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56話 バスティアンはまだ帰って来ていません。
父親は鍛冶屋だったけれど
事故で大怪我をし、最近は
病床に伏せっている。
休むことなく続いたメイドのお喋りは
いつの間にか、家族の話にまで
及んでいました。
オデットは化粧台の前の鏡越しに
髪を梳かしているモリーを
一瞥しました。
目が合うと、モリーは「へへ」と
恥ずかしそうに笑いました。
ペチャクチャお喋りをして
気さくな性格は、
ティラにとても似ていました。
そういえば、年も同じだったっけ。
色々な面で妹を思い出させるメイドを
じっと見つめていたオデットは、
唇を優しく曲げて見せることで
話を真剣に聞いていると意思を
伝えました。
気分が高揚したモリーは、
さらに熱い口調で
自分の家族史を語り始めました。
父と娘の仲が格別だったのか、
話の多くは、
不幸な事故に遭って、
障害を負った父親に対する
心配と憐憫でした。
ブラッシングが
ほとんど終わった頃、モリーは
奥様もご病気のお父様のことが
心配ではないかと、
唐突に尋ねて来ました。
ドレスの手入れをしていたメイド長は
「モリー!」と
厳しい怒鳴り声を上げましたが、
モリーは簡単には退きませんでした。
彼女は、
オデットが結婚して以来、
一度も父親の見舞いに行っていないので
どれだけ心を痛めていることかと
同情し、涙を浮かべた目で
鏡の中のオデットを見つめました。
お父様
その名前が思い出させた悪夢が
突然、心を掻きむしりましたが、
オデットは、
それを表に出しませんでした。
ただ、微かに微笑みながら、
モリーが自分の仕事を終えるのを
待ちました。
ミスを犯した幼いメイドに示す
最善の配慮でした。
人と人の間には
適正な距離が必要でした。
それは階級や職務とは関係なく
人間同士の関係を守ってくれる
緩衝地帯のようなものでした。
理解と尊重は、
その間隙を土台にして
育まれて行くものでした。
モリーを追い出した後、
戻って来たメイド長は、
モリーは賢くて
しっかりしているけれど
どうも、まだ礼儀に欠けている。
大きな過ちを犯して申し訳ないと
オデットに謝罪しました。
オデットは、
自分を気遣おうとして
言ってくれたのだろうから
大丈夫だと、笑い混じりの言葉で
小さな騒ぎを終わらせました。
気が利くメイド長は、
これ以上、そのことに言及せず、
業務に復帰しました。
ドーラが、
ドレスの手入れを仕上げている間
オデットは、自分の使い慣れた方法で
ドレッサーを整理しました。
今夜は、いつもよりゆっくりと
日課を終えることができました。
背後で不快な視線を送っている
男の不在のおかげでした。
ドレッサーの後ろに近づいたドーラは
おそらく、ご主人様は
ミラーさんのお宅に
お泊りになるだろうと告げました。
いじっていた櫛を下ろした
オデットは、納得したように
席から立ち上がりました。
先週一週間、ずっと
夕食の時間に合わせて
退勤をしていた男でしたが
今日は会社の仕事が忙しくて
遅くなると言っていました。
外泊をするとは
言っていなかったけれど、
夜の12時近くになった今まで
帰って来ないのを見ると、
ドーラの推測が正しいように
思えました。
遠い道のりを戻って来ても、
しばらく目を閉じるだけで、
再び、朝早く、
出勤しなければならないだろうから。
翌日のスケジュールについて、
報告を終えた後、
振り向いたメイド長は
ロビスさんが
奥様にお願いしたいことが
一つあるそうだけれど、
自分が代わりに話しても良いかと
予想外の言葉を付け加えました。
オデットはフットベンチの端に座って
彼女に向き合うと、
どうしたのかと尋ねました。
ドーラは、
ご主人様が、
朝食をきちんと食べないので、
心配が多いと言っていた。
もちろん自分も同じ意見だと
答えました。
その言葉にオデットは面食らい、
ロビスさんが、
バスティアンの朝食のことで
心配しているという意味かと
聞き返しました。
若くて健康で裕福な男でした。
英雄と称えられる強靭な
軍人でもありました。
そんな男の食事を心配する状況に
どうも納得がいきませんでしたが、
ドーラは当然のように頷くと、
濃いコーヒーの代わりに
質の良い食事を摂って出勤するよう
勧めているけれど、
アドバイスが通じないようだ。
奥様の話なら聞かれるだろうから
どうか自分たちの代わりに
ご主人様を説得してくださいという
お願いだったと答えました。
「ああ、はい、そうですか。」
オデットは、
少し、ぎこちない笑みを浮かべました。
最側近と言える執事のアドバイスも
聞かない頑固者が、
偽妻の小言に耳を傾けるはずが
ありませんでした。
オデットは、
それでは、一度話してみると
返事をしました。
どう考えてみても
無理なお願いでしたが、
とりあえずオデットは承知しました。
本当に困った状況になったら、
そのまま事実を打ち明けて
協力を求めればいいし、
完璧な夫婦に見せるための演技は
決して疎かにしない男でした。
ドーラは、
オデットにお礼を言うと、
ご主人様は、
あまりにも自分の面倒を
見ることができない方なので、
今は奥様がそばにいてくれて
本当に幸いだと心から喜んで
頭を下げました。
今まで見てきた中で
一番明るい顔でした。
ドーラまで退くと
寝室の静けさがさらに深まりました。
オデットは、
厚手のショールを羽織ったまま、
窓際に近づきました。
カーテンを少し開けると、
闇に沈んだ海が見えました。
月が昇らない夜でした。
夏の間、
優しく慰めてくれた波の音が
このように寂しく感じられるのは、
おそらく季節が
変わったせいのようでした。
彼は戻って来ないだろう。
そのくらいで
カーテンを閉めたオデットは、
その事実を受け入れることで
今日一日のスケジュールを
締めくくりました。
明かりを消してベッドに上がると、
忘れようと努力してきた父親の記憶が
津波のように押し寄せて来ました。
近いうちに、
父のお見舞いに行った方がいいだろう。
オデットは、
静かなため息をつきながら
布団の端を掴みました。
若いメイドの目にも変に見えるのなら
すでに、良くない憶測が
広まっているかもしれませんでした。
どうしても、
平然と父親に向き合う自信が
ありませんでしたが、
だからといって、
いつまでも無視し続けるわけには
いきませんでした。
明日は必ず、
父親に手紙を書くと誓うと
オデットは、
ゆっくり目を閉じました。
寝具がたくさんありました。
どうやら、暖炉の火を焚く時が
来たようでした。

午前0時が近づくと、
イリス商事の建物の前に並んでいた
馬車と自動車が
一台二台と姿を消しました。
バスティアンが会社を出た時は、
もやは二台の車しか
残っていませんでした。
トーマス・ミラーは、
今日は自分と一緒に行こうと誘い
自分の車を指差しました。
アルデンまで運転して帰るには
遅過ぎましたが、バスティアンは
特に悩むことなく首を横に振り、
「いいえ、家に帰ります」と
断りました。
トーマス・ミラーは、
どうせ何時間も寝られないまま
またラッツに
戻って来なければならない。
あえて無理をしなければならない
理由でもあるのかと尋ねました。
バスティアンは、
「まあ、新婚ですから」と
いつもと違って
軽い冗談を言いました。
じっと彼を見つめていた
トーマス・ミラーは、
これ以上、勧めることができず、
「ハハハ」と、
照れくさそうな笑みを浮かべると
英雄は美人に弱いという俗説は
間違っていないようだと言って
頷きました。
そして、
正直に言うと、自分は坊ちゃまが
間違った結婚をして
不幸になるのではないかと
心配していたと打ち明けました。
バスティアンは、
オデットはいい人なので
心配しないようにと言いました。
トーマス・ミラーは、
他でもない坊ちゃまが
そう仰るので、もう信じると
返事をすると、快く頷きました。
激務による疲労感が
滲み出ているものの、
バスティアンの顔は
リラックスしているように
見えました。
これが結婚したことによる変化なら
クラウヴィッツ夫人は、
十分に大きな持参金を持って来た
花嫁でした。
遠ざかっていく
バスティアンの後ろ姿を見守っていた
トーマス・ミラーは
「坊ちゃま!」と
衝動的に叫びました。
足を止めたバスティアンは、
階段の最後の一段の上で
振り向きました。
長く続いた沈黙は、
結局「いいえ」という虚しい一言で
幕を閉じました。
静かに微笑みながら黙礼した
バスティアンは、
すぐに街路樹の下に停まっている
黒い車に乗り込みました。
車はすぐにスピードを上げて
都心の向こうへ
遠ざかって行きました。
最後の老婆心まで
消してくれる風景でした。

出迎えに来た執事は、
奥様はお休みになったと、
真っ先にその事実を告げました。
クスッと笑ったバスティアンは
何の返事もすることなく
玄関ホールに入りました。
まさか、こんな深夜まで、
オデットが起きているとは
思いませんでした。
もし、そんなことをしたら
かえって気に障るところでした。
寝そびれた使用人たちの苦労を
短く労ったバスティアンは
静かな足取りで、
自分の寝室に向かいました。
今夜は、同じベッドを使う必要は
なさそうでした。
海岸線の向こうに
屋敷の明かりが見え始めた頃に下した
結論でした。
服を着替えて、体を洗い、
再び寝室の敷居を越えた時まで、
バスティアンの考えは
変わりませんでした。
これまで演出して見せた姿だけでも
十分だったし、
あえて、眠っている女を
起こす必要はないことを
彼はよく知っていました。
そのため、いつの間にか
二つの部屋の通路の前に立っている
自分の姿に、さらに呆れました。
バスティアンは、
習慣化された生活様式を好みました。
それは思考と感情の浪費を最小化する
いわば人生を最も効率的に
生き抜くことができる戦略でした。
しかし、今は、
よく分かりませんでした。
バスティアンは、
判断を誤った可能性を受け入れながら
ドアノブを握った手に
力を入れました。
ある日から、オデットも
習慣の一部になりました。
それでも思考と感情の浪費は
減少しませんでした。
むしろ、人生を
この上なく複雑にしている
矛盾した習慣でした。
最後の一つのドアの前で
バスティアンは
しばらく足を止めました。
少しだけ立ち寄って
眠っているオデットを見て、
また戻れば、それで終わりでした。
いいえ、実は、
オデットを起こしてはいけない
理由なんて
最初から存在しませんでした。
バスティアンには
いくらでも命令する権利があり、
オデットには喜んで従う義務が
ありました。
それが彼らが結んだ契約でした。
重要なのは彼の必要性だけで、
オデットの見解は
考慮の対象ではありませんでした。
その事実を思い出すと
雑念が消えました。
バスティアンは自分の必要に応じて
足を踏み出しました。
ドアを開け、
見慣れた部屋を横切って
オデットのベッドに近づきました。
次の必要性を、
明確に認知した瞬間、
まだ消えていないランプが、
彼の使用するベッドの右側を
照らしているのが目に入りました。
バスティアンは目を細めて
ベッドの左側に横たわっている
オデットを見つめました。
そちらのランプは消えていました。
他のすべての明かりも同様でした。
バスティアンは、
この部屋に残っている
最後の一つの明かりの方へ
再び顔を向けました。
濡れた髪の先に溜まった水滴が落ち、
再び溜まるのを繰り返している間も
視線は、ただ一ヶ所だけに
留まっていました。
微かなため息が聞こえて来たのは
正時を知らせる掛鐘が
鳴り始めた頃でした。
バスティアンは
乾いた唾を飲み込みながら
視線を向けました。
彼を待っていた明かりの中で、
オデットは、
ゆっくりと目を開けました。
彼女は、
理性を失わせそうな微笑を
浮かべながら、良い妻のように
「バスティアン、お帰りなさい」
と言いました。
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バスティアンが
真夜中にもかかわらず、
アルデンに戻ったのは、
オデットに会いたかったからでは
ないでしょうか。
そして、習慣だとこじつけて
オデットの寝室に行ったけれど
本当は彼女の顔を
見たかったのではないでしょうか。
そして、オデットが、
バスティアンの寝る場所を照らす
明かりを消していなかったことに
バスティアンは嬉しかったか、
胸がキュンとなったのでは
ないでしょうか。
バスティアンが、
あれこれ、言い訳したり
こじつけたりして、なかなか
自分の気持ちに気づかないのが
じれったくなってきました。
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