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151話 クロディーヌはリエットのお墓参りに来ています。
墓石に刻まれた名前が、
まぶしい午後の日差しの中で
光りました。
クロディーヌは背筋を伸ばして
その墓石を見つめました。
リエット・フォン・リンドマン。
永遠に過去に取り残された
その名前を映す青い瞳は、
深淵のように静かでした。
墓地を取り囲む木々の影が長くなる間
クロディーヌは、
じっと、その場にいるだけでした。
つばの広い帽子の下から
半分ほど覗く青白い顔には、
何の表情もありませんでした。
ここに来るまでの間ずっと、
頭の中を混乱させていた
数多くの考えは、
リエットの墓の前に立った瞬間、
跡形もなくなりました。
残ったのは濃い疲労感に似た
虚無感が全てでした。
愛している。
風に揺れる
木の葉のざわめきの間から
その声が聞こえて来そうでした。
一緒に去ろう。
その熱い想いを伝えていた
温かい瞳が、日差しの中で
輝いているようでもありました。
しかし、無意味になった記憶を
辿っている瞬間にも、
クロディーヌは、
また、あの瞬間に戻っても、
自分にできる答えは
結局一つだけだということを
知っていました。
胸に残った後悔は
非常に些細なものでした。
リエットの姿が見えなくなるまで
玄関の前にいたのに、
一度も手を振ることが
できなかったこと。
もっと笑ってあげられなかったこと。
最後に会った日、さよならと、
短い挨拶すらしなかったこと。
彼に対して、
そんなことさえできなかったのに
なぜ、そんな自分を
あのように愛してくれたのか。
永遠に答えを見つけられなくなった
疑問を飲み込むと、クロディーヌは
手に持っていたバラの花束を
墓石の上に置きました。
帽子を飾っている華やかな羽とリボンが
その動きに沿ってゆらゆら揺れました。
さよなら
遅れてしまった挨拶を伝えながら、
クロディーヌは少し笑いました。
さよなら、私の愛。
無意味になったその言葉を
静かに飲み込んで、
胸の奥深くに閉じ込めました。
それが最後でした。
しばらく、
墓の前で立ち尽くしていた姿が
顔負けするほど、クロディーヌは
淡々と背を向けました。
墓地を出て待機中の車に乗るまで、
彼女は、
一度も振り返りませんでした。
目が少し赤くなっていましたが、
帽子のつばの影で
隠せないほどではありませんでした。
クロディーヌを乗せた車は
すぐに市街地に入りました。
今日の夕方には、
婚約者がブラント家を
訪問することになっていました。
新大陸の大富豪である彼は、
爵位こそないものの、
ヘルハルトに引けを取らない財力を
備えた紳士でした。
以前だったら、
決して受け入れなかった縁談でしたが
戦後の混乱した世の中を再編した秩序が
何かを素早く把握した
ブラント伯爵夫妻は、
快く彼を婿候補に選びました。
クロディーヌの考えも同じでした。
死んだとばかり思っていた
ヘルハルト公爵が生きて帰って来て
私生児を産んだ愛人と
結婚を敢行したことは、
依然としてベルク帝国の社交界の
熱いゴシップでした。
クロディーヌの名前は、
その不潔な結婚の犠牲者として
共に話題に上ったりしました。
もちろん、純粋な憐憫だけでは
ありませんでした。
たかがそんな女に、
自分の婚約者を奪われた
クロディーヌ・フォン・ブラントの
境遇に、胸いっぱいの喜びを
感じる人も少なくありませんでした。
しかし、もうすぐ、
その騒ぎも終わりでした。
車の窓の外を通り過ぎて行く
華やかな街の風景を見る
クロディーヌの目つきは、
いつの間にか、普段のように
落ち着いていました。
結婚式はこの夏、
大洋の向こうにある婚約者の国で
行われる予定でした。
すべての準備は、
最終段階に差し掛かっていて、
今や残っているのは、
彼と一緒に船に乗ることだけでした。
車は、高級店が密集した通りの
ホテルの前で止まりました。
ここで母親と会って
社交の集まりに参加した後、
ブラント家に帰る予定でした。
「あの、お嬢様?」
動かないクロディーヌを見ていた
メイドが、
慎重に話しかけて来ました。
帽子の形を整えたクロディーヌは、
優雅で軽やかな動作で
車から降りました。
豪華なシャンデリアの光が
ロビーに入った彼女を
包み込みました。
精巧で華やかな虚飾により
作られた世界は、今日も美しく、
そして、クロディーヌは依然として
その世界を愛していました。
それがクロディーヌが知っている
人生であり、
これからもそうするはずでした。
閉じていた目を、
ゆっくり開けたクロディーヌは、
しばらく止まっていた足を
彼女が愛する眩しいほど美しい世界へ
再び踏み出し始めました。

ヘルハルト一家を乗せた車は、
大学のキャンパスを離れて、
公園に向かいました。
春の花が咲いている公園を
一緒に歩く三人は、
ただの普通の家族のように見えました。
愛し合う夫婦と、彼らの可愛い子供。
まるで童話のように、
いつまでも幸せに生きていく家族。
ヘルハルト公爵が
午前中に何をしたのかを
よく知っているマーク・エバースは
少しギャップを感じながら
彼らを見つめました。
ラッツに拠点を移した公爵は、
事業家の役割だけに
専念していました。
必要な席には出席して
公爵の義務を果たしましたが、
社交界とは、
はっきり線を引いた態度でした。
そのような仕打ちは、
自分たちに対する無視と侮辱だと
受け取った貴族たちの反発心は
大きかったけれど、
思慮分別がない者でない以上、
あえてヘルハルト公爵と、
直接対立する考えはありませんでした。
彼らが狙っていたのは、大体彼の弱点。
貴族に認められていない
公爵夫人と後継者でした。
しばらくは、
彼らを無視して嘲弄することが
一種の遊びのように
広がったりもしました。
しかし、公爵が
あまり意に介さないようだったので
日に日に、
その程度がひどくなりました。
しかし、どうだろう。
今日の出来事は、すぐに皆の耳に
入ることになるだろうから、
今後は、そうするのが
難しくなるのではないかと
マーク・エバースは思いました。
レイラ·・フォン・ヘルハルトは
結局、卑しい愛人出身であり、
その息子は、
その不潔な血が混じった
雑種に過ぎないという話を
公然と広めながら、
彼らを除け者する先頭に立っていた
ステイン伯爵家が、今日倒産しました。
家門を支えていたタバコ会社が揺らぎ
他の事業体も次々と倒産する中、
そのタバコ会社の買収案件について
最終決定することが
今日開かれた会議の議題でした。
公爵は、
一抹の悩みもせずに決定しました。
その理由が何かも、
あえて隠そうとしませんでした。
公爵夫人に関する事柄においては、
概してそうでした。
しかし、その態度が
ヘルハルト公爵の品位を
大きく損なわないのは、
滑稽なことに、彼が
あまりにも露骨過ぎるからでした。
いくつかの会社の未完了の業務について
指示を出した公爵は、
すぐに家族の元に戻りました。
公爵夫人が差し出した
アイスクリームを一口食べる彼は、
つい、先程までの、
あの残酷な男のようには
見えませんでした。
つい笑ってしまった
マーク・エバースは、
公爵の命令通りに、
この辺で引き下がりました。
春の花が咲く美しい午後。
ただそれだけを
考えることにしました。

彼らは、
淡いピンク色の花が咲いている木の陰に
腰を下ろしました。
レイラが、
木に背中をもたせかけて座ると
マティアスは、彼女の膝を枕にして
横になりました。
子供は、彼らの周りを
よちよち歩いていました。
何がそんなに楽しいのか、
しきりに笑っていました。
目を閉じた彼の顔を見ていたレイラは
疲れているのかと
心配そうに尋ねました。
マティアスは「うん」と答えました。
レイラは、
「最近すごく忙しいから、
疲れているのですよね?」と
尋ねました。
マティアスは、
「たぶん」と答えました。
レイラは、
今日は何で忙しかったのかと
尋ねました。
マティアスは、
「ただ、あれこれ」と答えると
目を閉じたまま
静かな笑みを浮かべました。
彼は、最初から
極端な考えをしていたわけでは
ありませんでした。
一度くらいは、
寛容を示すも気もありました。
あの日、ステイン伯爵夫妻が
チャンスをつかんでいたら・・・
最後に彼らを見たのは、
レイラと一緒に出席した
晩餐会の席でした。
公然と、
彼の妻と息子を中傷し続けて来た
ステイン伯爵夫妻の態度は、
あの夜も
さほど変わりませんでした。
ステイン伯爵夫人と志を同じくする
貴婦人たちのグループは、
レイラの挨拶さえ、
露骨に無視することで
反感を示しました。
もちろん、
ヘルハルト公爵の目を避けるための
最小限の努力はしましましたが、
あまり効果的に
立ち回ってはいませんでした。
マティアスの五感は、いつも
彼の妻、
レイラ・フォン・ヘルハルトに
向けられていたので。
その日の食事の後、
男たちだけが別に集まった
シガールームで、マティアスは
先にステイン伯爵に近づくと、
指の間に軽く挟んだ葉巻を見ながら
この葉巻は
ステイン家の作品だそうですね。
なるほど、
ステインの血統のように立派だと
先に、丁重に話しかけました。
ステイン伯爵は、
一体、何が言いたいのかと
かなり防御的な態度で問い返して
眉を顰めました。
マティアスは、
特別な意味はないと答えると、
平然と一口吸い込んだ葉巻の煙を
ゆっくりと吐き出しました。
そして、
ただ、すばらしい葉巻を
褒めてあげたいだけ。
タバコ事業が
少し欲しかったりもするし。
けれども、
不潔な雑種であるヘルハルトが、
このように立派な葉巻の味を
出せるかどうかは自信がないと
言いました。
ステイン伯爵は、
「今、一体・・・」と呟くと
マティアスは、
自分もこのように立派な
純血種の味を手に入れたいけれど
どうすればいいのかと、
本当に残念がっている人のように
嘆きながら、もう一度長く
煙を吐きました。
乾いた唾を飲み込んだステイン伯爵は
硬い表情で彼と向き合いました。
当惑の色がありありと見えました。
ステイン伯爵は、
まさか、公爵夫人のことで、
今、自分を脅しているのかと
尋ねました。
マティアスは、
「おや、勘が鋭い」と答えると
穏やかな笑みを浮かべながら
壁にもたれていた背中を
まっすぐに立てました。
予期せぬ反応だったのか、
ステイン伯爵は死人のような顔色で
後ずさりしました。
マティアスは、
冗談を言っているだけではない。
話をしているうちに、タバコ事業に
かなり真剣な興味が湧いて来たと
言いました。
ステイン伯爵は、
天下のヘルハルト公爵が、
まさか公私の区別ができないとは
思わないと言いました。
マティアスは、
そうではあるけれど、
あまりにも完璧過ぎたら、
人間味がないのではないかと
反論しました。
そして、葉巻の灰を軽く払い落とした
マティアスは、
大きく一歩を踏み出して
ステイン伯爵との距離を再び縮めると
少しの欠点は、
むしろ長所になることもあると
告げました。
ステイン伯爵が
「おい、ヘルハルト公爵!」
と呼びかけると、マティアスは
まだ知らないようだけれど、
妻の件に関しては、
自分もかなり人間味のある者だと
告げて、クスクス笑うと
まだ半分も吸っていない葉巻を
未練なく灰皿に投げ入れました。
間違いは誰にでも起こり得るものだと
警告すると、
マティアスは、シガールームの外、
ペアを組んで集まっている
貴婦人たちを
ゆっくりと観察して行きました。
レイラに対するステイン伯爵夫人と
そのグループの態度は、
今日も、いつもと変わらないように
見えました。
マティアスは、
責任ある収拾を期待していると告げると
顔が真っ赤になった
ステイン伯爵に向かって頭を下げた後、
シガールームを離れました。
そして待ちました。
しかし、彼ら夫婦は謝罪するどころか
レイラとフェリックスに対して
さらに猛烈な悪口を浴びせることで
悲劇を自ら招きました。
残念なことでした。
「あれこれ何があったの?」
目を開けると、
好奇心でいっぱいの目をした
レイラの顔が見えました。
にっこり笑ったマティアスは、
再び目を閉じることで、
くだらない話を回避しました。
ステイン如きが倒産したことを
レイラが知る理由は
ありませんでした。
レイラは
「病気ではないですよね?」と
尋ねました。
マティアスは「うん」と答えました。
レイラは「本当に?」と尋ねました。
マティアスは「本当に」と答えました。
レイラは、
良かった。
それでは少し休むようにと告げると
優しい手つきで彼の頬を撫でました。
目が少しズキズキするだけで、
眠気を感じる程では
ありませんでしたが、
マティアスは素直に頷きました。
心の弱い彼の妻は、
夫が辛かったり
具合が悪そうに見えたりすると、
限りなく優しくなりました。
もうマティアスは、
その点を適度に利用する方法を
よく知っていました。
時には、
体の傷跡が、かなり役に立つと
感じられたりもしました。
レイラの心が痛んで、
どうしていいか分からず、
その傷を撫でながら
黙って口を合わせたりする瞬間や
周りをうろうろしながら心配し
安否を尋ね、戦々恐々と
気を揉んでいる姿を
マティアスは気に入っていました。
そのような時、この女の世界には
ただ彼しかいないように見えました。
二人きりの、その世界を
マティアスは愛していました。
「具合が悪くなったら嫌なのに」
独り言を囁く声が、
マティアスの耳元をくすぐりました。
レイラの手は頬を離れて、
今は、彼の髪の毛を
ゆっくり撫ででいました。
そのように、
しばらく彼のそばに留まっていた
レイラを奪ったのは彼の息子でした。
レイラは、丸めたショールで
彼の頭を支えると、
泣き出した子供の所へ
走って行きました。
マティアスはそっと目を開けて
そちらを向きました。
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時代の変革の波に乗って
新しい時代を生き抜いていく力のある
ブラント伯爵夫妻。
爵位はなくても、
財力では負けていない
新大陸の大富豪を、
クロディーヌの結婚相手に選んだのは
賢明な選択だと思います。
新大陸では、
クロディーヌの過去のことを
知っている人はいないでしょうから
彼女は、
ベルク帝国の名門貴族出身の
大富豪の妻として、
新大陸の社交界の女王に
君臨するのではないかと
思います。
大富豪の婚約者へ愛はなくても
煌びやかな世界でしか
生きて行けないクロディーヌは、
リエットのお墓参りをすることで
ベルクでの過去の生活に別れを告げ
新天地で自分の道を歩む決意を
固めたのだと思います。
マティアスはステイン伯爵に
きちんと警告したのに、
それを無視して、奥さんと一緒に、
さらにレイラとフェリックスの
悪口を言うなんて、
ステイン伯爵は
マティアスを見くびり過ぎです。
ステイン伯爵は、
まさか、妻子の悪口を言った程度で
倒産させられるとは
思ってもみなかったのでしょうね。
マティアスの恐ろしさを
知らなさ過ぎました。
マティアスは、今後も、
レイラとフェリックスの悪口を
言う人々に対して、
彼らが破滅するまで、
復讐をするのでしょう。
恐ろしや、マティアス。
お願いだから、
レイラを取られた時に
息子に対しては嫉妬したり
復讐をしないでくださいね。
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