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148話 レイラは子供と一緒に公園にいます。
ラッツの都心にある公園は、
湖や森を含むほど広大でした。
レイラは、
湖と森が最も美しく調和して見える
公園の西側が一番好きでした。
そこから眺める風景は
一見アルビスに似ていました。
多くの悲しみと
傷を与えたにもかかわらず、
依然としてレイラにとって、
この世で一番懐かしく
美しい所でした。
レイラは木陰に毛布を広げて
持って来たお弁当を取り出しました。
赤ちゃんと二人きりの
ピクニックでしたが、
それでも、かなり心を込めて
見た目を美しくしました。
とても小さい頃の思い出は
子供の記憶に残らないとしても、
きっと、何らかの形で、
心の中に残っているだろうから。
レイラは、子供にあげたいものが
たくさんありました。
母親と一緒に過ごす
ささやかな幸せな瞬間。 温かい言葉。
暖かい眼差しと微笑みのようなもの。
ビルおじさんがレイラに
そうしてくれたように、何があっても、
自分を信じて愛してくれる人が
この世にいるということを
子供に知らせたいと思いました。
彼が戻って来るまで、レイラは二人分
うまくやり遂げるつもりでした。
よく食べて、たくさん笑って
力を出さなければ。
父親がいないからといって、
愛を半分しかもらえない
子供にはしない、 絶対にと
レイラは誓いました。
レイラは、
まず子供に食べさせた後、
自分の分の弁当を広げました。
お腹いっぱい食べて機嫌がいいのか
子供はガラガラを握って
遊ぶことだけに集中していました。
おかげでレイラは、急がずに
昼食を食べることができました。
レイラがデザートに持って来た桃を
一口かじった時、子供がのそのそと
彼女のそばに近づいて来ました。
シャキシャキという音が不思議なのか
子供は、
レイラが桃をもぐもぐさせる度に
首をあちこちに傾げました。
じっと見つめる青い目に
向き合ったレイラは、つい
ぼーっとしてしまいました。
子供の顔の上に重なった
あの男の記憶は、
手の施しようもない程、
大きく鮮明になって行きました。
必ず返って来ると
確かに約束したのに。
「愛しています。」
その言葉に、まだ一言も
返事をしてあげられなかったのに。
メガネを持ち上げて
目元を拭ったレイラは、
子供を見つめながら
「愛しています」と囁きました。
本当に愛しています
もう気兼ねなく
話すことができました。
愛している。何度でも。
最も熱い想いを込めて。
その告白が気に入ったのか、
子供は青い目を輝かせながら、
クスクス笑い、何かを呟きました。
果汁がついた手を
丁寧に拭ったレイラは、
子供を大事に抱いたまま
目を閉じました。
柔らかい赤ちゃんの匂いが
鼻先をくすぐりました。
子供を抱いた両腕に、
もう少し力を込めました。

「あの、もしかして・・・」
ちょうど隣の家の前を
通りかかった婦人は、
突然、訝しげな表情で振り向きました。
ノックを止めた男は、
彼女の声が聞こえて来た方へ
そっと首を回しました。
彼女は警戒心を解くと、
この家に住んでいる
赤ちゃんの母親を訪ねて来たのかと
控え目な好奇心を抱きながら
尋ねました。
男が「はい、そうです」と答えると
婦人は、
あの眼鏡をかけた金髪の若いお母さんで
合っているかと尋ねました。
男が「はい」と答えると、
婦人は男の顔をじっくり見ながら
戦争へ行ったという
赤ちゃんのお父さんのようですね。
そうでしょう?
と喜びながら叫びました。
そして、彼が返事をする前に、
間違いなく赤ちゃんのお父さんだ。
初めて会うのに、
あまりにも見覚えがあるような
気がしたので、失礼を承知で
見つめてしまったと言いました。
婦人は、
どうしたらいいのか。
戦場から帰って来たのに、
行き違ってしまったようだと
嘆きました。
男は、
留守なのかと尋ねました。
婦人は、
赤ちゃんのお母さんは、
さっき赤ちゃんと一緒に出かけた。
公園にピクニックに行くと言っていたと
答えると、残念そうに舌打ちしました。
その瞬間にも、彼女は
男の顔をジロジロ見ていました。
赤ちゃんが、あまり母親に
似ていないと思ったけれど
間違いなく父親似だったようだ。
しかし、そう考えるには、
この男の顔に
見覚えがあるように感じました。
知っているはずがないのに、
一体、この男を
どこで見たのだろうか?
婦人は、
赤ちゃんのお母さんは
公園によく行く。
普通、日が暮れる頃にならないと
帰って来ない。
探しに行って
行き違いになると困るので、
帰って来るまで
自分の家で待つのはどうかと
提案しました。
しかし、
「いいえ、結構です」と断った男は
しばらく公園のある方向を見つめた後
階段を下りて、
彼女の前に立ち止まり、
頭を下げてお礼を言いました。
そして、急ぐことなく、
彼女の横を通り過ぎました。
彼が道の端に近づくと、
待機中だった黒い車から降りた男が
急いで後部座席のドアを開けました。
どう見ても普通の男ではなさそうだ。
消えない好奇心を
振り払うことができなかった彼女は、
遠ざかる車の後ろを
しばらく見つめました。
確かに初めて会ったのに、
やはり見覚えがあるような気がする。
彼女の呟きを乗せた午後の風が、
閑静な週末の午後の道の上を
流れていきました。

よく食べて、よく遊んだ子供は
天使のような顔で
すやすやと眠りにつきました。
横たわって、眠りにつく子供を
見守っていたレイラは、
安堵のため息をつきながら
そっと体を起こしました。
子供のおもちゃとなって
犠牲になった髪は
めちゃくちゃに乱れていました。
メガネには、
子供の指紋がベタベタ付いて、
視界がぼやけていました。
レイラは毛布の端に置いておいた
カバンの前に慎重に近づきました。
まずメガネをきれいに拭いて、
めちゃくちゃになった髪を
解きました。
子供は父親と同じくらい
レイラの髪が好きでした。
どうやら顔だけが
そっくりなのではないようでした。
もちろん、息子の方が、
少し過激に扱うけれど。
煌めく髪の毛が不思議なのか、
子供は母親の胸に抱かれると、
髪をギュッと握り締めて
引っ張りました。
なんて楽しそうに、
可愛らしく笑うのか。
握っている髪の毛を手から抜くのが
申し訳ないほどでした。
頭を掻きむしられながら
幸せになる日が来るなんて。
ニッコリ笑ったレイラは、
指を櫛代わりにして、乱れた髪を
そっと梳かし始めました。
縛っても、編んでも無駄なので、
いっそのこと切ってしまおうかと
思いましたが、どうしても、
気が進みませんでした。
細い金髪が
白いワンピースの襟に覆われた肩と
背中を伝って流れ落ちました。
レイラは再び髪を編むのを
しばらく忘れたまま、
生い茂った木の葉の間から漏れる光を
ぼんやりと見つめました。
いつの間にか、穏やかな湖の水面も
煌びやかな金色に染まっていました。
「きれい」
レイラは気づかないうちに、
小さな感嘆の声を漏らしました。
世界全体が一枚の絵のように
平穏に見えました。
空から砲弾が降り注ぎ、
銃声が鳴り響いていた
地獄のようだったあの日々が
まるで一瞬の夢だったかのように
思えました。
レイラは抱えた両膝の上に、
じっと頬をもたせかけました。
湖の上を悠々と飛ぶ水鳥が見えました。
ベルクで夏を過ごす渡り鳥でした。
野生のバラが生い茂っている森を
通り抜けて来た風からは、
甘い香りが漂っていました。
生い茂った木の葉が風に揺れる音が、
まるで自転車のチェーンが
回る音のように聞こえました。
完璧に美しい夏の日なのに、
ふと、それが思い浮かんだことが
とても不思議でした。
どうして、
こんなことがあり得るのだろうか?
彼がいないのに。戻って来ないのに。
言葉にできないような気分で
鼻先がズキズキする頃、
子供の泣き声に、
レイラは我に返りました。
目を覚ましたフェリックスが
空を見上げながら泣いていました。
ベビーカーのハンドルに結んでおいた
風船が、風に飛ばされて
木の枝に引っかかっていました。
緩んでいた紐が
解けてしまったようでした。
レイラは力強い声で
「大丈夫、何でもない」と
子供を宥めました。
母親の気迫に驚いたのか、
子供は突然泣き止みました。
涙で濡れた息子の顔を拭いてやった
レイラは、突然立ち上がり、
風船の引っかかった木の方へ
歩き始めました。そして
「お母さんが取って来るので
ちょっと待ってて」と
声をかけました。

レイラを見つけるのは
それほど難しいことでは
ありませんでした。
この広い公園のどこかにいるという
ただ一つの漠然とした事実だけで
レイラを見つけ出すなんて
不思議なことでした。
しかし、マティアスはそうでした。
それが彼でした。
森と鳥、そして
煌めく水の流れがある場所。
人が多過ぎて混雑しているのは
困るけれど、だからといって
あまりにも閑散としているのは
いけませんでした。
勇ましいふりをしても、
実は彼の美しい鳥は臆病でした。
そのようにして、やって来た所に
レイラがいました。
木陰に敷かれた毛布の上に座り、
森と湖の風景を
じっと眺めていた彼女は、
子供の泣き声に驚いて振り返りました。
ようやくマティアスは、
もう一人の人間。
彼の子供という存在に気づきました。
少し不慣れな気分で、
マティアスが立ち止まっている間に
レイラは力強い足取りで、
どこかへ向かい始めました。
一人残された子供は首を傾げながら
母親の後ろ姿を見つめました。
マティアスは、そこへ向かって
再び歩き始めました。
彼が毛布のそばに近づいた頃、
レイラは、
そこから少し離れた所に立っている
木の前に到着しました。
一体、何をするつもりなのかと
思っていたら、
呆れたことに、レイラは、
その木に登り始めました。
それほど高くない木の枝に
引っかかっている風船を見た
マティアスは、
ようやくレイラの目的が何なのかに
気づきました。
彼がプッと低く声を出して笑うと、
毛布におとなしく座っていた子供が
顔を上げました。
マティアスも視線を下げて
自分をじっと見つめている子供と
向き合いました。
彼が眉を少し上げると、
子供はゆっくりと瞬きをしました。
マティアスはもう一度、
今度は少し虚しい笑みを
浮かべました。
そして再び顔を上げた時、
レイラはすでに木の枝に登り、
風船に向かって
手を伸ばしていました。
彼女に向かってマティアスは
躊躇なく歩き始めました。

届きそうで届かなかったけれど、
レイラはついに、風船の紐を
つかむことに成功しました。
喜びに満ち溢れたレイラは
「これを見て!お母さんが・・・」と
叫びながら、子供の方を向くと
思わず頭の中が真っ白になり、
言葉を続けることが
できませんでした。
木からあまり離れていない所に、
一人の男が立っていました。
片腕を背中に当てたまま、
まっすぐな姿勢で立ち、
彼女を見つめていました。
目が合うと、
彼は少し首を傾げました。
気品のある姿とは全く違う、
ややひねくれた、
いたずらっぽい仕草でした。
だから、彼でした。
頭の中が、
空っぽになったような気がしましたが
その一つだけは
確信することができました。
信じがたいことでしたが、
疑いなど存在し得ませんでした。
彼でした。彼以外の何者でも
ありませんでした。
レイラは風船をギュッと握ったまま
マティアスを見つめました。
木を掴んでいる手が
少しずつ震えていました。
じっとそんなレイラを見ていた
透明なガラス玉のような目に
徐々に笑みが
浮かび上がり始めました。
何も言わずに、彼は、
背中に当てていた左手を
軽く上げました。
ジャケットとシャツの袖の中に
結ばれているリボンの先が、
穏やかな夕方の風に
なびいていました。
本当に不思議でした。
毎日毎日思い浮かべていたのに。
一日に何度も、
数え切れないほど描いてきた
瞬間なのに、
なぜ何も思い浮かばないのか。
レイラは唇を噛みしめ、
両目に力を入れたまま、
彼をとめどなく眺めていました。
そんなレイラに向かって、
マティアスはゆっくりと
両腕を広げました。
その次の瞬間の記憶は
ぼんやりとしていました。
いつの間にか
両足が地面を踏んでいて、
彼に向かって走っていました。
ポタポタと落ちる涙で
視界がぼやけていましたが、
そんなことは、
どうでも良いと思いました。
ますます早く
彼に向かって走るレイラの背中で、
金色の翼のような髪が
波打っていました。
言いたいことが山ほどあるのに、
開いた唇の間から流れ出るのは
幼い息子のものより、
もっと幼い子供のような
泣き声だけでした。
レイラは、
鳥のように軽やかに飛び上がり
彼の胸に抱きつきました。
そしてマティアスは、
力いっぱい彼女を抱き上げました。
彼の手首に結ばれたリボンを揺らす
風に乗って、
レイラが逃してしまった風船が
空高く舞い上がりました。
父親にそっくりな目で、
子供はふわふわと浮かぶ
きれいな風船を眺めていました。
泣き出しそうな顔で
唇を尖らせていた子供の目が
大きくなりました。
風船が消えていった空の向こうから
水鳥が飛んで来ました。
再び好奇心で輝き始めた子供の目は、
互いをギュッと抱きしめたまま、
動かない、
母親と父親に向けられました。
お母さんのように泣くべきだろうか?
悩んでいるように
首を傾げていた子供は、
結局、明るく笑いました。
ゆっくりと旋回していた鳥たちが
舞い降りた湖は、
バラ色の夕焼けに染まっていました。
鳥が帰ってきました。
何の変哲もない夏の日の夕方でした。
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マティアスが
初めてレイラと出会ったのは、
彼女が木に登っていた時。
そして、
レイラが木に登っていた時に、
マティアスとあれこれ
事件を起こしましたが、
レイラと結婚すると宣言した後の
再会も、まさかの
彼女が木に登っている時。
レイラが木に登ることが
お話の重要なポイントだったことを
実感しました。
死んだと思っていたマティアスと
感動の再会。
意地を張ることなく、
広げたマティアスの腕の中に
素直に飛び込んだレイラ。
レイラがマティアスの前で
喜びの涙を流したのは
初めてではないでしょうか。
マティアスは、悲しみの涙より
喜びの涙を見る方が
絶対嬉しいはずです。
マティアスの腕には、
レイラの結んだリボンが!
(白いリボンなので、
きっと汚れているだろうなんて
絶対に考えないようにします)
そして、
母親と父親が抱擁している姿を
笑顔で見守るフェリックス。
今まで、あまりにも
色々なことがたくさんあって、
読むのが辛い時も、
たくさんありましたが
この、とても感動的で
ロマンティックなシーンに
辿り着けて本当に良かったです。
マティアスとチビマティアスの
対峙するシーンにも
笑わせられました。
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