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153話 外伝1話 レイラとマティアスの結婚後のお話です。
夜が更けるまで、書斎のドアは
固く閉ざされていました。
マティアスは目を細めて、
ドアの隙間から漏れる光を
見つめました。
もう何日も、公爵夫人は
書斎で夜を明かしました。
期末試験が終わるまで、
このような日が続くはずでした。
軽くドアをノックしたマティアスは
ゆっくりと書斎のドアを開けました。
レイラは机に突っ伏して
眠っていました。
眼鏡も外していなのを見ると、
自分でも知らないうちに
眠ってしまったようでした。
しばらくその姿を見守っていた
マティアスは、
ゆっくりとした足取りで
レイラのそばに近づきました。
そんな中でも、
ペンを握りしめている小さな手に
彼はクスッと笑いました。
起こしてやらなければ
いけないだろうか。
机にもたれかかったマティアスは
物憂げな眼差して、
すやすや眠っている妻を見つめました。
開いた窓から入って来た
初夏の夜の風からは、
微かなバラの香りが漂っていました。
マティアスは、
名前を呼ぼうとしましたが、
気が変わり、
風に揺れている金色の髪の毛を
撫でました。
もぞもぞしていたレイラは、
まもなく目を覚ましました。
マティアスは、
「おはようございます」と
平然と挨拶をしながら、
ゆっくりと身を屈めました。
「レイラ」と
やや低い声で囁く名前が、
瑞々しい頬の上に流れました。
眠気が覚めなくて、
ぼんやりとしいてた目に焦点が戻ると
レイラは、びっくりして
体を起こしました。
そして、眼鏡をかけ直して
身だしなみを整えるために、
手を忙しく動かしました。
レイラは、
少し赤くなった頬を撫でながら、
少し目を閉じていただけだと
言い訳をしました。
マティアスは、微かに微笑みながら
レイラをじっと見つめるだけで、
何の返事もしませんでした。
レイラは、本当なのに・・・と
呟きながら、そっと目を伏せました。
頬を撫でる指先が
少し震えていました。
結婚して、
もう一年近くになる男性の前で、
改めてこんな気分になるなんて
滑稽でもありました。
レイラは、乱れた髪を結び直した後、
再び彼に目を向けました。
マティアスは、窓の向こうの夜空を
じっと見つめていました。
スタンドの明かりだけの
薄暗い空間の中でも、
彼の存在感は、
あまりにも鮮明でした。
もしかしたら、いつも
そうだったのかもしれないと
レイラは、ぼんやりと考えました。
そう願っても、願わなくても、
その感情が何であれ、
初めて見たあの幼い日の夏以降
ずっと、彼は自分にとって
そんな人でした。
レイラは、「ねえ、マティ」と
声をかけると、
突然、振り返った彼と目が合い、
ギョッとして唇を離しました。
そして、
もう行ってくれないかと頼みました。
顎の先を少し下げることで、
代わりに答えた彼の口元には、
いくらか、意地悪そうな笑みが
漂っていました。
マティアスは、
また寝るのかと尋ねました。
その言葉にレイラはカッとなり
「いいえ!」と答えて
首を横に振りました。
よりによって、ノートの上に
滅茶苦茶に広がっている
インクの染みが目に入ったせいで
少し、気まずくなりましたが、
レイラは、勉強すると言いました。
マティアスが「ああ、 そう?」と
返事をすると、
レイラは「はい!」と答え
これ見よがしに、
本を1ページめくることで
固い意志を示しました。
澄んだ闇の中に染み入る彼の笑い声は
先程、届いたその唇の感触のように
柔らかでした。
マティアスはレイラに
勉強するよう促しました。
レイラは、
あなたがここにいるのに、
どうして、そんなことができるのかと
抗議しました。
マティアスは、
自分は、このように
じっとしているだけなので、
邪魔にはならないのではないかと
厚かましくも言い返して
首を軽く傾げました。
額に垂れている髪が軽く揺れました。
その感触を覚えている指先が
くすぐったくて、レイラは訳もなく
乾いた唾を飲み込んだ。
こんな男のそばで勉強するなんて
とんでもないことだ。
むしろフェリックスのそばで
勉強するほうがマシ。
なぜか恥ずかしいその言葉を飲み込むと
レイラは眉を顰めているように
見えました。
そして、頬に感じられる微かな熱は
努めて無視し、
できるだけ落ち着きながら、
早く行くように。
自分は本当に勉強しなけばならないと
言いました。
マティアスは、
優等生なら、試験勉強は
前もって済ませておくべきではないかと
言いました。
レイラは、思わず声を荒げて、
「もちろん、しました!」と
返事をしてから、
自分がこの男のいたずらに
巻き込まれていることに
気づきました。
はっとした彼女を
じっと見つめていたマティアスは、
クスクス笑いながら体を起こし、
「それで?」と尋ねました。
近づいて来た彼の影が
レイラの上に落ちました。
彼女は、
それでも、もしかしたら
見落としたものがあるかも
分からないと、
負けないと言わんばかりに
頭をまっすぐに立てましたが、
レイラの頬は、もう闇の中でも
隠すことができないほど
赤くなっていました。
一位でなくても
大変なことになるわけでは
ありませんでしたが、それでも、
その座を逃したくありませんでした。
女子学生だから。
騒々しいスキャンダルの主役である
ヘルハルト公爵夫人だから。
様々な理由で無視して排斥する連中に
負けるのは嫌でした。
どう説明すればいいか分からない
その気持ちを
理解していると言うかのように、
マティアスは快く頷いてくれました。
じっと頬を撫でていた手は、
少し斜めになった眼鏡を
かけ直してから離れました。
安堵感と共ににじみ出た
妙な物足りなさに
レイラは小さく首を傾げました。
あり得ない。
馬鹿げた考えを否定するかのように
頭を振ってみましたが、
何の役にも立ちませんでした。
早く行ってくれればいいのに、
マティアスは、これといった表情もなく
ただこの夜のように静かに、
相変らずその場で
じっとレイラを見つめるだけでした。
瞬きが頻繁になった目を隠すように、
レイラは慌てて頭を下げました。
その時、低い笑い声が
再び聞こえて来ました。
また、いたずらをしたんだ。
その意図に気づいた時、
マティアスの唇は、すでに
レイラの唇に触れていました。
巧みに外した眼鏡を机に置く音が
レイラの低いため息の間に
混じりました。
そっと唇に触れていたキスが
深まるまで、それほど時間は
かかりませんでした。
慌てたり身をすくめる代わりに、
レイラは、そっと
彼の首筋を抱きしめました。
後頭部を撫でる指の間をすり抜ける
髪の感触は、記憶よりも
ずっと柔らかでした。
そっくりな髪の色を持つ、
幼い息子、フェリックスの
それのようでした。
夏の夜の風のように
ゆっくりと続いたキスは、
レイラの頬が、
机の上の花瓶に挿されている
ピンク色のバラより赤くなってから
ようやく終わりました。
呆然として息を切らしている
レイラとは違って、マティアスは、
やや無情に感じられるほど
落ち着いた姿でした。
彼の顔が再び近づいて来ると
レイラは無意識に目を閉じました。
しかし、馴染みのある体臭と息遣いは
感じられませんでした。
それが不思議で、そっと目を開けると、
軽い何かが鼻の上に舞い降りました。
マティアスが外した彼女の眼鏡でした。
指先で濡れた唇を拭きながら、
マティアスは、
「勉強しなきゃ、レイラ」と
淡々と囁きました。
「一生懸命に」と
付け加えた一言を最後に、
彼はこれで退きました。
手を引っ込めて、
背を向ける淡々とした動作が、
レイラをさらに慌てさせました。
何事もなかったかのように
遠ざかって行ったマティアスは、
書斎のドアの前で
不意に振り返りました。
眉を顰めたレイラに向き合っても、
全く気にしない顔をしていました。
レイラは
「早く行っていただけますか、
公爵閣下。これから、本当に
勉強をするつもりです。一生懸命!」と
わざと、つんと澄まして言いました。
ペンを握り直す動作も
かなり悲壮でした。
じっと彼女を見つめていたマティアスは
この上なく丁重に、
まるで女王に謁見する臣下のように
挨拶することで、
代わりに返事をしました。
最も優雅な方法で
自分をからかっている男を
睨みつけていたレイラは、
結局、虚しい笑いを漏らしました。
そうだろうと思っていたと
言わんばかりに、
クスクス笑ったマティアスは
悠々と書斎を去っていきました。
ドアが閉まる音が聞こえて来た後、
ようやく、レイラは
ぐっと堪えていた
長いため息をつきました。
やっぱり変。
首を横に振ってみても、
彼が残していった妙な緊張感は
なかなか消えませんでした。
変な男ですよ、本当に。
微かに熱を帯びている頬を
擦りながら、レイラはもう一度
ペンを握り直しました。
もう本当に、勉強をしなければならない
時でした。
一生懸命。
憎たらしい夫が残していった
頼み事のように。

ローレンツ教授は今学期も
張り紙を掲示することで、
成績を通知しました。
それに不満を抱く学生たちも、
あえてその厳しい教授に
立ち向かう気にはなれないため、
今や一つの慣習として
定着していたことでした。
レイラは、どっと押し寄せて来た
学生たちの間を巧みにすり抜けて
張り紙の前に近づきました。
いつも一番遅く採点をする
ローレンツ教授の成績が発表される日は
すなわち生物学部の順位が
決まる日でもありました。
「おめでとうございます、公爵夫人。
とても嬉しいでしょう」と
レイラが自分の名前を探すより先に
皮肉な声が聞こえて来ました。
声のする方へ顔を向けたところ、
予想通りの、その顔、
レーモン伯爵が立っていました。
レイラと首席を争っているけれど、
概して次席に名を連ねているので
ヘルハルト公爵夫人へ
あまり良い感情を抱いていない
人物でした。
女子学生に、しかも、
自分が下品な愛人扱いをする、
まさに、その女子学生に
負けるという事実に、
彼は特に耐えられませんでした。
レーモン伯爵が、
それが結婚であれ、学業であれ、
公爵夫人は、望むことを何でも
成し遂げる方のようだと、
棘のある言葉を投げかけると、
至る所から、クスクスと
笑い声が聞こえて来ました。
レイラは眉を顰めて
自分の名前と点数を確認しました。
今学期も首席は
レイラ・フォン・ヘルハルトという
意味でした。
姿勢を正したレイラは、
微笑みながら、お礼を言うと
彼女が知っている
最も優雅で傲慢な貴族、
ヘルハルト公爵のように
頭を下げました。
そして、
このように先にお祝いしてくれるなんて
本当に親切だと言いました。
声が少し震えましたが、
レイラは退きませんでした。
前の学期までは
敢えて敵を作らないように
努力したりもしました。
もし彼がフェリックスを
侮辱しなかったら、
その程度の関係は維持できたのかも
しれませんでした。
レイラは、
毎学期、このように
自分に栄光の席を譲ってくれるのを
見ると、
レーモン伯爵は何でも
譲歩してくれる人のようだ。
おかげさまで、今度の休みを
楽しく過ごせそうだと、一言一言、
きちんと話し続けていくほど、
彼の顔は、
ますます赤くなっていきました。
伯爵様も、
楽しい夏休みをお過ごしくださいと
言って、
両手を軽く合わせて握ったレイラは、
もう一度、今度は、精一杯
丁重な挨拶をしました。
張り紙の前を離れる時も、
ダンスを踊るように軽やかに
歩きました。
この一年の時間がレイラに教えてくれた
生物学部唯一の女子学生であり、
ヘルハルト公爵夫人として
大学生活を送る方法でした。
建物の前に停めておいた
自転車に乗ったレイラは、
いつもより力強く
ペダルをこぎ始めました。
斜め掛けをした革のバッグが、
そのリズムに合わせて揺れました。
自転車に乗る公爵夫人。
ラッツの社交界を騒がせたその噂は、
まもなくアルビスまで伝わりました。
ヘルハルト家の二人の婦人は
驚愕しましたが、マティアスは
気にも留めませんでした。
運転手付きの車に乗って通学することを
気まずく思っていたレイラに
自転車をプレゼントした人が
まさに彼だったからでした。
キャンパスを離れた銀色の自転車は、
すぐに甘い香りが漂う公園へと
入って行きました。
大学からラッツの公爵邸へ行く
一番早い道は、
都心の大通りを通ることでしたが、
レイラは少し遠回りしても、
いつも公園を横切る方を選びました。
アルビスの森を思わせる美しい道。
その理由一つだけでも、
この程度の苦労ぐらいは
いくらでも甘受することができました。
アルビスで過ごすことになるこの夏は、
それで、さらにレイラの気持ちを
ウキウキさせました。
大学生になって迎える初めての夏休みを
領地で過ごすことに決めたのは
レイラでした。
マティアスは、二人きりで行く
遅い新婚旅行を提案しましたが、
フェリックスを一人で
アルビスに送るのは、
どうしても気が進みませんでしたし
何より、アルビスが、
永遠の心の故郷であり、
数多くの傷と悲しみさえ、
隠すことができない大切な思い出が
宿っている、あの美しい森が
懐かしかったからでした。
道の向こうに
邸宅の出入り口が見え始めると、
レイラはさらにスピードを上げて
自転車を走らせました。
久しぶりにマティアスが
出勤しなかった日でした。
だから、思う存分
自慢しなければなりませんでした。
幼稚過ぎるようではあるけれど、
一度はやってみたかったことでした。
そうしてもいいと思いました。
ご主人様は庭にいらっしゃいます。
坊ちゃんも一緒です。
自転車に乗って来た公爵夫人を迎えた
中年のメイドは、丁寧な口調で
それとなく告げました。
フェリックスと一緒にいるという
思いもよらない言葉に
目を丸くしたレイラの目に、
すぐに笑みが浮かびました。
フェリックスをアルビスに送り、
二人きりで旅に出ようという、
あのとんでもない提案は
やはり冗談だったのかも
しれませんでした。
レイラはホールを横切って
庭園に向かいました。
早足のリズムに合わせて
一つに編んだ髪が揺れました。
どんな優しい姿をしているだろうか?
色々想像しているうちに、レイラは
邸宅の裏庭に辿り着きました。
遊歩道に入ると、
バラの香りが濃厚に漂う風が
吹いて来ました。
そっくりな二人の男は、
つるバラが満開の
パーゴラの下にいました。
思わず吹き出した
レイラの軽快な笑い声が、
庭いっぱいの日差しの中に
溶け込みました。
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マティアスがレイラを
大学に入学させることができたのは
彼女が試験に合格し、
入学金と授業料も払っているので
通っていなかった期間は
休学という形にしろと、
ヘルハルト家の力を使って
ねじ伏せたのではないかと
思います。
もしかしたら、レイラは
それを引け目に感じていたかも
しれませんし、
ヘルハルト家の威光を笠に着ていると
非難されたかもしれません。
その逆境に打ち勝つ方法が、
自分の力で首席を取るという
ヘルハルト家の力が
及ばないことなのだと思います。
マティアスと結婚した後
レイラは彼のことを
何て呼ぶのかと思っていましたが
マティなのですね。
きっとレイラは結婚後も、
つい公爵様と呼んでいたけれど、
マティアスが呼び名を変えろと
促したように思います。
マティアスとチビマティアスが
並んでいる姿。
頭の中で想像して楽しんでいます。
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