![]()
57話 オデットは、バスティアンがきちんと朝食を摂るよう説得して欲しいと頼まれました。
勝算が全くないわけでは
ありませんでした。
深呼吸をしたオデットは、
落ち着いてノックをすることで、
今日の最初の仕事を始めました。
閉じたドアの向こうから、
「入って来てください」と言う
バスティアンの単調な声が
聞こえて来ました。
まだ全ての負担感を
消すことができなかったけれど
オデットは、これ以上
躊躇することなくドアを開けて
バスティアンの寝室に入りました。
簡単な朝食が用意された盆を持った
執事と侍従も、すぐに後に続きました。
「オデット?」
振り返ったバスティアンは
意外そうに名前を呼びました。
合わせていた手の先を
見下ろしていた目を上げると
オデットは思わずビクッとして
足を止めました。
バスティアンは、
よりによって着替え中で、
下着と靴下以外、たった今、
ボタンを一つかけたシャツしか
来ていませんでした。
とりあえずオデットは
慌てて目を逸らしました。
悪いタイミングを
選んだしまったことを
後悔しましたが、今さら、
退くこともできませんでした。
必死に口の端を引き上げたオデットは
急いでテーブルの前に近づきました。
水とコーヒーが入ったポットを置いた
執事が退くと、
自分の番を待っていた侍従が
近づいて来ました。
ゆで卵とバターの入っていないパン
それから焼いた野菜と果物を少し、
頼んだ通りに用意された料理が
きれいに並べられました。
カトラリーとナプキンの形を整えた
オデットは、
何事もなかったかのように
テーブルの前に座りました。
「これは何ですか、奥さん?」
バスティアンは失笑しながら
尋ねました。
オデットは、
見ての通り朝食だと答えました。
そして、心の準備を終えると
バスティアンの方へ首を回しました。
きちんとシャツのボタンを留めた
バスティアンは、
今、ピンと張っているシャツの端を
太ももに着けたガーターのクリップに
固定させていました。
目を向ける場所を見つけるのが
難しかったので、
オデットは仕方なく、
その気まずい光景を
見守らなければなりませんでした。
シャツをきちんと整えたバスティアンは
腕時計とカフスボタンとタイを
順番に身に着けました。
オデットが切実に待っていた
ズボンの番は、その次に訪れました。
ようやくバスティアンが
ズボンをはいている間に、
執事がよく磨かれた靴を用意しました。
一息ついたオデットは、
ようやく夫の顔を
まともに見つめました。
時間を確認したバスティアンは
鏡の前に行き、
タイの結び目とシャツの襟を
整えました。
オデットは、
慎ましやかな好奇心が滲み出る目で
その姿を見守りました。
オデットは、男性の装いを見物するのは
初めてでした。
淑女たちと服のラインの扱い方が
全く違っていました。
最もしなやかな曲線と
しわを作り出すことに重点を置く
オデットとは違い、
バスティアンの場合、服のラインが
体の骨格を浮き彫りにしていました。
あまりにも高い身長と
がっしりした体格を持った男なのに、
すらりとして優雅な印象を与えるのは
そのおかげのようでした。
もう一度身なりを確認した
バスティアンは、
制服のジャケットを整えて着ました。
明るい朝の光が、
背を向けた彼の肩の上に
降り注ぎました。
オデットがよく見てきた、
あの将校の姿でした。
バスティアンは、
そんな必要はない。
自分はコーヒーで十分だと言うと
ゆっくりと近づいて来て
テーブルの前で立ち止まりました。
オデットは、
通勤距離が長くなったので、
習慣を変えてみても
いいのではないかと提案しました。
すでに予想していた反応だったので
オデットは、
大して動揺しませんでした。
宥めすかして食事をさせるには、
それなりのコツがありました。
好き嫌いが非常に多くて悩まされた
ティラのおかげでした。
もちろん、あの時代のティラは
深刻なほど小さくて痩せた
子供でしたが、問題の本質は、
大きく変わりませんでした。
オデットは、
駄々をこねる妹を宥める姉のように
優しく微笑みながら、
卵占いをしてみないかと提案ました。
自分のことを、
気が狂った女のようにじっと見つめる
バスティアンの目つきは
気にしないことにしました。
オデットは、
殻が割れた形から
今日一日の運勢を占うと説明しました。
バスティアンは、
何の返事もしませんでしたが、
オデットは気にせず、
ゆで卵の入ったエッグスタンドを
それぞれの席に一つずつ置き、
殻を割るスプーンも添えると、
「さあ、バスティアン。
占ってあげます」と言いました。
オデットの上に、明るい朝の光が
振り注いでいました。
期待に満ちている執事と
面倒な朝の食卓を順番に見た
バスティアンの視線が
再びオデットに向かいました。
協力してください。
彼を見つめるオデットが
唇の形で囁きました。
泣き言を言っているその瞬間も、
顔色は変わりませんでした。
借金でも取りに来たような顔で
懇願する妻をじっと見下ろしていた
バスティアンは、ハハハと笑いながら
オデットの向い側に座りました。
この状況を把握するのは
難しくありませんでした。
何とか自分に朝食を食べさせようと
決意した執事が、
女主人に助けを求めたのだろう。
何事にも熱心な、この淑女は
朝から戯言を口にしながら
本分を全うしているに違いない。
バスティアンはまず、
水っぽい薄いコーヒーを
一口飲みました。
いつも一緒に置かれていた角砂糖は
見当たりませんでした。
今や、ロビスは、女主人に
つくことにしたようでした。
オデットは、
食欲がない時間だということは
理解できるけれど、
自分は濃いコーヒーより、
きちんと食事を取って欲しい。
そうしないと、体調を崩して
大変なことになると
躊躇いながら忠告しました。
バスティアンは
頬杖をついて座ったまま、
スプーンを握りました。
そして、
「なぜ?未亡人になることを
心配しているのですか?」と
いたずらっぽく尋ねた後、
ぽんと、卵の殻を割る音が続きました。
オデットは、
「はい。あなたのいない世界に
一人で残されたくないです」と答えると
ようやく安堵の笑みを浮かべながら
バスティアンのエッグスタンドを
のぞき込みました。
実は、卵占いは、
ティラの興味を引くために
考案した策に過ぎませんでしたが、
オデットは、いつも真心を尽くして
嘘をつきました。 まるで今のように。
「幸運の星です」
オデットは、探求する学者のように
卵を調べた後、再び
バスティアンに返しました。
そして、
「良い一日になりそうです」と
告げると、パンや野菜、
果物を適当に移し替えたお皿も
そっと、そのそばに置きました。
その卵を食べ終わったら、
占いの通りになると、
最も馬鹿げた嘘をついた時、
オデットの目は
最も真剣になりました。
呆れたように見つめながらも、
バスティアンは素直に
卵を一匙すくいました。
感激した表情の老執事を見て、
オデットの達成感は倍増しました。
今日の最初の任務を
うまく遂行できたと思いました。
オデットにとっても
幸運の星が昇る朝でした。

妹から、
まだ何の連絡もないのかと
閉じていた目を、ゆっくり開けた
テオドラが意外な質問をしました。
彼女の髪を梳かしていたメイドは
慌てて頭を上げて、
鏡に映った主人の顔を見つめました。
メイドは、
あの子の話によると、
最近公爵は、死体のように静かに
娘を待っているそうだ。
もちろん公爵の娘は、
依然として全く姿を見せないと
答えました。
テオドラは
「可哀そうに」と呟くと、
舌打ちしながら再び目を閉じました。
休暇を取ったスーザンが
サプライズプレゼントを持って
戻って来ました。
ディセン公爵。
転落事故で身体が不自由になり、
世間から
完全に忘れられていたけれど
もしかしたら、非常に重要な役割を
果たしてくれる可能性のある
パズルの一片でした。
婿と娘が共謀して、
自分をそのような姿にしたと
無理な主張をしているとか。
彼を看病する仕事をしている
妹の愚痴を聞いたスーザンは
その足で、
この邸宅に駆けつけて来ました。
テオドラは、
自分を手伝ってくれる
スーザンの忠誠心を称えました。
そして、スーザンはもちろん、
彼女の妹にも、
バスティアンから受け取っている
報酬の二倍を払うことを
忘れませんでした。
夫はあまりにも大金だと言いましたが
テオドラの考えは違いました。
人の心を掴むためには、
財布の紐を緩めることに
ケチをつけてはいけないもの。
それが彼女を、
今この場にいさせることになった
秘訣でした。
テオドラは夫に、
ただディセン公爵の動向を
見てくれればいいとだけ伝えている。
危険なことは絶対ないだろうと
言いました。
髪の手入れを終えたテオドラは、
化粧台の端に置かれている
真珠のイヤリング一対を握って
立ち上がりました。
スーザンがよく見ていた宝飾品でした。
それを渡すと、
スーザンの目が丸くなりました。
彼女は、
こんなことをしてはいけない。
この貴重な物をあえて自分が・・・
と遠慮しましたが、テオドラは
そう言われると寂しい。
自分たちは古い友人だと言うと
イヤリングを持っている
スーザンの手を優しく撫でました。
涙を浮かべたメイドは、
それを大切に握り締めて
去って行きました。
長いため息をついたテオドラは、
ソファーの奥深くにもたれて、
タバコを咥えました。
テオドラは、
あの廃人の言葉を、そのまま
信じているわけではないし、
おそらく高い確率で
でたらめを言っていると思いました。
しかし、万が一でも
何か手に入れることができれば、
前のように
カーテンを大きく開けて暮らせる日を
早めることができるかも
しれませんでした。
バスティアンの妻には何かがある。
まだ確実な根拠はないけれど、
テオドラの直感は、
確かにそう語っていました。
続けて吸ったタバコで
神経症の症状を治めたテオドラは、
息子の部屋を訪ねることで
一日を始めました。
婚約者に優しくするよう
何度も注意しましたが、
最近になっても
大きく変わったことは
ありませんでした。
さらに、昨日は
クライン伯爵夫人から
電話さえかかって来ました。
婚約者に長い間会えず、
娘がとても落ち込んでいる。
後継者の勉強もいいけれど、
たまには若い恋人が付き合える時間を
割いて欲しい。
冗談のように頼んで来たものの、
その裏に隠されている、
無事に結婚式を挙げたければ、
娘の機嫌を取るようにという
警告は明らかでした。
プライドが傷ついても、
まずは、こちらが折れるしか
ありませんでした。
クラインのような名門が
クラウヴィッツと
姻戚関係を結ぶ決定を下したのは
奇跡に近いことだからでした。
もちろん、自分たちは、
今や立派な社交界の一員として
受け入れられた家門になったけれど
フランツに恋した
エラの意地がなかったら、
婚約は、これほど順調に
成立しなかったはずでした。
「フランツ」
テオドラは息子の名前を呼びながら、
せっかちにノックをしました。
外出したという報告は
受けていませんでしたが、
しばらく待っても、フランツの返事は
聞こえてきませんでした。
このようなことに慣れているテオドラは
スカートのポケットに入れておいた
鍵を取り出し、
鍵のかかったドアを開けました。
窓から降り注ぐ午前の日差しが、
主人のいない部屋を満たしていました。
窓の向こうの風景を見た
テオドラの眉間に
深いしわができました。
バスティアンが差し出した
挑戦状に他ならない
あの忌々しい邸宅は、
この部屋がある位置から
最もよく見えました。
それなのにフランツは
あまりにも呑気でした。
息子を不満に思う夫が
理解できる姿でした。
このくらいで、
背を向けようとしたテオドラを
引き留めたのは、
窓の外のバルコニーに立っている
イーゼルでした。
ズキズキする額を押えた彼女は、
急いでそこに近づきました。
婚約者を疎かにした理由が
今、分かったような気がしました。
また、あの馬鹿げたことに
気を取られていたのだろう。
帰って来たら、
厳しく叱らなければならないという
テオドラの決意は、
イーゼルに立てられている絵に
向き合った瞬間、きれいに消えました。
古典風の美人を描いた肖像画でした。
まだ未完成でしたが、
彼女の顔を見分けるのに
全く問題はありませんでした。
テオドラは、
呆れた笑みを浮かべながら
海の向こうを眺めました。
画布に描かれていた女性は、
バスティアンの美しい妻、
オデットでした。
![]()
![]()
マンガで読んだ時にも思ったのですが、
バスティアンは、
ディセン公爵の面倒を見る介護士や
自分の家の使用人の家族構成や
経歴などを
調べなかったのでしょうか。
使用人の採用のことは
ドーラに任せているのかもしれないし
スーザンと、ディセン公爵の介護士が
姉妹だったのは、
本当に偶然だったのでしょうけれど
今、父親を追い詰めている最中なのに
バスティアンの敵が身近にいることに
恐怖を覚えます。
それにしても、テオドラは
息子の部屋の鍵を開けて
勝手に中に入るなんて酷い。
しかも、一回きりではない様子。
母親に秘密を見られたフランツに
今回ばかりは同情しました。
![]()