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60話 オデットは、バスティアンとの食事の席を立ちました。
暗黙の約束の場所である
カエデの木の下には、
空っぽのブリキ缶だけが
ぽつんと置かれていました。
オデットは、
急いでそこに近づきました。
周りをくまなく探してみましたが、
野良犬は見当たりませんでした。
それが当然なのに、
少し心が痛みました。
あの男がいなければ。
恨みの矛先が
間違っているということを
知りながらも、オデットは
バスティアンを憎みました。
ジェンダス伯爵が訪れた後、
すぐにここへ来ていれば
会えたかもしれないのに。
自分に対して、
間違った言い訳をするのは嫌だけれど
心は止まりませんでした。
「人でなし」
先程、言えなかった怒りの言葉が、
夜の森を揺るがす
うら寂しい風に乗って
散らばって行きました。
自分は、絶対に
この結婚のために泣かない。
その呪文は、幸いなことに
今回も効果を発揮してくれました。
ぼんやりと広がっていた風景が
再び鮮明になると、
オデットは小道の入り口にある
カエデの木の下に近づきました。
ブリキ缶の中を転がっている
乾いた木の葉と
どんぐりの皮を片付けた後、
持って来た食べ物を入れました。
手についた埃を払いながら
立ち上がったオデットは
深い闇に包まれた小道に向かって
「ワンちゃん」と叫びました。
鳥がバサバサ飛び上がる音が止まると
すぐに森は、
再び静まり返りました。
何度か犬を呼んでみたオデットは
大きな木の根元に
疲れた体をもたせかけました。
しばらく庭を散歩するという
言い訳をしてきたので、
早く帰らなければなりませんでしたが
もう少し待ってみることにしました。
このまま置いていけば、他の獣の餌に
なるかもしれないからでした。
どこからか、
ナイチンゲールの鳴き声が
聞こえて来ました。
オデットは静かに目を閉じて
その歌に耳を傾けました。
口笛を吹くように始まった
澄んだ旋律は、多彩な技巧と共に
変奏されていきました。
母はナイチンゲールが大好きでした。
もはや、どの劇場にも
出入りできなくなった後も、
母に美しい音楽を聞かせたのは、
あの小鳥だけだったからでした。
最後にナイチンゲールの歌を聴いた夜
生まれ変わったらあの鳥になりたい。
辛い思いをすることなく
ただ美しく歌いたいと。
母は言いました。
オデットは、
辛い気持ちがあってこそ
美しく歌えるのではないか。
音楽には
心が込もっていなければならないと
言っていたではないかと
反論しました。
その言葉に
母親は力なく微笑みながら、
あなたは、いつも考え過ぎだと
言いました。
「考えなさい」
口癖のように、この言葉で
オデットを駆り立てていた母親が
見知らぬ悔恨の言葉を呟きました。
「オデット。愛する私の娘」
しばらく、
物思いに耽っているような視線を
送っていた母親は、
やせ細った手を上げて
オデットの顔を包み込むと、
「もし、私があなたを
これ以上守れなくなる日が来たら、
その時は、むしろ
美しい愚か者として生きるように」
と、理解できない頼み事をしました。
母親の顔は静かに流れ落ちる涙で
濡れていました。
そして「ごめんなさい」と
全生涯の重みが込められたような
深いため息とともに告げた一言を最後に
母は眠りにつきました。
そして翌朝、
悲運の皇女ヘレネの訃報が
伝えられました。
それは明らかな裏切りでした。
オデットは、
話し方、歩き方、笑い方。
甚だしくは、見て聞いて考える方法まで
全て母親から学びました。
これ以上、
家庭教師を雇うことができない状態に
転落した後は、
母親が自ら教鞭を取り
オデットを教えました。
足に合わない靴を履いて踊るせいで
足が血だらけになっても、
音がまともに出ない
ピアノの鍵盤を押すために
指の関節が腫れ上がっても、
決して寛容を示すことは
ありませんでした。
図書館から借りて来た本を読んで
学識を得られるようにし、
母が決めたレベル以上に
達することができなければ、
容赦なくムチを振るいました。
自分たちの場所に戻る日のために。
その蜃気楼のために。
その非情な師匠の最後の遺言が、
愚かになれということだなんて。
オデットは、
ただの一度も母親の命令を
破ったことがありませんでしたが
最後の頼みだけは
守らないことにしました。
一生母親を苦しめて来た虚しい夢を
追いかけようとするのでは
ありませんでした。
ただ、これまで身を捧げて来た人生を
否定したくなかったのでした。
母は結局、
全てを諦めて去りましたが
オデットでは、
そうではありませんでした。
あの男の言葉のように、
お金に人生を売っている今も
同じでした。
いつかは自分の場所で、自分の人生を
自分の思い通りに生きて行く。
その場所がどこなのかは
重要ではありませんでした。
自分のものではない栄光なんて、
最初から望んでいませんでした。
見せかけだけの身分を
消すことができる所なら、
なおさら良いと思いました。
この結婚が終われば叶う夢だと思えば
オデットは、いくらでも
大丈夫だったかもしれませんでした。
終わらないナイチンゲールの
鳴き声の中で、
オデットは、閉じていた目を
ゆっくり開けました。
もしも母親が鳥になって訪ねて来たら
逝く前に教えられなかった
愚か者になる方法を
切なく歌うだろうと思いました。
そんな儚い考えをしているうちに
甘くて、
ほろ苦い悲しみが訪れました。
時間を確認したオデットは、
このくらいで姿勢を正し、
息を整えました。
もしかしたら
母が正しかったかもしれないけれど
後悔はありませんでした。
すでに他の選択をしたので、
その選択を最善のものに
しなければなりませんでした。
取り返しのつかない過去に埋もれて
不幸になった母の人生を
何があっても、絶対に
そのまま繰り返すことは
ありませんでした。
「ワンちゃん」
オデットは最後に、
もう一度、野良犬を呼びました。
諦めたオデットが帰ろうとした瞬間
低木の茂みの間から
子犬が現れました。
影のようにくっ付いていた母犬は
見えませんでした。
「どうして一人で来たの?
お母さんは?」
驚いたオデットが近づくと、
子犬は鳴きながら、
道のない森へと走って行きました。
餌の方には目もくれませんでした。
オデットが動かないと、
子犬は戻って来て
ワンワン吠えました。
まるで自分について来て欲しいと
叫んでいるかのような態度でした。
オデットは途方に暮れた目で、
闇に包まれた森を見つめました。
子犬は再びそこへ向かって
走り出しました。

オデットは真夜中近くになっても
戻って来ませんでした。
バスティアンは、
三本目のタバコを咥えて
椅子から立ち上がりました。
しばらく庭を散歩すると言って、
邸宅を出た。
ロビスが、直接その姿を見て
聞いたことなので
疑いの余地はありませんでした。
しかし、
あっという間に二時間が経っても
帰って来ないオデットに、そろそろ
イライラし始めていたところでした。
怒っただけで家を飛び出すなんて。
分別がなく無責任な行動は
あの女らしくありませんでした。
その行為が、明らかに
計算されたものだという点で
なおさらそうでした。
もう一度、時間を確認した
バスティアンは、
庭が見える窓の前に近づき、
カーテンを開けました。
いつから降り始めたのか分からない
静かな夜の雨が
窓ガラスを濡らしていました。
急いでバルコニーに出ると、
雨の匂いがする涼しい風が
吹いて来ました。
諦めのため息をついたバスティアンは
急いで出かける準備を始めました。
着ている服の上に
レインコートを羽織る程度でしたが、
それ以上のことを
気にする余裕はありませんでした。
一階のホールに下りると、
焦った顔のロビスが近づいて来て
一緒に捜索する使用人たちを
準備させると言いましたが、
バスティアンは、一抹の悩みもなく
首を横に振り、
一人でも十分だと断りました。
些細な喧嘩と和解。
そんな平凡な夫婦の日常になるように
不必要な噂を立てないためには、
できるだけ早く、騒ぐことなく
解決する必要がありました。
心配するな。
オデットがいそうな場所は
もう知っているからと、
巧みな嘘で執事を慰めた
バスティアンは、
これ以上、遅れることなく
邸宅を出ました。
庭にいれば、
とっくに目についたはずだから、
もっと遠くまで行ったに違いない。
窓越しに何度も見た海岸は
空っぽだったので、
おそらく森の中にいる可能性が
一番高い。
推論を終えたバスティアンは、
すぐに目的地に向かいました。
徐々にスピードを増していく足音が、
雨の降る森の道沿いに続きました。
最後に、
アルデンの森を彷徨っていた夜も
雨が降っていた。
全部忘れたと思っていた昔の記憶が、
しとしと降る雨の中で
一つ二つと蘇りました。
確かにベッドに横になって寝たのに
ぱっと目が覚めると
深い森の中にいました。
パジャマを着ていて、裸足でした。
何が起こったのか分からず、
ぼんやりしていた頭の中が
はっきりしてくると、
限りなく心が寂しくなりました。
自分が壊れてしまった。
バスティアンは、
冷たい雨が降る闇の中で、
これ以上否定できなくなった事実を
受け入れました。
時々、自分が眠りについたまま
幽霊のように
夜道を彷徨っていることを
バスティアンはすでに知っていました。
それまでは、努めてそれを否定し
隠して来たけれど、
もう、これ以上、
隠しきれない限界のラインを
越えたような気がしました。
そのため、眠る前にロープで
手首を縛り始めました。
誰にも気づかれないように。
ただ縛られたまま、一人でもがいて
目を覚ますことが
できるようにしました。
朝早く起きて、
その痕跡さえ隠せば
弱点を隠すことができました。
イリス家に移った後も、
そのような夜は度々訪れましたが、
バスティアンは、
要領よく、上手に隠しました。
隙を見せてしまったのは、
母方の祖父と一緒に
暮らすようになってから、
おおよそ一つの季節が過ぎた
ある週末の朝でした。
油断して寝坊したのが災いの元でした。
一度もなかったことを
不思議に思った母方の祖父は、
孫の安否を確認するために
鍵のかかったドアを開けました。
そして、
ロープにつながれた獣のような格好で
寝室の床に倒れて、
眠っている孫を見つけました。
バスティアンは、
悲鳴のような祖父の泣き声で
目を覚ましました。
急いで紐を緩めた祖父は、
誰がこんなことをしたのか。
早く言ってみろと、
怒りに満ちた声で尋ねました。
バスティアンは、
自分でやったと、淡々と答えました。
紐に縛られて、もがいてできた傷から
血が滲み出ていましたが、
特に気にするほどの痛みでは
ありませんでした。
その朝、祖父は、
世界が崩れ落ちたように
声を張り上げて泣きました。
そしてバスティアンは
じっと、その涙を見つめました。
寝坊をしてはいけなかった。
口に出してはいけない
後悔をしました。
祖父は、
全帝国を隈なく探し回って
夢遊病の権威者を捜し出し、
バスティアンは
黙々と治療に応じました。
そうして時間が経つと、
ついに病気は治りました。
手首に残った傷跡も、歳月と共に
薄くなって行きました。
バスティアンは、
森と海岸を結ぶ道の端で
しばらく立ち止まりました。
顔を濡らしている
冷たい雨水を拭き取ると、
すでに過去になって久しい記憶も
姿を消しました。
あとはオデット。
森を周回する遊歩道を隅々まで見ても
姿の見えない、
あの頭の痛い女だけでした。
バスティアンは
荒い息を吐きながら
歩幅を広げました。
もし道に迷ったとしても、
どうせ屋敷の敷地内なので、
大きな事故が起きる可能性が
低いことを知っていましたが、
感情をコントロールするのが
困難でした。
夕食の食卓での
不愉快な言い争いもそうでした。
オデットの無実を知りながらも
止められませんでした。
このような混乱が、
もはや珍しくなくなったという事実が
バスティアンを、
ふと虚しくさせました。
その始まりを見つけるのは、
それほど難しいことでは
ありませんでした。
まだ冬の気配が残っていた早春の夜。
有難くない幸運が与えてくれた女が
ベールを脱いだ
まさにその瞬間でした。
あの夜の賭け金を
手に入れるべきだったという
遅過ぎる後悔が、
ひっそりとして寂しい闇の中に
染み込みました。
そうしていれば、一夜の女として
すれ違っただけだった。
縁談の相手として再会したとしても
今とは違っていたはずでした。
いくら皇帝の命令が重要だとしても、
裏通りの賭博場で身を売った女を
再び相手にはしなかっただろうから。
そのように
片づけてしまうべきだった女を、
人生の奥深くまで
引き込んでしまいました。
しかし、それはもう
取り返しのつかない過ちなので、
それなら、計画通りに、
完璧な結末を迎えれば
良いことでした。
手首を縛っていた
あの頃の少年のように、
この夜が
自分を壊さないように。
バスティアンは明確な結論で
混乱を収拾しました。
そして、
もう少し森の奥へ続く道を
再び探し始めました。
海が見える絶壁に続く道で
人の気配を感じたのは、
どうも、捜索する人員が
さらに必要だと思った頃でした。
バスティアンは
崖の前に立っている木に向かって
ゆっくりと近づいて行きました。
その下に小さくうずくまって
何かに没頭している女を見つけると、
深いため息をつきました。
「オデット」
囁くように名前を呼ぶと、
泥だらけになった女が、
頭を上げました。
間違いなく彼の妻、オデットでした。
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子供の頃、バスティアンが
夢遊病だったことを
思い起こすシーンは、
マンガの49話では、
夢として描かれていて、
自分が壊れてしまったという
表現がありませんでした。
けれども、原作では
バスティアンが森の中で、
オデットを探している最中に、
子供の頃、目を覚ましたら
森の中にいて、
自分が壊れてしまったと思った記憶が
蘇りました。
当時のバスティアンにとって、
自分が壊れるということは、
非常に恐ろしいことだったのでは
ないかと思います。
そして、今のバスティアンも
オデットと深く関わって行くうちに
再び、自分が壊れるのではないかという
恐怖を感じている。
バスティアンは、
二度と同じことにならないよう、
あれこれ理屈をつけて
理性を保てるよう、
必死になっているように感じました。
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