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54話 ジェンダス伯爵の娘はオデットのことを「お母さま」と呼びました。
トリエ伯爵夫人は、
母親がとても恋しいのだろうと
適当な言葉で、
気まずくなった雰囲気を収拾しました。
戦々恐々として顔色を窺っていた
別の夫人も、その意見に同意し、
母親と一緒にいる
他の子供たちが羨ましくて
そのように言ったのだろう。
オデットが、とてもアルマを
可愛がっているからと
口を挟みました。
その間、なかなか泣き止まない娘を
抱いたマクシミンは
席を外しました。
砂浜の向こうへ遠ざかっていく間も
アルマは大声で「お母さま!」と
オデットを呼びました。
トリエ伯爵夫人は、
子供の過ちなので、
どうか大目に見て欲しいと
バスティアンに頼みました。
かなり不愉快かもしれない
状況でしたが、幸いバスティアンは
大丈夫だと返事をして、
爽やかな笑顔を見せてくれました。
ところが、
ようやく状況を収拾した矢先に
デメル提督が、
子供が勘違いをするのも無理はない。
亡くなったマクシミンの妻は
オデットによく似ているからと
言い出しました。
トリエ伯爵夫人は鋭い目つきで
彼を睨みつけました。
失言したという事実さえ
気づいていない気楽な顔を見ると
頭が再びズキズキし始めました。
デメル提督は、
本当にそうではないか。
背はオデットの方が
はるかに高いけれど、
見た目は姉妹のように似ている。
アルマが勘違いをするのも無理はないと
やっとの思いで消した火に
再び油を注ぎ、
デメル提督は豪快に笑いました。
自分では、大きな助けになったと
信じ込んでいる様子でした。
続けて、デメル提督は、
そういえば、
アルマは母親にそっくりだ。
なぜか、オデットと
実の母娘のように見えると
思ったら・・・と言い出しましたが
驚愕したデメル侯爵夫人が
急いで立ち上がり、
「さあ、これをどうぞ」と言って
ケーキの皿を差し出しました。
デメル提督は、
不意に現れたケーキの皿を見て
訳が分からない顔をしていましたが
それでも、
素直にフォークを握りました。
彼が呑気に
フルーツケーキを食べ始めると
トリエ伯爵夫人は、
ようやく一息つきました。
トリエ伯爵夫人は、
二人も、早く
子供を持つようにしましょうと
余計なお節介を焼くことで
人々の注意を引きました。
娘を宥めるマクシミンを
見守っていたバスティアンは、
ようやく視線を逸らしました。
トリエ伯爵夫人は、
他人の子供も、あんなに愛するなら、
自分の子供は
どれだけ愛することか。
そうではないかと、
オデットに尋ねました。
要領よく
状況を整えてくれたのだから、
適当に同調すればいいのに、
なぜかオデットは
気軽に答えられませんでした。
いつもと違って
恥ずかしがっているのだろうか?
オデットが戸惑い始めた頃、
意外にも、
様子を窺っていた古物商の孫が
オデットは、きっと子供を愛する
立派な母親になるだろうと言うと
親密な手つきで
硬直しているオデットの背中を
撫でました。
そして「自分は母親に似た娘が
欲しいけれど、あなたは?」と
尋ねると、力を入れてオデットの肩を
そっと掴みました。
ジェンダス伯爵の娘は、
ようやく泣き止みました。
庭から飛んで来た一羽の白い蝶が、
騒ぎが収まった日よけの下を
のんびりと飛んでいました。
冷たい水で唇を潤したオデットは、
自分はどちらでも構わないと思うと、
落ち着いて返事をしました。
まだ体が硬直していましたが、
艶やかな赤い唇の上に浮かんだ笑みは
非の打ち所もなく滑らかでした。
客たちは、
クラウヴィッツ夫妻の第一子について
先を争って、自分たちの意見を
出し始めました。
男の子だろう。 いえ、女の子だ。
どちらに、どのように似れば
いいだろうか。
そのような、虚しい熱弁が続く間
バスティアンの視線は、一時も
オデットを離れませんでした。
息子。
一度も念頭に置いたことのない
存在でした。
あえて意味づけするなら、
結婚という選択に伴う
可能性の高い付加要素程度。
運が良ければ、
立派な後継者を得るだろうけれど
そうならなくても、実は
特に関係ありませんでした。
目標を達成すればそれだけ十分。
それを引き継ぐのは、
彼の関心事ではありませんでした。
ただ、一つ確かなことは、
オデットの体から生まれる子供を
見ることはないということでした。
揉め事の種は作らないのが最善。
それを成し遂げることができず、
頭を悩ませた父の人生が
証明している教訓でした。
もしいつか子供ができたら、
その子供の母親は
サンドリンになるはずでした。
それが当然だということを
バスティアンはよく知っていました。
乳母に子供を預けて来たマクシミンは
アルマが大きな過ちを犯した。
本当に申し訳ないと、
バスティアンとオデットに、
もう一度丁寧に謝りました。
バスティアンは
彼の顔をまっすぐ見据えて
笑いながら、
気にしないように。大丈夫だと
返事をしました。
これが、まさに、
皆が望む答えだということも
バスティアンはよく知っていました。

雷鳴のように騒がしい騒音が
夜の海の平穏を揺るがし始めました。
ジェフ・クラウヴィッツは、
これ以上、この騒ぎを
無視することができなくなり、
寝室のバルコニーに出ました。
湾の向こう側に建っている邸宅の上に
華やかな花火が上がっていました。
ようやく、
あの忌まわしいパーティーが
幕を下ろそうとしているようでした。
なぜ、わざわざ、
あれを見ているのかと、
背後から、神経質な声が
聞こえて来ました。
ちょうど寝室に入って来た
テオドラでした。
どうも、よく見ておかなければ
ならないような気がするからと、
笑い混じりの返事をした瞬間にも、
ジェフ・クラウヴィッツの視線は
花火大会の真っ最中の夜空に
釘付けになっていました。
地面がへこみそうなくらい
深いため息をつきながらも、
テオドラはバルコニーに出て
彼の隣に並びました。
彼女は、
あの子は、今頃浮かれているだろう。
自分たちに向かって
砲弾を撃ち込むのを待っているような
気分だろうからと言いました。
ジェフは、
いっそのこと、そうして欲しいと
返事をしました。
テオドラは、
どういう意味かと尋ねました。
ジェフは、
そういう人間らしい感情を
持っているのなら、
むしろ相手をするのが
ずっと楽だと思うからと答えると、
深い疑念に満ちた失笑を浮かべながら
手すりの前にもう一歩近づきました。
もっと力を付ける前に
排除しなければならなかった。
ジェフは、バスティアンが
爪を剥き出しにした日から今まで
その方法を探すために
必死になって来ました。
しかし、バスティアンが
水面下で準備して来たことを
知れば知るほど、
さらに途方に暮れるばかりでした。
到底信じられない成果がもたらす
劣敗感のためでした。
ようやく見つけ出した情報を元に
バスティアンの歩みを
追ってはいるものの、
思ったほど簡単に
形勢を逆転できるとは
思えませんでした。
優に何年かは、さらに
このようなおかしな格好で
生きなければならないかも
知れませんでした。
ジェフは、
もしバスティアンが
復讐を決意していたなら、
自分のものを奪おうとするだろうと
思っていた。
でも、まさか
こんな風にするとは思わなかったと
テオドラに話すと、
首を横に振りました。
その間に、
新しい花火が打ち上げられました。
バスティアンは、
彼らが持っているものに
何の興味もありませんでした。
全てを粉々に砕く勢いで
襲いかかる態度が
それを証明していました。
子供は捨てるべきでは
なかったのだろうか。
バスティアンの目的に気づいた日、
ジェフ・クラウヴィッツは、
思わず、何の役にも立たない
後悔をしました。
柔弱極まりない
フランツのことを考えると、
悔恨がさらに深まりました。
バスティアンは
あなたの息子でしょう?
どうか、こんなことはしないで。
臨月の身でありながら、
跪いて懇願したソフィアの記憶が、
夜空を彩る花火の上に
浮かび上がりました。
やはり、あの女だけを処理した後に
子供を引き取るのが正しかった。
いや、実はソフィアに
危害を加えたい気持ちもなかった。
危機に瀕した家門を守るために
後ろ指を差されている
高利貸しの娘と結婚しました。
ジェフ・クラウヴィッツは
イリスのお金が
必要だったからでした。
しかし、愛が全くなかったわけでは
ありませんでした。
自分を心から愛してくれる
優しくて美しい妻。
この世のどんな男が、そんな女を
拒むことができるだろうか。
一時は、この女とこのように
一生を共にするのも悪くないと
考えたりもしました。
もし、
テオドラと出会わなかったなら
そうなっていたかも
しれませんでした。
少なくとも、
素直に離婚に応じてくれれば、
あのような最期を迎えることは
ありませんでした。
お腹の中の子供と一緒に
息を引き取った妻の姿が思い浮かぶと
思わず身震いがしました。
不快な血と羊水の匂いが、
鼻先でグルグル回っているような
気がしました。
確かに。あの混乱の中でも
泣かなかった子でした。
半開きのドアの後ろに隠れていた
幼いバスティアンと目が合った瞬間を
彼はまだ生々しく覚えていました。
子供は静かな目で
彼をじっと見つめるだけでした。
まるで子供らしくないその姿が、
なぜか、ぞっとして
気持ち悪いと思いました。
テオドラは、バスティアンが
まともな子ではないと
断言しました。
しばらくは半信半疑でしたが、
結局、その意見に
同調するようになりました。
フランツが、
なんと貴族の母親の血を引いた
完璧な息子が生まれたからでした。
新しい後継者のために、
バスティアンは、必然的に
まともでない子供にならなければ
なりませんでした。
顔を歪めたテオドラが、
そんな弱音を吐かないで。
こういう時こそ、
心を強く持たなければならないと
言って、
彼の手をギュッと握りました。
ジェフ・クラウヴィッツは
分かっていると返事をすると
諦めたように頷きました。
今さら後悔したところで、
時を戻す方法はありませんした。
それなら残る方法は一つ。
どんな手を使ってでも、
自分が間違っていなかったことを
証明するしかありませんでした。
混乱した心を整理しながら
振り向くと
ノックの音が聞こえて来ました。
「奥様、スーザンです」
確か、今朝、休暇を取った
テオドラのメイドでした。

連続して打ち上げられた
色とりどりの花火が
夜空を彩りました。
公式行事で見られるような、
盛大な規模の花火でした。
オデットは胸いっぱいの喜びと
ときめきがこもった目で、
その光の祭りを眺めました。
空を照らす海にも
花火が上がっているようでした。
美し過ぎて非現実的な光景でした。
これくらいなら、
パーティーが成功したと
言えるのではないか。
慎重な期待感が生まれたのは、
近づいて来たバスティアンの気配を
感じた瞬間でした。
バスティアンは、テラスの端にいる
オデットの隣に並んで立って
花火を見ました。
当然のように手をつなぎ、
しっかり、指を絡めたままでした。
オデットは、そっと首を回して
バスティアンの横顔を見つめました。
恩着せがましくしたかったわけでは
ありませんでした。
約束した期間中は、
クラウヴィッツ夫人の役目を
うまく果たすのが彼女の義務なので
当然、すべきことをしたのに
功をてらうのは、どうも滑稽でした。
けれども、
ますます鮮明になって行く熱気が
密着した手と手の間に流れました。
今日のために、最善を尽くして、
準備をして来た日々の記憶も
一緒でした。
それでも.
自分でも理解しがたい気持ちが
炎のように燃え上がった頃、
バスティアンが首を傾げました。
じっとオデットを見下ろす目つきが
涼しくて穏やかでした。
不倫はどうですか?
謎めいた質問に慌てたオデットが
呆然としている間に、最後の花火が
空高く舞い上がりました。
あなたが心配していた
私たちの離婚理由です。
妻の不倫ぐらいなら
適当だと思うけれど。
金色の滝のような炎が
アルデン湾の上に降り注ぎました。
その煌びやかな明かりの下で、
バスティアンは愛を囁くように、
優しい声で
オデットの心を踏みにじりました。
信じられませんが、
確かにそうでした。
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ジェフ・クラウヴィッツが
妻のソフィアを愛していたというのに
驚きましたが、それにもかかわらず
貴族の出自のテオドラに
愛されるようになると、
自分の野望のために、
臨月の妻の命を奪うなんて、
あまりにもひどすぎます。
その理由は分かりませんが、
こんな男とテオドラが
罪に問われることなく、
平然と、のさばっているなんて、
許せません。
それでも、ジェフは、
少し罪悪感があるようですが、
テオドラには、爪の垢ほどの
罪悪感もないと思います。
こんな二人に天罰が下ることを
切に願っています。
一方のバスティアン。
離婚の理由を
妻の不倫にしようと提案するなんて
あまりにもひどすぎます。
自分の経歴には傷をつけずに、
オデットの経歴にだけ
傷をつけようという
魂胆なのでしょうか。
しかも、義務とはいえ、
彼のためにオデットは、
パーティーを成功させようと
必死で頑張り、その成果が報われて
喜んでいる最中に、
そんなことを言うなんて、
良心の欠片もないのでしょうか。
オデットの心が踏みにじられるのも
当然です。
この父にして、この子ありだと
思いました。
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