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59話 バスティアンが帰って来たら、ジェンダス伯爵がいました。
後に付いて来た乳母に
娘を渡したマクシミンは
急いで残りの階段を降りると
クラウヴィッツ大尉に会えずに
去ることになり
残念に思っていたけれど、
本当に良かったと言って
手を差し出しました。
バスティアンは、
マクシミンに挨拶をしながら
彼が求めた握手に応じました。
静かに近づいて来たオデットを
チラッと見たバスティアンは
再びマクシミンを見ると
伯爵が自分の家に
来ているとは思わなかったと
言いました。
照れくさそうに笑う
マクシミンの顔からは、
どのような罪悪感の色も
見当たりませんでした。
まず、マクシミンは、
先約なしに訪問するという
失礼を犯したことを謝罪しました。
バスティアンは、
何か急ぎの用でもあったのかと
尋ねました。
マクシミンは、
前回のパーティーでのアルマの過ちを
きちんと謝罪できていなくて
気になっていた。
二人を自分の別荘に
招待したかったけれど、
家門の事情で、予定より早く
アルデンを去ることになったと
心から残念そうな顔で
状況を説明しました。
バスティアンは
社交的な笑みを浮かべたまま、
彼の説明に耳を傾けていました。
疑わしい状況はないように
見えましたが、だからといって
伯爵を理解できるわけでは
ありませんでした。
自分が施せば、相手は当然
有難く受け取るという確信から生まれる
恩着せがましい親切。
謙遜を装ってはいるけれど、
結局、その本質は
このように傲慢でした。
自分では、それを
自覚すらできていないという点が
特にそうでした。
バスティアンは、
それなら、今夜、
一緒に食事をすればいいと
適切な社交辞令で伯爵を礼遇しました。
私怨を抱くような間柄ではないので、
ただ礼儀に従えば良いことでした。
マクシミンは、
ありがたいことだけれど、
列車の時間に間に合うためには
もう行かなければならない。
出発前に、少し挨拶に来たと
少年のように笑いながら
首を横に振りました。
バスティアンは、
このまま帰ってしまったら
自分の気が休まらないので
お茶でも飲もうと誘いました。
しかし、マクシミンは、
すでにクラウヴィッツ夫人と
ティータイムを共にした。
突然やって来た招かれざる客に、
身に余るほど立派な
もてなしをしてもらったので、
その点は心配しないように。
むしろ自分とアルマが
大変世話になったと言うと、
短く目礼することで、
オデットに感謝の意を示しました。
オデットも親しみのこもった笑みで
応えました。
マクシミンは、
あの日のアルマの過ちについて、
もう一度謝罪する。
今後は、あのようなことがないように
子供にしっかり教えておくと
丁寧な謝罪の言葉を伝えると、
乳母に目配せしました。
子供を抱いた乳母が近づいて来ました。
娘を受け取って抱いたマクシミンは
再び、バスティアンに近づきました。
彼と目が合った子供は
泣きそうな顔をして、
父親の胸に抱きつきました。
マクシミンはアルマに、
彼女の過ちについて、
クラウヴィッツ大尉に謝るよう
促しました。
あの子の過ちが何なのか
実は、バスティアンは
分かりませんでした。
娘を前面に出して
死んだ妻に似た女のそばを
うろうろしている父親と
他人の子供に、必要以上の思いやりを
示していたオデット。
彼らの過ちによって生じたことの責任を
何も知らない子供に
転嫁しているようなものだと
思いました。
心から申し訳なかったのなら、
二度と現れるべきではなかった。
伯爵の虚飾が滑稽に思えた瞬間、
グズグズしていた子供が、
「申し訳ありません、大尉」と
耳を澄ませないと聞こえないくらい
小さな声で囁きました。
うつむいているようにも見えました。
怯えた両目いっぱいに
涙を湛えながらも、
子供は、かなりしっかりと
自分の役目を全うしました。
バスティアンは黙礼することで、
若い淑女の勇気に応えました。
その瞬間、
子供のブラウスの首元を飾っている
レースの襟が目に入りました。
ありふれた装飾品でしたが
その色と形に見覚えがありました。
ここ数日間、オデットが手にして
とても丁寧に編んでいた、
まさにその襟でした。
勘違いであるはずが
ありませんでした。
とんでもなく小さく見える物の
用途が気になり、
注意深く見守っていたので、
バスティアンは
その装飾品の些細な部分まで
細かく記憶していました。
マクシミンは娘の頬に
キスをすることで
愛情と自負心を示しました。
ようやく子供が明るく笑うと
バスティアンは
チラッとオデットを見ました。
目鼻立ちは
あまり似ていませんでしたが、
全体的な印象には、
確かに似ているところがありました。
車が待機していることを知らされると、
マクシミンは、
近いうちに二人を
ジェンダス家に招待する。
どうか恩返しをする機会を
与えて欲しいと
最後の挨拶をしました。
バスティアンはオデットと一緒に
帰る客を見送りました。
急いで出発する前に
少しだけ立ち寄ったという言葉が
間違っていなかったかのように、
邸宅の前で待機中の
ジェンダス家の車には、
すでに荷物が積まれていました。
父と娘を乗せた車は、
夕暮れの風景の中へ
遠ざかって行きました。
オデットは、ようやく
バスティアンを見つめました。
彼女は、
ジェンダス家の社交範囲に
入ることができたことを
お祝いすると、
あの男やもめの好意を
得ることができたことが
大変な栄誉であるかのように
喜びました。
明るく笑う顔がきれいなだけに、
バスティアンは
さらに気分がよくありませんでした。
何事にも熱心なクラウヴィッツ夫人は
適当な不倫相手を探す義務も
疎かにしませんでした。
感心するほど卓越した業務能力でした。

今や森は、
夜の闇に包まれていました。
握りしめていたワイングラスを
下ろしたオデットは、心配そうな目で
朝食室の窓の外をのぞき込みました。
森の野良犬たちのことが
どうしても気になり、
世話をし始めてから、
いつのまにか10日近く経っていました。
あまりにも凶暴で警戒心が強く、
依然として近づくことは
難しかったものの、
それでもオデットが
散歩に出る時間になると、
いつも同じ場所に出て来て
餌を待っていました。
今日も、そうだったに
違いありませんでした。
オデットは
無理にため息を飲み込むと
再び食卓に目を向けました。
先に席を立たせてくれと
お願いしたらどうだろうか。
オデットは悩みましたが、
すぐに気持ちを変えました。
まだ妻の仕事をしなければならない
時間なので、個人的な感情で、
今日の仕事を台無しにしたくは
ありませんでした。
オデットは、
ジェンダス家を訪問するのは、
やはり海軍祭が終わった後が
いいですよねと、適切な言葉で
気まずい沈黙を破りました。
黙々と皿を空にしていた
バスティアンは、ようやく
食卓の向かい側に目を向けました。
彼は、ゆっくりと一口飲んだワインを
置いた後、奥様の意向に従うと
素っ気ない返事をしました。
新しい人脈を得たにもかかわらず
あまり喜んでいるように
見えませんでした。
オデットは、
褒められたかったわけでは
ありませんでしたが、それでも、
この反応に少しがっかりしました。
悩んでいたオデットは、
もしかしてジェンダス卿が
気に入らないのかと
慎重に尋ねました。
バスティアンは
そんなはずがないと答えると
にっこりと笑いました。
そして、
ジェンダス伯爵なら、
品格のあるスキャンダルを
起こしてくれる相手だと思う。
貴重な人脈なので、
これからも大切に管理していこうと
表情一つ変えずに
驚くべき言葉を続けました。
低くて穏やかな声も、
極めて普通でした。
オデットは、
まさか、今、自分とジェンダス卿が
不適切な関係にあると
考えているのかと尋ねました。
バスティアンは、
二人がすでに付き合っていても
高潔な友情を交わしている最中でも
自分の知ったことではないと答えると
大したことではないというように
眉を顰めて、
再びカトラリーを握りました。
そして、
自分はただ、
自分たちの離婚の理由となる
あなたの不倫相手が、
マクシミン・フォン・ジェンダスで
あればいいと思っている。
裕福で人柄がよく、
学識も高い名門貴族。
この程度なら、
自分の妻を譲るのに遜色ない。
相手をうまく選んだ。
とても気に入っていると、
我慢できないほど、
卑劣で汚い言葉を吐きながら
ゆっくりと肉を切り分けました。
言葉に詰まってしまったオデットは
ただぼんやりと
その光景を見守るだけでした。
いっそのこと、
声を荒げて怒っていたら、
誤解から生じた、こじつけだと
考えられたかもしれないのに
バスティアンは、
身の毛がよだつほど冷静でした。
まるで契約書を差し出しながら
プロポーズした、
あの春の日の午後のようでした。
何か説明してくれるのを待ちましたが
バスティアンは、
落ち着いて食事をするだけでした。
表面だけ焼かれた肉の塊の
濃い赤色の断面が、
突然、気持ち悪く感じました。
血の色をしている肉汁が流れる肉を
食べている男も同じでした。
なんというか・・・
動物っぽいと思いました。
野望のためなら、手段と方法を
選ばない男だということは
前から知っていましたが、
これは理解の範疇をはるかに超えた
非道な行為でした。
オデットは、
固まっていた唇をようやく開くと、
ジェンダス卿は自分とは
何の関係もない人だ。
あなたが望む離婚の理由は
何でも従うけれど、罪のない人を
この件に巻き込むようなことを
考えてはいけないと抗議しました。
すると、バスティアンは、
それなら、そろそろ良い関係を
築いてみたらどうかと言って、
最後の肉の欠片まで噛んで
飲み込み、
ナプキンを握り締めました。
そして、お似合いだからと
付け加えると、ナプキンで唇を拭いて
丁寧に折りたたむと、
極めて呑気な笑みを浮かべました。
人でなし。
オデットは、
危うく口から出そうになった恨み言を
必死に飲み込みました。
テーブルの下に急いで隠した両手は、
もう隠せない怒りで震えていました。
オデットは、
ジェンダス卿はいい人だ。
むやみに侮辱しないで欲しいと
厳しい家庭教師のように
バスティアンを叱りました。
彼は
すごい冗談でも聞いたように笑って
空のグラスを満たすと、
それなら、お互いにとって
良いことではないか。
自分はレベルの高い男に
妻を奪われたという体面を
保つことができるし
あなたは良い夫を手に入れる。
これ以上、良い結末はないと思うと
言いました。
オデットが「何ですって?」と
聞き返すと、
もちろん、不倫をした
あなたとジェンダス伯爵の評判が
損なわれることは
甘受しなければならないけれど、
もしも望むなら
その分の慰謝料も払うので、
心配は無用だと答えました。
オデットは、
お金があれば、
何でもできると思うのかと尋ねました。
バスティアンは、
できないこともない。
あなたがその証拠だと答えました。
オデットは、
あなたは本当に汚いと非難しました。
バスティアンは、
お金に人生を売ったあなたは
きれいなのかと、
歌を口ずさむように聞き返すと
ワイングラスを握りました。
真っ青になったまま
彼を睨みつけていたオデットは、
まもなく席を立ちました。
赤くなった両目いっぱいに
涙が溜まっていましたが、
結局、泣きませんでした。
遠ざかる妻の足音を聞きながら
バスティアンは
ゆっくりとグラスを傾けました。
主人とその妻の晩餐のために
執事が気を使って選んだワインは、
深く味わいと芳醇な香りを
備えていました。
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オデットは、
何度か面倒を見たことがあって
自分になついてくれたアルマが
ただ可愛いくて、
レースの襟をプレゼントしたかった
だけなのだと思います。
それに、マクシミンも、
オデットのことを、
アルマが「お母様」と呼んだことで
バスティアンが
気を悪くしたのではないかと思い
謝りに来ただけなのだと思います。
それなのにバスティアンは、
勝手に二人の仲を邪推し、
本当はそんなことを望んでいないのに
オデットの不倫相手を
勝手にマクシミンに決めつけ、
オデットを傷つけるような言葉を
平気で並べ立てるなんて酷いです。
あれもこれも、
マクシミンへの嫉妬心から
出て来た言葉だと思いますが、
オデットがバスティアンのことを
気持ち悪いと思うまでやるのは
どうかと思います。
バスティアンには、
もう少し大らかな気持ちで
オデットを見守ってもらいたいです。
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