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147話 マティアスの死亡の報が伝わっていましたが・・・
まだ厳重に管理されている
国境ゲートが開かれました。
特別な検問手続きなしに
国境を越えた車は、
ベルクへと続く道路を
走り始めました。
戦争の砲火が届かなかった
ベルクの領土に入ると、 風景は、
嘘のように平穏になりました。
まるで何事もなかったかのように、
ただ時間が経って、季節が
移り変わっただけのようでした。
マティアスは、
窓の外を流れるその緑の風景を
静かな眼差して見つめていました。
長い道のりを走った車が
ラッツに到着する頃まで、
彼は、ずっと黙ったままでした。
城壁が崩れ落ちる最中に意識を失い
再び目を覚ました時、
彼はロビタの軍病院に
横たわっていました。
ひどい痛みが、
自分がまだ生きていることを
骨の髄まで感じさせてくれました。
生きている。
だからレイラの元へ戻る。
その恍惚とした事実は、
鎮痛剤より、はるかに大きな慰めと
なってくれました。
その喜びのせいで、マティアスは
苦痛の中でもがきながらも、
度々、笑いました。
やがて軍医たちの打った注射が効いて
眠りにつくと、
レイラの夢を見ました。
美しい夢でした。
痛みは徐々に和らぎましたが、
その後も、マティアスは
かなり長い間、
病床に伏せったままでした。
自由に動けるようになったのは、
すでに春の花が
咲き乱れる季節でした。
自分の消息が、
ベルクにどのように伝えられたのか
見当がつかなかったわけでは
ありませんでした。
戦時中でも、両国が敵対していても
自分の生存を知らせる方法が
全くないわけではないという事実も
やはり知っていました。
それにもかかわらずマティアスは
傍観することを選びました。
そして、この世にいない人として
二つの季節を過ごしました。
レイラを彼のそばに、
一片の影もない場所に置くための
基盤を固める時間だと思えば、
それほど耐え難いことでは
ありませんでした。
もちろん、酷いことでした。
自分が死んだと思って
悲しんでいるはずのレイラと
家族のことを考えると、
確かにそうでした。
しかし、レイラに関する
全てがそうであるように、彼は
その選択も後悔しませんでした。
今もそうだし、永遠にそうでした。
博物館の前の大通りに入ると、
運転手は、
「もうすぐ着きます、ご主人様」と
胸が詰まりそうな声で告げました。
彼と随行員の目が
赤くなっているのに対し、
マティアスの表情は
淡々としていました。
軽く頷いた彼は、
すでに完璧な身なりを整えた後、
姿勢を正しました。
彼は、さらに深まった眼差しで、
大通りの先にある住宅街を
見ましたが、その時間は
それほど長くありませんでした。
まだ。
彼には、まず、
仕上げなければならない
いくつかの仕事が残っていました。
そんなに長い時間が
かかるようなことでは
ありませんでした。
ラッツにあるヘルハルト邸が
見えて来ました。
マティアスの唇に
うっすらと笑みが浮かんだ頃、
車はラッツのヘルハルト邸のある
道に入りました。

エリーゼ・フォン・ヘルハルトは
最後まで疑いを捨てることが
できませんでした。
このようなことに
間違いがあるはずがないということを
分かっていましたが、
気軽に信じるには、
あまりにも恐ろしいことでした。
すでにその死を受け入れ、
葬儀を執り行うための遺体が
戻ってくることだけを
待っていた息子。
そのマティアスが
生きて帰ってくるなんて!
万が一、嘘だったら、
彼女はとても耐える自信が
ありませんでした。
だから、外部に対して、
このことは、徹底的に
秘密にしておきました。
両目ではっきり確認するまでは
何も信じられませんでした。
慌てて応接室に入って来た
ヘッセンが、
今、車が到着したと報告しました。
二人の婦人は、不安と焦燥、
そして、溢れんばかりの期待感が
入り混じった目で、
互いに見つめ合いました。
その間、使用人たちがざわめき、
続いて、コツコツ歩いて来る
規則的な足音が聞こえ始めました。
息を殺したまま
応接室のドアを凝視する
エリーゼ・フォン・ヘルハルトの
目に、すでに熱い涙が
たくさん溜まっていました。
老婦人も同様でした。
この気配はマティアス以外の
誰のものでもあり得ないことを
彼女たちは、よく知っていました。
そして、しばらくして、
ゆっくりと開いたドアの向こうから
信じ難い奇跡が現れました。
どちらが先かも分からないまま
泣き出した二人に向かって、
マティアスは、
ゆっくりと近づきました。
カーペットの中央辺りで、
真っ直ぐな姿勢で立ち止まった
彼の上に、窓から差し込んだ
正方形の光が降り注ぎました。
出征の挨拶を残して去った
あの日のように、
マティアスは落ち着いて丁寧に
「ただいま、おばあ様、
そして、お母様」と
帰還の挨拶をしました。

レイラは毛布と弁当を用意することで
ピクニックの準備を終えました。
つばの広い麦わら帽子をかぶり、
顎の下で、
リボンをしっかり結びました。
斜めがけした革のバッグは、
詰め込んだもので、
はちきれそうなくらい、
パンパンになっていました。
子供をさっと抱いて家を出る
レイラの背中で、一つに編んだ髪が
軽快に揺れました。
狭い母親のお腹の中に留まるために
思う存分大きくなれなかった
悔しさを晴らすかのように、
子供は早く成長しました。
レイラの調べたところ、
同年代の子供たちの平均より
身長が高いのは確実でした。
父親のように大きく育つのが
どれほど嬉しかったか
分かりませんでした。
だんだん抱き抱えるのが
大変になって来てはいましたが。
レイラは、
赤ちゃんを乗せたベビーカーを
上手に押して、公園に向かって
歩いて行きました。
明るいけれど、
それほど熱くない光が差し、
さわやかな風が吹く、
典型的なベルクの夏の日でした。
今日は特に気分がいいのか、
子供は一層浮かれて、
お喋りをしていました。
相づちを打つように
「わぁー」と感嘆してくれたり
キャッキャッと笑って、
可愛らしい手足を
ばたつかせたりもしました。
彼も赤ちゃんの時は
こうだったのだろうか。
レイラは真剣に考えてみましたが
このように、おとなしくて明るい
マティアス・フォン・ヘルハルトは
たとえ赤ちゃんだとしても
全く想像がつきませんでした。
もしかしたら、あの男は
フェリックスの年齢の時も
多分に品格のある
赤ちゃんだったのかもしれない。
つまらない考えに
クスクスと笑いが漏れる頃、
レイラは公園に辿り着きました。
週末の公園は、
大勢の人で賑わっていました。
子供連れの若い夫婦たちを見る
澄んだ瞳が、しばらく揺れましたが
レイラは、
すぐに笑みを取り戻しました。
レイラが笑うと
フェリックスも笑ってくれました。
それで十分でした。
カバンを掛け直したレイラは
子供と一緒に好んで訪れる、
静かで美しい森のある方向へ
ベビーカーを向けました。
公園の中心部にある
噴水台の前を通る道の露店で、
レイラは、
色とりどりの風船を買いました。
ベビーカーに
その風船を縛ってあげると、
フェリックスの青い目が
丸く大きくなりました。
レイラにとって青い光は
もはや悲しみの色では
ありませんでした。
今や、この世で一番愛する
幸せの色でした。
子供がパッと目を開けた
その瞬間から、そうでした。
いいえ。
彼と向かい合って横になり、
互いの目を深く静かに見つめながら
初めて一緒に朝を迎えた、
あの日かも。
もしかすると、それよりもっと前。
記憶にない、ある瞬間からだったかも
知れませんでした。
風船を追いかけて
首を横に振っていた子供と
目が合うと、レイラは
風船が本当にきれいでしょう?
と言って、
さらに明るい笑みを浮かべました。
歌うようにアバババと呟きながら
子供も楽しそうに笑ってくれました。
穏やかな風に揺れる風船を付けた
ベビーカーは、すぐに公園の奥の
静かな森に入りました。
母親と子供の笑い声が
その道沿いを、ゆっくり流れました。

奇跡のように生きて帰って来た
ヘルハルト家の傑作は、
以前と少しも変わらない姿でした。
まさにその姿で、
マティアス・フォン・ヘルハルトは
ここにレイラがいると
決して言ってはならない言葉を
口にしました。
その口調が、
あまりにも淡々としていたので、
エリーゼ・フォン・ヘルハルトは
しばらく自分の耳を疑いました。
少し前まで、マティアスは、
戦線で負傷して治療を受けた後、
このように送還されるまでの経緯を
報告するように
落ち着いて話していました。
そして、大きな心配をかけたこと、
被害を与えたこと、
適切な責務を
果たせなかったことについても
謝罪しました。
死の淵から戻って来ても、
依然として
マティアスらしいその姿に驚く一方で
安心したりもしていたところだったのに
レイラだなんて!
彼女は気軽に言葉を続けられず、
慌てて老婦人を見ました。
二人が心を落ち着けることができず
当惑した眼差しだけを
交わしている間に、
マティアスは、抑揚のない声で
自分の子供もいると、低い声で
次の言葉を続けました。
ようやく正気に返った二人は、
「何てことでしょう」と
抑えつけられた呻き声のような
嘆声を同時に漏らしました。
エリーゼは、
ソファーのひじ掛けに手を突き、
辛うじて、ふらつく体を支えました。
老婦人は、
背中と首をまっすぐに伸ばして
座った姿勢のまま
固まってしまいました。
とっくに二人の関係について
察していたとしても、
子供の存在は予想外でした。
そして「結婚します」という
驚愕の宣言も、マティアスは、
これまで続けて来た淡々とした話の
延長線上にあるかのように、
落ち着いて口にしました。
エリーゼは悲鳴を上げるように
「マティアス!」と叫びました。
深いため息をついた老婦人は、
結局、疲れて崩れ落ちた体を
椅子の背にもたせかけました。
エリーゼは、
私生児は・・・軽い問題ではないけれど
この種のことを解決する他の方法も
いくらでもあると言いました。
老婦人も、
ズキズキする頭を抱えながら
エリーゼの言う通りだ。
ブラント家との婚約が
破談になったせいで、
そう思うなら、他の立派な令嬢と
またいくらでも・・・と
言葉を濁しながら
眉間にしわを寄せました。
どう考えても不思議だったことが
ふと理解できました。
その意志さえあれば、
いくらでもロビタの親戚と
連絡を取ることができたはずの
マティアスが、
なぜ手をこまねいて、敵国の病院に
自分を放置したのか。
ヘルハルト公爵の戦死の知らせが
ベルク中に広がることを傍観した
代価として、
マティアスが得た利益は
一体何だったのか。
同じことを考えていたのか、
エリーゼも呆れた顔で彼女を見ました。
マティアスは、
二人にとって、
受け入れ難いことであるのは
知っていると言いました。
二人の疑いと叱責の視線の前でも、
マティアスは、
レイラ・ルウェリンとの関係が
露見するのを覚悟したかのように
振舞っていたあの頃のように
マティアスは超然としていました。
マティアスは、
世の中は変わりつつある。
ますます速く、多くのことが
変わって行くと思うけれど、
実は変わらなくても構わないと
言いました。
彼の態度からは、
相手を説得しようとする
いかなる意志も
感じられませんでした。
単に、決めたことを
報告しているだけに過ぎないように
見えました。
マティアスは、
本当に受け入れ難いことなら、
自分の意見を押し通すことで、
ヘルハルトの名前に迷惑はかけないと
言いました。
ようやく声を出せるようになった
エリーゼは、
それはどういう意味かと
鋭く聞き返しました。
マティアスは、
フォン・ヘルハルトの名の下で
生きて行かないと答えました。
エリーゼは
「マティアス!」と叫びました。
彼は、
マティアス・フォン・ヘルハルト公爵の
名は、今のように
帝国のために華々しく戦死した
名誉ある貴族のものとして残して
去ると言いました。
少しも変わったところがない姿で
帰って来た息子を見て
喜んでいた気持ちは
跡形もなく消えてしまいました。
世界がどのように変わっているか
知らないけれど、
戦争が彼女の息子を
完全に変えたという事実だけは
確実に分かりました。
そして今、マティアスは、
子どもじみた脅迫なんかを
しているわけではないということも。
完璧な後継者になることを決意し、
その人生を完璧に生き抜いた
彼女の息子は、これからは
他の何かに
なりたがっているようでした。
だから、どんな手を使ってでも
必ず、その人生を生き抜いてみせると
決意していることが分かりました。
死んだとばかり思っていた息子が
生きて帰って来た。
そして今、彼女たちの前には、
再び、その子を失うか、あるいは、
このとんでもない通告を受け入れるかの
二つの選択肢がありました。
マティアスは、
自分の決定は変わらないと告げると、
静かな眼差しで二人を見つめました。
互いに見つめて合っていた
ヘルハルト家の二人の夫人は、
誰が先だということもなく、
失笑しました。
依然として、
何の動揺も見せない顔で、マティアスは
今、二人で決めるように。
自分は、その選択に従うことにすると
丁重に告げました。
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戦争がマティアスを
変えたわけではなく、
マティアスを変える
きっかけになったのではないかと
思います。
マティアスは、
平和で安全だけれど、
変化がなく面白味に欠けた
ヘルハルト家という
籠の中で暮らしていた。
ところがある日、籠の外の世界に
今まで見たことがないレイラという
キラキラ輝く存在を見つけた。
マティアスは、
レイラをカナリアのように手懐けて
自分のいる籠の中に入れようとした。
けれども、レイラは頑として、
同じ籠の中に入ろうとせず、
とうとう、
マティアスの手の届かない所へ
逃げてしまった。
レイラを失ったマティアスは、
彼女を追いかけるのではなく、
彼女を籠の中へ連れ戻そうとした。
けれども、
なかなかレイラは見つからない。
マティアスの喪失感は募るばかり。
それでも、マティアスは
ヘルハルト家という籠の中から
抜け出すことができず、
クロディーヌとの婚約も継続中。
そこへ、レイラが
ロビタにいるという知らせが届いた。
マティアスは喜んだけれど、
どのような理由でロビタへ行くか
最初は悩んだのではないかと
思います。
しかし、折しも、ベルクとロビタが
戦争を始めた。
そのおかげで、マティアスが
ロビタに行く正当な理由ができた。
とうとう、マティアスは、
ヘルハルト家という籠の中から
抜け出した。
けれども、
マティアスの心を縛り付けている
籠からは抜け出せなくて、
レイラを監禁した。
しかし、
彼女が死にかけているのを見て
ようやくマティアスは、レイラが
籠の中では生きられないことに気づき
彼女を自由に
羽ばたかせることにした。
自由になったレイラは、
マティアスへの
本当の気持ちに気づき
それを打ち明けた。
マティアスは、
嘘偽りのないレイラの愛を
手に入れるために、
どうすればいいか、
ようやく気づくことができ、
マティアスの心を
縛り付けていた籠からも
解放されたのではないかと
思います。
このような考えに至るまで
皆様のコメントが
とても参考になりました。
いつも、たくさんのコメントを
本当にありがとうございます。
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