![]()
155話 レイラとマティアスはアルビスへ帰って来ました。
鳥たちのさえずりで騒々しい
森の道を通ると、
小屋が姿を現しました。
帽子を脱いだレイラは、前庭の端で
しばらく、ぼんやりと
その風景を見つめていました。
人が住まなくなってから
かなり長い時間が経ったにもかかわらず
小屋は昔のままの姿を保っていました。
二人の婦人は、
もう主人がいないその小屋を壊して
野外でティーパーティーを楽しめる
庭園を作ろうとしましたが、
マティアスが、
反対の意思を示したとのこと。
随行員を通じて、その知らせを聞いた日
レイラは彼に、
ビルおじさんの小屋を
どうするつもりなのかと尋ねました。
書斎の机越しに
じっと彼女を眺めていたマティアスは、
なぜ、それを自分に聞くのかと
全く予想できなかった返事をしました。
そして、先程まで見ていた書類の山に
視線を移しながら、
「君の思い通りに」と
落ち着いて話を続けました。
その後、もう一度、
「何でも、君の思い通りに」と
今度は、より淡々と伝えた言葉が
レイラの混乱を助長しました。
彼女は、深く悩んだ末に、
つまり、それは・・・
ビルおじさんの小屋が
自分のものであるという意味かと
慎重に尋ねました。
マティアスは依然として
淡々とした態度を貫きながら、
しばらく目を合わせた後、
短く顎を動かしました。
紙をめくる音が
何度も繰り返された後、レイラは、
その簡潔な身振りの意味を
理解しました。
分かっているようで分からない
マティアスの気持ちについて
レイラは尋ねませんでした。
彼もまた、沈黙の中で
自分の仕事に没頭するだけでした。
そのためか、
あの日のことを思い出すと
紙をパラパラめくる
あの規則的な音が
聞こえてくるようでした。
腕時計を確認したレイラは
前庭を横切って小屋へ向かいました。
老婦人と共にするティータイムまで、
まだ、しばらく余裕がありました。
きれいに管理されている家の中を、
レイラはゆっくりと見回しました。
置いて行った所持品は、全て整理して
ラッツに持って行ったので、
小屋にはカバーが掛けられた
家具だけが残っていました。
その姿がとても寂しそうに見えたので
レイラは思わずポーチに出ました。
大きさの違う二つの椅子は、
依然として、あの頃の姿のままで
置かれていました。
自分の椅子に座ったレイラは、
その傍らに置かれた
ビルおじさんの大きな木の椅子に
視線を移しました。
前屈みに座って、風に当たりながら
タバコを吸うビルおじさんの姿が
見えるような気がしました。
一見ぶっきらぼうに感じられるけれど
実は、
この上なく優しい声で呼んでくれた
自分の名前と、ガハハハと笑う声が
聞こえて来るような気がしました。
おじさんの望み通り、
大学に一生懸命通っています。
私以外は皆男子学生だけれど、
それでも、
おじさんのレイラが一位です。
嬉しいでしょう?
並んで座って、
談笑した数多くの日々のように、
レイラは明るい声で話しかけました。
フェリックスも
とても元気に育っています。
おじさんが買ってくれた靴を履いて
よちよち歩きを始めたのが
昨日のようだけれど、
今では走ったりするし、
話も上手です。
もう知っていると思いますけれどね。
その靴を履く子供が
もう一人いるといいのですが、
あの人は嫌だそうです。
仕事を終えてきたおじさんに、
一日の日課を楽しくお喋りしていた
快活な少女のように、
レイラは多くの話をしました。
学校生活。 フェリックス。
そして、あの男、
マティアスについても。
声の震えが収まるにつれ、
微笑みは、
穏やかになっていきました。
「また来ます」
レイラは、ギュッと閉じた目を
開けながら席を立ちました。
長く伸びて来た午後の日差しが
空っぽの古い椅子の上に
垂れ下がりました。
「愛しています。お父さん」
優しく伝えたその言葉の余韻を
残したまま、レイラはゆっくりと
ポーチの下に降りて行きました。
帽子をかぶって自転車に乗る動作は、
再び、逞しくなっていました。
レイラはスピードを上げて
森の道を走り始めました。
白いワンピースの裾が、森を揺らす風に
ヒラヒラとなびきました。
小屋をどうするかは
まだ決めていませんでしたが、
ビルおじさんにも
喜びを与えられる場所に
しなければならないという
その一つだけは確かでした。
覚悟を決めて、
空を見上げるレイラの表情は
決然としていました。
ちびレイラが、
なかなか立派な大人になったと
おじさんがケラケラ、
声を上げて笑うことができるように。

公爵一家を乗せた車は、
森へと続く道がある
シュルター川のほとりで止まりました。
先に到着して、
準備を終えた使用人たちは、
秩序正しく整然と並んだ姿で
主人を迎えました。
運転手が急いで
後部座席のドアを開けると、
真っ先にマティアスが降りました。
クリーム色のリネンのスーツを着た彼は
いつもと変わらない気品を
備えていました。
何一つ欠点のない、
皆が知っている、まさに
そのヘルハルト公爵の姿でした。
使用人たちが、
こっそり彼を見ている間に、
ストラップに装飾のある靴を履いた
小さな足が、
開いた車のドアの間から現れました。
習慣的に近づこうとした運転手は、
ビクッとして、姿勢を正しました。
ヘルハルト公爵は、
妻のエスコートを、
他人に任せませんでした。
アルビスの使用人なら、
今や皆が知っている事実でした。
あの子が公爵夫人になるなんて
誰が考えただろうか。
庭師の孤児。
アルビスの子供と呼ばれた
その少女を覚えている人たちは、
驚きのこもった視線で
二人を見つめました。
レイラは、
公爵が差し出した手を握って
車から降りました。
その軽やかな動きに合わせて
豊かなスカートの裾が波打ちました。
注意深く風景を眺める緑色の目は、
今日の日差しのように
澄んだ笑みを浮かべていました。
「とてもいい天気です」
ウキウキとした声で伝える妻の言葉に
公爵の口元が柔らかくなりました。
最後の息を吐くその日まで、
完璧な支配者の顔で
生きていくかのような男を
包み込んでいる空気が
微妙に変わる瞬間でした。
一時、公爵が
少し変わったのではないかと
思われていましたが、それは
レイラ・フォン・ヘルハルトにだけ
許された、ちょっとした
特例に過ぎないということに
皆、すぐに気づきました。
そして、
その細かいヒビのような隙間は、
むしろ彼の人生を、より堅固に見せる
鎧となってくれました。
公爵夫妻が並んで歩き始めると、
待機していた使用人たちも
後に続きました。
多くの人々が動いているにもかかわらず
森の道は、依然として平穏でした。
おかげで、より鮮明な鳥と風の音に
耳を傾けながら、
レイラはそっと顔を上げました。
マティアスは前を向いて
ゆっくりと歩いていました。
光と影が交差するたびに
印象が変貌するその顔を、
レイラは、じっと息を殺して
見守りました。
目が合ってから、
彼の視線も自分に向いていることに
気づきました。
唇を震わせていたレイラは、
結局何も言わずに目を伏せました。
マティアスは、
約束を守ってくれました。
思っていたのとは
少し違うピクニックでしたが、
あえて、
言及したくはありませんでした。
今のままでも、
十分幸せな瞬間だからでした。
再びマティアスと目を合わせて
微笑んだレイラは、
保母が押しているベビーカーに
座っている息子に向かっても
同じように微笑みました。
ベビーカーに乗りたくないと
ぐずっていたフェリックスは、
いつ自分は、
そんなことをしたのかというように
ニコニコしながら
周りを見回していました。
レイラは、すぐにでも
子供に近づきたい衝動を
必死に抑えながら姿勢を正しました。
アルビスを支配する秩序は、
ラッツ邸とは
明らかに異なっていました。
二人の婦人が
自分たちの秩序を尊重してくれたように
このアルビスに滞在している間は
自分たちもまた、
そうでなければならないことを
レイラは、もうよく知っていました。
次期ヘルハルト公爵が、
その二つの世界をまとめることを
望んでいるという老婦人の意思が
何を意味するのかも。
「わぁ・・・」
ピクニックの場所に着いたレイラは
思わず感嘆しました。
野イチゴを摘んで疲れた時、
しばらく立ち寄って休んでいた小川は
今まで知っていたのとは
全く違う場所のように
変貌していました。
木陰の下に広がる
広々としたピクニックマットの上には
まったく、ここにありそうもない物が
ずらりと並んでいました。
お茶が沸いている火鉢。
繊細な陶器や銀食器。
クッションや毛布。
花瓶に入った新鮮な花まで。
ピクニックの場所を決めたのは
まさに自分なのに、レイラは
見知らぬ所に来ているような気分を
振り払うことができませんでした。
レイラは、
まるで、屋敷の部屋を一室、
丸ごと取り外して
ここに移したようだと言いました。
真剣な言葉だったのに、
マティアスはクスッと笑いました。
このように和やかな表情をする時、
彼の顔は、さらに
フェリックスに似ていました。
しきりに、心が弱くなってしまうのは
もしかしたら
そのせいかもしれませんでした。
多少負担に感じる
ピクニックになりそうでしたが、
レイラは、
今日の幸せを逃さないことに決め、
マティアスが
約束を守ってくれたことに
お礼を言いました。
依然としてレイラは、
誰が何と言おうと永遠に
彼の約束を信じていました。
そして相変わらず、
彼は約束を守ってくれました。
マティアスは手を伸ばして
包み込むように握ったレイラの頬を
撫でることで代わりに答えました。
ただそれだけなのに
レイラは慌てて周りを見回しました。
短く触れていた手が離れた後も、
不安定な心臓の鼓動は
なかなか収まりませんでした。
レイラは、
恐怖と羞恥心が落としていた濃い影が
消えた後になって気づいた
この気持ちの名前を、
今は知っていました。
さらけ出すには、まだまだ
勇気が必要な気持ちでしたが。
「マティ」
衝動的に呼んだ名前に応えて
前を歩いていた彼が振り返りました。
帽子の広いつばをいじりながら、
レイラは、
「ただ・・・いい天気だから」と、
さっとごまかしました。
馬鹿なことを言っているのは
分かっていましたが、
他に何の言葉も思い浮かばないので
仕方がありませんでした。
マティアスは平然とした顔で
木陰に座りました。
一糸乱れず動き出した
使用人たちの気配が、夏の森の中に
静かに広がっていきました。
しばらく悩んでいたレイラは
帽子を脱がずに
マティアスのそばへ近づきました。
どうやら、もうしばらく
帽子が必要なようでした。

その命令が伝えられたのは、
ティータイムが
終わったばかりの頃でした。
はっきり聞いても信じられない言葉に
当惑した使用人たちとは違って、
マティアスの態度は
一様にもの静かでした。
随行人は、まさかと思い、
乳母を含めて全員、使用人たちを
退かせるということかと
聞き返しましたが、
マティアスは
「はい」と返事をしました。
ぼんやりとした表情の
使用人たちをかすめた
マティアスの視線は、再び
随行人の顔の上で止まりました。
彼は、
「準備は完璧です。
皆さん、お疲れ様でした」と
労いました。
随行人は「しかし」と
反論しようとしましたが、
マティアスは袖口を少し上げて
時間を確認し
「6時」と告げることで
随行人の言葉を遮りました。
そして、その頃に戻って来て
後片付けをしてくれれば
十分だと思うと、
優しい口調で話しましたが、
その命令は断固たるものでした。
困惑しながらも、
結局、マーク・エバースは
主人の意思を受け入れました。
彼の指示に従い、使用人たちは
潮が引くように去り始めました。
レイラはきょとんとして
あたりを見回しました。
フェリックスを母親の胸に渡した
保母まで退くと、この森には
彼らだけが残されました。
「これでいいのでしょうか?」
レイラは心配そうに尋ねました。
家族だけで過ごす和やかな時間を
望んでいましたが、
ここはアルビスでした。
しかし、マティアスは、
その質問の意味を
理解できないような目つきで
彼女を見つめるだけでした。
ようやくレイラは、まさに、この男が
アルビスの主人だということに
はっと気がつきました。
マティアスは、概して
祖母と母の意思を尊重しましたが、
それは、あくまでも
自分がそうすると決めたことに
限定されました。
他の決定を下した時、
彼が自分の意思を
どのように貫徹させてしまうのか、
レイラは、この世の誰よりも
よく知っていました。
レイラは、言いたいことが
たくさんありましたが、
その言葉を伝える方法が
思いつきませんでした。
レイラは、わけもなく
フェリックスに話しかけることで
苦境を逃れました。
相変らず自分に向けられる視線を
意識しないのは
不可能なことでしたが。
彼がカップを下ろす。
たったそれだけの音にも
敏感に反応する自分が
ふと滑稽になった瞬間、
マティアスは、
「もう脱げ、レイラ」と命令しました。
![]()
![]()
ビルおじさんの椅子に向かって
レイラが話しかけるシーンに
涙腺が崩壊しました。
レイラには、
ビルおじさんのことを、もっと早く
もっとたくさん「お父さん」と
呼んで欲しかったし、
フェリックスが靴を履いて歩く姿を
ビルおじさんに
見て欲しかったです。
二人の婦人には不要だけれど
レイラにとっては
大切な思い出が残っている小屋を
マティアスが
レイラのために残してくれて、
きちんと管理もしてくれて
レイラのものにしてくれて
本当に良かったと思います。
フェリックスが大きくなったら
レイラとビルおじさんのように
二人が食卓を囲んで笑う姿を
見たいと思いました。
********************************
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
今日のピクニックの画像は
AIで作りました。
ピクニックマットの上に
置かれているものについて
今回、書かれている文を、
ほぼそのまま使って、
画像を作ってくださいと
お願いしたところ、
火鉢の上に乗っているのが
まるで土瓶のようで、
がっかりしてしまいました。
ティーセットも
一人分しかありませんし・・・
もう少し、綿密な指示が必要だと
痛切に感じました。
![]()