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62話 ベロップの外交使節団がベルクに来ています。
ベロップの外交使節団は
奇襲的に海軍省を訪問しました。
本来、国会で特別演説を行った後、
居住地の別宮に移動する予定でしたが
皇太子が、
近くにある海軍省に大きな関心を示し
移動経路が急に変更されました。
すでに皇帝の許可が下りたので、
拒否する方法はありませんでした。
そのせいで、海軍省は
戦時に準ずる非常事態となりました。
ベロップ皇太子を乗せた儀典車が
本部の建物の前に到着したのは、
辛うじて
国賓の謁見の準備を終えた頃でした。
将軍たちと順番に挨拶を交わした
ベロップ皇太子は、当然のように
バスティアンの前に近づき、
「こんにちは、クラウヴィッツ大尉」
と挨拶をしました。
挙手の敬礼をしたバスティアンも、
驚いた様子もなく
「大尉の
皇太子殿下にお目にかかれて光栄です」
と挨拶をし、
皇太子が求めた握手に応じました。
国賓と一介の将校の間で交わされるには
あまりにも親密な挨拶でしたが、
誰もそれを怪しむことは
ありませんでした。
自ら使節団を率いて
ベルクを訪れた皇太子の本音は、
すでに公然の秘密だったためでした。
それを証明するかのように、
ベロップ使節団の突然の訪問を聞いた
クラウヴィッツ大尉を含めるよう、
真っ先に指示を出しました。
同盟国の皇太子への
歓迎の贈り物でした。
ベロップの皇太子は、
トロサ海戦を勝利に導いた
英雄ですよね。その名声は
聞き及んでいる。
おかげで、こちらの陣営が、
北海の覇権を掌握することになったので
大尉はベロップの英雄でもあると、
優しく微笑みながら
その贈り物への満足感を示しました。
しかし、バスティアンを
じっくり観察する目つきからは、
まだ完全に隠しきれていない
警戒心が滲み出ていました。
婚約者のスキャンダルを
公式に問題視してはいないものの
まだ疑いを全て消すことは
できない様子でした。
バスティアンは、
褒めすぎだ。
あの日の勝利は、
ベルクの海軍艦隊全員で
共に成し遂げた戦功だったと
適当な謙遜の言葉で、
話の流れを繋ぎました。
儀礼的な褒め言葉を
いくつか並べながら、
探りを入れていた皇太子は、まもなく
自分の婚約者であるイザベル皇女の
従姉と結婚したそうですねと
本音を露わにしました。
バスティアンは、
「はい、そうです、殿下」と
答えました。
ベロップ皇太子は、
皇室が直接取り持った縁談だったと
聞いている。
伝統を重視するベルクの皇帝が
爵位のない将校に妹の娘を授けるなんて
クラウヴィッツ大尉のことを
本当に大事にされているようだと
言いました。
皇太子の目つきが鋭く光っていました。
露骨な疑いを表わしたも同然でしたが、
バスティアンは動揺しませんでした。
バスティアンは、
戦功を立てた軍人に対する
寵愛でもあるけれど、それよりは
急変する時代を包容する
立派な治世の一環だと考えている。
おかげで高貴な妻を得た恩は、
帝国と皇室に
さらに忠誠を尽くすことで
返していこうと思うと返事をしました。
ベロップ皇太子は、
大尉は相当な愛妻家だと言いました。
バスティアンは、
妻は美しくて賢い人だ。
今に至るまでなかったし、
これからもない、
自分の一生の愛だと信じていると
返事をすることで、与えられた任務を
完璧にやり遂げました。
焦った様子がありありと見えた
将軍たちの顔に、ようやく
安堵の色が浮かび上がりました。
誰よりも喜んでいるのは、
やはりデメル提督。
一生の愛という、でたらめな言葉を
強要した張本人でした。
ベロップ皇太子は、
ますますクラウヴィッツ夫人のことが
気になってきたけれど、
海軍祭で直接会って、
挨拶を交わす機会を持つことが
できるだろうかと尋ねました。
バスティアンは、
「もちろんです。昇進式と観艦式には
妻を同伴する予定です」と答えました。
ベロップ皇太子は、
それでは、
ローザンでまた会える日を
楽しみにしているという
礼儀正しい挨拶を最後に
バスティアンの前を通り過ぎました。
使節団は、
形式的な海軍省の視察の後に
去りました。
皇太子の目的は、初めから
イザベル皇女のスキャンダルの相手を
確認することだったのを
証明した行動でした。

ひとしきり暴風が吹き荒れた場所に
残った将校たちが
不平を吐き出している間、
バスティアンは食堂へ行って
遅い昼食を食べました。
そして再び業務に戻って
書類作業を終えると、
いつのまにか体力錬成の時間が
近づいていました。
運動着に着替えたバスティアンは
まず海軍省内の公園を
一周走ることで体をほぐし、
その後、体育館へ行きました。
エーリッヒ・ファーバーに会ったのは
ロープによる体力錬成を終えて
バーベルを持ち始めた頃でした。
エーリッヒは、
早足でバスティアンに近づくと
ベロップ皇太子が
声をかけたそうだけれど、
何と言ったのか。
まさかイザベル皇女の話を
直接持ち出したのかと、
追及するように質問しました。
バスティアンは、クスッと笑うことで
代わりに答えると、
運動にだけ熱中しました。
負傷前と同じ重さのバーベルを上げても
無理がありませんでした。
これなら、完璧な体調に戻ったと
言っても良さそうでした。
エーリッヒは、
どうせ、話してくれることを
期待もしていなかったと
不平を言いながらも、依然として
その場に留まっていました。
そして、バスティアンが
まさにバーベルを下ろし瞬間、
徒手体操をしていたエーリッヒは、
バスティアンが望んでいた
海外戦線への赴任は、
来月中にできそうだと
思いもよらない話を切り出しました。
体を起こしたバスティアンは
ベンチの端に腰掛けたまま
彼に向き合いました。
彼は「来月?いつ?」と尋ねました。
エーリッヒは、
最後の週末。
ついに適合判定が下ったので、
志願書さえ出せば、
すぐに出征できると思う。
約束通り、祭りが終わったら
君を解放してやるつもりだと
答えました。
バスティアンは、
確かなのかと確認しました。
エーリッヒは、
ついにデメル提督が署名したので
確かだと答え、断固として頷きました。
窓いっぱいに注ぎ込んでいる
金色の日差しを
じっと見つめていたバスティアンは
ベンチの端に置いておいたタオルで
冷めかけている汗を拭きました。
エーリッヒは、
海軍省の人事を担当していました。
少なくとも、この種のことに関しては
信頼できる情報源でした。
エーリッヒは、
本当に行くのか。
上層部は、君がもう少し
本部勤務してくれることを
願うだろう。
自分もそれがいいと思う。
他の人は、それができなくて
やきもきしているのに、
もったいないではないかと
言いました。
バスティアンは、
もし来月に出征しなければ、
その次はいつ頃になると思うかと
尋ねました。
エーリッヒは、
まだ正確な日付は分からないけれど
おそらく、
年を越さなければならないだろうと
答えました。
今や彼は、形だけの体操さえ止めて
緩く腕組みました。
汗がついたタオルを
籠に投げ入れたバスティアンは
視線を上げて、
体育館の壁に掛けられた
時計を見ました。
4時、クラーモ博士が
アルデンに往診に行くと
約束した時間でした。
冷たい雨に打たれたオデットは、
とうとう寝込んでしまいました。
初日に往診に来たクラーモ博士は、
病名は高熱を伴った体調不良で、
症状がひどいのは、
体があまりにも弱っているせいだと
告げました。
その言葉に、バスティアンは
妙な不快感を覚えました。
そういえば、オデットの健康状態は
荷物のような家族に
悩まされていた時と、
大差ありませんでした。
相変わらず青白くて、
か細い体をしていました。
まともに食べることも
着ることもできなかった時とは
比べ物にならないくらいの贅沢を
享受しているのに、
良くなることがないなんて、
理解し難いことでした。
もしかしたら、
体調不良ではないかもしれない。
昨夜、ふと、
そんな疑問が浮かび上がりました。
間違いなく注射を打ってもらって
処方された薬を飲んだにもかかわらず
オデットの熱は、
なかなか下がりませんでした。
夜通し苦しんでいる女のせいで
バスティアンも、
よく眠れませんでした。
クラーモ博士に再度の往診を頼んだのも
そのためでした。
たかが体調不良などで、そんなに
具合が悪くなることがあるなんて
信じられませんでした。
エーリッヒは、
先延ばしにするつもりか、
それとも出征するのかと、
催促するように尋ねました。
沈黙が長引くと、
エーリッヒの焦りも大きくなりました。
立ち上がったバスティアンは、
今回も曖昧な笑みだけを残したまま
シャワー室へ向かいました。
気にくわない奴だという
不満に満ちたエーリッヒの叫び声が、
体育館に満ちている気合の声の間に
響き渡りました。

ロビスは挨拶を終えるや否や、
奥様の病状は、
今朝より大分良くなったと
最も重要な案件を報告しました。
チラッと視線を向けたバスティアンは
これといった言葉を付け加えずに
一人で中へ入って行きました。
続けてロビスは、
今は熱が少し下がって、
扁桃腺の腫れも
引いて来ているそうだ。
食事も少し摂ったと報告しました。
三階に続く最後の階段を上った
バスティアンは、
クラーモ博士は何と言っているのかと
ようやく口を開きました。
ロビスは、
安静にして栄養を摂れば
徐々に回復すると話していたと
準備しておいた返事を
遅滞なく伝えました。
しばらく物思いに耽っていた
バスティアンは、
納得するように頷きました。
女主人の寝室が近づいた時、
ロビスは、
マルグレーテも元気だと、
最後の案件を報告しました。
ふと立ち止まったバスティアンは
顔を顰めて彼を見つめながら
「マルグレーテ?」と聞き返しました。
ロビスは、
奥様の子犬のことだ。
今日、奥様自身で名前をつけた。
今は奥様のメイドが、
マルグレーテの
世話をしているところだと
説明を付け加えると、
バスティアンの眉間のしわが、
さらに深まりました。
ロビスが
何だか焦った気分になり始めた頃
バスティアンが思わず笑い出しました。
「マルグレーテ」
優しく囁くその名前が、
心地よい笑い声と共に流れ出ました。
再びロビスに向き合い、
「はい、分かりました。
お疲れ様でした」と労う
バスティアンの顔には、まだ、
微かに笑みが残っていました。
じっと、その姿を見つめていた
ロビスは、それ以上、
何も言わずに引き下がりました。
後に続いたメイドたちも
これで下がらせました。
どうやら、今必要なのは
手伝いではなさそうでした。
きれいに洗って
身支度が整ったマルグレーテも
次の順位に押しやられました。
将校帽を脱いだバスティアンは
ノックなしに
女主人の寝室のドアを開けました。
躊躇うことなく敷居を越える
足音の後に、再びドアが閉まる音が
静かに続きました。
ロビスは背を向けると、
急いで寝室の前の廊下を去りました。
いつの間にか屋敷は、
神秘的な色合いが混じり合った
夕焼けに染まっていました。

オデットは眠っていました。
さらに落ち着いて来た息遣いを
確認したバスティアンは、
海に面したバルコニーに
近づきました。
換気のために開けてある窓の隙間から
穏やかな波の音が聞こえて来ました。
バスティアンは窓を閉めると
ゆっくり体の向きを変えて
ベッドを見つめました。
四柱式ベッドに掛けられた
半透明のカーテンを
半分閉めておいたので、
眠っているオデットの姿は
ぼんやりとした輪郭だけが
映っていました。
ふとそれが気に入らなかった
バスティアンは、ベッドに向かって
静かな一歩を踏み出しました。
一気に縮められる距離でしたが、
急ぎませんでした。
やがて閉ざされている
レースカーテンの前に立った時、
夕暮れの光が、
いっそう穏やかになっていました。
昼と夜の間にある、
あまりにも曖昧で、
だからこそ美しいひととき。
バスティアンは
カーテンの裾を握ったまま、
その向こうのオデットのシルエットを
見つめました。
このまま夕暮れが訪れるのを
待っていてもいいような気がしました。
どうせ、この混沌は
そんなに長く続かないだろうから。
このくらいで、
カーテンを放そうとした瞬間
「バスティアン・・・?」と
優しく囁く声が聞こえて来ました。
目覚めたばかりのオデットの声からは
まだ、眠そうな気配が漂っていました。
バスティアンは、無意識に息を殺して
カーテンを握り直しました。
揺れるレースの影の下で、
オデットが、
ゆっくりと体を起こしました。
流れ落ちた長い髪の毛が
寝具をかすめる音が止まると、
周りは再び静かになりました。
薄れ行く夕焼けの残像の中で
バスティアンは、
結局、放せなかったカーテンを
開けました。
薄暗い光の中でオデットが笑いました。
赤と青。光であり、闇のままに。
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オデットの息遣いを確認した時は
ベッドの近くまで行ったけれども
寝ているオデットを
起こしてはいけないと思って
海に面したバルコニーへ行った。
でも、彼女の様子が気になる。
それなのに、オデットは
半透明のカーテンの向こうにいて
彼女のシルエットしか見えないのが
気に入らない。
だから、ベッドに近づいて
カーテンを開けて、
オデットを見ようとしたけれど、
彼女を起こしてはいけないとか
なぜ、契約上の妻である彼女の
心配をしなければいけないのかなど
何かしら理由をこじつけて
結局、カーテンを開けられなかった。
けれども、オデットが優しく
バスティアンの名前を囁いたことで
彼に歯止めをかけていたものは
全て消えてしまった。
薄暗い光の中で微笑むオデットは
とても美しくて、
おそらくバスティアンの混沌は
収まらなかったのではないかと
思います。
バスティアンのイザベラ皇女への
対応を見れば、
彼は、何とも思っていない人のことを
こんなに
気にかけることはないでしょうし
サンドリンに対しても、
ビジネスをしている時のような
態度しか取っていないと思います。
今まで、自分以外の人に対して
関心がなかったバスティアンが
オデットに、
どんどん惹かれている
自分の気持ちを
持て余しているのではないかと
今回の最後のシーンから感じました。
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