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145話 マティアスはどうなったのでしょうか?
新年前夜
朝に配達された新聞は、
お昼頃を過ぎても
開いていない状態で
テーブルの上に置かれていました。
その周りをウロウロしていたレイラは
今回も、どうしても手を伸ばせなくて
背を向けました。
お腹の中の子供に、
あれこれ優しい言葉をかけ、
牛乳を一杯温めました。
わけもなくカーテンを
もう少し開けてみたり、
もう少し閉めたりして、
すでに十分な薪を、
いくつか投げ入れたりもしました。
その後、レイラは、
ようやく新聞を広げる勇気を
出すことができました。
幸いなことに、彼の写真は
掲載されていませんでした。
まずはその事実に安堵すると、
小刻みに震える手で、一枚ずつ
新聞をめくっていきました。
戦死者名簿が載っている
紙面が現れた時は、
思わず息を殺して目を閉じました。
リンドマン侯爵の
戦死の知らせに接した後、
レイラは、
新聞がさらに怖くなりました。
しかし、
確かめざるを得ませんでした。
部隊に復帰する前、リエットは
「ではまた、ルウェリンさん。
いえ。 もう公爵夫人と
呼ばなければならないか」と
とてもあっけなく挨拶しました。
そして、
次に会う時は
赤ちゃんが生まれているだろうから
赤ちゃんを見に行く。
見せてくれるかと尋ねました。
レイラが「はい」と答えると
リエットはレイラにお礼を言った後
申し訳なく思っていると
告げました。
なぜ、侯爵様がと、
レイラが理解できなくて首を傾げると
彼はクスッと笑いました。
片方の口角を軽く上げる微笑は
一見マティアスに似ていました。
リエットは、
ただ、あれこれ、
ルウェリンさんにした悪いこと。
クロディーヌの過ちまで
全て申し訳ないと謝りました。
なぜ彼がそれを代わりに謝るのか、
レイラは理解できませんでしたが、
長い会話をするだけの時間は
彼らに残っていませんでした。
リエットは、
数歩離れた後に、振り返って、
赤ちゃんが
母親にそっくりであることを
祈っている。
息子なら特にと叫びました。
そして、
これは、自分から甥っ子への
プレゼントだと思っていると、
茶目っ気たっぷりの少年のような
笑いと共に投げかけた
その冗談を最後に、
彼は去って行きました。
そして今、その姿は
レイラに残されたリンドマン侯爵の
最後の記憶となりました。
レイラは外したメガネを
テーブルの端に置くと、
濡れた両目が痛くなるほど
強く擦って拭きました。
拳を握った手は
氷のように冷たいものでした。
ようやく確認できるようになった
戦死者名簿に、
レイラが知っている名前は
載っていませんでした。
安堵のため息が漏れましたが、
不安そうにドキドキする胸は
なかなか落ち着きませんでした。
それが嫌でレイラは散歩に出ました。
住宅街を通り抜けて
博物館がある通りの先の公園まで
ゆっくり歩いて行きました。
臨月に入ると動きが鈍くなり、
わずかな距離を歩くのにも
かなり長い時間がかかりました。
ショーウィンドーに映った
自分の姿を見たレイラは、
「お母さんを見て。
よちよち歩く姿が、まるで
ペンギンのようじゃない?」と
緊張が解けた笑いを噴き出しました。
「あなたはお腹の中にいるので、
見えないのね。けれども、
もうすぐ見られるようになるわ。
ああ、その時はお母さんが
ペンギンじゃないわ。」
考えてみると、
おかしな言葉だったので、
レイラは、
もう一度、軽く笑いました。
苦しい息を整えたレイラは、
氷の上を歩くペンギンのように
慎重に、再び道を歩きました。
戦時中とはいえ、
一年の最後の日の街は、
いつもより賑やかな雰囲気が
漂っていました。
愛し合う恋人と家族の顔には
戦争さえも遮ることのできない
年末年始特有の浮かれた雰囲気が
滲み出ていました。
憂鬱な気分になる前に、レイラは
自分たちも、今夜は
美味しいものを食べましょうかと
急いで子供に話しかけました。
「あなたは、どんなものが
好きになるのかな?
お母さんが好きなもの?
それともお父さんが好きなもの?」
お腹を撫でて軽く叩いてみても、
子どもは動いてくれませんでした。
少し寂しい気がして、レイラは
訳もなく地面を蹴りながら
歩きました。
「そういえば、お母さんは、
お父さんが何が好きなのか
よく分からない。
一度、聞いておけば良かった。」
不満そうな独り言が
白い息となって散らばりました。
実は、気になることが
たくさんあったので、
帰って来たら全部聞いてみると
誓うように呟きながら
足を速めました。
そうは言っても、この街で
一番ゆっくり歩く人だろうけれど。
レイラが、
ちょうど博物館前の通りを通る頃
号外を配る少年たちが現れました。
「号外!」という叫び声が
街に漂っていた
慎ましやかな祭りの雰囲気を
一瞬にして凍りつかせました。
戦時中の号外は、
概して悲報に近いということを、
今や皆がよく知っているためでした。
レイラは、
お腹が少し張るような感じがして
足を止めました。
胸がドキドキする音が
異常に大きく聞こえて来ました。
じっと立っているのに、
しきりに息が切れて、
手袋をはめた手が
冷たく固まっていました。
そのためレイラは、渡された号外を
うっかり落としてしまいました。
拾わなければならないのに、
指先一つ
動かすことができませんでした。
何気なく視線を落とした
新聞の第一面に、レイラは、
あまりにも見慣れた一人の顔を
見ました。
信じられない見出しも一緒でした。
マティアス・フォン・ヘルハルト公爵
南部戦線の要衝地の防衛戦で戦死
ゆっくりと
閉じていた目を開ける度に、
長い睫毛の影が、
赤くなった目頭の上で
チラチラしました。
急襲する如く訪れたニュースは
非現実的でした。
戦死。その単語の意味が
よく思い出せませんでした。
そんなことあり得ない。
約束したのだから戻って来るはず。
それなのに、戦死だなんて。
どうして。
ぽつんと立っているレイラのそばに
中年の婦人が近づき、
「手伝いましょうか?」と
声を掛けると、
親切にも、落ちた号外を拾って
レイラの手に握らせた後、
再び遠ざかって行きました。
しかし、間もなく、その新聞は
再び地面に落ちました。
レイラも一緒でした。
苦しそうな息の間から
呻き声が漏れました。
レイラは転んだ体を
起こそうとしましたが、
お腹がとても痛くて
うまくいきませんでした。
見たくないのに、
焦点が定まらずぼんやりとした目は
落ちた新聞の上だけを
彷徨っていました。
写真の中の彼の顔を撫でるレイラの手は
血の気がなく固まったまま
ブルブル震えていました。
先程の婦人が振り返り、
「なんてこと!大丈夫?」と
驚愕して叫びました。
レイラに駆け寄る彼女の方へ
周りを通りかかっていた
通行人の視線が集中しました。
大きくなったお腹を抱えたまま
息を切らしているレイラの様子を
見た彼女は慌てて、
周囲の人に助けを求め、
病院に運ばなければならない。
赤ちゃんが生まれそうだ。早くと
叫びました。

「嘘!私は信じません。
信じられません!」
エリーゼ・フォン・ヘルハルトの
鋭い悲鳴が、静けさに包まれていた
華麗な応接室を揺るがしました。
マティアスの戦死の知らせを聞いて
慌てて集まった
ヘルハルト一家の視線が
一斉に彼女に集中しました。
その気持ちは分かるけれど、
冷静に現実を・・・と
エリーゼは言われましたが
彼女は、
自分の息子は死んでいない。
そんなはずがないと
優雅に結い上げた髪が乱れる程
激しく頭を振って反論すると
パッと立ち上がって老婦人の前に近づき
どうか違うと言って欲しい。
こんなことはあり得ないと
訴えました。
すすり泣きながら懇願する嫁を見る
カタリナ・フォン・ヘルハルトの目元も
再び赤くなりました。
夫を失い、息子を失い、今度は孫まで。
あまりにも長く生き過ぎたせいで
このように残酷な悲しみを
経験することになってしまったのか!
その深い悔恨が
カタリナの胸を引き裂きました。
握り締めていたハンカチで
涙を拭った彼女は、
受け入れるしかないと
毅然として告げました。
そして、
マティアスの名誉のためにも
そうしなければならないことを、
あなたも、
よく知っているではないかと
エリーゼを諭しました。
しかし、冷徹な言葉とは違い、
老婦人の声は、
涙に濡れて震えていました。
恨めしそうに睨みつけ、
憐れに思いながら
すすり泣いているうちに、
ついにエリーゼは
ふらふらと倒れてしまいました。
そのせいで、アルビスでは、
ひとしきり、
もう一度、騒ぎが起きました。
主人一家の世話をするだけではなく
客の接待まで加わり、
全ての使用人が慌ただしく
動かなければなりませんでした。
彼らを統率するヘッセンは、
夜が更けてから、ようやく
執事室の机の前に
座ることができました。
そして、必死に抑えて来た悲しみが
こみ上げて来た頃、ある侍従が、
弁護士のスタフさんからの電話だ。
急いで執事を探していると、
思いがけない知らせを伝えました。
ヘルハルト家の内部の仕事を
引き受けているスタフ弁護士は
公爵の意を受けて、
レイラのラッツ定住を助けた
人物でした。
その隠密な共謀者が、
このような深夜に連絡をして来た理由を
推測するのは
それほど難しいことでは
ありませんでした。
ヘッセンは急いで駆けつけ、
彼の電話に出ました。
スタフ弁護士は、
ルウェリンさんが
今病院にいるそうだ。
陣痛が始まったようだけれど
すでに、
かなりの時間が経っているようだと
伝えました。
突然の言葉に、
ヘッセンは目を見開きました。
彼は、
予定より早いのではないかと
尋ねました。
スタフ弁護士は、
そうではあるけれど、どうやら
公爵の戦死の知らせに接したショックで
そうなったようだ。
自分もたった今連絡を受けた。
出かける前に、連絡をしたと
返事をしました。
ヘッセンはスタフにお礼を言うと、
自分も自身の役割を
全うしたいと思うと告げました。
ヘッセンは震える手で
受話器を置きました。
父の戦死の知らせが
帝国中に伝わった日に、
子供が生まれるだなんて。
彼は、熱くなった目頭を隠すように
そっと目を閉じました。
このことを、
明らかにすべきだろうか?
生まれる子供が息子なら、
唯一の後継者になるかもしれない。
まもなく後継者問題で
大きな混乱と争いに巻き込まれる
ヘルハルト家を考えるなら、
明らかにするのが
正しいことでした。
しかし、公爵は
それを望みませんでした。
彼は全てのことを
レイラ・ルウェリンの選択に任せ
尊重すると言いました。
そして、
もうこの世にいないとしても、
マティアス・フォン・ヘルハルトは
依然として彼の主人でした。
ヘッセンは唇を固く閉じたまま
暗い廊下に出ました。

子供は大晦日に生まれました。
一年の終わりと
新年の始まりを告げる鐘が鳴る時間を
目前に控えた深夜、
非情に大きな泣き声で
自分の存在を証明しました。
看護師は、
真っ白なおくるみに包まれた赤ん坊を
屈することなく、
一人で出産の苦痛に耐え抜いた
母親の胸に抱かせました。
半ば意識を失っていた
レイラの青白い顔の上に、
胸いっぱいの喜びと恐怖が
同時に浮かび上がりました。
不器用そうに
子供を受け取って抱くレイラに、
看護師は、
赤ちゃんは元気だ。
少し小さいけれど、
健康に何の問題もないと
笑いながら話しました。
レイラは心配そうに
本当にそうなのかと尋ねました。
お腹の中にいる時から
とても苦労して来た子である上に
予定より早く生まれたので、
レイラは途方に暮れていました。
相次ぐ心配で混乱し、
唇がブルブル震えました。
看護師は
「もちろんです」と返事をすると
母親が、少し楽に
子供を抱くことができるように
姿勢を直してやった後、
一歩下がりました。
レイラは、
ようやく慎重に視線を落とし、
胸に抱かれた子供を見つめました。
黒い髪の毛をそっと撫でると、
子供が小さな体を
もぞもぞさせました。
濃い髪の色と対照的なせいか
肌がより白く見えました。
しばらく、
ぼんやりとしていたレイラは、
微かな笑みを浮かべながら
子供の頬を撫でてみました。
信じられないほど柔らかい感触に
目頭が熱くなる頃、
微かに鐘の音が聞こえて来ました。
顔を歪めていた子供が
そっと目を開けたのは
その時でした。
それほど長くない時間でしたが、
レイラは確かに、
真っ青な美しい瞳を見ました。
どっとあふれた涙が
笑みを浮かべている唇を
濡らしました。
新年を告げる鐘の音の中で、
レイラは泣いたり笑ったりを
繰り返しました。
赤ちゃんがとても可愛いので
どうか、見に来て欲しいと
願いました。
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リエットがレイラに付き添って
後方部隊に行ったことを
もしもクロディーヌが知ったら、
リエットが死んだのはレイラのせいだと
思い、彼女への憎しみを
募らせるかもしれません。
だから、クロディーヌには、
このことを絶対に知って欲しくないし
全ての恨みや憎しみを忘れて
新しい人生を送って欲しいです。
マティアスは出征する前に、
自分が戦死した時のために、
後継者について、
あらかじめ決めておいたけれど、
実際に、そうなってしまうと
ヘルハルト家の財産や事業に
群がって来る
ハイエナがいるのでしょうね。
そんなことに、レイラの子供が
巻き込まれてしまったら、
大変なことになるのは
目に見えて明らか。
だから、マティアスはレイラを
ラッツに移す相談をする際、
ヘッセンに
レイラの選択を尊重するよう、
頼んだのだと思います。
死んでもマティアスは
自分の主人だと考えている
ヘッセンは、きっと
口を閉ざしたままなのでは
ないかと思います。
ヘッセンの忠誠心に感動しました。
子供がお腹の中で大変な目に遭ったのは
食べることを拒否したレイラにも
責任があると、
文句の一つでも言いたいところですが
今後、そのような無茶をしないで、
ビルおじさんから受けた愛を
子供に注ぎながら
育てて欲しいと思います。
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