど激しく。
![]()
![]()
やはり、オデットは
ティラがディセン公爵を
階段から突き飛ばしたことを
隠すことなく、
ティラと一緒に警察へ行って
自首すべきだったと思います。
あれは、ディセン公爵が
ティラのお金を奪おうとしたことが
きっかけで起こったことですし、
普段から二人の間で争いがあったことと
ディセン公爵の
情けなくて、だらしない言動を
同じアパートに住んでいる人は
知っていたでしょうから、
情状酌量の余地があったと思います。
しかし、今のディセン公爵は、
あの事件が、
ティラが衝動的に起こしたことではなく
オデットとティラが計画的に行い、
それにバスティアンまで手を貸したと
邪推している。しかも、
それを聞いている人がいるという
非常に不利な状況に
追い込まれています。
オデットは、大きなミスを犯したと
思います。
トリエ伯爵夫人も、そう思ったくらい
はたから見るとお似合いな
オデットとマクシミン。
バスティアンの目にも、
幼い子連れの若い夫婦に映った
オデットとマクシミン。
バスティアンの嫉妬の炎が、
メラメラと燃え上がりそうです。
![]()